[編集] 沿革
1947年に、アルファ・ロメオのレーシングドライバーであったエンツォ・フェラーリにより、レーシングチーム運営のための会社として創立。創立当初はスクーデリア・フェラーリとして、アルファ・ロメオのレース運営の会社として機能していたが、やがて自社のレーシングカーを開発するようになり、アルファ・ロメオ社のレース撤退と共にその資産を受け継いだ。
当初はレースに参戦する費用の捻出のために、旧モデルとなったレーシングカーをロードカーとして仕立て上げて貴族や富豪に販売していたが、250シリーズで初めて市販車の製造を開始した。しかしながら、初代は熱い、うるさい、乗り心地が悪い、故障が多いなどと不評も多かった。シリーズを重ねるごとに改良は進んだが、エンツォは自社の市販車にスポーツカーという言葉は用いなかったばかりか、乗り心地や快適性を求める購入者を蔑んでいたと言われる。
当時の市販車は、それまでのフェラーリにしては量産車と言える物であったが、その価格は依然として高かった。その割りに工業製品としての品質はかなり低く、工作精度や品質のばらつきが大きい上に、ロードカーとしては設計上の問題も多かった。後にフィアットの傘下に入ってある程度の品質向上はできたものの、そもそもエンツォ自身がロードカーの開発に積極的でなかったためか、依然としてどこかに設計上の問題点を抱えていた。カタログ上の性能の向上はもちろん進んでいたのだが、ボディ剛性、サスペンションシステム、ミッドシップにもかかわらず高い重心など、「スポーツカー」としての素質はいまひとつであった(これはそもそもフェラーリ社がスポーツカーとしての設計をしていなかったためともいえよう)。そのため、限界速度域での挙動がデリケートで運転が難しくなり、「跳ね馬」成らぬ「じゃじゃ馬」と呼ばれていたこともある。ただし、レース用車両をベースに開発された市販車はその限りではなかったようである。
[編集] フィアット傘下へ
1960年代に経営が苦境に陥り、1963年にフォードから買収を持ちかけられるが(一説にはエンツォからアプローチしたともいわれるが、いずれにしても、「向こうがその気なら話を聞いてやらんでもない」という感じの終始尊大な態度だったという)買収金額をめぐって交渉は決裂。1969年にイタリア最大の自動車メーカーであるフィアット社の援助を受け、その傘下に入ることで命脈をつないだ。この買収の決裂を受けて、フォードは後に独自のスポーツカーフォード・GT40を開発し、その資本力に物を言わせ、ル・マン24時間レースでフェラーリを打ち破り、一矢報いることになる。
フィアットの傘下に入った後、DINO 206/246のエンジンがグループ内でやりとりされることとなり、フィアットからはディーノ・クーペ/スパイダー、ランチアではストラトスが生まれた。このエンジンは政治的配慮からなのか、キャブ、カム、ピストンに至るまでフェラーリ、フィアットともにまったく同じ仕様で、排気レイアウトの関係上フィアットの方が馬力的に有利なのにもかかわらず、フィアットの方が馬力が少ない表示となっている。
またその後エンツォは、元来興味の薄い市販車部門からは一切の手を引いてレースのみに専念することとなる。そして市販車部門をフィアットの意向が支配するようになった結果、比較的安価な量産スポーツカーとしてV型8気筒エンジンを搭載したスモールフェラーリ「308」シリーズが生まれ、フェラーリ史上最大のヒット作となった。308のエンジンはランチアのレーシングマシンやランチア・テーマに使用された。(ランチア・テーマ8・32の「32」は3.2Lではなく、32バルブの意である)。これはやがて328へと発展し、そして、348へと発展し、自動車メーカーとしてのフェラーリの屋台骨を支え、現在のF430にも連なるV8フェラーリの系譜となった。
エンツォ没後、1991年にフィアットの創業者一族につながり、かつてチーム監督としてレース部門を立て直したルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロがフェラーリ社長に就任。エンツォ亡き後『エンツォの居ないフェラーリはフェラーリ足り得るか?』とも言われたが、456GT、F355を開発、劇的な品質の改善に成功し、好調な業績を上げてきている。モンテゼーモロはその手腕を買われ、その傘下にマセラティを加えて復活させ、さらには苦境に陥った親会社フィアットを率いている。
F430のエンジンはマセラティ・クアトロポルテと共有であり(マセラティの方が先行採用)、フィアット、ランチア、マセラティとその心臓部分を共有した歴史があるが、アルファ・ロメオとは共有したことがなかった。しかしアルファロメオ・8Cコンペティツィオーネの市販決定により、ついに母(アルファ)と息子(エンツォ)のコラボレーションが成立したことになる。
[編集] 日本における販売
1965年から1968年までは新東洋企業が輸入、販売を担当
1968年から1972年までは西欧自動車が輸入、販売を担当
1971年から1974年までは西部自動車が輸入、販売を担当
1975年から1978年まではロイヤル・モータースが輸入、販売を担当
1979年から2008年7月1日まではコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドが輸入、販売を担当
このように日本ではフェラーリ本社とは資本関係のない独立系のインポーターが輸入を担当してきた[1]が、2008年2月、フェラーリ本社の100%出資で2008年7月1日にフェラーリ・ジャパンが設立され、フェラーリの輸入業務を行う。[2]
パーツ管理やPDI業務については2009年末までコーンズが行い、それ以降は全てフェラーリ・ジャパンの管轄下となる。
日本におけるフェラーリの販売台数は376台(2007年)であった。これは世界全体の販売の5.8%を占め、アジア・太平洋地域で最大[3]、世界でも第5位の大市場[4]となっている。
[編集] カヴァッリーノ・ランパンテ
イタリア語で「カヴァッリーノ・ランパンテ(Cavallino Rampante)」という後足で立ち上がった馬の紋章を使用するため、「跳ね馬」の愛称を持つ(但し、正しい日本語訳は「立ち馬」であるが、英訳ではprancing horse「跳ねる馬」となっている)。この「跳ね馬」はエンツォ・フェラーリの兄アルフレードが第一次世界大戦時に所属していたイタリア空軍第91飛行隊のエンブレムであり、エンツォはこの部隊に属していた撃墜王、故フランチェスコ・バラッカ少佐の母から使用の許可を得たとして、フェラーリの紋章とした、と言われている。しかしながらイタリアの英雄の母親とはいえ、息子の部隊章の使用許可を与える権限などあるはずもなく、エンツォが彼女の思いつきのようなアドバイスを採用したというのが実情らしい。
本来は、この跳ね馬の紋章はバラッカが撃墜したドイツのパイロットが付けていた紋章から取ったもので、高性能・高級スポーツカーブランドとして覇を競ったポルシェ社の紋章と同じく、ルーツがシュトゥットガルト市の市章にある。
ちなみに、フェラーリのイメージカラーとして、赤(ロッソ)が非常に有名であるが、本来のコーポレート・カラーは「黄色」である。これは会社がモデナ県マラネッロにあり、そのモデナ県の「色」が黄色であることに因む。それを裏付けるかのように、フェラーリの黄色い外板色の名前は、「ジャッロ・モーデナ」である。特に、社旗のデザインは、社章の延長線上で黄色の旗に黒色でカヴァッリーノ・ランパンテを描く(或いは、加えてFerrariのロゴが入る)だけのシンプルなデザインであり、サーキットなどで見かける赤色をベースにした旗は、基本的にアンオフィシャルなデザインである。
現在では赤色も暗黙のうちにコーポレートカラーに含まれているので、量産車のカラーオーダーメイドプランでは、赤色と黄色は原則として取り扱いをしない。また、量産車の新車発表時には、赤色と黄色の車両を用意するように配慮されている。
[編集] 車種一覧
[編集] 現行車種
- F430、F430スパイダー - MR・2シーター
- 430スクーデリア - MR・2シーター
- 599 - FR・2シーター。現フラッグシップモデル。正式名称は599GTB Fioranoだが、日本仕様では商標の関係で599となる(Fioranoは株式会社オートバックスセブンが登録商標を持つ。第4134174号、GTBはトヨタ自動車株式会社が登録商標を持つ。第4090994号)
- 612スカリエッティ - FR・4シーター
[編集] 過去の主な車種
[編集] コンセプトモデル
