空中キャンプ

2008-07-24

性行為における象徴的な死、または「膣けいれん」について

はじめて性行為のしくみと成り立ちを理解した子ども時代、それはまず「とてもこわいこと」としてわたしの前に立ちはだかった。友人たちからの情報、もしくは雑誌の記事などは、性行為におけるたくさんのリスクを喧伝していた。望まない妊娠をしてしまうかも知れない。性病にかかってしまうかも知れない。年配の人など、がんばりすぎて行為中に死んでしまうこともあるという。とんでもないことである。性行為はこわい、とわたしはおもった。そしてなにより、「膣けいれん」には心の底からふるえ上がり、恐怖したものだった。

こんな症状がほんとうにあるのか、今となっては確認のしようもないが、女性が性行為中に「膣けいれん」を起こすと、抜けなくなってしまい、そうなったら最後、つながったまま病院に搬送されるしかないというのだ。おそろしいとおもった。つながったままで搬送されるのはほんとうにいやだよ。かかる恥辱に耐えきれるわけがないではないか。そんなことになったら、わたしの脆弱な精神はあっという間に崩壊してしまう。そこで、子どもだったわたしは、いずれ自分が性行為をする段になったら、さりげないユーモア等でできるだけ女性をリラックスさせるよう工夫し、「膣けいれん」を事前に予防しようと心に決めた。

ここで考えたいのは、なぜわれわれにとって性行為は、まず「とてもこわいこと」としてあらわれるのか、という疑問である。快楽という側面よりも先に、まずリスクと危険性が語られるのはなぜか。また、それが事実であるかどうかとは別に、「膣けいれんでつながったままの男女が、病院に搬送された」といったうわさが、ある種のリアリティを持って語られたのはなぜか。大澤真幸は、性のリスクという問題について取り上げ、こう書いている。

たとえば、「セーフティ・セックス」というものを考えてみよ。エイズの心配も性病の心配もなく、心臓への負担を初めとする健康への危険性もまったくないセックス、ただセックスのよい面、セックスの快楽の部分だけを純粋に抽出したセックス、これこそがセーフティ・セックスの目指すものだろう。だが、このようにしてセックスの危険な側面を完全に除去したとすれば、われわれには、同時に、セックスの極限的な快楽、セックスの興奮をも失うに違いない。セックスが人を興奮させるのは、それが、死を垣間見せるような暴力性・危険性と接しているからである。結局、セーフティ・セックスは、セックスをセックスたらしめていた本性を抜き去ったセックス、セックスを「現実」たらしめていた何かを失ったセックスになるはずだ。

死を垣間見せるような暴力性・危険性。わたしにはとてもよく理解できる。たとえば、行為中に「もう死んじゃう」という女性がいますけど、その言葉が意味するのはすなわち、われわれは性行為を通じて、象徴的なかたちで、相手に死を垣間見せるような地点へ到達しようとするということだ。そこでわれわれは、ある種の暴力性(ほんものの暴力ではもちろんない)や、制御のできない感情、強く理不尽な力に貫かれるような経験を求めていることになる。これは、実感としても理解できる。なんか、そういう感じがする。ことほどさように性行為は、説明のつかない混沌を含んでいるのだとおもう。

つまり女の子たちは、自分に「死を垣間見せるような暴力性・危険性」をもたらすようなエネルギーと気迫を持った男を選び、性行為をするということになるよね。きっとそうだとおもう。いわゆる「いい人」「安全な人」がもてないってのはここだろうか。男女の関係って、どこか相手に対する攻撃性がないとエンジンがかからない。作家の花村萬月は、性と暴力はとても相性がいいといって、濃厚な性描写の後に、激烈な暴力シーンを書いたりしてたいへんサービス精神のある人ですが、彼の言わんとしていること、つまり性と暴力の類似点はなんとなくわかる。性にはそのように、理不尽で制御がむずかしく、よくわからないところがある。わたしも「膣けいれん」にだけは気をつけつつ、性行為をがんばっていきたいとおもっています。