同床異夢の国民参加
「そもそも裁判員制度って、何かいいことがあるんですか?」
先月、東京地裁で開かれた模擬裁判。三日間の日程を終えた意見交換会で、主婦が素朴な疑問を口にした。司会役の裁判官は一瞬、言葉に詰まった。
「例えば裁判が早くなったりするメリットがあるんですよ」。
主婦は意外そうに、こう問い返した。
「これって早いんですか?」
戦後初めて、国民が刑事裁判に加わる裁判員制度。導入された理由や意義を明快に説明できる裁判官が、どれだけいるだろうか。
「ひょうたんから駒のようにできた制度ですからね」。
ベテラン刑事裁判官がある時、取材に漏らした言葉が本質を突いているかもしれない。
二〇〇〇年九月、司法制度改革審議会。元日弁連会長の中坊公平がほえた。「陪審になれば誤判が多くなり、真実発見が遅れる、という話には本当に憤りを持って反論しなければいけない。職業裁判官が(誤判で)死刑判決を確定させてるんですよ」。元広島高裁長官の藤田耕三が「陪審制で誤判、冤罪(えんざい)が増える」と発言したことへの反論だった。
多くの冤罪を生んだ刑事司法への批判から、日弁連はかつて施行されていた陪審制の復活を主張。最高裁や法務省は「現状の刑事裁判に問題はない」との立場から、陪審の絶対阻止に動いた。
審議会では、陪審導入の是非をめぐり激論になった。しかし、自白偏重とされる捜査の在り方や、捜査段階の供述調書を法廷供述以上に重視する裁判の問題点について、議論は深まらなかった。「そこに踏み込むと、最高裁と法務省の拒絶で国民参加は実現できない」という日弁連側の読みもあった。
陪審でも参審でもない日本独自の制度。それは過去の反省から生まれたのではなかった。「国民のための司法を国民自らが実現し支える」(審議会意見書)などという、反対しにくい理念から導き出された。
「有罪宣告までは無罪と推定するという刑事裁判の原則に忠実な『よりよい刑事裁判』を実現するために実施されるものです」(施行日が決まった際の日弁連会長声明)。
「国民に刑事裁判に参加してもらおうという制度。被告のための制度とは思っていない」(法務・検察幹部)
刑事裁判をよくする「目的」なのか、よりよい社会をつくるための「手段」なのか。それともその両方なのか。国民の司法参加はなお、同床異夢の中にある。
◇
来年五月の裁判員法施行まであと一年余。国民から選ばれる裁判員は、死刑か無期懲役かという厳しい判断を迫られる場面も予想される。関心はいまひとつだが、制度導入を先取りする形で、刑事裁判や捜査手続きが変わり始めている。第一部では、裁判員制度が生まれた経緯と背景を検証する。(文中敬称略)
【メモ】陪審制と参審制
米英などの陪審制は、有罪か無罪かについて犯罪事実の認定を陪審員だけで行い、量刑は裁判官が決める。独仏などの参審制は、裁判員制と同様に裁判官と参審員の合議体が犯罪事実の認定や量刑まで判断する。先進国の多くは陪審や参審制を採用している。日本でも大正デモクラシーを背景に陪審法が制定され、1928年から43年まで実施された。
-------------2008.4/24東京新聞
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