在日朝鮮人の立場及び
両民族の関係に関する省察

                   

トピック本論は四つの構成から、読者へ知識を提供します。

半島の朝鮮人が在日朝鮮人を差別する理由
在日朝鮮人へ対する日本人の感情はどのように形成されたか
大東亜戦争を戦い抜いた偉大なる朝鮮人英雄列伝
日韓の友好関係を邪魔する存在、プロパガンダの種類

 

 イルボンマンセー 1

 朝鮮人から在日朝鮮人へ行う差別

  在日朝鮮人は何故、日本に存在するのか?

 ここで言う差別とは、日本国内における差別ではありません。在日朝鮮人がそれぞれの本国に帰ると、何故か差別の対象となるのです。ここで、我々は一つの疑問点を感じざるえません。

 一般的に、在日朝鮮人は戦前に朝鮮半島から無理矢理連れてこられた結果、現在も多く日本国内に居住しているという歴史が認識されています。それなのに、在日朝鮮人が本国に帰ると同胞から差別されます。これは大変おかしい事です。普通なら、無理矢理連れてこられたのですから、「よく帰ってきたね」と暖かく迎えられるはずです。

 勿論、日本へ来た朝鮮人の身分層は、大韓帝国時代より続く、封建体制に類似した制度の中で比較的下位に位置する人々だったという側面もありますが、21世紀の現代までそのような封建体制の名残が根強く存在しているとは考えられません。では何故、在日朝鮮人が朝鮮半島に帰ると差別されるのでしょうか。それは、多くの在日朝鮮人が日本に住みついた背景を理由とします。

 一般的に、戦前の法律である国家総動員法によって、多くの朝鮮の方々が連れてこられたとされています。事実、国家総動員法を根拠にした国民徴用令などによって、多くの朝鮮人の方が日本工業の基盤となる各種業務をこなしてくれていました。しかし、この法律によって来日していただいた朝鮮人の方々は、実は戦争が終わると故郷へと帰っているという事実が、意外にも現代では無視されています。

 帝国政府は、日本の為に働いてもらった朝鮮人の方々を放置する事なく、その責任を以て帰郷の事業を開始しました。その過程で発生した最も有名な事件が「浮島丸事件」と呼ばれるものです。

 終戦直後の昭和20年8月24日、京都府舞鶴港で日本海軍の輸送艦「浮島丸」が米軍の設置した機雷に接触し撃沈され、乗員乗客ら500名以上が死亡した事件がありました。この輸送艦の乗客は朝鮮人の方々です。というのも、日本政府は8月21日の次官級会議で、日本の為に協力してくれた朝鮮人達の帰郷方針を決定し、22日には専門委員会を発足させていました。

 浮島丸事件は、その過程で発生した痛ましい事件です。まだ戦闘終結直後であり、米軍の敷設した各種機雷が依然として海上を漂っていたため、それに触雷しての結果でした。
そして、この事件から考察できる史実は「日本政府は朝鮮人の方々を帰郷させていた」という事実です。

 つまりこの事件によって、日本政府の要望で朝鮮半島から来ていただいた朝鮮人の方々は、戦争が終わると全員帰郷できるように、旅費やその他全ての経費を政府が負担した上で、責任をもって送迎している点が理解できます。

 戦争が終わった後、朝鮮人の方々は「半島に帰るか、それとも日本にとどまるか」という選択肢を選ぶことになり、故郷に帰りたい者は帰郷し、既に日本で事業に成功して財産を蓄え或いは家族をつくった人達は、自分の意志で日本にとどまることを決意したという事が理解できます。ここで、「戦前に強制的につれてこられた朝鮮人の方々が今も日本にいる」という歴史認識のレトリックが、少し紐解けるのではないかと思います。では、根本の問題である「何故、在日朝鮮人は朝鮮半島で差別されるのか」という問題を考察してみたく思います。

 明治40年の日韓併合条約締結以後、日本の内務省によって朝鮮人の日本移住が許可されました。その直後、朝鮮半島と日本本土の経済落差から出稼ぎ労働の憧れの対象となり、昭和5年には298091人の朝鮮人が移住してきています。昭和10年には62万人もの朝鮮人が日本へ移住しています。国民徴用令がだされたのは昭和14年であり、これらの移住者は「強制」とは全く関係の無い人達だという事がわかります。

 現在、朝鮮半島に住む朝鮮人の方は、日本国内に住む同じ朝鮮人へ対して、多かれ少なかれ負の感情を持っています。それは、同じ国民でありながら行政上の差別を行ったりする等(徴兵の免除等)、顕著なものとなっています。「何故同胞なのに差別を?」という疑問の答えは、「強制的に連れてこられてそのまま帰れないでいる」という状態ではなく、「自分の意志で朝鮮半島を捨てて日本に住むこと決意した」という歴史的背景によるものだという所まで解説致しました。

 しかし、その程度で「差別」という措置を選択するほど、果たして本国朝鮮人の方々の感情は狭いものなのかといわれれば、私はそうではないと思います。実は、在日朝鮮人が朝鮮半島で差別される最大の理由は、朝鮮戦争にありました。

(※それでも『強制』して連れてきた側面は無視する事が出来ない、という主張を持つ方へ。国民徴用令は1939年に施行されましたが、朝鮮半島への施行は1944年です。朝鮮人への徴兵も1944年からです。当時の状況は日本人ならば主婦や学生までが総動員態勢で工業生産に従事していたのに、当時は同じ日本国民であった朝鮮人だけが何もせずに遊んでいなけれはならないという理由はありません。むしろ、その方が差別であり、悪質ではないのでしょうか。当時の日本人は朝鮮人を差別する事なく日本人と同等に扱うため、日本人と全く同じ「強制」という行政を執ったのだと思います。朝鮮人だけ強制をするな、という主張は「朝鮮人は無能だから仕事もできないので強制する必要性もない」という、極めて悪質な人種差別・朝鮮人差別であると思います)

 さて、実は在日朝鮮人の多くが日本に来日してきた時期と、朝鮮戦争の時期は一致しています。朝鮮半島本国では、新しくできた国を守ろうと多くの人達が必死に戦っている中、「戦うのは嫌だ」と日本へ避難してきた朝鮮の人達が存在します。この行動が、現在も根強く残る朝鮮半島内の差別の根拠となっている模様です。自分たちが必死に戦って守った国が平和になった途端、のこのことやってくる。これを「なんなんだよ」と思う気持ちが強く反映されているのでしょう。

 そのせいが、在日朝鮮人の戸籍の大半は、役所には存在していないか、或いは男が女だったり、兄弟が夫婦だったりと間違った戸籍として登録されています。この理由は、朝鮮戦争当時に密入国してきた為、行方不明人として扱われた結果と言えます。

 「他のみんなが頑張っているのに、自分だけは楽をしたい」。この精神性を持つ人達が朝鮮戦争のさなか、祖国を裏切って戦後に来日し、現在も在日朝鮮人としての身分を得ているという側面も見過ごせない事実です。これが、在日朝鮮人が本国に帰国すると、「差別」という扱いをうける精神的な原因となっているように思えます。

 そして、このような「自分さえよければ良い」という考えの持ち主が、現代では国民年金を払っていないにもかかわらず、年金の支給を要求したりする一部の在日朝鮮人達の思考形態へと派生しているのではないでしょうか。在日朝鮮人の中には税金すら払わない人達がいます。

 自分に都合の悪い事が起きれば、「私たちは強制的に連れてこられたんだ」の一点張りをし、全ての責任追及を回避しようとする姿勢も、「朝鮮人だから」という事ではなく、こういった精神性の持ち主達の集まりだから、という事に起因するように思えます。

 しかしながら、留意しなければならないことがあります。それは、在日一世の中にこのような考えを持つ人達がいたとしても、在日三世・四世の方々が必ずしも同じではないという事です。

 元々朝鮮人と日本人を「一視同仁」するという政策を行っていたのですから、私たちと同じく日本で生まれ日本で育った在日三世・四世へ対する認識も、特異に感じることなく普遍的に接しなければならないと強く思います。その一方で、帰化する為の法的手続きの簡略化と審査内容の厳密さを皆で考えなければならないと思います。
 (※在日朝鮮人の本国戸籍が抹消されていたり、間違っていたりする場合が多々ある。日本の帰化システムは、本国の戸籍を取り寄せた上で引き継ぎ作業を行うために、本国の戸籍の有無が帰化申請の大きな障害となっている)

 

 イルボンマンセー 2

 
日本人から在日朝鮮人への差別とは
  
  在日朝鮮人は日本人へどのような犯罪を行ってきたのか

 差別とは、不当な条件によって不当な扱いをする行為を指す言葉です。従って、人種・門地・性別といった、本人の意思とは全く関係のない情報によって、その者を不当に扱う事が差別であり許されない事です。しかしながら、犯罪・テロといった類を根拠にするよる嫌悪感は、果たして差別と呼称できるのでしょうか。

 犯罪を犯すのは自分の意志です。例えば性犯罪者の再犯率を考えれば、一度でも罪を犯した者を若い女性やその家族が警戒する事を「差別なので悪い」としてしまえば、それは「差別」という語句をある種の聖域として悪用し、社会混乱を誘発する工作をしていると見なしても良いでしょう。

 宗教に関しても、一度テロや殺人事件を犯したカルト宗教団体に加入しているのは、本人の意思です。殺人などの反社会的行動をとった集団を警戒するのは当然の事であり、この警戒心も「差別」といってしまえば、前述した通り、反社会的集団を擁護する事によって社会の混乱を画策していると解釈しても良いでしょう。

 従って、「差別」とは嫌悪する理由に論理性が皆無の場合、例えば生まれや人種など、誰の意志でもない条件によって人を不当に扱う事を指します。嫌悪すべき理由に論理性が無かった場合、我々はそれを「差別」と呼称し、良心が痛み、行うことへ羞恥心すら感じます。

 しかし、嫌悪するのに理由がある場合、例えば殺人や各種破壊活動を行っていた場合、自己防衛の一環として、「警戒する」という態度をとる事を差別と呼称できるかは、甚だ疑問に思うところです。

 そこで、現在の日本人が持つ在日朝鮮人へ対する意識は、どのように形成されていったのかを解説していきたく思います。

 朝鮮人の犯罪の第一歩は初代内閣総理大臣の殺害から始まりました。これは誰もがよくご存じだと思うので割愛致します。そして、昭和7年には桜田門事件が発生します。朝鮮人テロリストの李奉昌が、爆弾を昭和天皇へめがけて投げつけ、暗殺未遂を起こしています。

 結果、昭和天皇の暗殺は幸いなことに失敗しましたが、警備をしていた人達に重傷を負わせました。この事件によって、当時の日本国民はとても大きな不安を覚えました。しかし、昭和天皇はこれを李奉昌個人の犯罪とし、朝鮮の人民にその責任を負わせることをしませんでした。セルビア人青年がオーストリア皇太子を殺害したことによって発生した第一次世界大戦の規模を考えれば、とても寛大な判断でした。

 また、同じ年の4月29日の天皇誕生日に、また朝鮮人テロリストが爆弾殺傷事件を起こしました。天皇誕生日の記念祝典に参加していた日本人を狙って、尹奉吉が爆弾を使用し、多くの日本人を殺傷しました。このテロで、白川義則上海派遣軍司令官と河端貞次居留民団長が殺害され、重光葵、植田謙吉、野村吉三郎らが重傷を負い、多くの日本人が殺傷されました。このような朝鮮人の犯罪が度重なる事によって、日本人の心の中には多くの不安が蓄積していきました。

 確かに、全ての在日朝鮮人がこのような悪質な犯罪をしているわけではありません。しかしながら、全ての朝鮮人誰もがこれらの犯罪へ対して謝罪の意を表していない事は事実です。それどころか、全ての朝鮮人が教科書等で上記に挙げた犯罪者を「英雄」として賞賛してさえいます。

 例えば、1972年には日本赤軍という日本人テロリストの集団がイスラエルのテルアビブ空港で機関銃を乱射し、イスラエル人約100人を殺傷した事件がありました。これについて、日本政府は同じ日本人が行った犯罪である事から「政府」として謝罪し、被害者のイスラエル人へ対して補償を行いました。

 仮にこのテロ事件以後、日本政府がイスラエルの人達へ対して謝罪も補償も一切せず、それどころかテロによって多くのイスラエル人を殺害し傷つけた日本人を「英雄」として褒め称えていたら、イスラエルの人達は日本人をどう思うでしょうか。「日本人は危険で嫌な奴らだ」と思われたとしても、誰もそれを「差別だ」と思う事はないでしょう。

 続いて戦後のお話です。戦争が終わると、朝鮮人達は「準戦勝国民」という地位を連合国から与えられ、その地位を利用して様々な犯罪をおかしました。以下に、その一部を少し紹介してみましょう。

 一番最初は1946年の「首相官邸暴動事件」です。約2000人の在日朝鮮人が「戦勝国民」の権利を謳って首相官邸に乱入し、警官隊や米軍憲兵隊と戦闘を行いました。

 1948年には同じくして「戦勝国民」の地位に酔った朝鮮人3万人が一斉蜂起し、様々な破壊行動を行い、米軍憲兵隊(MP:ミリタリーポリス)の指揮下で鎮圧され、約1000人の逮捕者をだし、また大阪と神戸では府県庁を襲撃して知事や役人に暴力を行った上で監禁しました。アメリカ軍は緊急事態命令としこれを取り締まり、累計2000名近い朝鮮人を逮捕しました。

 1951年、滋賀県では「日野事件」が勃発し、朝鮮戦争の戦禍から逃亡してきた朝鮮人50名が武装集団となり、警察を襲撃しています。

 1952年の「吹田事件」では、朝鮮戦争の開戦をお祝いしていた「在日朝鮮統一戦線」の学生達およそ1100名が「革命思想」をもと興奮し、警察や街の工場施設を襲撃した上で拳銃を奪って逃走しました。この事件では113名が逮捕されました。

 1954年に起きた第二の神戸事件では900名の在日朝鮮人が区役所や税務署を襲撃して破壊し、警官隊と戦闘を繰り広げ、188名の逮捕者をだしました。

 このようにして数々の犯罪を繰り返し、米国の占領中に発生した朝鮮人犯罪を米軍が統計した所、47年から50年までの間で、殺人・強盗が4656件、レイプが224件、放火が57件、傷害が17552件、窃盗が44494件も記録されています。

 集団での蜂起以外にも、朝鮮人個人の犯罪を朝鮮人全体が賛美した例も少なくありません。
 1958年(昭和33年)8月20日、東京都江戸川区の進学高校、小松川高校に通っていた太田芳江さんが何者かによって犯され殺された事件がありました。犯人は犯行後に遺体から遺品を盗り、送りつけて遺族の悲しみを煽ることで楽しみ、また警察へ対しては自分の犯行を楽しそうに語る電話をかけました。この様子は全国的にラジオで報道され、犯人の残虐性に多くの日本人が畏怖しました。

 後に逮捕された犯人である在日朝鮮人の李珍宇は、逮捕後に別の女性もレイプして殺した事を自供しました。通行中であった田中せつ子さん(当時23才)を突き飛ばして怪我をさせ、動けなくした所でレイプし、その後殺害しました。

 犯人の李珍宇は死刑判決を受けましたが、犯人の母親は「息子の行いへ対して死刑は重すぎる」と主張し、控訴・上告をしていますが棄却されています。また、「差別されているのだから強姦や殺人を行っても仕方ない」と主張する、在日朝鮮人ら数万人の減刑嘆願署名が集まりました。これには共産主義者文化人の大岡昇平も協力していました。

 このようにして当時、多くの在日朝鮮人が「我々は差別されていたので、日本人女性をレイプして殺しても仕方がない」という主張をしていました。これは、現在の朝鮮総連関係者が言う「植民地統治されていたのだから、日本人数名を拉致したくらいなんだ」という論調と酷似しています。

 注意すべき点は『一人の異常者が朝鮮人の中に存在した』という事ではなく、朝鮮人が総体として一人の異常者を擁護し、同調していたという所です。この事実をどう受け止めるかは各々によって違いますが、認識を改めざるえない注意すべき史実だと思います。

 続いて、1968年には同じく在日朝鮮人の金嬉老がライフル銃で日本人男性二人を射殺した上で旅館に立て篭もり、女性一人と九才以下の児童三人を含む九人を人質にとる事件をおこしています。この時もはやり同様に、金達寿らによって「差別されていたのだから、女性と子供を人質として虐待しても仕方がない。差別されていたのだから男性二人を殺害しても仕方ない」といった主張がされ、韓国では金嬉老を「日本人を殺した英雄」として賞賛するメディアが多数制作されました。

 このような惨劇の延長線上にあるのが、極めつけの拉致事件です。やはり、過去と同様多くの在日朝鮮人は「植民地統治の問題があるのに、拉致ばかり言うのはおかしい」といった主張を繰り広げ、まだ拉致被害者が帰国できていないのにもかかわらず、国際空間では「拉致問題は解決済み」という発言をしています。

 朝鮮人へ対して深い理解をする事は大切ですが、理解と盲目になる事は違います。彼らがどのような歴史をもっており、過去から現在に至るまでどのような姿勢をとり続けるのかという事を我々は認識しなければなりません。戦争が終わったとき、日本国内に約60万人いた在日台湾人へ対しては何も負の感情が無いのに、朝鮮人へ対してだけは何故存在するのか。我々は深く自らを省みる必要性があるのではないでしょうか。

 警戒すべき対象へ対して警戒をしないのは、無知を根拠とするもの。何も知らないから警戒することが出来ず、警戒する者を理解できないのです。警戒心と差別心は違う事を我々は理解せねばなりません。警戒心を差別だとすり替えて、様々な反社会的行動を正当化するためのレトリックに利用されている事を自覚しなければなりません。

 上記に紹介した様々な朝鮮人の行動が積み重なって、我々の心に警戒感を植え付けている事実は無視できないことです。我々は「朝鮮人だから」という事で差別をする事はありません。しかし、自分たちに危害を与える存在へ対して、負の感情を持つ事はあります。これは、そんなにいけないことなのでしょうか。

 このような状況下で一方的に我々日本人が朝鮮人へ対する警戒感を解いてしまったら、果たしてどうなるのでしょうか。繰り返しますが、大勢いる朝鮮人の中の一部だけに、上記に紹介したような一部の異常者がいるというのではなく、多くの朝鮮人が一部の犯罪者を賞賛し褒め称え、なおかつその罪を罪と思わず、教科書にまで載せて誇りにしているという事実を無視する事はできません。

 日本人と朝鮮人の友好関係は、まず日本人が朝鮮人へ行った事と同様に、朝鮮人側も日本人へ対して行った事を認識し、思い改める必要性があります。そして、朝鮮人が罪を犯した場合、「差別されていたから仕方がない」とその罪を罪と思わない日本人の優しい心も、日本と朝鮮の友好関係に大きな障壁を与えているといっても過言ではありません。なぜならば、相手は「危害を与えても日本人は怒らないんだ」と認識してしまうからです。
 そうした上で、お互いが少しずつ、「お互いの良いところ・悪いところ」を認識して認め合っていくことが真の健全な関係建設の第一歩であると思っています。

 ではその為に、別の角度から捉えた「朝鮮人」を紹介していきたく思います。

 


 イルボンマンセー 3

 偉大なる朝鮮人列伝

 朝鮮人は大東亜戦争をどのように戦ってきたか

 どの民族の中にも良い奴がいるし悪い奴もいます。狂った人もいれば良識のある人もいます。ただし、その「濃度」によって民族の印象が決定されるというのは、変えることが難しい流れ。それは「確率論」であるからです。これは、信用を積み重ねていくことによってでしか回復できません。

 しかし、もしも負のベクトルのみへ感情が傾斜しているのならば、「悪いところ」を認識したのと同様、「良いところ」も併せて知らなければならないと思います。それが客観視というものであるし、公正な認識であると信じています。さあ、半世紀前よりもっと昔の時代を見てみましょう。そこには敬意と尊敬の対象が存在します。

 大東亜戦争中、アジアの希望の担うべく崇高な理想を胸に抱き、私たち日本人と共に多くの朝鮮人戦ってくれました。しかし、開戦前は朝鮮人がいくら不倶戴天の怨敵と戦いたくとも、朝鮮人には戦う義務が無いとされていたため、溢れる熱意が空振りになってしまうのが現状でした。これに我慢できなかった朴春琴(1891-1973)は理想を叶えるために帝国議会衆議院議員へと出馬し、昭和7年に東京府四区から見事当選を果たしています。朴春琴の抱く政治的理想とは、朝鮮人が帝国軍人となること。徴兵制が無理でも、せめて志願兵制度だけは整えるべきだと主張し、多くの朝鮮人有権者の支持を得て二回も当選を果たしました。
 (※内地に住む者には台湾朝鮮の隔てなく選挙権があった。一方、外地に住む者は朝鮮台湾日本人関係なく当時は選挙権はなかった)

 朴春琴の主張した理想に当時の誰もが感動し、その政策提言は早速実行される事となりました。昭和13年、記念すべき最初の志願兵が募集され、406人の枠に2946人の愛国心ある勇敢な朝鮮人が志願しました。その後、毎年志願兵は募集され続け、14年には613人の募集に12528人の応募、15年は3060人の募集に84443人の応募、16年には3208人の募集に144743人応募、17年には4077人の募集254273人の応募、18年には6300人の募集名303294人の応募がきました。累計して210万人以上の朝鮮人男子が熱意溢れる志願をしたのです。

 何しろ数十万人の中から選び抜かれて採用された人達ですから、その質は最高のものです。志願兵は誰もが皆、下士官並の判断力と優等なる攻撃精神を持ち、各戦線で大活躍をしました。

 こうして日本軍に入った多くの朝鮮人の中に、崔慶禄(日本名は新田慶吉)がいました。優秀な崔慶禄少尉は陸軍士官学校に合格していながら、「この大局の最中、何年間も学校で勉強していては皇国にご奉仕することができない」と辞退し、ニューギニア戦線での激闘を戦い抜きました。日本人を率いた白襷斬り込み隊長に三回も就任し、「天皇陛下万歳」を叫びながら勇猛なる突撃精神を以て、ジャングルの向こうに陣地を構築していた敵軍を攻撃し、最終的には敵弾を浴びて重傷を負っています。

 崔慶禄少尉の姿勢に、自分は崇高な感動をおぼえます。他の日本人が勉強している中、自分は「後でよい。今は戦うときだ」として戦地へ赴き、決死の特攻である白襷隊を三回も経験しているのです。この愛国心、この公共心、どれをとっても崇高の二文字以外に感じるものはありません。崔慶禄少尉は戦後、韓国陸軍師団長、参謀総長などを歴任し、駐日韓国大使となっています。そのときに、崔慶禄が日本人へ向けて発した言葉を紹介したく思います。

 『以前、日本人の政治家に何故自衛隊を軍隊にしないのかと質問した所、まだ早いという答えをもらった。私は日本の憲法を知っているが、敵国に攻撃されたのならば反撃できる軍事力を保有するのは当然の権利であるし義務だ。日本はどうして世界の一部の国の国民のみの機嫌を窺っているのか。アジアの代表国たる日本が確固たる軍事力を持ち、アジアの守りになることを期待している』

 我々は深くこの言葉を考えなければならないと思います。

 さて、戦争が終わりに近づいてくると、神風特別攻撃隊が組織されました。映画「ホタル」のモデルとなった光山少尉(朝鮮名タク・キョンヒン)は第五一振武隊へ志願し、壮烈なる報国精神を発揮しました。その他、金尚弼を含める十四名の朝鮮人が特攻隊員へ志願しています。靖国神社には、このようにして日本と共に戦って散華した二万一千柱の朝鮮人の神々がお祀りされている事を我々日本人は決して忘れてはいけないと思います。

 戦争が終わると、連合国は不当な理由を根拠に軍事裁判を開廷し、多くの日本軍人・軍属を処刑しました。その中には、当然軍の指導者として活躍していた朝鮮人も含まれます。第14方面軍兵站監であった洪思翊中将は、捕虜虐待の容疑をかけられて、処刑されてしまった一人です。

 昭和十九年三月二日に比島俘虜収容所長に就任した洪思翊少将は(十月二十六日中将昇進)連合国兵士の捕虜扱いに非人道的な行為をしたという言いがかりをつけられて、2年後の昭和二十一年九月二十六日、フィリピンで法務死を遂げています。

 洪思翊中将は戦犯法廷において沈黙を守りました。不当な事を言われても一切の抗弁をせず、ただただ沈黙を守りました。それは、洪中将が常に持っていた大韓帝国時代の軍人勅諭に「軍人は言動を慎むべし」と記載されてあったからだとも言われていますが、その潔い「軍人」たる姿勢は、後世の我々にとって感慨深い歴史を残してくれました。そして、このようにして処刑されたC級戦犯含む1061人のうち23人が朝鮮人です。

 その他にも、朝鮮人の英雄としては金鵄勲章の功三級を授与された、陸士27期卒である金錫源陸軍少佐がいます。約千名の日本人将兵を指揮し、北支戦線の山西省では多勢の支那軍を撃破し、攻撃が難航していた行高城要塞を陥落させるという武勲をたてています。金錫源少佐の手柄は、長年宗主国としていた支那を朝鮮人が日本人の部隊を率いて撃破したという事であり、当時多くの朝鮮人が熱狂しました。

 大東亜戦争が終わると、金錫源は韓国軍の将官として、特別に編成された金日成討伐部隊長を務めるなどして朝鮮戦争でも大活躍をしました。韓国軍の雲行きが怪しくなり、負けそうになった時、金錫源は帝国陸軍時代から愛用していた軍刀を引き抜きかざして、死を覚悟した時こそ勝利の時である、と部下を激励し、帝国軍人魂を発揮したといわれています。

 また、金錫源は息子の金泳秀をフィリピン戦線で亡くしています。この為、ルソン島のアレブン高地で壮烈なる戦死を遂げた息子が祀られている、靖国神社へ参拝を幾度もしています。

 所で自分は金錫源(最終階級は陸軍大佐)の活躍に感銘を受けると同時に、朝鮮戦争へ対して思うことがあります。

 日本が負けた事によって共産主義に故郷を占領され、凄惨な戦後を過ごす事になった北部朝鮮の人々。日本が負けた事によって、共産主義と戦わなければならなくなった南部朝鮮の人々。我々日本人はこういった側面からも過去を顧みなくてはならないと思います。

 我々は朝鮮戦争をどう捉えるべきなのでしょうか。もしも勇敢なる韓国軍が40万人以上もの尊い戦死者をだして戦ってくれなかったならば、日本は九州の間近に極めて危険な存在を隣り合わせることになっていました。我々が負けた「ツケ」を誰が払うことになったかは、決して無視できない歴史的事実だと思います。

 今日、反日思想を根拠に内政干渉をし続ける朝鮮人がいる一方、大東亜戦争で亡くなった多くの朝鮮人英霊達を思ってか、平成十四年三月には韓国大使館付け武官の柳海軍と徐陸軍の二名が公的身分を記帳した上で靖国神社の参拝をしています。私たち日本人はこうした側面にも注目しなければならないと思います。

 

 イルボンマンセー 4

 日本と朝鮮の関係を邪魔する存在

 邪悪な意志を持った数々のプロパガンダ

 朝鮮人の良い側面と悪い側面を紹介致しましたが、やはり現在も根強く残る朝鮮人の反日思想は両者の友好関係にとって根強い禍根を残す事となります。そこで、彼らの反日思想はどのようにして形成されていったことを我々は知る必要性があります。

 無論、大部分は李承晩時代から開始された公的な反日教育が主因となっているのですが、従軍慰安婦問題、創氏改名の強制などのプロパガンダは必ずしも朝鮮人からの発信ではなく、日本人の反日主義者から発せられたものである事は意外に知られていません。

 例えば創氏改名が強制であった、金さんが金子さんになり、朴さんが高橋さんになった、といった荒唐無稽な話は、前に紹介した朝鮮人将官が朝鮮名をそのまま使用している事を知れば一発で悪質なプロパガンダだとわかります。しかし、元々創氏改名の意味は名前そのものを変更する事ではなく、姓体制から氏体制に移行する事です。

 朝鮮人は伝統的に姓のみしか存在していません。姓というのは一族を単位とするものであり、例えるのならば日本で言うところの「藤原」や「源」にあたります。一方日本は、「姓」という一族を単位とする制度が廃れ、氏という家族を単位とした制度が主流となりました。つまり、源徳川家康(みなもとのとくがわいえやす)という呼称は、源が姓であり、徳川が氏ということになります。「・・の」という言い方をするのが主に姓であるといった感じです。

 朝鮮人には家族を単位とした「氏」が伝統的に存在しない為、婚姻関係が結ばれても名前が一切変わらない「夫婦別姓」という状態でした。これだと日本の戸籍上好ましくない為、朝鮮人も氏を単位とした家族構成にする為、創氏をしたのです。つまり、これからは結婚した場合、名を別々に名乗るのではなく、家族単位で同じ名前を名乗るのだという行政措置です。

 ちなみにそのとき、昭和十五年の二月から半年間の期間中に届けを出したならば、朝鮮名を捨てて日本名を名乗っても良いという法令をだした所、元々朝鮮名とて太古の昔に支那の名をそのまま真似したものが多いという歴史性から、「今度は日本の名前だ」という風潮が表れて、多くの朝鮮人が日本名に改名したわけです。

 では、「名前そのものを日本風に変えるように強制した」という悪質な情報はどこから流されたのかという疑問を突き詰めていくと、一人の日本人作家の名前が浮上します。

 反日主義者である梶山季之(一九三〇〜一九七五)が「族譜」という小説を書き、この作品の中で昨今言われているような「強制」が描かれています。これを脚本として一九七三年三月一日から万歳運動を記念して、韓国でテレビドラマ化されて放映されると、たちまち韓国内で反日運動が隆起しました。従軍慰安婦が日本の反日主義者の世論工作を原点として活性化したのと同様のことが「創氏改名」にも起きているのです。

 この背後には、日韓関係の悪化によって利益を得る共産主義の背景かあると考察しています。自由民主主義国家である日本と韓国が相互に強い信頼関係をつくれば、共産主義の北朝鮮は孤立する。だから、日韓の関係を悪化させる世論工作が必要であったのではないではないかと自分は考察しています。

 このようにして形成された強固な反日思想は朝鮮半島を蝕み、陰惨な状況も引き起こしました。例えばサッカーワールドカップ共催国であるのにもかかわらず、日本が負けた事に大喜びする韓国大衆の姿に違和感を感じた若い日本人は少なくありません。日本人が関与して隆起した反日思想に染まった朝鮮人を再び日本人がみて、再び嫌悪感を覚える。このような悪循環が現在は続いています。

 また、一般的に報道されなかった事故もあります。朝鮮人が海難事故で日本人漁師を殺害したり、海上保安庁の船に攻撃を仕掛けてきても、一切「日本人には謝罪しない」という姿勢をとり続け、極めて悪い印象を我々に与えた事件がありました。マスコミも、朝鮮人が加害者であると、一体どんな利害関係があるのかはわかりませんが気兼ねして、船籍がパナマであった事から「韓国漁船による事故」という報道はせずに「パナマ船籍の事故」という報道を行い、事実を歪めました。

 しかし、半世紀前ならばまだしても、現在のような情報化社会においては事実を知る者が一人でもいれば全体へ向けて発信することが出来るのですから、上記のような情報操作をする事は余計な反感と不信を買うことになります。インターネット上にこの一連の海難事故の詳細が発信され、多くの若者がマスコミと朝鮮人へ対する反感を高めました。
 日本のマスコミは、朝鮮人が犯罪を犯しても寛大な態度で接してやるのが友好への道と思っているのか、或いは日本文化解禁後の利益を見通して韓国に配慮しているのかもしれませんが、それは両者の溝を深めるだけの愚かな行為です。

 このように、「一方的に朝鮮人が」という状況ではなく、両者の溝は日本人を含めた上で形成されている事に我々は気付かないとならないと思います。

 戦後の小松川事件の時も、異常な行為をした犯罪者を確かに朝鮮人全体で擁護しましたが、その背後には多くの在日朝鮮人を煽動した日本人赤化文化人の影が見えてきます。こういった事を我々はよく考えなければならないと思います。

 我々が最もやってはいけない事は、朝鮮人の態度に呼応して同一レベルの喧騒に陥るのではなく、「何故相手はそのような主張をするのか」という事を深く考察しなければならないと思います。確かに朝鮮の反日は日本人が関与したもの以外にも、「反抗する事によって形成するアイデンティティー」といった面もあり、とても難しい状況にあります。ただし、自分が現在の反日運動を考察する限り、両者の間には多くの誤解が存在するのもまた事実です。真の友好建設の為にはお互いを客観視すると同時に、全ての情報を真実のまま理解し、一切の歪曲を排除することだと思います。

 この論文が真実の歪曲によってつくられた日本人と朝鮮人の溝を少しでも埋める情報提供をできたのならば幸いです。そして、最も忌むべき事は誤解の存在に蓋をしたまま、偽りの友好を建設しようとする事です。これでは、未来に多大なる禍根を残すことは必至です。これを回避する為にも、多くの情報を理解した上で両者が歩みよる事が大切であると自分は強く思います。