Print this Post Article Lists Back

独島:連合国、1946年に日本領から除外(上)

日本、サンフランシスコ条約で関連条項を削除させる

鬱陵島と独島(日本名竹島)を「韓国領」と表示した20世紀の地図。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結された際、イギリス側が用意した草案に収録されたもので、「マッカーサー・ライン」に基づいた境界線を設定し、独島から12カイリ以内に日本の船が進入できないようにした。
 1945年に韓半島(朝鮮半島)が日本の植民地支配から解放された直後、「独島(日本名竹島)は韓国固有の領土」という事実は国際的に認められていた。

 43年のカイロ宣言では、「暴力および貪欲により日本国が略取したすべての地域から日本を追放する」ことを明記し、また45年9月に東京に設置された連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、数カ月間にわたる調査の末、46年1月29日に「連合軍最高司令部訓令(SCAPIN)」第677号を発表した。その第3条では、日本の領土から「鬱陵島・リアンクール岩礁(独島)・済州島を除外する」ことを明示した。これは独島が韓国の領土であることを最終的に示した国際文書となった。

 これにより独島は韓国(当時は米軍政下)に返還され、GHQは52年にサンフランシスコ条約の発効に伴って解体されるまで、独島を「日本の領土に帰属させる」という指令を下したことはなかった。また、46年6月22日のSCAPIN第1033号では、いわゆる「マッカーサー・ライン」を設定し、日本の船が独島から12カイリ以内に進入できないようにした。

 ところが、日本はSCAPIN第677号を無視し、「51年にサンフランシスコ講和条約で、竹島が日本の領土として認められた」という主張を続けている。だが、連合国と日本がサンフランシスコ講和条約を締結した当時、米国が提示した第1次草案から第5次草案では、すべて独島を韓国の領土と定義していた。これに対し、第5次草案を入手した日本は、米国の駐日政治顧問だったウィリアム・シーボルドを通じ、「竹島は1905年以来、日本の領土だった」と主張した。シーボルドは米国人の官僚だったが、日本人の妻を持つ知日派の人物だった。

兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
関連記事 記事リスト
このページのトップに戻る