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えこまの部屋

2008-07-25

呪われ呪い

呪い呪われ、呪われ呪い...

人間関係の日常って、こういうことの繰り返しなのかしら....


自分が一所懸命にやっていることを、ある別の立場から観た人は、

自己顕示欲からか、それとも自分こそがその手の道の真理を掴んだ者と主張したいがためか、

自分とは違う他のやり方や、従来のやり方を否定する。


けれど、当時者の私にとったら自分の状況、条件の中で、今できる精一杯のことをやっている。

主婦として家族の日常生活を支えながら、自分のヨガ教室では週100名の生徒さんを教えながら、バレエの発表会に取り組んで来た。


自分ではもう限界ギリギリのところでやっているのに、まるで高見から「そのやり方では意味がない」とメッセージを(自分向けに?)発信されると、やはり気持ちはやぶさかではない。


相手が自分のやっていることを批判し批評し低く評価するなら(その人は、相手を否定することでしか、自分のやっていることを肯定できないなら、さみしい気がするが、単にそんな幼稚な営業の仕方を無意識にしてしまっているということに気づいていないだけ、客観性の欠如の結果に見える。自分にとって都合の良いお弟子さんで身を固めている指導者に陥りがちな傾向だとも思う)、こちらとて思っていること感じて来たこと、容赦なく言わせてもらおう、とも思う。


こういうのを「呪われ、呪い」というのだろうなぁ。

「呪い呪われ」ではない、呪われたから呪い返すのだ。

私と同様に世間の多くの人が「呪われたから呪い返している」と思っているのだろう。

だけど「呪われた」と感じる瞬間、自分の中の弱さを相手の中の言説に反映しているだけにすぎないことも多い。


というのも私自身、ずっと以前に好意をもって表現したことが相手には悪意や批判として受け取られていたことがある。

「あなたは穏やかな人だから」と相手を褒めてメッセージを送ったつもりが、相手は自分のことを「退屈な人間」と言われたと受け取ったらしい。

それで私に対しても批判して返して来たので、驚いた。

結局、人は相手のメッセージから自分の状態を鏡のように反映させて、勝手に思いこみ誤解して怒る。

劣等感の強い人ほど、相手のメッセージを卑屈に受け取りやすいのかもしれない。

だから呪い返す。世間ではそんなことが日常茶飯事だ。


たしか野口晴哉先生の奥様による回想の著書だったと思うが、奥様が野口先生に「では本当に人を呪ったら、ちゃんとその念は相手に届き現象が起きるのですか?」と問われるシーンがあった。


野口先生は「その通りだ。でもだからこそ人を呪ってはいけない。結局、人を呪ったら呪った分、必ず自分に返って来る」と返されていた。

これは真理だと思う。

私も本当にそうだと思う。


そして人は無意識に人を呪うし、だからこそ、相手に呪い返され、お互いに「相手に先に呪われた」と思いこんでいるやっかいな生き物なのだ。


私は極力、人を批評批判したくない。

気がついていても、あえて言いたくない。

相手が自分でいずれ必ず気づく時が来るだろうし、そのためにわざわざ人身御供に私自身が汚れ役、嫌われ役になる必要はないとさえ「大人」になってからは思う。


それに人を批評批判すると、結局、自分の生きる場所を狭くするだけだ。

他人や他所を批評批判ばかりしていると、結局は自分自身が伸び伸びと練習し失敗できる場所、つまり成長する場所や機会をどんどん失って行く。

そうなると「意固地な老人」のように、どんどん身体と心が萎縮して、ただ頑固で面倒な存在でしかない、結果的に、自分を社会や周りにとって「つまらない、歓迎されない存在」にしてしまっているのだ。


だからこそ、私は自分が心の奥底で持っているよく斬れる刃、毒舌を(これは私の本質なんじゃないかと思っている)できるだけ使わないようにしている。

この頃では「使わない、しまっておく」そのことだけにエネルギーを傾けているといってもいい。


自分の居場所を少なくしたくないからだ。

だからつい気づいてしまうことや、自分の持っている批判性や批評性もできるだけ隠している。

匿名性で始めたブログも、もはや半分以上素性が知れわたっているので(苦笑)、始めた頃以上に慎重にしている(つもりだ)。



呪い、呪われ、呪われ、呪い。

鶏が先か玉子が先か。

くだらない検証だ。

結局はどちらも自分が自覚している弱さや欠点を相手の言説の中に自分に対する批評性を見いだし不愉快になり、くだらないやり返しをしている。


けれど、消したエントリにも書いたが、相手にそう言わせる原因は、自分の中にこそある。

相手が自分に失礼を働こうが働くまいが、その要素(原因)を自分が持っているという現実事実が、現時点での真実であることには変わりがない。


自分がのびのびと失敗できる、練習稽古を出来る場を失いたくない。

萎縮した人間関係を構築して、そんな中で生きたくない。


生き方って、その人の人間関係の構築の仕方そのもののことをいうのではないか。


例えば、今回、バレエの発表会前に知人友人の中では一人だけ「忙しくて行けないから」とチケットフライヤーを送り返して来た人がいる。

自分が今、どんなに忙しい日常を送っているかということが書き綴られ、どうせ行けないからと送り返して来るその人の心理状態というか、むしろ人間性を疑った。


毎日、忙しくて仕方なのに、わざわざ「送られた物を送り返す」ような失礼で面倒なことは出来る暇とエネルギーーはあるのだと呆れた。

(そんな無理無駄不合理な生き方をしているから忙しいのだろうけど)

ちなみにこれはくしくも?上記の「退屈な人間」の誤解をしてきた人と同一人物だ(苦笑)。

受け取った瞬間、普通、忙しくなくても、単に趣味ではなく行きたくないだけでも、わざわざ「送り返す」ような失礼なことは出来ないよな、と思った。

行けないし、行けないことをメッセージで送り返す気さえないなら、そのままスルーしときゃいいことだと私は思う。

それをわざわざチケットもフライヤーも送り返して来て「今、忙しくてそれどころでないの!わたしは!」と自己主張して来る心理状態の余裕のなさは、同情にさえ値するのかもしれないが、普通の人間は送ったチケットやフライヤーをわざわざ送り返されたら、その行為には「拒否」「拒絶」のメッセージを感じないだろう。彼女もたぶんそれが本当は分っていてやっている(つまり悪意でやっている)と私は感じた。


他にもご案内を送って来れない方は何人かおられたが、そんなことは「普通のこと」だと思うし、こちらももともと「もしご都合がよろしければ、見に来てくださいね♪」というご案内にすぎず、過去にも、ミニコミ紙の発行や活動のイベント案内の発送などたくさんの方々にしてきたが、ついに「わざわざ送り返して来る」人はこの人しかいなかったので、彼女の人間性を見た気がした。


相手にとってチケットを返すのが誠意(でももともと無料券)とでも思ったのか、でも「誠意の振りをした拒絶の意志」を確実に感じた。

それにそんな送り返されたケチのついた物を、今度誰に私が回すというのだろう。

送られたけどこっちで捨てられないから、あなたの方で処分して、という態度や行為に感じ、こちら側が受ける感情や気持ちはおかまいなしに感じた。

そんなケチがついた件があって以来、私は、人に送るのがちょっとこわくなり、あの人にもこの人にも送ろうと書いていたリストの半分でやめてしまった。(今、考えてみると惜しいことをしたとも思う。先生から頂いたチケットやフライヤーを半分無駄にしたな...と)


まぁたぶん私の人生でも、送った案内に対してこんなションベン臭い幼稚な行為をしてくる人は後にも先にもこの人ひとりくらいだろうと今では思っている。

(だって他に来れない人はメールや何かで応援メッセージをくれたり、そのまま黙って受けとってくれているだけ、普通の対応だったから...)

世の中、本当にいろんな人がいるなぁ〜ふぅ〜〜。

ご本人がよかれ?と思ってしていることの、でも実はこちらには相手の無意識の感情、悪意や敵意などの本音が手に取るように伝わって来る......


「呪」とは、そういう行為のことなのだなと、この頃、つくづく思う。