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◆◆メディア状況
<◆総記
<アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦
【質問】
大戦後半の日本国内のメディアや国民感情はどのようなものだったのでしょうか?
【回答】
マスメディアについては,政府の完全統制下にあった関係上,敗戦まで大日本帝国まんせーな記事を書き飛ばしています.戦況などに関しては軍以外にソースはありませんし.
もちろん勇気ある言論人がいなかった訳ではありませんが,則逮捕,発禁ということになるので,事実上存在しないのと同じでした.
一般の国民感情については,本音と建て前の使い分けとか結構あったようで,誰かのところに赤紙が来ると,昼間,祝いの言葉を述べた人が,夜になるとお悔やみを言いに来たとかいった類の手記は,よく見かけます.
さらに末期になると,電車の車内や,街角などで,半ば公然と軍や政府を非難する声も聞かれるようになったと,憲兵隊や警察の資料にあります.
【質問】
1930年代の言論統制の時代,なぜ新聞・雑誌は抵抗できなかったのか?
【回答】
佐藤卓己著「言論統制」(中公新書)によれば,「サラリーマンだったから」.
逆に言えば,明治の自由民権運動などでジャーナリストが権力に抵抗できたのは,ジャーナリストが安定した職業ではなかったから.
明治時代まで,新聞記者や雑誌編集者などの職業は,まともに大学を卒業した人達が就職先として考える対象ではなかった.
政治家になるステップか,さもなければ,文士では飯が食えないための副業だった.
それが昭和恐慌以後になると,安定した生活のため,学卒者が目指す就職の対象となり,その中で言論の質もまた,変わっていった.
新聞記者にしろ,雑誌記者にしろ,サラリーマンであれば自社の利益に敏感になり,また,社内での抵抗さえ容易ではなくなる.
また,合資会社だった毎日新聞社,朝日新聞社が株式会社となったのは1919年頃だが,言論機関の株式会社化により,メディア(広告媒体)そのものの商品化も加速した.
1925年にはラジオ放送も開始される.
「言論と言う商品」を買ってもらわないといけないし,買ってもらうためには,読者(消費者)の声には敏感に反応せざるを得なくなる.
そのため,右から左まで幅広い読者に読んでもらいたいという経営方針となり,そうなれば,政治的な言論統制に抵抗できないのが必然となる.
そして「戦争」という情報は,広告媒体であるマスメディアにとって,とても魅力的な商品なのである.
この経営方針には,1918年の「白虹(はっこう)事件」においてメディアが権力に屈した経験も,大きく影響している.
白虹(はっこう)事件とは,1918年の富山の米騒動に関する記事で,大阪朝日新聞が,「白虹日を貫けり」と表現した筆禍事件である.
この表現は中国の故事で革命を意味しており,朝日は発禁処分になり,社主他,社員数人も右翼から危害を加えられた.
この事件を反省する社告を朝日は出すが,その中で同社が掲げたのが「不偏不党」という言葉である.
今日でも「不偏不党」に,ある種の客観報道のようなものを読み込む立場も存在するが,これは明らかな誤読である.
不偏不党であるということは,政治的に偏らないという意味ではなく,右から左まで幅広い読者に読んでもらいたいという自己宣伝だった.
朝日新聞社の「不偏不党」は,毎日新聞社の「新聞商品主義」と共に,新聞企業の近代化を支えた資本主義イデオロギーだったのである.
さらに,1930年代前半,左翼に言論統制が加えられたとき,自由主義者の多くが傍観し,逆にその後,1935年に天皇機関説事件が起こり,自由主義者への言論弾圧が始まったときに,今度は転向した左翼が,右翼と一緒になって,自由主義を批判した.
まあ,メディアを過信しないほうがいいのは,今も昔も変わりがないようですね.
現代のほうが,記者はもっとサラリーマン化しているわけですから.
【質問】
大本営発表とは?
【回答】
1941年12月8日に於ける,真珠湾攻撃と日米開戦を報じたのが,第一号の戦局発表で,最初は陸軍報道部,海軍報道部が別個に行っていたのですが,1942年1月15日からは個別発表を大本営発表として統合する事になりました.
組織的にはそれでも,陸軍と海軍が別々にあったのですが,敗戦間近の1945年5月22日に至って漸く,大本営内での陸海軍報道部統一が決定されます.
因みに大本営発表の最後は,1945年8月14日の第840号でした.
その大本営発表の中心を担った陸海軍部の報道部は,1937年に新設された部門であり,其の目的は,「戦争遂行に必要なる対内,対外並に対敵国宣伝報道に関する計画及び実施」をする事とされていました.
彼等報道部の要員は,各新聞の編集局の仕事まで行い,部員の中には新聞記者達から「大編集長」と言うニックネームを貰った者や,発表に力瘤を入れすぎ,見出しの活字の大きさとか何段抜きにするか,まで注文を出す者も居て,彼は危うく「整理部長」の渾名を付けられる所だったとか.
また,『改造』発禁事件に見る様に,用紙の配給統制権を握っていたために,検閲の権利が無くとも,検閲と同等の事を起こす事が出来るほど,報道部の意向は強いものでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/13 23:05
【質問】
大本営発表は最初から過大な戦果を発表していたのか?
【回答】
大本営発表は,誇大広告の権化みたいに言われる事が多いですが,その傾向が出てきたのは戦争が進んでからの事で,1942年後半のソロモン海での海戦までは,そこそこ冷静な発表が行われていました.
珊瑚海海戦での空母の撃沈数とかが実数と違うとか,ソロモン海海戦での戦果の拡大発表は,意図したものではなく,前者は米軍のダメコン能力を過小評価していた事や,航空機からの観測で艦種を間違えた事から起きた誤認であり
(日本の空母なら先ず喪失認定される様な損害を与えているのに,米国の空母はそれでも基地に辿り着き応急修理を受けている),
後者は主に海戦が夜間に行われた事から,閃光や火災から戦果を判断する事になったので,誤認が発生したものです.
これが変質してきて,意図的な捏造報道が行われ出したのは,1943年11月の第1次ブーゲンビル島沖海戦で,此の戦いで戦果として発表されたのは,当時の常識からしても有り得ない内容で,大本営海軍部の願望が一人歩きした意図的な戦果拡大報告であると言えるでしょう.
何しろ,14機しか辿り着かない海軍機が放った魚雷で,6隻の戦果…
マレー沖海戦の魚雷命中率が43%とすると,5本半で6隻を撃沈した事になって,辻褄が合わない訳で.
とは言え,報道部が意図的にこうした捏造の主導権を握っていた訳ではなく,ただの陸海軍参謀達の「スピーカー」と言う存在でしかなかったという現実もあります.
これら捏造を行ったのは,作戦部の判断だったりする訳です.
現実を報道するのは,国民の戦意を阻喪すると言い,過大な戦果報告については,その報告を訂正し,減らす事を作戦部が絶対に容認しなかった事が主因.
大本営報道部がこれですから,内閣情報局の国民向けの情報発信も,全てこうした動きの中に組込まれてしまっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/13 23:05
【質問】
戦時中の日本のメディアは,全て「鬼畜米英」一辺倒だったのか?
【回答】
冷静な記事が出ている雑誌もありました.
例えば,昭和19年の「科学朝日」を手に入れたとかで見せて貰ったことがあるのですが,基地建設関係の特集号で,機械力で基地を建設するのに必要な建設機械の一覧とか(当時の日本では,そんな機械は全然開発できなかった),連合国の揚陸戦の全貌とか,連合軍による上陸戦,そして基地設営能力の記事とかが,赤裸々に載っていました.
特に,海軍広報部の将校と現場の設営隊の隊長などを交えた座談会で,米軍の侵攻経路と手法について語っているのですが,ガダルカナルに上陸して占領後,速やかに航空機基地を建設し,その援護下に,次の拠点を占領,また航空機基地を建設して,その援護下に,次の拠点を占領すると言う手法で,彼らの航空機基地建設は,滑走路の代わりに鉄板を敷いて,大規模な建設機械部隊(海蜂という名前で紹介されています)を入れて,わずか2週間で完了するとか,この手法で南洋諸島を経てフィリピンに至り,中国と連絡して,日本のシーレーンを切断する,と言う話をしてるんですよね.
よくこの話が検閲に掛からずに掲載できたものだ,と言う驚きと共に,此処まで先を見通せているならもう少し何とかならなかったのか,と言う感を受けてみたり.
ちなみに,同じ号に,米国の航空機生産時間が10分の1に短縮されたと言う海外電の記事なんかも掲載されていました.
片や,「英国では罷業が絶えない」と言う記事もあったりして.
「鬼畜米英」,「撃ちてしやまん」など,新聞などではあれだけ国民を煽っておいて,一方ではこんな冷静な記事が民間向けの雑誌に出てた訳で…なんだかなぁです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
戦中の報道管制はどれほどのものだったのですか?
小中学校での戦争教育で新聞やラジオは,常に国家万歳で悪い情報は一切流さないものだと思っていたのですが,山田風太郎の『戦中派不戦日記』を読むと,わりと情報はオープンのように思えます.
当時の国民はどれくらい戦局を理解していたのですか?
また,イタリアやドイツの同盟国の敗北を新聞やラジオはどのように伝えたのですか?
【回答】
戦況に関しては,大本営発表をそのまま掲載.
大本営発表も,負け戦もそれなりに伝えているから,
気の回る人だったら戦局は理解していたでしょうね.
1944年の年鑑類でも,きちんとイタリア降伏は書かれています.
但し,我らがDuceは北イタリアにおわし,健在.北イタリアの政府が南のバドリオ傀儡政権に対し圧迫を加えつつあると言う報道が成されていますね.
同様に,1945年のドイツ降伏もきちんと伝えています.
これから我々はどうしていくべきか,なんて論調もあります.
また,ドイツ降伏の影響についても新聞は報道してます.
『流言・飛語の太平洋戦争』という本を読むと,そのへんの事情が書いてあって面白い.
イタリアなんて降伏した途端
「哀れな奴らよ,負け犬達よ」
と,評価をころっと変え(それまでは頼もしい友邦扱い),
「日本はドイツイタリアを恃んで戦争を始めたわけではないから,大勢に影響はない」
とか庶民が言い出してる.
裏を返せば,ひしひしと劣勢を感じているように読める.
眠い人 ◆gQikaJHtf2(青文字)他
▼ 昭和12年4月発行の「帝国海軍」(帝国海軍社)と,松岡外相が表紙の,昭和16年6月発行の「同盟グラフ」(同盟通信社).
「同盟グラフ」では,ドイツ,イタリアを訪問して日ソ中立条約を結び,帰国した松岡外相の動向を特集した記事がありましたが,その中でムッソリーニの印象を,
「親分タイプで上野の西郷像に似ている」
と評した一文が(笑.
よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21▲
【質問】
終戦までの日本の戦局報道は,どの程度正確だったのか?
【回答】
日中戦争までは,戦局報道は,例えばNomonhanなどの負け戦を除けば,概ね正確に戦局を報道していました.
ただ,戦線が膠着して,国民生活に様々な影響が出てきた1939年以降は,国民に対して生活状況の悪化に対する一層の理解を求める様になります.
また,軍事技術の報道に関しては,陸海軍とも航空機や航空兵力に対する国民の関心を喚起しようという狙いが見られます.
技術に関しても,誇張や虚偽は含まれておらず,説明も国民に対し,陸海軍の認識を理解しやすい様に説明しようという姿勢が見られました.
1941年12月8日以降になると,日中戦争の大陸戦線は脇にやられ,南方各地の戦線に関する報道が主となります.
内閣情報局の国民向けプロパガンダ誌である写真週報は,12月24日発行の号の表紙に零式艦上戦闘機が掲載され,以後,1942年1月28発行の号までの5冊は,表紙には軍艦,戦車,兵士,破壊された敵の基地や兵器が使われていました.
最初の12月24日発行の号では戦場写真が掲載されたのは,上海攻略のみであり,真珠湾攻撃とかマレー沖海戦に関しては,戦場絵画で代用されています.
記事は,真珠湾攻撃,マレー沖海戦始め,香港攻略,フィリピン上陸,南方の島々の攻略と言った開戦劈頭に行われた作戦をほぼ網羅したものとなっており,その地域を理解させるため,「新戦場辞典」と題するコーナーで,地理,気候,風土,社会を紹介する様にしています.
1942年に入っても,シンガポール攻略,フィリピン陥落と言った出来事が記事を飾ります.
特に前者は,欧米からの植民地解放と言った意義を強調するものとして,頻繁に特集記事が組まれています.
この頃は,主に海軍の戦勝報道が度々紙面を賑わし,スラバヤ沖海戦のExeter撃沈,セイロン島沖海戦のHermes,Dorsetshire,Cornwall撃沈,珊瑚海海戦でのLexington大破炎上の様子など,海軍部隊の撮影した写真を用いて派手に戦果を宣伝していました.
因みにExeter撃沈に関しては,「Admiral Graf
Speeの敵」として報じています.
とは言え,記事の中身に関しては,判官贔屓のもので,損傷を受けた艦に対し,「悲壮にも又健気な姿」とし,沈没の際にも,「最後まで戦闘旗をマストに掲げながら海底に姿を没した」と同艦の戦闘姿勢を賞賛しています.
更に1942年3月11日発行の号では,日本海軍潜水艦による米国本土砲撃の様子も大きく取り上げています.
実際に3回行った攻撃の内,2月の攻撃だけですが,これで国民の士気を挙げようとした事が伺えます.
そんな日本に冷や水を浴びせたのが,4月18日のドーリットルによる日本本土空襲ですが,これについては4月29日発売の号では,被害軽微として,「敵の空襲企図全く失敗に帰す」と言う記事を掲げていますが,反面,市街地への爆撃や国民学校への機銃掃射は,大きく取り上げ,
「鬼畜にも劣る彼等の正体を暴露したもので,八つ裂きにしても尚飽き足らないものがある」
と言い切っています.
これにしても,国民の敵愾心を煽る事に腐心している事が伺えます.
装備に関しては,今まで秘密扱いだった陸軍空挺部隊が,「空の神兵」として1942年2月25日発行の号に紹介されたのを始め,一式陸上攻撃機は,1942年4月14日発行の号に「海軍新鋭攻撃機」として紹介しており,この記事の中では,
「神風号に似た陸軍偵察機や,ニッポン号によく似た海軍陸上攻撃機との活躍ぶりが次々,新聞紙上を賑わして,これらの大飛行が実戦のための試験飛行で有った様な気がしたのである」
と書いており,ニッポン号や神風号を軍用機に転用している事を明らかにし,日本製航空機の優秀性を然りげ無く,国民に示す事を企図して書かれた記事である様です.
一方,連合国の兵器に関しては,航空戦力については,1942年1月14日発行の号で,「我が荒鷲の好餌」と書いている反面,航空母艦については同じ号で「日本本土を空襲しうる」としており,後のShangri-laからの爆撃を予言しているかの如き記事を掲載していたりします.
また,米英の潜水艦についても,「潜水艦戦術と米英の勢力」と言う記事で,日本軍の攻撃を免れた米性の潜水艦について言及し,ドーリットル空襲の際にも,すかさず,「来襲敵機ノース・アメリカンB−二五の正体」と言う記事を掲載して,国民に対する注意喚起を行っていました.
更に,珊瑚海海戦後は,「蠢動の機を窺う残存米英海軍戦力」として,日本軍の把握する米英海軍の残存主力艦一覧を写真入りで紹介しています.
何れにしても,連合国の兵器に関して,航空機や艦船を写真入りで報じると共に,その性能諸元も国民向けの雑誌であっても非常に正確に伝えていました.
更に,航空母艦について分析した記事では,現存空母の分析を行った後,Hornetの竣工が間近であること,更にEssex級空母が4隻建造中で,更に7隻の建造が予定されている事まできちんと伝え,その航空戦力の整備状況の凄まじさについて,国民に注意を呼びかけるなど,日本海軍が米海軍の動向を非常に注視し,正確な分析を行っていた事が窺えます.
この時期の戦局報道は,日中戦争時に引き続き,まずは正確であり,ビジュアルな写真や図版を多用して,国民に対する日本軍の優勢が実感出来る様に企図されていました.
しかも,これらの写真の殆どは,重要な部分を除き修正加工が行われておらず,誇大報道が全くなかったのも特徴で,其の上,敵戦力に関する正確な分析報道が為されていたのも特徴的です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/14 21:02
さて,1942年6月5〜6日に行われたミッドウェー海戦では,日本海軍は正規空母4隻と艦載機300機とベテラン搭乗員達を一挙に失いました.
これにより,日本軍の攻勢は頓挫し,戦局は膠着状態となります.
そのミッドウェー海戦そのものの日本国内での報道は,政府のプロパガンダ誌である「写真週報」では,6月24日発行版に於て,「大東亜戦争日誌」と言うコーナーに大本営発表と同文が示されたのみで,損害その他は見事に隠蔽されています.
一方で,支作戦であったアリューシャン列島攻略戦については,大きな誌面を割き,7月8日発行版に於て,「ゆきの濃霧地帯へも」と題した攻略戦詳報が掲載されています.
戦局は,南太平洋周辺での艦隊の潰し合いに発展しました.
これについては,第一次ソロモン海戦について,1942年9月2日発行版で「ソロモン海戦 舷舷相摩す暗夜の奇襲」と題して報道し,第二次ソロモン海戦については,11月11日発行版で「反抗の敵艦隊を撃滅」と題する記事を報じています.
11月25日,12月23日発行版では,南太平洋海戦が取り上げられています.
この南太平洋海戦の詳報では,空母Hornetへの海軍雷撃機隊の攻撃が写真入りで紹介されました.
因みに海戦の写真掲載は,これが最後となります.
ところで,この間,サボ島沖海戦,第三次ソロモン海戦があったのですが,これについてはミッドウェー海戦と同様に,「大東亜戦争日誌」で大本営発表と同文がちょこっと触れられているだけ.
第一次,第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦では,敵巡洋艦とか空母の撃沈と言った派手な戦果がありますが,サボ島沖海戦では,青葉を喪失し,衣笠大破と言う一方的敗北,第三次ソロモン海戦も比叡,霧島と言った戦艦の喪失ですから,敗北は殆ど表沙汰にしなかった訳です.
1942年9月26日発行版に於ては,加藤建夫少将戦死詳報が特集となっています.
この記事が,「反攻」と言う言葉を用いた最初の記事で,この段階で,政府や軍部は,日本軍の攻勢が頓挫した事を認識していたものと考えられています.
また,この号では,「我に幾倍の新鋭空母あり」と題する記事が掲載されています.
この辺りから軍部の「〜だったら良いなぁ」願望の記事が出だします.
使われている写真は,既に喪失している赤城や飛龍のものが使われ,記事中には「新鋭空母」の実態については一切触れられていません.
因みに,これに先立つ7月20日には,大本営海軍部報道課長平出英夫大佐が,ミッドウェー海戦については,「日本軍の大勝利」とラジオ放送を行っており,海軍部の隠蔽意図が確認出来ます.
この放送に関して,平出大佐は後に回想して,「恥の上塗りの放送」と書いていますが….
この後,ガダルカナル島を巡る戦闘が激化します.
この戦闘で,海軍は多数の艦船と航空機が喪失しますが,それを受けて,1942年12月発行の号では,「ソロモン戦闘の性格」と言う記事が掲出され,此処では米国が「緒戦の惨敗から立ち直った」として,米軍反攻が本格化した事,
「敵は兵力に於ても我に数倍し,最新の機械化装備を完全に整えている」
として,戦局が極めて困難である事を仄聞しています.
そして,陸海空の日本軍の大戦果を報じてはいるものの,
「尚も執拗に反攻の手を緩めない敵の戦意と戦力には,誠に侮りがたいものがある」
とその苦境に素直に言及していたりします.
で,その結果として,ソロモン諸島での一連の戦闘を,「太平洋全戦局前途を決定的なものとする」と位置づけ,その要諦は,制海権の争奪とそれに先立つ制空権の確保であるとして,生産増進による海空戦力の充実を呼びかけ,特に,米軍の補給能力の増大に対抗するため,「制空権の確保こそ近代戦最大の必須条件」と述べ,航空戦力拡充を主張しています.
これを受け,1943年に入って,1月20日発行版では,「空の戦力増強」特集を組み,国民に対し,航空機の増産とパイロットなどの要員の養成を一層強化する様に求めています.
更に,南方の喪失により,日本本土に対する爆撃機の空襲が懸念される様になり,同じ号では,
「敵機は虎視眈々と我が本土を窺っている」
と題した記事を掲載し,米陸軍の爆撃機を紹介すると共に,各拠点からの距離を示した地図を掲載していますが,既に艦載機による奇襲的な空襲ではなく,陸上機による本格的な本土空襲が懸念される事を国民に知らせており,極めて興味深かったりします.
2月3日発行版では,ソロモン諸島やニューギニアに於ける激戦が続いている,として,「死闘」と言う言葉が見出し語で初めて掲出されます.
また,「銃後も第一線」として,国民により一層の奮起を促す内容となり,生活の引き締めを開始しました.
丁度,この発行時期は,ガダルカナル島撤収作戦が展開中でした.
この時期の報道に関しては,既に日本の連戦連勝ではなくなり,「反攻」,「死闘」と日本軍が苦戦する状況が窺える内容の記事も出始めています.
とは言え,緒戦期に比べると客観的な損害報道も,特に海軍側からの情報提供が出なくなり,そろそろ国民に対する瞞着が始まってくるのもこの頃です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/15 21:28
さて,1943年2月以降,日本は撤退に次ぐ撤退を行います.
特にソロモン諸島の戦闘で喪った戦力を日本軍は回復する事が出来ず,戦力格差は益々広がります.
5月29日,アリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅しました.
これを受けて,政府のプロパガンダ誌「写真週報」の6月16日号は,「アッツ島に玉砕す」と言う記事と,「我ら一億英魂に応えん」と題する記事が掲載されました.
玉砕報道に併せ,国民各層の復仇や一層の戦争協力を誓う談話を掲載するなど,国民の戦意昂揚を意図した編集内容でした.
以後,マキン・タラワの玉砕,サイパン玉砕,テニアン・グアム玉砕と玉砕報道が相次ぎました.
特にサイパン玉砕については,7月12日号と7月26日号と2号続けて特集を組み,その玉砕の報に接して,復仇のために増産を誓う労働者の写真等を掲載し,
「戦況を知るのに,もう地図を見る必要がなくなりました.
国内即ち私共の身の回りが,既に戦場なのです」
として,一層の国内引き締めと,戦意昂揚を図っています.
こうした玉砕報道については,現地写真は全く掲載されず(運ぶ人がいないので当たり前),守備隊司令官の肖像写真,肖像画,過去に撮影された現地や守備隊の写真,現地に於ける戦闘の想像図が掲載されるに止まっています.
また,この玉砕の周辺では,反攻上陸中の米軍に対する日本軍の航空攻撃が屡々行われました.
既にこの頃には絶対的な航空優勢は望むべくもなく,多くの部隊が甚大な損害を出したにも関わらず,こうした戦いは「航空戦」として報道され,例えば11月24日号では,「続け決戦の大空へ」と題して,これらの航空戦の大戦果として,ブーゲンビル島沖航空戦を報じています.
この記事では,4次にわたって行った攻撃により,敵戦艦・空母を中心に,轟沈14隻,撃沈23隻,撃破32乃至33隻,撃墜400機以上と報じています.
実際には,6次に渡る航空戦を行い,米軍側の損害は,僅かに駆逐艦1隻の撃沈,軽巡2隻,駆逐艦1隻,輸送船2隻の損傷と言った損害でした.
更にこうした航空戦の苛烈さを表現して国民の戦意を鼓舞する為か,1944年5月24日号には「必殺,海鷲魂を此処に見る」と題する海軍機の写真が掲載されています.
これは米軍側が撮影した写真をスイスの雑誌経由で入手したもので,左翼の折れた一式陸攻が炎上していま正に海に墜落せんとする写真ですが,これのキャプションには,「被弾に傷つき炎上しつつ,墜落寸前尚魚雷を発射して自爆した海鷲の壮烈な最後」などと書かれています.
実際に,写真の機体の状況からは,そんな余裕もない事が見て取れますし,キャプションの明らかな捏造は,国民の戦意昂揚を図っている訳ですが,その自軍の現況を伝えるのに外国誌から写真を転載せざるを得ない所に,戦況が逼迫した可能性を読み取る事が出来ます.
とは言え,戦局の悪化にも関わらず,相変わらず大本営発表などは,日本軍の大戦果を報じていました.
しかし,実際の戦局とは相容れない事から,この時期は,戦局の解説記事が圧倒的に多くなります.
初期の頃は,これについて,最後は「敵の圧倒的な物資補給に抗すべく,国民一層の生産増進を促す」という感じだったのですが,相次ぐ重要拠点の失陥に対して,日本軍の苦境を露わにする様な記事が目立ち始めます.
例えば,「写真週報」の1944年2月16日号には,「マーシャル諸島の激闘」と言う記事に於て,同方面に於て日本軍が,「開戦以来最大の試練に直面している事実」を前に,「儼乎たる必勝の信念や」や「神州不滅の信念」の堅持を国民に求めるほどになっています.
また,1944年4月26日号では,「焦る敵の機動戦略」と題する記事が掲載されています.
この記事に於ては,連合国が採っている所謂「飛び石作戦」を評して,「敵ながらよく考えた」と評価し,また,エセックス級空母とインディペンデンス級軽空母の就役状況を,その諸元を明らかにしつつ述べています.
その記事自体は,こうした反攻作戦を,「調子に乗り,ひた押しに攻めてきた」などと揶揄をしては居ますが,「時を藉すまいと,速攻に次ぐ速攻を以てする作戦を今後も試みる」事を予測し,これを阻止出来ない現状を垣間見せても居ます.
その一方で,「敵に出撃の意志の有る限り,我らは敵撃滅の機会が多くなる」と海軍に配慮した虚勢を張っていたりします.
そして,サイパン陥落.
1944年8月9日号では,「直視せよ!敵の全面攻勢」と題した記事で,マリアナ諸島の陥落により,「B29の性能を以てすれば,(日本本土・フィリピン)その何れに対しても爆撃は可能である」として,絶対国防圏の崩壊と,本土空襲の不可避を説いています.
この間に,マリアナ沖海戦があった訳ですが,日本軍の迎撃により,「世界海空戦史上に見られない大戦果」を得たにも関わらず,戦局が日本軍有利に展開しなかったのは,日米航空兵力の格差が縮まらなかった為であり,「最近は我が方の損害も比較的大きくなりつつある」と損害が増大している事を認めざるを得なくなっています.
但し,軍部の責任は棚に上げ,国民に対しては,「一機でも多く」,「精良なもの」を送り出す様求めているのは今までと変り有りません.
その代り,大々的に取り上げられていたのは,ビルマ戦線や中国戦線であり,例えば,アキャブでの戦闘で,英印軍のビルマ侵攻を阻止したのは,1943年4月21日号で「ビルマ奪回の夢破る」として大々的に報じ,このアキャブ方面の勝利の意義を,援蒋ビルマルート復活の阻止,インドへの圧力,英軍のビルマでの反攻拠点化阻止の三点から力説しています.
当時,アキャブ戦線では,未だ日本軍が優勢で,英印軍は1個旅団が壊滅するなどの打撃を与えていたので,この解説は概ね妥当な内容でした.
中国戦線では,衝陽攻略が1944年8月23日号で第一報が報じられ,9月6日号で詳報が,「衝陽攻略と在支米空軍」と題して掲載されました.
この記事に於ては,衝陽陥落を,「単なる一航空基地及び兵站基地の喪失に止まらず,東南支那航空基地全部の実質的喪失をも意味する」と高く評価しています.
但し,実際にはマリアナ諸島を確保した連合軍は,本土空襲の場を中国本土からマリアナ諸島へと移し,衝陽の陥落は余り連合国側にインパクトを与えなかった訳ですが.
この時期,国民に知らされなかったのが,海のトラック大空襲と陸のインパール作戦です.
前者は,「週間点描」と言う小コラムに目立たぬ様に空襲の事実のみ報じられ,実態が知らされなかったものでした.
実際には,トラック島は根拠地としての機能を完全に失う状態だった訳ですが.
後者は作戦当初,日本軍が優勢に作戦を進めていた時期には,1944年4月17日号に「インパールヘ!! 印度進撃快調」,5月3日号には「印度作戦の全貌」と言った景気の良い報道,解説記事が掲載されていたのですが,終わってみれば,8.6万投入された兵力の内,生還したのは1.8万に過ぎない大失敗作戦でした.
これにより,日本軍は壊滅的打撃を受け,以後,英印軍のビルマ侵攻を阻止出来ず,ビルマの対日離反を招いた訳です.
結局,これだけ力を入れて報道された割には,その最後は触れられていません.
その逆で,大敗北にも関わらず,世界中から嘲られたのが,「台湾沖航空戦」です.
1944年10月25日号では,「戦勢転換の神機至る」と題する解説記事で,大本営発表と同文の戦果を伝えています.
その戦果発表は,航空母艦11隻,戦艦2隻を含む17隻の撃沈と,航空母艦7隻,戦艦2隻を含む25隻の撃破,160機以上の航空機撃墜というものでした.
実際には,航空母艦2隻を含む7隻の損傷だけであり,一方で,海軍機を中心に700機の航空機を喪失したのは,ご存じの通りです.
この結果を盲信して,比島決戦では,マニラ近郊の集中防衛からルソン島での迎撃に変更する戦略的失敗を犯しました.
比島決戦を報じた後の11月1日号では,この台湾沖航空戦の大戦果を受け,「驕敵を撃つは今」と題した記事を掲載し,フィリピン迎撃作戦の解説をしていますが,
「ルーズヴェルトがその人気取りの方策に,遮二無二戦局を推し進めんとする野望」
から,フィリピン方面での米軍反攻が迫っており,米軍は,「非常に短期決戦を焦っている」と書いています.
で,レイテ沖海戦へと繋がるのですが,11月8日号では,「勝機確保の追撃戦」と書かれているそれは,海軍の機能をほぼ喪失する大敗北が実態でした.
結局,この時期の報道は全く実態を反映しない内容となり,架空の大戦果報道と損害の隠蔽,極小化が激しくなると共に,戦力の不足を,国民の努力不足へと責任を転嫁する内容が目立つ様になっています.
人間,追い込まれると,此処まで理性を喪失するものか,と愕然としますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/16 22:14
【質問】
戦前のマスメディアの報道について色々批判が多いですが,その中でも朝日新聞に対する批判が特に厳しいのは何故なのでしょうか?
言論統制で軍マンセーな風潮は,どこの新聞社も同じだったはずですが.
【回答】
朝日新聞は,その言論統制が始まる前から軍に報道協力をを行なってきました.
満州事変での石原莞爾の報道戦略にも一枚噛んでいます.
そして,戦勝報道や愛国的な扇動報道によるによる売上の増加に味をしめ,軍が求めた以上に率先して戦争を煽りまくりました.
終いには,それが日本の外交戦略や軍事戦略を捻じ曲げる域まで達してしまいした.
また,戦時中に主筆であった緒方竹虎などは,情報局総裁として言論統制に積極的に協力しています.
言論人でありながら言論統制に協力すると言った姿勢が批判されるのは当然でしょう.
そして,戦時の社長や会長と言った主要幹部は責任を取って辞任するどころか,政界に転出したり社に残ってその後も順調に出世しています.
新聞自体の論調もあっさり掌叛して,「軍国主義批判/民主主義万歳」にいち早く回りました.
結局,誰も戦時報道の責任を取らず,戦前からの無責任体質を維持し続けている事が批判の対象なのでしょう.
詳しくは『朝日新聞の戦争責任』(安田将三著,1995.8)をご覧になると良いでしょう.
本書は,朝日新聞が著作権侵害を盾に闇に葬り去ろうとしたほどの曰く付きの一冊です.
【質問】
「中国進出を煽った一部メディア,特に朝日の責任は大きいな」などと聞きますが,なんで他の新聞,読売新聞とかは名前を挙げられないのですか?
【回答】
戦前の読売は今の産経か東京新聞みたいな存在で,影響力皆無だったのさ.
▼戦後,正力のオッサンが務台に野球と電波つー武器を与えて,初めて部数面での快進撃が始まった.※▲
で,昭和の読売人は猛烈な朝日コンプレックスで有名だったんだよ.
それが今じゃ朝日である事が恥だもんなぁ.
国会で「朝日かよ(笑)」とか野次られる始末.
軍事板
▼※ 猪野健治によれば,快進撃が始まったのは戦前のことだという.
以下引用.
――――――
正力〔松太郎〕が社長に就任した1924年(大正13年)当時,読売は発行部数わずか3万5千部の小新聞に過ぎなかった.
正力は販売に全力を挙げ,瞬く間に朝日,東日(現毎日)を追い抜き,41年(昭和16年)には150万部の東京一の部数を誇る大新聞にのし上げた.
正力が部数増の有力な武器としたのがイベントだった.
――――――『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.498-499
影響力はどうだったのか?については記述なく,不明.▲
【質問】
「○○グラフ」系の雑誌には,広告などは載っているのでしょうか?
クラレンス in mixi,2006年07月04日 18:05
【回答】
広告は一杯載ってますよー.
こういう戦前の日本の広告類も面白いですね.
取りあえず「同盟グラフ」誌上の広告から,お馴染みのブランドを幾つかアップしておきます.
よしぞう(maro') in mixi,2006年07月05日 04:23
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