- 高遠 信次
2008/07/23 01:24
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求められるのはオリジナリティだ 作品の一部が先行作品と似通ってしまった場合は、どこまでが良くて、どこからがアウトなのかについての線引きを創作者はおのおの確立すべきである。しかし盗作・剽窃は論外だが、作品のストーリーやアイデア、それにデイテールが似かよることはままあるだろう。それを私はあまりに単純な区分だが、リアリテイ部分は先行作品と類似していてもOK、ファンタジ−部分は類似していたらOUTだと割り切っている。例をあげて説明する。たとえば私が殺人事件を書いたとしよう。その殺害方法や動機・逮捕などはいくら先行作品と似ていても何らかまわないと考える。どう書こうがそれは「事実に近いフィクション」なのだから。殺人は日常である。しかしたとえば縁日に行き、妖怪へ弟を売る、あるいは猫男から妹を買うというケースはどうだろう? わざわざ語るまでもないと思うが、縁日の夜店には妖怪も猫男もいないし、弟を売ることを妹を買うこともできない。まったくファンタジ−のおとぎ話である。こういう作り話の部分が似通っていては「劣化コピー」などとノ−ネ−ムごときのチンピラに揶揄されてもやむを得まい。脇が甘いのである。 私が語るのもおこがましいが、求められるのはオリジナリティである。独創性である。二番煎じはどこも要らないのである。たとえ幾千幾万の先行作品があろうとも、誰も書いたことのない世界を、誰も書いたことのない技法で書き、誰も考えたことのないようなタイトルをつけ、それにて洛陽の紙価を高めたいと考える、それが志(こころざし)とういうものではないのか。 卯月燐太郎氏は無論、多くの読者の見解を拝聴したいが、ノ−ネ−ムはご遠慮願いたい。なおこの書き込みは卯月氏を批判するのが目的でなく、彼の行為を良しとする鍛錬場の雰囲気に警鐘を鳴らしたいがためであることをご理解いただきたい。
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- 東豪砂漠
2008/07/23 03:55
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求められるのはオリジナリティだ
『〈降りられんと急行〉の殺人』(小林信彦)というタイトルは好きです。 が。 今回、高遠様がおっしゃっているのはパロディ以外のことですね。 鍛練場では好きな題名、好きなストーリーで書けばいいんじゃないでしょうか。
読むほうにとってはすべてがその作者を知る手がかりになります。「判断材料」です。
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- ほしのまき
2008/07/23 07:06
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求められるのはオリジナリティだ アメリカ文学のあまりにも有名な、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」 この作品のプロットを悪意では「盗用」善意では「参考」にして芥川賞を授賞した作品があります。庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」です。題名および構成はとてもよく似ています。
選考委員会ではもめたそうですが、三島由紀夫の、これは盗用ではなく、偶然の一致か、善意でのプロットの参考だろうとの強い支持で受賞となったのです。
そのことから私たちはなにを学ぶべきか、もはや現在、純文もエンタメも題名、そしてプロットは出尽くし感があります。構想し構成した物語が既存の作品に類似してしまうことは、けしてめずらしいものではないとおもいます。それを一概に盗用、盗作と決め付けるのは、どうかなと思います。
ましてや、ここは賞の審査会場ではありません。鍛練場です。作者個人の洋々な考え方で作品を投稿し、いろいろな感想をいただく場所のはずです。
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- 自分らしく
2008/07/23 08:53
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求められるのはオリジナリティだ ホントに、オリジナリティーというのは難しいと思います。 まねをするつもりなど無くても、似てしまうという事は、多々あるものだと思います。 同じ人間ですからね、考えることが似てくるのは仕方の無いことなのかもしれません。 明らかにパクッているのが分かる内容は、いただけないとは思いますが・・・ そういう作品がどこかの賞に応募されたとしても、落とすかどうかは審査をした人の考えによるのでしょう。 あとは、書いた人自身のモラルにもよるのかな? 私はそう思います。
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- 肉損大統領
2008/07/23 08:54
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求められるのはオリジナリティだ 自分は姉飼はタイトルのみを知っているので、判断は出来かねますが、高遠様が問題視していらっしゃるのはプロットではなくネタの盗用ですね。ほしの様が仰るようにプロットが同一の作品ならこの世には腐るほどあります。しかしそこに詰められているネタが同一であると「盗用」とみなされる可能性があります。ネタが違うからこそ、プロットが同一であってもそれは盗作にはならないんじゃないでしょうか。そういうことですよね? 姉飼と妹飼はおそらくプロットレベルでは別物な筈です。卯月様が「違う」と仰っているのも、「プロット」 「作品の色」はまったく別物であるからでしょう。妹飼は姉飼と違ってホラー、猟奇ではありませんしね。 しかしそこに詰められた「ネタ」は同一である可能性はありますね。 姉飼のあらすじを見ると「不可思議な世界の縁日で売られている姉を見つける。それを男の子が欲しいと思う」というものです。こうした思いつきがたいネタをそのまま使用し、なおかつタイトルも「妹飼」となるとちょっとうならざるを得ないですね。 「蜘蛛飼い」の蜘蛛は普通に飼っても違和感のないものですが「姉妹を飼う」 「縁日で売られている」 「不可思議な世界」という同一のネタが三つも被っているのは、ちょっとまずいかもですね。
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- jungu
2008/07/23 13:10
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求められるのはオリジナリティだ えーと、俺の意見を言います。
本質的には、パクリはあってはならないと思っています。
それについては後々語ることにして、まず前提の話をさせていただきますね。 著作権というのは、原作者の利益を保護するためのものです。 利益を侵害していると考えられたとき、著作権侵害というフレーズが飛び交います。
有名な例でいくと、松本零士氏と槇原敬之氏の論争がありますが、槇原敬之氏が 松本零士氏の利益を侵害しているとは思えないのですよね。
まず音楽と漫画ということでジャンルが違いますから窃用にはあたらない。 もし槇原氏がアニメのジャンルに参入して明らかに内容が酷似しているアニメを制作したのならば 問題でしょう。
しかしそうではない。ましてや我々が目指そうとしているのは創作というジャンルなんですね。 金融や工業、家電製品などとは違って、言語や五感に生ずるところのものを操作する実体のないものを 駆使するわけです。
ですから著作権の行使は最低限に留めて欲しいと言うのが、個人的なスタンスですね。
そしてこの鍛練場においてこそ最低限の運用が適用されるべきだとも考えています。
理由は、模倣にこそ習得のヒントがあるからと考えるからです。 絵画の例ですが、フランスの美術館では、その中でデッサンや模写をしている方をよく見かけるそうです。 その多くは美大生で、つまり腕を磨くための特訓をされているのですね。
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それからタイトルが普通名詞ではなく、作者の造語である場合にはさらに注意が必要である。「姉飼」というホラー賞の受賞作品があるが、これは作者の造語である。姉は飼うものではない、飼うという動詞は動物に対して適用する。それを重々承知した上で、作者はこの造語を作品のイメージに最適だと思い、命名したのであろう。ならば後に続くわれわれはこの作者に敬意を表すべく、軽々にこれに似たタイトルをつけるのは道義上、戒めるべきであろう。著作権云々の問題ではない、見識の問題である。
次に作品の一部が先行作品と似通ってしまった場合について言及したいのだが、字数オーバーしたので次に書く。