カトリック夙川教会月報 巻頭言
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2008年 04月 01日
    パンとぶどう酒両形態による聖体拝領
 ミサの奉納のとき、私たちはパンとぶどう酒を捧げます。ユダヤ人にとってパンとぶどう酒は日々の労働の実りであり、喜びのしるしです。パンは生きる力、働く力を与えます。奉納のとき、パンとぶどう酒を捧げることは労働(生活)の苦しみと喜びを捧げることを表わしています。このパンとぶどう酒が聖変化のとき、キリストの体と血に変化するのです。このキリストの体と血を拝領することによって完全なかたちで、聖体にあずかるのです。キリストが聖体について前もって教えられたとき「私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ六章)と。そして最後の晩さんの席上「皆取って食べなさい。受けて飲みなさい。これは私の血である。」と言われました。それではどうして現代の私たちは御血を飲むことをしなくなったのでしょうか。初代教会のキリスト者も御血に対する愛と尊敬から御血を拝領していました。典礼の歴史の流れの中で以下のような理由で御血の拝領が遠ざかったようです。
一、同じ杯から御血を拝領することにより、伝染病が広まるという衛生上の問題。
一、御血をこぼすという不敬のおそれ。
一、御血の拝領によりミサの時間が長くかかるという時間上の問題。
 又キリスト者が増え高齢者、子供たちもいて、彼らの両形態による拝領は遠慮され、その習慣は徐々に廃れて、御血の拝領は司式者のみに留保されたようです。ミサ以外での聖体礼拝も御体の顕示、礼拝、祝福のため用いられて行きました。御体の聖体拝領だけでも、救いに必要な恩恵を何ら失わないし、効果も変らないことはいうまでもありません。キリストは両形態のどちらにも全面的に現存しておられるのです。第二ヴァチカン公会議は次のように述べて両形態での聖体拝領を許可しています。「両形態による聖体拝領は使徒座が規定する種々の場合に、聖職者にも修道者にも、また一般信徒にも、司教の判断によって授けることができる。」と両形態の下での拝領は許可されただけでなく、奨励されています。日本司教団も許可しています。そのため今後当教会では以下の様式で日曜日のミサのとき両形態の聖体拝領を実施いたします。
 (六月一日より)
一、御体を手に受けとり「アーメン」と答え、司式者の横にいる聖体奉仕者の持つ杯に浸していただく。御血を床に落とさないよう細心の注意をはらう。
一、祭壇の上に置かれている左右の杯を手に取り、少量を飲み唇がついたカリスの部分をブッフィカトリウム(布)でぬぐう。勿論今まで通り御体のみの拝領も自由である。

梅原 彰 神父

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by shukugawachurch | 2008-04-01 00:00

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