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日本独自の裁判員

Rokyo13第一部「コト」の始まり(3)
参審でも陪審でもなく日本独自 -------------2008.4/26東京新聞


裁判への市民参加について話し合う司法制度改革審議会=2000年9月26日 東京都内で


 「サンバイシンにしたらどうか」。
 二〇〇〇年暮れ、中間報告をまとめていた司法制度改革審議会のある委員は、新制度の呼称を考えていた。

 サンバイシンは「参陪審」。
市民と裁判官が有罪か無罪かの認定と量刑を判断するフランスなどが採用する参審制と、市民だけで有罪、無罪の判断をする米国の陪審制から一文字を取った。

 陪審制採用を説きに委員を訪ねた関西学院大教授、丸田隆もこの言葉を聞いた。「語呂が悪い」と言うと、「じゃあ陪参審か」。陪審か参審かで割れる審議会を収めるための苦肉の策だった。

 委員の中でも、連合会長の高木剛(当時は副会長)は陪審派で「米国のようにすべきだ」と考えた。参審派の一人は「裁判官を入れないと公平さは保てない」と主張。意見が分かれる中、二〇〇〇年九月、最高裁と法務省、日弁連の法曹三者のヒアリングがあった。

 「陪審制が望ましい」と訴えた日弁連に対し、最高裁は「陪審は誤判率が高い」と反論。「市民だけで有罪か無罪か決めるのは憲法違反」と強い拒否感を示した。

 翌年一月。審議会に参考人として招かれた東大名誉教授、松尾浩也がさらりと言った。「仮に参加する市民を裁判員と言いますと…」。国公立なら先生は教官、私大なら教員。とすれば、裁判官に対し裁判員という発想だった。高木がにやりと笑い、改革審会長の佐藤幸治は「うまい言葉だ」と思った。

 当時、陪審派の中では、この制度を推すと最高裁の強い抵抗に遭い市民参加が頓挫する、との危惧(きぐ)が芽生え始めていたからだ。それなら「妥協してでも市民参加を死守しようと思った」と高木は振り返る。その後、審議会の話し合いの中でも「裁判員」との言葉が使われ、委員も発言で頻繁に引用し、定着していった。

 陪審制導入の流れは消え、新制度の中身の議論に移った。陪審派がこだわった裁判員の選び方では、国民からの無作為抽出も「評議に裁判官を入れるなら」と、すんなり決まった。丸田は「裁判員制度は陪審派の妥協で生まれた」と分析する。

 日本社会は成熟化し、欧米の制度をただまねる時代は終わった。「裁判員」という独自の呼び名の生みの親となった松尾は言う。「生みの苦しみはありますよ、その代わりにね」(敬称略)

-------------2008.4/26東京新聞

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