2008年07月24日
暑中見舞い申し上げます
今年も暑い夏ですね!
4年前、僕がabcDAYsに入社したのも、夏でしたが、本当に暑かったです。
汗だくになりながら、色々と取材で駆け回っていました。
少し時間が空いたので、旅行に行ってきます。
とは言っても、国内で、ほんの数日間だけなのですが。
旅行先からブログを更新できたら更新しますので、またよろしくお願いします!
4年前、僕がabcDAYsに入社したのも、夏でしたが、本当に暑かったです。
汗だくになりながら、色々と取材で駆け回っていました。
少し時間が空いたので、旅行に行ってきます。
とは言っても、国内で、ほんの数日間だけなのですが。
旅行先からブログを更新できたら更新しますので、またよろしくお願いします!
Posted by abcneko at
20:55
2008年07月19日
バッキー事件手記8 100億の男・栗山龍
バッキー会長・栗山龍が金持ちであったことは確かだ。
高級車を10台以上も持っていたし、アメックスブラックカードも2枚所有していた。
年商100億というのも、まんざら嘘ではなかった。
AV会社のバッキー自体はそれほど利益を上げていなかったが(むしろ赤だったようだが)、栗山龍が経営していた株関連の会社は、実際に、年商100億近くの売り上げを上げていたらしい。
ただ、その事業内容はと言うと、お世辞にも立派とは言えず、半ば「老人を騙して株の契約させたり」と、違法まがいの行為を繰り返していたという。僕はそのことを知り合いのライターから聞いた。
鬼畜AVメーカーのバッキーは、そんな大富豪・栗山龍と、企画屋でありライターでもある浜本大洋(仮名)が出会ったことによって誕生する。
2人とも才能に満ち溢れ、野心家であり、そして決定的にモラルが欠如していた。2人は、金儲けのために驀進していったのだ。
と、そのバッキー創世記の話は、また今度話すことにしよう。
2004年6月、浜本は、実話誌で「100億の男の対談」の連載企画を獲得した。
その翌月、編集プロダクション「abcDAYs」に入社した僕は、よく状況も把握しないまま、その連載企画を担当することになる。
「とにかく、成功している有名人を会長と対談させるんだよ。会長は金持ってるし、裏の世界じゃ凄い人だけどよ、世間的な知名度はねえからよ。けど、有名人とか文化人とかと一緒に対談していたら、読者は「栗山龍って、よく知らないけど、この人たちと同列なのかな?」って思うだろ。それ繰り返して本にしたら、栗山龍の認知度も上がるだろ」
浜本はそう言った。
浜本は、栗山龍の知名度を上げたいと躍起になっていた。「会長は俺が有名にしてやる」と意気込んでいた。
ホームレスから編プロ社長に成り上がった浜本にしてみれば、同じように成り上がった年商100億の栗山龍は、憧れだったのだ。
行く行くは栗山龍のように自分もなりたい、と思っていたのかもしれない。
そんな彼の思いはともかく、
対談の執筆を任された僕は、「この企画をやっていれば有名人と会える」と単純に喜び、毎月、次から次へと有名人にアポを取っていく。
愛田武社長(ホスト王)、川原ひろし社長(なんでんかんでん社長)、ジョニー大倉(「キャロル」ギタリスト)、カルーセル麻紀、石原伸司(極道作家)、水野晴郎、武藤敬司(全日本プロレス社長)……。
愛田社長を除けば、その他全ての人は、僕がアポを取って、対談のセッティングをして執筆した。
対談相手の方々には、栗山龍のことを「事業家で、AVレーベルなども持っている人です」と紹介した。
対談相手はおおむね栗山に好意を抱いたようだ。
金髪で、肌を真っ黒に焼いている栗山は、見た目こそ怪しさ満点だったけれど、話してみると、意外と、腰が低くて聞き上手だったし、うまく相手を立てていたのだ。
ただ、雑誌的に見てみると、栗山の発言は、優等生的な回答ばかりで、とりたてて面白くもない。
それは優秀なビジネスマンの会話だった。
インパクトのある言葉を発するのは、たいてい対談相手であり、栗山龍は、完全に食われてしまっている。
けど、あるときから、僕は気付く。
栗山龍が本性を出すのは、エロの分野に話が及んだときだ、と。
「何人も女を呼んでヤルのがいい」「輪姦サークルとかいいですね」「最近、スパンキングはやりすぎちゃって飽きてきた。動物になったみたいに思える」
上品な紳士が、一瞬にして、アナーキーなSM男に変身するのだ。
ここに話を持っていけば面白い──。
そのことを知った僕は、毎回、対談中に口を挟み、その話題へと持っていった。
そして、原稿に起こす際は、「100億の男の性癖は、常人の理解を超えている」などと、半ば愉しみながら、自分の感想も入れていた。
一応そこが笑いのポイントではあったが、その文章は、バッキーを実際に見てしまうと、笑えない。
それは「変わった性癖」などという生易しいものではなく、ただの犯罪だった。
女は金で買うもの。売春婦だったら何をやってもいい。メチャクチャやったほうが面白い。
それは栗山の信条だった。
設立当初は美少女AVメーカーの王道路線を歩んでいたバッキーが、鬼畜AVメーカーに変身したのは、栗山龍が、借金を抱えていた1人の女を連れてきて、「この女、借金あるから何やってもいいよ」と、その女を制作陣に差し出したことに始まる。
優秀なビジネスマンの顔の裏側にある、どす黒い性癖。
バッキーが設立されるまで、彼は、その性癖を自分の趣味の乱交サークルだけで発散していたけれど、よりによって、AVという開かれた世界に持ち込んでしまったのだ。
こうして破滅への道を歩み始める。
高級車を10台以上も持っていたし、アメックスブラックカードも2枚所有していた。
年商100億というのも、まんざら嘘ではなかった。
AV会社のバッキー自体はそれほど利益を上げていなかったが(むしろ赤だったようだが)、栗山龍が経営していた株関連の会社は、実際に、年商100億近くの売り上げを上げていたらしい。
ただ、その事業内容はと言うと、お世辞にも立派とは言えず、半ば「老人を騙して株の契約させたり」と、違法まがいの行為を繰り返していたという。僕はそのことを知り合いのライターから聞いた。
鬼畜AVメーカーのバッキーは、そんな大富豪・栗山龍と、企画屋でありライターでもある浜本大洋(仮名)が出会ったことによって誕生する。
2人とも才能に満ち溢れ、野心家であり、そして決定的にモラルが欠如していた。2人は、金儲けのために驀進していったのだ。
と、そのバッキー創世記の話は、また今度話すことにしよう。
2004年6月、浜本は、実話誌で「100億の男の対談」の連載企画を獲得した。
その翌月、編集プロダクション「abcDAYs」に入社した僕は、よく状況も把握しないまま、その連載企画を担当することになる。
「とにかく、成功している有名人を会長と対談させるんだよ。会長は金持ってるし、裏の世界じゃ凄い人だけどよ、世間的な知名度はねえからよ。けど、有名人とか文化人とかと一緒に対談していたら、読者は「栗山龍って、よく知らないけど、この人たちと同列なのかな?」って思うだろ。それ繰り返して本にしたら、栗山龍の認知度も上がるだろ」
浜本はそう言った。
浜本は、栗山龍の知名度を上げたいと躍起になっていた。「会長は俺が有名にしてやる」と意気込んでいた。
ホームレスから編プロ社長に成り上がった浜本にしてみれば、同じように成り上がった年商100億の栗山龍は、憧れだったのだ。
行く行くは栗山龍のように自分もなりたい、と思っていたのかもしれない。
そんな彼の思いはともかく、
対談の執筆を任された僕は、「この企画をやっていれば有名人と会える」と単純に喜び、毎月、次から次へと有名人にアポを取っていく。
愛田武社長(ホスト王)、川原ひろし社長(なんでんかんでん社長)、ジョニー大倉(「キャロル」ギタリスト)、カルーセル麻紀、石原伸司(極道作家)、水野晴郎、武藤敬司(全日本プロレス社長)……。
愛田社長を除けば、その他全ての人は、僕がアポを取って、対談のセッティングをして執筆した。
対談相手の方々には、栗山龍のことを「事業家で、AVレーベルなども持っている人です」と紹介した。
対談相手はおおむね栗山に好意を抱いたようだ。
金髪で、肌を真っ黒に焼いている栗山は、見た目こそ怪しさ満点だったけれど、話してみると、意外と、腰が低くて聞き上手だったし、うまく相手を立てていたのだ。
ただ、雑誌的に見てみると、栗山の発言は、優等生的な回答ばかりで、とりたてて面白くもない。
それは優秀なビジネスマンの会話だった。
インパクトのある言葉を発するのは、たいてい対談相手であり、栗山龍は、完全に食われてしまっている。
けど、あるときから、僕は気付く。
栗山龍が本性を出すのは、エロの分野に話が及んだときだ、と。
「何人も女を呼んでヤルのがいい」「輪姦サークルとかいいですね」「最近、スパンキングはやりすぎちゃって飽きてきた。動物になったみたいに思える」
上品な紳士が、一瞬にして、アナーキーなSM男に変身するのだ。
ここに話を持っていけば面白い──。
そのことを知った僕は、毎回、対談中に口を挟み、その話題へと持っていった。
そして、原稿に起こす際は、「100億の男の性癖は、常人の理解を超えている」などと、半ば愉しみながら、自分の感想も入れていた。
一応そこが笑いのポイントではあったが、その文章は、バッキーを実際に見てしまうと、笑えない。
それは「変わった性癖」などという生易しいものではなく、ただの犯罪だった。
女は金で買うもの。売春婦だったら何をやってもいい。メチャクチャやったほうが面白い。
それは栗山の信条だった。
設立当初は美少女AVメーカーの王道路線を歩んでいたバッキーが、鬼畜AVメーカーに変身したのは、栗山龍が、借金を抱えていた1人の女を連れてきて、「この女、借金あるから何やってもいいよ」と、その女を制作陣に差し出したことに始まる。
優秀なビジネスマンの顔の裏側にある、どす黒い性癖。
バッキーが設立されるまで、彼は、その性癖を自分の趣味の乱交サークルだけで発散していたけれど、よりによって、AVという開かれた世界に持ち込んでしまったのだ。
こうして破滅への道を歩み始める。
Posted by abcneko at
19:54
2008年07月17日
とりあえず一休み
ちょっと立て続けに事件のこと書いていたら疲れました。笑
栗山龍、浜本大洋(仮名)、パンティー仮面こと中山(仮名)のことなど、色々と書きたいこともあるから、またしばらくして気が向いたら、書いてみます。
彼らは、すごく僕に影響を与えてくれた人たちです。
全然関係ないですが、ここ数日、ようやく一冊の本が仕上がりました。
7月末発売。
いつもながら、また適当にペンネームを作って書いちゃいましたが、たくさん売れてくればいいです。
いずれ本名の岩崎悟や、愛着のある猫屋陽平の名前も使ってみたいのですが、この事件のお陰で使いずらい……。
それが悩みです。
「バッキー事件は本にしないのか?」
と尋ねられますが、難しいんじゃないかな、と思います。
実を言うと、連載させていただいた創さんを含めて、そういう話は出版社から何度かあったのですが、本にすると後々残ってしまうし。
被害女優にしても、撮影した制作陣にしても、この事件が広まることを、関係者はあまり望んでないのです。
創を書いていたときは、浜本や中山からも、「あんまヘンなことは書くな」と獄中から手紙が来ました。
確かに、僕が彼らの立場だったら、あんまり書いて欲しくないのかも。
浜本自身はライターだから、その辺り理解は示してくれてはいますが。
ただ、こういう言い方は良くないですが、たぶん、僕が生きてきた32年間の中で、バッキーと関わった半年間は、一番濃くてイカれていました。
うんこ大戦、とかメチャクチャだったし。栗山龍とか浜本とか、ありえない人たちだったし。浜本の逃亡とか、池袋のマル暴とかのやり取りとか、その辺りもスリリングでした。
なので、しがらみさえなければ、ライターとして、最も自分が書きたいテーマというか、体験だったりします。
まあ、ブログでちょこちょこと気が向いたときにでも書いていきますので、興味のある方は読んでいただけたらと思います。
バッキー以外にも、このブログ上では、主に、事件系とか水商売系の記事とか書いてみることにします。
栗山龍、浜本大洋(仮名)、パンティー仮面こと中山(仮名)のことなど、色々と書きたいこともあるから、またしばらくして気が向いたら、書いてみます。
彼らは、すごく僕に影響を与えてくれた人たちです。
全然関係ないですが、ここ数日、ようやく一冊の本が仕上がりました。
7月末発売。
いつもながら、また適当にペンネームを作って書いちゃいましたが、たくさん売れてくればいいです。
いずれ本名の岩崎悟や、愛着のある猫屋陽平の名前も使ってみたいのですが、この事件のお陰で使いずらい……。
それが悩みです。
「バッキー事件は本にしないのか?」
と尋ねられますが、難しいんじゃないかな、と思います。
実を言うと、連載させていただいた創さんを含めて、そういう話は出版社から何度かあったのですが、本にすると後々残ってしまうし。
被害女優にしても、撮影した制作陣にしても、この事件が広まることを、関係者はあまり望んでないのです。
創を書いていたときは、浜本や中山からも、「あんまヘンなことは書くな」と獄中から手紙が来ました。
確かに、僕が彼らの立場だったら、あんまり書いて欲しくないのかも。
浜本自身はライターだから、その辺り理解は示してくれてはいますが。
ただ、こういう言い方は良くないですが、たぶん、僕が生きてきた32年間の中で、バッキーと関わった半年間は、一番濃くてイカれていました。
うんこ大戦、とかメチャクチャだったし。栗山龍とか浜本とか、ありえない人たちだったし。浜本の逃亡とか、池袋のマル暴とかのやり取りとか、その辺りもスリリングでした。
なので、しがらみさえなければ、ライターとして、最も自分が書きたいテーマというか、体験だったりします。
まあ、ブログでちょこちょこと気が向いたときにでも書いていきますので、興味のある方は読んでいただけたらと思います。
バッキー以外にも、このブログ上では、主に、事件系とか水商売系の記事とか書いてみることにします。
Posted by abcneko at
20:47
バッキー事件手記7 うんこ大戦 〜前代未聞の惨事〜
「もしも、君が、うんこ大戦で逮捕されたら、法廷では、裁判官とか弁護士とか、真面目に、うんこ大戦って名前を使うのかな」
ライター仲間が笑ってそう言ったが、僕にとっては笑い事じゃない。
そんな事態となっていたら、両親や親戚も、どれだけ嘆き悲しむことか。
「うんこ大戦なんかで逮捕されるために、大学に行かせたわけじゃない」
と怒られるだろう。
しかし、ひょっとしたら、怒っている最中に、関西人である両親や親戚一同は、泣き笑いしてしまうのかもしれない。
「いくらなんでも、うんこ大戦はないだろう。それは、最悪の犯罪者だぞ」と。
2004年の7月18日、バッキーは新シリーズを撮影した。ちょうど4年前の出来事だ。
それが「うんこ大戦」という、ふざけたタイトルだったけど、それは、冗談ではなく、まさに戦場であり、地獄だった。
「プロダクションと話を付けているから何も問題ない」
監督のパンティー仮面こと、中山はそう言っていた。それは嘘ではなかった。
しかし、撮影してしばらく経ってから、僕は知る。
プロダクションに話は付いていたが、女優には全く話が通っていなかったのだ!
女優は普通のAVの撮影だと思っていた。
(まさか)と思った。
そんなことがあるわけない。
しかし、そんな「まさか」の現場だった。
バッキーとプロダクションは、グルになって女優を騙していたのである。
僕はサブのカメラマンとして、現場に入っていた。
女優は拘束されて、ガラス張りの容器の中に閉じ込められる。なんで、彼女は拘束されたのか全く理解していない。
その容器の上に、「うんこ女優」たちが、腰掛ける(本当にひどいネーミングだ)。
その日、20人ぐらいのうんこ女優が派遣されて来ていた。
うんこ女優たちも、こんなに悲惨な現場だとは知らされていなかった。
それでも、プロとして現場に来てしまったからには、仕事をしなければならない。
でないと、契約違反になるのだ。
彼女たちの仕事は、主演女優の顔の上に、うんこを落とすというものだった。ギャラは2万円程度だったという。
自分自身も2万円のうんこカメラマンとして派遣されておきながら言うのもなんだが、「2万円でうんこをする女優というのは……」と、唖然としたのを覚えている。
「え、何するの?」
戸惑う主演女優の顔の上に、次々と、うんこ女優たちがうんこをひりだしていく。
「こんなの聞いてないよ! 嫌だよー! ここから出してよ!」
主演女優は、当然、暴れ、叫ぶ。しかし、拘束されているので動けない。
それでも容赦なく、次から次へと女たちが現れては、女優の顔にうんこを落としていく。顔中がうんこまみれになっていく。
一時間以上にも及んだ。
その間、延々と主演女優は泣き叫んだ。
もしも、僕が主演女優だったら発狂しているだろう。
というか、撮っているだけで、気がおかしくなりそうだった。
周囲はひどい悪臭が立ち始めている。
ガラス張りの容器の中は、うんこでいっぱいになっていく。もはや顔がうんこに埋もれている。逃げようにも逃げられない。
とても見るに耐えられるものではなく、僕は、カメラが三脚で固定されているのを確認して、その場を離れた。
メインのカメラマンが、容器の中の女優を撮っている。僕は全体の絵だけ固定で押さえておけばよかった。
とりあえずは、ここにいる必要もない。
その場を離れ、控え室のほうへと向かった。撮影現場から離れたはずなのに、女優の叫び声が聴こえる。
耳が痛い。動悸が激しい。
「さて、どうするべきか」
考えたが、分からなかった。
恥ずかしながら、撮影を止めさせるという考えは浮かばなかった。
そんな権限などないからだ。
権限などなくても、本当に正義感の強い人間であれば、主演女優を救うために体を張るのかもしれない。
けど、そのときの僕は、「どうやって穏便に逃げるか?」そのことしか頭になかった。
こんな現場で逮捕されたら、たまったもんじゃない!
あいつらは、こんな撮影をしていて、逮捕の危険を感じていないのか?
まともじゃない!
制作陣に対して憤りも覚えていた。
なんで、彼らはこんな向こう見ずな撮影ができるのだろう?
しかし──、
対処を考えあぐねているうちに、20人のうんこ女優たちは全員うんこをひりだし、次のシーンへと移ってしまった。
「猫さん、こんなところにいたんだ。うんこの匂いがきついからね。避難していたのかな。次は部屋のシーンだから、また抑えのカメラお願いね」
監督の中山(パンティー仮面)がやってきて、呑気な声で言う。
僕は、彼の目に、狂気の色が宿っているのを感じた。
「次はこんなもんじゃないよ」
と、彼は笑って言う。サディスティックな声。
普段の中山じゃない。
実際、中山の言うとおりだった。本当の地獄はこれからだったのだ。
やけに薄汚くて醜い男たちが現れたかと思うと、彼らは、部屋の一室で、主演女優に自分たちのうんこを塗りたくっていく。
バッキー自慢のブサ男・汁男優たちだった。
当然、主演女優は発狂したように暴れる。
それが「泥」だと思えば、じゃれあって、泥の塗り合いの遊びをしているようにも見えるが、紛れもなく「うんこ」なのだ。
男優たちは、女優の髪や体にうんこを塗りたくり、さらには、それを食べさせようとする。
「てめえら、ふざけんなよ! 訴えてやる!」
女優は叫ぶ。
男優たちはその反応を見て笑う。キ○ガイだ!
狂っている──。
女優が暴れ、うんこが飛び散る。
その飛まつが、カメラのほうにも飛んでくる。
僕はそのとばっちりを受けないように、下がれるだけ下がって、ズームでその様子を映していた。
とにかく匂いが最悪で、吐き気がしてくる。
目を逸らして、なるべく見ないでカメラを回す。
後々になって、このビデオの編集マンから言われたのだが、僕のカメラは手ぶれや焦点が合っていなくて、ほとんど素材として使えなかったようだ。
けど、こんな現場でまともにカメラを回せる奴なんて、まともな神経じゃない!
この撮影で一番酷かったのは、誰かが焼きそばの上にうんこを出し、それを食べさせようとしたシーンだ。
「それを食べるまで帰さない!」
などと理不尽な要求をしていた。
女優はもちろん反抗する。
すると、ジャニーズ光太郎と呼ばれていた男が、女優を抱え上げると、水の溜まっているドラム缶の中に逆さづりにして入れた! 「死ね! 死ね!」と叫びながら。
彼の女優を一顧だにしない冷酷さは、凄まじい。
彼は、懲役14年の刑を受けたが、その刑も頷ける。
しかし、後々記すように、普段のジャニーズは、高学歴で、実に生真面目な好青年だったのだ。
当然、女優は、息ができなくなって暴れる。
ドラム缶から顔を出した女優は、ふたたび、うんこ入りの焼きそばを手渡される。
目から涙がこぼれ落ちている。
これは中世の中国の拷問か???
これが限界だった──。
女優がじゃなくて、僕が、だ。
こっそりと現場を抜けると、本格的に逃走の準備に入ったのだ。
みんな女優に注目していて、サブのカメラマンの僕の動きに気付いている者などいなかった。
こんな頭のおかしな奴らに付き合って、逮捕されるなんてたまったもんじゃない。
たぶん、僕と同じ立場になったら、誰もが同じことを考えるだろう。
しかし、建物の外に出ようとしたとき、スタッフの1人が僕を追いかけてきた。現場にカメラマンがいないことに気付いたのだ。
助監督の若本だった。
「途中で抜けられると困ります!」
そう言う彼に、僕はカメラを手渡して、「気持ち悪くなったんで、後は頼みます」とか適当なことを言った。
「仕事放棄するんですか? 違約金取られますよ」
仕事?
これが仕事なんだろうか?
まあ、確かに、このビデオは正規の流通で売られるのだろう。一応、ちゃんとギャラをもらい、カメラマンとして派遣されている。
けれども、もしも、女優が訴えたとしたら?
「この現場が問題になることはないですよ。プロダクションも了解済みなんです。何かあったら、プロダクションが抑えにかかります」
若本は言う。
本当にそうなのだろうか?
もしも、僕が女優だったら、間違いなくプロダクションを振り切って訴えてやるのだが?
しかし、AV女優という引け目があるから、訴えられないかもしれない──。
そうか、AV女優だからなのか。そのとき、僕は思った。
例えば、闇金を狙った強盗がいるが、彼らは「闇金の奴らだったら、盗まれても訴えないだろう」と考える。
非合法なものを狙った、さらに非合法な極悪人。世の中にはそんな最凶の奴らがいる。
バッキーはまさしくそういう集団だった。
AV業界、AV女優自体、世間ではグレーゾーンで、非合法に近かったのだ。そこで、何をやったところで、そこに属する者たちが訴えてくることなどないだろう。
バッキーはそう考えていたのである。
その考えに思い至ったとき、心底から恐ろしさがこみ上げてきた。
なんて、ヤバい集団と関わり合ってしまったのだろうと。
結局、最後までグダグダと居残ってしまった。途中で抜けると、自分自身も制裁を加えられかねないという考えも湧き起こったのだ。
おそらく、バッキーの現場に来て、僕のようなリアクションを取る人は多いだろう。
とりあえず、来てみたものの、あまりの酷さに驚き、逃げようとする。しかし、仕事だと考え直して、自分のノルマをこなす。
それは、チョコボール向井氏も同様だった。
「あの現場はひどかったですね」
事件からしばらくして、偶然にも、チョコボール氏と会った私は、バッキー談義をしたものだ。
チョコボール氏も、ろくに話を聞かず、現場に行った。そこで、女優は何十人もの汁男優に襲われ、泣き叫んでいた。
チョコボール氏は、本当ならそこで帰りたかったが、ギャラをもらっていたから、仕方なくセックスしたのだという。
撮影終了後、僕は女優と話し、駅まで送り届けた。
放心状態だった彼女も、少しずつ話すようになった。
「メチャクチャな現場だったね」そう言い合った。
別れ際にメールアドレスを交換した。
何度かメールのやり取りを交わした。
彼女がプロダクションと揉めて逃げたと分かったのは、それから数週間後。
プロダクションは、こんな悲惨な現場に送り込んだにも関わらず、バッキーからもらったギャラの大半を自分のところに入れ、女優には、ろくにギャラも支払わなかったのだ。
どうせ、この撮影で使い捨ての女優だった。金をやる必要なんてない。そう思ったのかもしれない。
しかし、たったのギャラ10万円で、うんこ入りの焼きそばを食わせるなんて、全くもって、ふざけている!
彼女は、プロダクションで保管している大金を奪い、逃げたという。
しかし、その大金ですら、彼女の受けた仕打ちに比べれば安いものかもしれない。
以来、僕とも連絡が取れなくなった。
それから数ヶ月経ち、バッキー事件が続々と起訴されるが、そのとき、僕が思い悩んだのは、この「うんこ大戦」のことだ。
彼女も訴えるのだろうか?
たぶん、僕以外にも、バッキー関係者の中には、「自分も訴えられるのでは?」と考えたものは多いだろう。
チョコボール氏も、逮捕の危険に脅えていた。
起訴されたのは4作品だけだが、どの作品が訴えられても、おかしくないメーカーだったのだ!
恐るべき犯罪集団。
まともな作品がひとつたりともなかった。
しかし、さらに、恐ろしいことは、彼らと付き合っていると、こんな撮影が当たり前のように思えてくることだった。
今まで一度も訴えられていないんだから、大丈夫だろう、と。
「うんこ大戦」以降、僕は自分の安全のため、パンティー仮面に誘われても、二度と撮影現場に行かなくなった。
しかし、僕も彼らの感覚に汚染され、次第に感覚が麻痺してきたところがある。ときどき、パンティー仮面が自慢げに見せてくる「子宮破壊」のビデオを見ても、何とも思わなくなったのだ。
またこいつら、ムチャクチャやってるな。
と思う程度で。
バッキーと関わり合ったことで、おそらく、人間の一番大事な部分が磨り減ってきていたのだ。
次回は、こんな犯罪メーカーの総帥、カリスマAV会長の異名を持っていた、栗山龍について記そうと思う。
時系列が逆になったが、この「うんこ大戦」の撮影前に、僕は栗山氏と会っていたのだ。
ライター仲間が笑ってそう言ったが、僕にとっては笑い事じゃない。
そんな事態となっていたら、両親や親戚も、どれだけ嘆き悲しむことか。
「うんこ大戦なんかで逮捕されるために、大学に行かせたわけじゃない」
と怒られるだろう。
しかし、ひょっとしたら、怒っている最中に、関西人である両親や親戚一同は、泣き笑いしてしまうのかもしれない。
「いくらなんでも、うんこ大戦はないだろう。それは、最悪の犯罪者だぞ」と。
2004年の7月18日、バッキーは新シリーズを撮影した。ちょうど4年前の出来事だ。
それが「うんこ大戦」という、ふざけたタイトルだったけど、それは、冗談ではなく、まさに戦場であり、地獄だった。
「プロダクションと話を付けているから何も問題ない」
監督のパンティー仮面こと、中山はそう言っていた。それは嘘ではなかった。
しかし、撮影してしばらく経ってから、僕は知る。
プロダクションに話は付いていたが、女優には全く話が通っていなかったのだ!
女優は普通のAVの撮影だと思っていた。
(まさか)と思った。
そんなことがあるわけない。
しかし、そんな「まさか」の現場だった。
バッキーとプロダクションは、グルになって女優を騙していたのである。
僕はサブのカメラマンとして、現場に入っていた。
女優は拘束されて、ガラス張りの容器の中に閉じ込められる。なんで、彼女は拘束されたのか全く理解していない。
その容器の上に、「うんこ女優」たちが、腰掛ける(本当にひどいネーミングだ)。
その日、20人ぐらいのうんこ女優が派遣されて来ていた。
うんこ女優たちも、こんなに悲惨な現場だとは知らされていなかった。
それでも、プロとして現場に来てしまったからには、仕事をしなければならない。
でないと、契約違反になるのだ。
彼女たちの仕事は、主演女優の顔の上に、うんこを落とすというものだった。ギャラは2万円程度だったという。
自分自身も2万円のうんこカメラマンとして派遣されておきながら言うのもなんだが、「2万円でうんこをする女優というのは……」と、唖然としたのを覚えている。
「え、何するの?」
戸惑う主演女優の顔の上に、次々と、うんこ女優たちがうんこをひりだしていく。
「こんなの聞いてないよ! 嫌だよー! ここから出してよ!」
主演女優は、当然、暴れ、叫ぶ。しかし、拘束されているので動けない。
それでも容赦なく、次から次へと女たちが現れては、女優の顔にうんこを落としていく。顔中がうんこまみれになっていく。
一時間以上にも及んだ。
その間、延々と主演女優は泣き叫んだ。
もしも、僕が主演女優だったら発狂しているだろう。
というか、撮っているだけで、気がおかしくなりそうだった。
周囲はひどい悪臭が立ち始めている。
ガラス張りの容器の中は、うんこでいっぱいになっていく。もはや顔がうんこに埋もれている。逃げようにも逃げられない。
とても見るに耐えられるものではなく、僕は、カメラが三脚で固定されているのを確認して、その場を離れた。
メインのカメラマンが、容器の中の女優を撮っている。僕は全体の絵だけ固定で押さえておけばよかった。
とりあえずは、ここにいる必要もない。
その場を離れ、控え室のほうへと向かった。撮影現場から離れたはずなのに、女優の叫び声が聴こえる。
耳が痛い。動悸が激しい。
「さて、どうするべきか」
考えたが、分からなかった。
恥ずかしながら、撮影を止めさせるという考えは浮かばなかった。
そんな権限などないからだ。
権限などなくても、本当に正義感の強い人間であれば、主演女優を救うために体を張るのかもしれない。
けど、そのときの僕は、「どうやって穏便に逃げるか?」そのことしか頭になかった。
こんな現場で逮捕されたら、たまったもんじゃない!
あいつらは、こんな撮影をしていて、逮捕の危険を感じていないのか?
まともじゃない!
制作陣に対して憤りも覚えていた。
なんで、彼らはこんな向こう見ずな撮影ができるのだろう?
しかし──、
対処を考えあぐねているうちに、20人のうんこ女優たちは全員うんこをひりだし、次のシーンへと移ってしまった。
「猫さん、こんなところにいたんだ。うんこの匂いがきついからね。避難していたのかな。次は部屋のシーンだから、また抑えのカメラお願いね」
監督の中山(パンティー仮面)がやってきて、呑気な声で言う。
僕は、彼の目に、狂気の色が宿っているのを感じた。
「次はこんなもんじゃないよ」
と、彼は笑って言う。サディスティックな声。
普段の中山じゃない。
実際、中山の言うとおりだった。本当の地獄はこれからだったのだ。
やけに薄汚くて醜い男たちが現れたかと思うと、彼らは、部屋の一室で、主演女優に自分たちのうんこを塗りたくっていく。
バッキー自慢のブサ男・汁男優たちだった。
当然、主演女優は発狂したように暴れる。
それが「泥」だと思えば、じゃれあって、泥の塗り合いの遊びをしているようにも見えるが、紛れもなく「うんこ」なのだ。
男優たちは、女優の髪や体にうんこを塗りたくり、さらには、それを食べさせようとする。
「てめえら、ふざけんなよ! 訴えてやる!」
女優は叫ぶ。
男優たちはその反応を見て笑う。キ○ガイだ!
狂っている──。
女優が暴れ、うんこが飛び散る。
その飛まつが、カメラのほうにも飛んでくる。
僕はそのとばっちりを受けないように、下がれるだけ下がって、ズームでその様子を映していた。
とにかく匂いが最悪で、吐き気がしてくる。
目を逸らして、なるべく見ないでカメラを回す。
後々になって、このビデオの編集マンから言われたのだが、僕のカメラは手ぶれや焦点が合っていなくて、ほとんど素材として使えなかったようだ。
けど、こんな現場でまともにカメラを回せる奴なんて、まともな神経じゃない!
この撮影で一番酷かったのは、誰かが焼きそばの上にうんこを出し、それを食べさせようとしたシーンだ。
「それを食べるまで帰さない!」
などと理不尽な要求をしていた。
女優はもちろん反抗する。
すると、ジャニーズ光太郎と呼ばれていた男が、女優を抱え上げると、水の溜まっているドラム缶の中に逆さづりにして入れた! 「死ね! 死ね!」と叫びながら。
彼の女優を一顧だにしない冷酷さは、凄まじい。
彼は、懲役14年の刑を受けたが、その刑も頷ける。
しかし、後々記すように、普段のジャニーズは、高学歴で、実に生真面目な好青年だったのだ。
当然、女優は、息ができなくなって暴れる。
ドラム缶から顔を出した女優は、ふたたび、うんこ入りの焼きそばを手渡される。
目から涙がこぼれ落ちている。
これは中世の中国の拷問か???
これが限界だった──。
女優がじゃなくて、僕が、だ。
こっそりと現場を抜けると、本格的に逃走の準備に入ったのだ。
みんな女優に注目していて、サブのカメラマンの僕の動きに気付いている者などいなかった。
こんな頭のおかしな奴らに付き合って、逮捕されるなんてたまったもんじゃない。
たぶん、僕と同じ立場になったら、誰もが同じことを考えるだろう。
しかし、建物の外に出ようとしたとき、スタッフの1人が僕を追いかけてきた。現場にカメラマンがいないことに気付いたのだ。
助監督の若本だった。
「途中で抜けられると困ります!」
そう言う彼に、僕はカメラを手渡して、「気持ち悪くなったんで、後は頼みます」とか適当なことを言った。
「仕事放棄するんですか? 違約金取られますよ」
仕事?
これが仕事なんだろうか?
まあ、確かに、このビデオは正規の流通で売られるのだろう。一応、ちゃんとギャラをもらい、カメラマンとして派遣されている。
けれども、もしも、女優が訴えたとしたら?
「この現場が問題になることはないですよ。プロダクションも了解済みなんです。何かあったら、プロダクションが抑えにかかります」
若本は言う。
本当にそうなのだろうか?
もしも、僕が女優だったら、間違いなくプロダクションを振り切って訴えてやるのだが?
しかし、AV女優という引け目があるから、訴えられないかもしれない──。
そうか、AV女優だからなのか。そのとき、僕は思った。
例えば、闇金を狙った強盗がいるが、彼らは「闇金の奴らだったら、盗まれても訴えないだろう」と考える。
非合法なものを狙った、さらに非合法な極悪人。世の中にはそんな最凶の奴らがいる。
バッキーはまさしくそういう集団だった。
AV業界、AV女優自体、世間ではグレーゾーンで、非合法に近かったのだ。そこで、何をやったところで、そこに属する者たちが訴えてくることなどないだろう。
バッキーはそう考えていたのである。
その考えに思い至ったとき、心底から恐ろしさがこみ上げてきた。
なんて、ヤバい集団と関わり合ってしまったのだろうと。
結局、最後までグダグダと居残ってしまった。途中で抜けると、自分自身も制裁を加えられかねないという考えも湧き起こったのだ。
おそらく、バッキーの現場に来て、僕のようなリアクションを取る人は多いだろう。
とりあえず、来てみたものの、あまりの酷さに驚き、逃げようとする。しかし、仕事だと考え直して、自分のノルマをこなす。
それは、チョコボール向井氏も同様だった。
「あの現場はひどかったですね」
事件からしばらくして、偶然にも、チョコボール氏と会った私は、バッキー談義をしたものだ。
チョコボール氏も、ろくに話を聞かず、現場に行った。そこで、女優は何十人もの汁男優に襲われ、泣き叫んでいた。
チョコボール氏は、本当ならそこで帰りたかったが、ギャラをもらっていたから、仕方なくセックスしたのだという。
撮影終了後、僕は女優と話し、駅まで送り届けた。
放心状態だった彼女も、少しずつ話すようになった。
「メチャクチャな現場だったね」そう言い合った。
別れ際にメールアドレスを交換した。
何度かメールのやり取りを交わした。
彼女がプロダクションと揉めて逃げたと分かったのは、それから数週間後。
プロダクションは、こんな悲惨な現場に送り込んだにも関わらず、バッキーからもらったギャラの大半を自分のところに入れ、女優には、ろくにギャラも支払わなかったのだ。
どうせ、この撮影で使い捨ての女優だった。金をやる必要なんてない。そう思ったのかもしれない。
しかし、たったのギャラ10万円で、うんこ入りの焼きそばを食わせるなんて、全くもって、ふざけている!
彼女は、プロダクションで保管している大金を奪い、逃げたという。
しかし、その大金ですら、彼女の受けた仕打ちに比べれば安いものかもしれない。
以来、僕とも連絡が取れなくなった。
それから数ヶ月経ち、バッキー事件が続々と起訴されるが、そのとき、僕が思い悩んだのは、この「うんこ大戦」のことだ。
彼女も訴えるのだろうか?
たぶん、僕以外にも、バッキー関係者の中には、「自分も訴えられるのでは?」と考えたものは多いだろう。
チョコボール氏も、逮捕の危険に脅えていた。
起訴されたのは4作品だけだが、どの作品が訴えられても、おかしくないメーカーだったのだ!
恐るべき犯罪集団。
まともな作品がひとつたりともなかった。
しかし、さらに、恐ろしいことは、彼らと付き合っていると、こんな撮影が当たり前のように思えてくることだった。
今まで一度も訴えられていないんだから、大丈夫だろう、と。
「うんこ大戦」以降、僕は自分の安全のため、パンティー仮面に誘われても、二度と撮影現場に行かなくなった。
しかし、僕も彼らの感覚に汚染され、次第に感覚が麻痺してきたところがある。ときどき、パンティー仮面が自慢げに見せてくる「子宮破壊」のビデオを見ても、何とも思わなくなったのだ。
またこいつら、ムチャクチャやってるな。
と思う程度で。
バッキーと関わり合ったことで、おそらく、人間の一番大事な部分が磨り減ってきていたのだ。
次回は、こんな犯罪メーカーの総帥、カリスマAV会長の異名を持っていた、栗山龍について記そうと思う。
時系列が逆になったが、この「うんこ大戦」の撮影前に、僕は栗山氏と会っていたのだ。
Posted by abcneko at
03:03
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
バッキー事件手記6 露出バカ一代
2004年7月、編集プロダクション「abcDAYs」に採用された僕は、自宅のパソコンを会社に持ち込み、そこで仕事するようになった。
abcDAYsが手がけている記事は、いかがわしい表紙の実話誌やエロ本、サブカル誌など、普段、僕が読まないような雑誌ばかりだった。
こんな世界もあるんだな、と単純に驚いたものだった。
僕は、浜本に与えられた原稿を書いていった。
「おまえの文章はスラスラ読めてまとまっているからいいんだけどよお、パンチがねえんだよな」
社長の浜本は僕の原稿をチェックして感想を言う。
まあ、今でもそうかもしれないけど、確かに、その当時の僕は、味のない、綺麗でソツのない文章を書いていた。
それでは、浜本の文章はどうかというと、決してうまいわけではない。
むしろ、ライターとしては、下手な部類だ。
起承転結はなっていないし、言葉の使い方もおかしかったりする。誤変換も多い。文章もぎくしゃくしていて読みづらい。
けど、妙な凄みがあった。
過剰なまでのハッタリ。
なんだかよく分からないけど、圧倒されるのだ。
そして、メチャクチャな論旨なのに、無理やりねじ込もうとする。
「俺がこう書くんだから、こうなんだ!」
その文章は、彼の性格そのものだった。
雑誌でタイトルの周りに煽るようにして入れる文字を「キャッチ」と言う。彼の文章は、その全てがキャッチでできているようなものだった。
一つ一つの言葉に異様な力があった。
そんな彼の言葉のセンスは、バッキー作品のタイトルや、パッケージのキャッチなどにも現れている。
その企画はもちろんのこと、そのタイトルやキャッチなど、大方が、浜本の考案によるものだ。
『問答無用! 強制子宮破壊』『大惨事うんこ大戦』『露出バカ一代』『熟華麗』といったタイトル。
「女監禁するのに縄紐いらぬ、男100人いればよい」
といったキャッチ。
彼はキックボクサーでもあったが、そのファイトも、一撃一撃に渾身の力を込めるタイプだったのではないかと思われる。
ホームレスからのし上がるため、他のライターが持ち得ない、異様な力を言葉に押し込めていた。
生き残るために必死だったのだ。
大学上がりで特に苦労もしていない僕の、気取らず、あっさりとした文章とは、真逆だった。
会社にパソコンを持ち込みしばらくして、バッキー監督の中山(仮名)こと、パンティー仮面からビデオ素材が届いた。
「露出もの撮ったんで、猫さん、編集してください」
その素材を見た僕は、仰天する。
バッキーというと、『問答無用 強制子宮破壊』などのレイプものが有名だが、露出モノもマニアに定評があった。
他のメーカーが絶対にやらないような、危険な撮影を繰り返していたのである。
マックで露出撮影して捕まった事件があったが、あんなものじゃなかった。
全裸で人通りの激しい道路・商店街などを歩く。
全裸でコンビニに入って買い物する。
いわゆる駅弁スタイルという格好で全裸のパンティー仮面と女優が絡みながら道路を歩く。
周囲の通行人たちは、もちろん、ビックリしている。
「よく捕まらなかったですね」
「いやあ、捕まらないように、見張り立てていますからね。撮るのも命がけですよ」
パンティー仮面は誇らしげに言う。
ほとんど度胸試しだ。
映像を見ながら、半ば呆れてしまった。
後々分かったことだけど、2003年、浜本は、渋谷で露出撮影をしていたとき、逮捕される。渋谷のセンター街で、女優にフェラチオさせていたところ、人垣ができて通報されてしまったのだ。
渋谷のセンター街でフェラチオなど、常人のやることじゃない。
以来、浜本は、執行猶予の身となり、二度目は確実に懲役になるので、危険な撮影の監督から身を引くことにしたのだという。
一介の男優に過ぎなかったパンティー仮面が、浜本によって、監督の地位になったのも、そんな事情があったのだ。
僕はライターの仕事の合間を縫って、映像編集をした。
バッキー制作陣が逮捕される2004年12月ぐらいまで、だいたい月に1本、主に、この『露出バカ一代』シリーズを編集していた。
それは、まあまあの小遣いになった。
テープ素材を切って繋いで、モザイクがけをする。
しめて十五万円の仕事だ。
モザイクはけっこう手間隙がかかるから、時給に換算したら、1500円ぐらいだろうか。
けど、息抜きとして作業する分には、悪くない。
頭のネジが飛んでいるような朗らかな女優とか見ていると、楽しくなってくる。
僕自身も、自主映画でよくゲリラ撮影しているので、共感できる部分もあった。米軍基地の隣で、日本刀を振り回す撮影をしたこともある。
まあ、明らかな公然わいせつ罪であり、世間の人たちからしたら、「とんでもない!」ビデオだったけど、後に紹介する「強制子宮破壊」だとか、「うんこ大戦」だとかに比べると、まだマシだったのだ。
「猫さん、今度撮影も手伝ってくださいよ」
初めて露出素材を持ってきたときだろうか、パンティー仮面はお願いしてきた。
「危険な撮影じゃないならやりますよ」
「危険じゃないですよ。もうプロダクションとも話つけてるし。問題ありません」
そのとき、パンティー仮面はそう言った。
それで、ろくに撮影内容も聞かないまま、安受け合いしてしまった。
その当時は、バッキーにとっての「問題ない」というのが、どういう意味なのか全く理解していなかった。
それは、僕にとって地獄の撮影だった。
一斉逮捕が起こったとき、僕も、ひどく逮捕に脅えることになったが、それはこの撮影に、不覚にもカメラマンとして参加してしまったせいだった。
また、その撮影に関しては書こうと思う。
abcDAYsが手がけている記事は、いかがわしい表紙の実話誌やエロ本、サブカル誌など、普段、僕が読まないような雑誌ばかりだった。
こんな世界もあるんだな、と単純に驚いたものだった。
僕は、浜本に与えられた原稿を書いていった。
「おまえの文章はスラスラ読めてまとまっているからいいんだけどよお、パンチがねえんだよな」
社長の浜本は僕の原稿をチェックして感想を言う。
まあ、今でもそうかもしれないけど、確かに、その当時の僕は、味のない、綺麗でソツのない文章を書いていた。
それでは、浜本の文章はどうかというと、決してうまいわけではない。
むしろ、ライターとしては、下手な部類だ。
起承転結はなっていないし、言葉の使い方もおかしかったりする。誤変換も多い。文章もぎくしゃくしていて読みづらい。
けど、妙な凄みがあった。
過剰なまでのハッタリ。
なんだかよく分からないけど、圧倒されるのだ。
そして、メチャクチャな論旨なのに、無理やりねじ込もうとする。
「俺がこう書くんだから、こうなんだ!」
その文章は、彼の性格そのものだった。
雑誌でタイトルの周りに煽るようにして入れる文字を「キャッチ」と言う。彼の文章は、その全てがキャッチでできているようなものだった。
一つ一つの言葉に異様な力があった。
そんな彼の言葉のセンスは、バッキー作品のタイトルや、パッケージのキャッチなどにも現れている。
その企画はもちろんのこと、そのタイトルやキャッチなど、大方が、浜本の考案によるものだ。
『問答無用! 強制子宮破壊』『大惨事うんこ大戦』『露出バカ一代』『熟華麗』といったタイトル。
「女監禁するのに縄紐いらぬ、男100人いればよい」
といったキャッチ。
彼はキックボクサーでもあったが、そのファイトも、一撃一撃に渾身の力を込めるタイプだったのではないかと思われる。
ホームレスからのし上がるため、他のライターが持ち得ない、異様な力を言葉に押し込めていた。
生き残るために必死だったのだ。
大学上がりで特に苦労もしていない僕の、気取らず、あっさりとした文章とは、真逆だった。
会社にパソコンを持ち込みしばらくして、バッキー監督の中山(仮名)こと、パンティー仮面からビデオ素材が届いた。
「露出もの撮ったんで、猫さん、編集してください」
その素材を見た僕は、仰天する。
バッキーというと、『問答無用 強制子宮破壊』などのレイプものが有名だが、露出モノもマニアに定評があった。
他のメーカーが絶対にやらないような、危険な撮影を繰り返していたのである。
マックで露出撮影して捕まった事件があったが、あんなものじゃなかった。
全裸で人通りの激しい道路・商店街などを歩く。
全裸でコンビニに入って買い物する。
いわゆる駅弁スタイルという格好で全裸のパンティー仮面と女優が絡みながら道路を歩く。
周囲の通行人たちは、もちろん、ビックリしている。
「よく捕まらなかったですね」
「いやあ、捕まらないように、見張り立てていますからね。撮るのも命がけですよ」
パンティー仮面は誇らしげに言う。
ほとんど度胸試しだ。
映像を見ながら、半ば呆れてしまった。
後々分かったことだけど、2003年、浜本は、渋谷で露出撮影をしていたとき、逮捕される。渋谷のセンター街で、女優にフェラチオさせていたところ、人垣ができて通報されてしまったのだ。
渋谷のセンター街でフェラチオなど、常人のやることじゃない。
以来、浜本は、執行猶予の身となり、二度目は確実に懲役になるので、危険な撮影の監督から身を引くことにしたのだという。
一介の男優に過ぎなかったパンティー仮面が、浜本によって、監督の地位になったのも、そんな事情があったのだ。
僕はライターの仕事の合間を縫って、映像編集をした。
バッキー制作陣が逮捕される2004年12月ぐらいまで、だいたい月に1本、主に、この『露出バカ一代』シリーズを編集していた。
それは、まあまあの小遣いになった。
テープ素材を切って繋いで、モザイクがけをする。
しめて十五万円の仕事だ。
モザイクはけっこう手間隙がかかるから、時給に換算したら、1500円ぐらいだろうか。
けど、息抜きとして作業する分には、悪くない。
頭のネジが飛んでいるような朗らかな女優とか見ていると、楽しくなってくる。
僕自身も、自主映画でよくゲリラ撮影しているので、共感できる部分もあった。米軍基地の隣で、日本刀を振り回す撮影をしたこともある。
まあ、明らかな公然わいせつ罪であり、世間の人たちからしたら、「とんでもない!」ビデオだったけど、後に紹介する「強制子宮破壊」だとか、「うんこ大戦」だとかに比べると、まだマシだったのだ。
「猫さん、今度撮影も手伝ってくださいよ」
初めて露出素材を持ってきたときだろうか、パンティー仮面はお願いしてきた。
「危険な撮影じゃないならやりますよ」
「危険じゃないですよ。もうプロダクションとも話つけてるし。問題ありません」
そのとき、パンティー仮面はそう言った。
それで、ろくに撮影内容も聞かないまま、安受け合いしてしまった。
その当時は、バッキーにとっての「問題ない」というのが、どういう意味なのか全く理解していなかった。
それは、僕にとって地獄の撮影だった。
一斉逮捕が起こったとき、僕も、ひどく逮捕に脅えることになったが、それはこの撮影に、不覚にもカメラマンとして参加してしまったせいだった。
また、その撮影に関しては書こうと思う。
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00:55
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2008年07月15日
バッキー事件手記5 鬼畜監督パンティー仮面
「パンティー仮面」と名乗っていたバッキーのメイン監督・中山(仮名)は、「鬼畜監督」と呼ばれることに誇りを持っていた。
中山は僕よりも3つぐらい年上、2004年当時は、31歳だったろうか。
もともと、彼は、ただの視聴者だった。
あの悪名高い「問答無用強制子宮破壊」の中には、「監禁友の会募集」というテロップが入っている。
それを見て、男優として応募したのが、バッキーに関わり始めたきっかけである。
「ただで女優とできるぞ!」
最初は、そんな程度の思いだったという。
バッキーは、制作費を浮かせるため、一般の視聴者から男優を募っていた。
それが、「監禁友の会」である。
女に飢えているモテナイ男たちが、集まってくるのだ。
そりゃ、メチャクチャやるに決まっている。
確か、中山は3作目ぐらいから、作品に参加した。そこで、何十人という鬼畜男優たちの中で、頭角を表した。
彼の武器は、一日に五回でも六回でも射精できるという精力。
骨の髄まで女を愛すことができるという、女好き。
エロのためなら寝る間も惜しんで頭を働かせる、あくなきエロへの探究心。
そして、九州で暴走族をやっていたというだけあり、暴力衝動と、度胸、リーダーシップも持ち合わせていた。
他の汁男優たちに比べると、頭一つ飛びぬけていたのだ。
彼を見ていると、「まさに、AVを撮るために生まれてきたような男だ」と思ったものだ。少なくとも、僕はたとえ「AV監督やれ」と言われても、彼ぐらい情熱を持って撮ることなんてできない(*僕も、別メーカーで何作か監督したことはあるが)。
バッキー監督の浜本は、そんな中山を重宝するようになる。
まずは、男優兼スタッフとして入れ、助監督、そして、ついには監督にしてしまったのである。
「今度から俺の代わりに撮れよ」
浜本はそう言って、中山に監督の座を譲ったそうだ。
浜本に認められた中山は大喜びしたという。
中山は浜本のことを「師匠」と呼び、絶対服従していた。
なにせ、ただの男優に過ぎない自分を監督の地位まで引き上げてくれたのだ。
中山は張り切って監督した。
浜本が誉めてくれるような作品を作るため、徹底的に女優を虐待する。
竹刀を持って女優を脅し、罵声を浴びせながら女優を足蹴りする。
「おまえら、行け!」
中山の掛け声で、汁男優たちが女優に襲い掛かる。
「生ぬるいものを作っちゃいけない」
というのが、バッキービデオの鉄則。
監督は「鬼」とならなければ務まらない。
しかし、中山は罪悪感を覚えなかったのだろうか?
おそらく、彼と会った人の大半は口にするかと思うが、普段の中山ほど、おとなしくて低姿勢な奴もいない。
気配りもできる。
女に対してはとにかく甘くて、えらぶったところが全くない。
そんな彼と、撮影時の彼のギャップは凄い。
何が、彼をそう変えさせるのだろうか?
「なんで、こんな酷いのが撮れるのか?」
そう尋ねたことがある。
そのとき、彼は、「バクシーシ山下」の名前を教えてくれた。
「俺、昔から、バクシーシさんの作品が好きでさ、あれは本当にリアルなんだよ。女犯とか衝撃を受けたね。バクシーシさんは文化人としての地位を築いている。俺もああいう監督になりたいんだ」
中山は、バッキービデオを携えて、バクシーシに挨拶に行くぐらいバクシーシを尊敬していた。
中山は、自分の行為が犯罪ではなく、「アート」だと思っていたのだ。
自分のアートのためならば、女優が傷つくのは致し方ない。
そんな考えだった。
「パンティー仮面って名前は、たくさんの女の屍を踏み台にして、この業界でのし上がってきた。今は、業界の鬼畜監督として有名だ。俺はこの道を選んだ! もう引き返せないんだよ!」
僕が中山と会ったのは、前回書いたように、2004年7月、すでに中山は10本近くの作品を監督していた。
もう彼は引き返したくても引き返せないところまで来ていた。
こうなったら、徹底的に「鬼畜道」を突き進むしかなかったのだ。
彼は、バッキー自身でもあった。
「鬼畜メーカー」のバッキーは、鬼畜で押し通すしか、業界で生き残る道はなかったのだ。
しかし、本当なら、いくらでも転換することは可能だった。
後々、中山は、バッキー会長・栗山龍と対立する。
そのあと、若本の仲介で「ソフト・オン・デマンド」で監督するが、最初に出会っていたのが、バッキーではなく、デマンドだったなら──と残念でならない。
彼は、最初の出だしの時点で間違ってしまった。
結局、せっかくデマンドでの監督の新たな地位を築きつつあったのに、バッキー時代に監督した作品が訴えられ、14年もの刑を受ける。
ただ、確かに、彼はそれだけのことはやっていた。
中山の狂気は、バッキー制作陣の中で群を抜いていたと思う。
それに関しては、またいずれ書こうと思う。
中山は僕よりも3つぐらい年上、2004年当時は、31歳だったろうか。
もともと、彼は、ただの視聴者だった。
あの悪名高い「問答無用強制子宮破壊」の中には、「監禁友の会募集」というテロップが入っている。
それを見て、男優として応募したのが、バッキーに関わり始めたきっかけである。
「ただで女優とできるぞ!」
最初は、そんな程度の思いだったという。
バッキーは、制作費を浮かせるため、一般の視聴者から男優を募っていた。
それが、「監禁友の会」である。
女に飢えているモテナイ男たちが、集まってくるのだ。
そりゃ、メチャクチャやるに決まっている。
確か、中山は3作目ぐらいから、作品に参加した。そこで、何十人という鬼畜男優たちの中で、頭角を表した。
彼の武器は、一日に五回でも六回でも射精できるという精力。
骨の髄まで女を愛すことができるという、女好き。
エロのためなら寝る間も惜しんで頭を働かせる、あくなきエロへの探究心。
そして、九州で暴走族をやっていたというだけあり、暴力衝動と、度胸、リーダーシップも持ち合わせていた。
他の汁男優たちに比べると、頭一つ飛びぬけていたのだ。
彼を見ていると、「まさに、AVを撮るために生まれてきたような男だ」と思ったものだ。少なくとも、僕はたとえ「AV監督やれ」と言われても、彼ぐらい情熱を持って撮ることなんてできない(*僕も、別メーカーで何作か監督したことはあるが)。
バッキー監督の浜本は、そんな中山を重宝するようになる。
まずは、男優兼スタッフとして入れ、助監督、そして、ついには監督にしてしまったのである。
「今度から俺の代わりに撮れよ」
浜本はそう言って、中山に監督の座を譲ったそうだ。
浜本に認められた中山は大喜びしたという。
中山は浜本のことを「師匠」と呼び、絶対服従していた。
なにせ、ただの男優に過ぎない自分を監督の地位まで引き上げてくれたのだ。
中山は張り切って監督した。
浜本が誉めてくれるような作品を作るため、徹底的に女優を虐待する。
竹刀を持って女優を脅し、罵声を浴びせながら女優を足蹴りする。
「おまえら、行け!」
中山の掛け声で、汁男優たちが女優に襲い掛かる。
「生ぬるいものを作っちゃいけない」
というのが、バッキービデオの鉄則。
監督は「鬼」とならなければ務まらない。
しかし、中山は罪悪感を覚えなかったのだろうか?
おそらく、彼と会った人の大半は口にするかと思うが、普段の中山ほど、おとなしくて低姿勢な奴もいない。
気配りもできる。
女に対してはとにかく甘くて、えらぶったところが全くない。
そんな彼と、撮影時の彼のギャップは凄い。
何が、彼をそう変えさせるのだろうか?
「なんで、こんな酷いのが撮れるのか?」
そう尋ねたことがある。
そのとき、彼は、「バクシーシ山下」の名前を教えてくれた。
「俺、昔から、バクシーシさんの作品が好きでさ、あれは本当にリアルなんだよ。女犯とか衝撃を受けたね。バクシーシさんは文化人としての地位を築いている。俺もああいう監督になりたいんだ」
中山は、バッキービデオを携えて、バクシーシに挨拶に行くぐらいバクシーシを尊敬していた。
中山は、自分の行為が犯罪ではなく、「アート」だと思っていたのだ。
自分のアートのためならば、女優が傷つくのは致し方ない。
そんな考えだった。
「パンティー仮面って名前は、たくさんの女の屍を踏み台にして、この業界でのし上がってきた。今は、業界の鬼畜監督として有名だ。俺はこの道を選んだ! もう引き返せないんだよ!」
僕が中山と会ったのは、前回書いたように、2004年7月、すでに中山は10本近くの作品を監督していた。
もう彼は引き返したくても引き返せないところまで来ていた。
こうなったら、徹底的に「鬼畜道」を突き進むしかなかったのだ。
彼は、バッキー自身でもあった。
「鬼畜メーカー」のバッキーは、鬼畜で押し通すしか、業界で生き残る道はなかったのだ。
しかし、本当なら、いくらでも転換することは可能だった。
後々、中山は、バッキー会長・栗山龍と対立する。
そのあと、若本の仲介で「ソフト・オン・デマンド」で監督するが、最初に出会っていたのが、バッキーではなく、デマンドだったなら──と残念でならない。
彼は、最初の出だしの時点で間違ってしまった。
結局、せっかくデマンドでの監督の新たな地位を築きつつあったのに、バッキー時代に監督した作品が訴えられ、14年もの刑を受ける。
ただ、確かに、彼はそれだけのことはやっていた。
中山の狂気は、バッキー制作陣の中で群を抜いていたと思う。
それに関しては、またいずれ書こうと思う。
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01:37
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2008年07月13日
バッキー事件手記4 abcDAYs
バッキー事件が世間で騒がれたせいで、最終的には、解散まで追い込まれた編集プロダクション「abcDAYs」。
abcDAYSの社長は、バッキーの役員も務めていた浜本大洋だった。
しかし、この編プロのメンバーの大半は、バッキーとは何の関係もなく、ただ雑誌の編集業務をしていた人たちだった。
だから、事件で騒がれたときは、関係のないメンバーたちは、全くもって迷惑極まりなかったことだろう。
僕が、この編集プロダクションに応募したときは、もちろん、abcDAYsとバッキーの関係など知る由もない。
そもそも、バッキーなどというメーカーなど聞いたことがなかった。
その当時、一部のマニア以外、バッキーなんて名前は誰も知らなかったのだ。
2007年7月、abcDAYsに応募すると、「渋谷の事務所に来てくれる?」と社長の浜本に言われる。
事務所は、渋谷にあるマンションの一室だった。
本当にごく普通のマンションで、8畳ぐらいの部屋の中に、5つの机が並べられていた。
浜本はその一室で布団を広げて寝ていた。
僕が事務所に入ると、「おお、君が新人か」と言って布団から起き上がり、「じゃあ、飲みに行くか」と言って外に出た。
「色々と事業が忙しくてよお、俺は、細かい原稿なんていちいち書いてられねえんだわ。猫くんは文学賞取ってるの? へー、凄いね。じゃあ、原稿はバッチリだね。早速だけどよお、ひとつ、対談の連載を取ったんだけど、それやって欲しいんだな。毎回、有名人捕まえて、会長と対談させて欲しいんだわ。まあ、それは後でまた説明するわ。とりあえず飲もうや」
ずいぶんと横柄な人だなと思ったが、その当時、浜本が自分よりも五歳ぐらい年上だと思っていた僕は、そんな彼の態度にも特に違和感を覚えなかった。
それよりも、会っていきなり対談の原稿の担当となったことに、戸惑いと嬉しさを覚えた。
一応、文学賞を取ったなとどは言っても、それまで、僕は一度もギャラをもらって原稿を書いたことなどなかったのだ。
ちなみに、その対談というのが、「100億の男の成功者対談」だった。
毎回、バッキー会長・栗山龍をホストにして、その対談相手を選び、成功の道のりを語っていただくというもの。
僕は計8回ぐらい、その連載を担当する。
abcDAYsの仕事の中で一番印象に残っているものだ。
その連載に関しては後日詳しく記そうと思う。
浜本は酒に弱いようで、すぐに酔っ払ってきた。
「へー、猫くんは、自主映画撮ってるんだ。ひょっとして、映像編集とかもできる? 俺、実は、AV会社もやってるんだけど、その編集マンを探していてさ。編集できるんだったら、そっちも頼もうかな」
そう、それがバッキーだった。
「AVですか。おもしろそうですね。けど、モザイクとかもかけるんですか? その辺りやったことないから、よく分からないですが」
と、酒に酔い始めていた僕も、上機嫌にそう答えた。
「興味あるなら、俺の下で監督してる奴、今から呼ぶわ」
浜本は電話をかける。
なぜか、ライターになるはずだったのに、AVの編集など頼まれてしまった。
ヘンな会社だな、と思ったが、それもまあ楽しそうだった。
しばらくしてやってきたのが、パンティー仮面と呼ばれているAV監督だった。
バッキーのメイン監督として、何十本も狂気じみた作品を撮り、懲役16年の刑を受けて服役している。
おそらく、彼が一番バッキーの狂気を備えていた人だったろう。
初めて会ったパンティー仮面は、とにかく腰の低い人だった。
「へー、自主映画を撮られているんですね。僕は、撮影に関してはとにかく素人だから、全然猫さんみたいに知識もないですが。本当に何も分からないで撮ってるんですよ。ただ、他の監督が、指一本しか入れられないところでも、僕は、拳を入れてみせる。それだけの覚悟があるんです」
パンティー仮面は、拳を僕の目の前に示して言った。
拳を入れる? どこに入れるんだ? 何かの比喩なのかな?
そのとき、僕は彼の言っていることはよく分からなかった。
ただ、AVっていうと、男と女が絡んでいるのを撮っていればいいんだろう、という程度に考えていたが、それに情熱をかけている監督もいるんだな、と漠然と思った。
「おまえはいつもやりすぎなんだよお。いつかパクられるぞ」
浜本はパンティー仮面を小突いて言った。
何かの冗談だと思い、僕は笑った。いくらなんでもAV撮影で逮捕されるなんてこともないだろう。
「編集やっていただけるなら、本当にありがたいです。モザイクのやり方とか、他の編集スタジオに聞いておきますよ」
パンティー仮面は最後まで低姿勢だった。
それは今に至るまで変わることがない。ただし、それはあくまでも、僕に対して、だ
。
彼の狂気じみた行為は、今まで何度となく目撃している。
僕はそれを止めることができなかったし、浜本や栗山にしても、それは同様だった。
彼の狂気は、最初のうち「浜本や栗山に認めてもらいたい」という思いから発していたはずだけど、いつしか、本物の狂気となっていた。
こうして、ライターとしてabcDAYsに応募したはずだったのに、なぜか、応募初日にして、バッキーと関わることになってしまったのである。
abcDAYSの社長は、バッキーの役員も務めていた浜本大洋だった。
しかし、この編プロのメンバーの大半は、バッキーとは何の関係もなく、ただ雑誌の編集業務をしていた人たちだった。
だから、事件で騒がれたときは、関係のないメンバーたちは、全くもって迷惑極まりなかったことだろう。
僕が、この編集プロダクションに応募したときは、もちろん、abcDAYsとバッキーの関係など知る由もない。
そもそも、バッキーなどというメーカーなど聞いたことがなかった。
その当時、一部のマニア以外、バッキーなんて名前は誰も知らなかったのだ。
2007年7月、abcDAYsに応募すると、「渋谷の事務所に来てくれる?」と社長の浜本に言われる。
事務所は、渋谷にあるマンションの一室だった。
本当にごく普通のマンションで、8畳ぐらいの部屋の中に、5つの机が並べられていた。
浜本はその一室で布団を広げて寝ていた。
僕が事務所に入ると、「おお、君が新人か」と言って布団から起き上がり、「じゃあ、飲みに行くか」と言って外に出た。
「色々と事業が忙しくてよお、俺は、細かい原稿なんていちいち書いてられねえんだわ。猫くんは文学賞取ってるの? へー、凄いね。じゃあ、原稿はバッチリだね。早速だけどよお、ひとつ、対談の連載を取ったんだけど、それやって欲しいんだな。毎回、有名人捕まえて、会長と対談させて欲しいんだわ。まあ、それは後でまた説明するわ。とりあえず飲もうや」
ずいぶんと横柄な人だなと思ったが、その当時、浜本が自分よりも五歳ぐらい年上だと思っていた僕は、そんな彼の態度にも特に違和感を覚えなかった。
それよりも、会っていきなり対談の原稿の担当となったことに、戸惑いと嬉しさを覚えた。
一応、文学賞を取ったなとどは言っても、それまで、僕は一度もギャラをもらって原稿を書いたことなどなかったのだ。
ちなみに、その対談というのが、「100億の男の成功者対談」だった。
毎回、バッキー会長・栗山龍をホストにして、その対談相手を選び、成功の道のりを語っていただくというもの。
僕は計8回ぐらい、その連載を担当する。
abcDAYsの仕事の中で一番印象に残っているものだ。
その連載に関しては後日詳しく記そうと思う。
浜本は酒に弱いようで、すぐに酔っ払ってきた。
「へー、猫くんは、自主映画撮ってるんだ。ひょっとして、映像編集とかもできる? 俺、実は、AV会社もやってるんだけど、その編集マンを探していてさ。編集できるんだったら、そっちも頼もうかな」
そう、それがバッキーだった。
「AVですか。おもしろそうですね。けど、モザイクとかもかけるんですか? その辺りやったことないから、よく分からないですが」
と、酒に酔い始めていた僕も、上機嫌にそう答えた。
「興味あるなら、俺の下で監督してる奴、今から呼ぶわ」
浜本は電話をかける。
なぜか、ライターになるはずだったのに、AVの編集など頼まれてしまった。
ヘンな会社だな、と思ったが、それもまあ楽しそうだった。
しばらくしてやってきたのが、パンティー仮面と呼ばれているAV監督だった。
バッキーのメイン監督として、何十本も狂気じみた作品を撮り、懲役16年の刑を受けて服役している。
おそらく、彼が一番バッキーの狂気を備えていた人だったろう。
初めて会ったパンティー仮面は、とにかく腰の低い人だった。
「へー、自主映画を撮られているんですね。僕は、撮影に関してはとにかく素人だから、全然猫さんみたいに知識もないですが。本当に何も分からないで撮ってるんですよ。ただ、他の監督が、指一本しか入れられないところでも、僕は、拳を入れてみせる。それだけの覚悟があるんです」
パンティー仮面は、拳を僕の目の前に示して言った。
拳を入れる? どこに入れるんだ? 何かの比喩なのかな?
そのとき、僕は彼の言っていることはよく分からなかった。
ただ、AVっていうと、男と女が絡んでいるのを撮っていればいいんだろう、という程度に考えていたが、それに情熱をかけている監督もいるんだな、と漠然と思った。
「おまえはいつもやりすぎなんだよお。いつかパクられるぞ」
浜本はパンティー仮面を小突いて言った。
何かの冗談だと思い、僕は笑った。いくらなんでもAV撮影で逮捕されるなんてこともないだろう。
「編集やっていただけるなら、本当にありがたいです。モザイクのやり方とか、他の編集スタジオに聞いておきますよ」
パンティー仮面は最後まで低姿勢だった。
それは今に至るまで変わることがない。ただし、それはあくまでも、僕に対して、だ
。
彼の狂気じみた行為は、今まで何度となく目撃している。
僕はそれを止めることができなかったし、浜本や栗山にしても、それは同様だった。
彼の狂気は、最初のうち「浜本や栗山に認めてもらいたい」という思いから発していたはずだけど、いつしか、本物の狂気となっていた。
こうして、ライターとしてabcDAYsに応募したはずだったのに、なぜか、応募初日にして、バッキーと関わることになってしまったのである。
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04:10
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2008年07月11日
栗山の控訴棄却
お久しぶりです。猫屋です。
ここ数日、仕事が忙しくて、なかなか書き込む時間がありませんでした。
今日は、浜本(仮名)の話ではなく、ちょうど栗山の控訴棄却が下されたので、それを記しておきます。
産経新聞に掲載されていました。
*******
アダルトビデオ(AV)の撮影現場で、女優に集団で暴行し重軽傷を負わせたとして、強姦致傷などの罪に問われたAV制作会社元社長、栗山龍被告(44)の控訴審判決公判が10日、東京高裁で開かれた。門野博裁判長は、懲役18年とした1審東京地裁判決を支持し、栗山被告の控訴を棄却した。
栗山被告は撮影現場には行っておらず、「どのような撮影をしているのか知らなかった」として、無罪を主張していた。
門野裁判長は、栗山被告が制作会社社長として、監督らから企画案の報告などを受けており、「女優が真に苦しみ、もだえる場面を撮影する」というビデオのコンセプトを理解したうえで撮影させたと指摘。
その上で「女優の承諾を欠いたまま、多人数が無理やり乱暴する場合があることを容認していた」と述べ、監督らとの共謀を認定した。
判決によると、栗山被告は平成15年12月〜16年9月、4人の女優をだまして撮影に参加させ、集団で乱暴するなどして重軽傷を負わせた。
1審判決は、栗山被告がAV作品の内容を決定し、「女優が真に苦悶(くもん)する場面を撮影するように、監督を叱咤(しった)していた」と指摘、事件の首謀者と認めていた。
*********
一審の有罪、二審の控訴棄却の決め手となったのは、内勤の西山さん、栗山の愛人の証言ですね。
制作の浜本やパンティー仮面、矢野がいくら証言したところで、「栗山に恨みを持っているから嘘の証言をしているのでは?」と思われる可能性があった。
彼らは、言わば「栗山に罪を押し付けられ、切り捨てられた」人たちです。
けど、内勤の西山さんと、栗山の愛人に関しては、栗山と友好関係を保っていた。2人とも、特に逮捕の危険もなかった。
そういった人たちが、客観的な証言をしたことで、栗山有罪の可能性が一気に高まりました。
ちなみに、僕の証言はというと、「浜本がこう言っていた。パンティー仮面はこう言っていた。だから、栗山は有罪だと思う」という程度でした。
ちょっと、弱かったのです。
西山さんとは一度「abcDAYs」のときにお会いしたことがありますが、人の良さそうな好青年という印象でした。
映像編集を納品する際も、電話で丁寧な指示を出してくださりました。
なぜ、彼がバッキーに関わっていたのか、いまだによく分かりません。おそらく、たまたま人との巡り合せで、会社に入ってしまったのでしょう。
根はすごく「真っ当な人」ですから、今回、罪悪感を覚え、警察に全面協力したのではないでしょうか。
まあ、池袋のマル暴の巧みな聞き出しもあったのかもしれないですが。
今後は日の当たる道で成功していただきたいです。
ここ数日、仕事が忙しくて、なかなか書き込む時間がありませんでした。
今日は、浜本(仮名)の話ではなく、ちょうど栗山の控訴棄却が下されたので、それを記しておきます。
産経新聞に掲載されていました。
*******
アダルトビデオ(AV)の撮影現場で、女優に集団で暴行し重軽傷を負わせたとして、強姦致傷などの罪に問われたAV制作会社元社長、栗山龍被告(44)の控訴審判決公判が10日、東京高裁で開かれた。門野博裁判長は、懲役18年とした1審東京地裁判決を支持し、栗山被告の控訴を棄却した。
栗山被告は撮影現場には行っておらず、「どのような撮影をしているのか知らなかった」として、無罪を主張していた。
門野裁判長は、栗山被告が制作会社社長として、監督らから企画案の報告などを受けており、「女優が真に苦しみ、もだえる場面を撮影する」というビデオのコンセプトを理解したうえで撮影させたと指摘。
その上で「女優の承諾を欠いたまま、多人数が無理やり乱暴する場合があることを容認していた」と述べ、監督らとの共謀を認定した。
判決によると、栗山被告は平成15年12月〜16年9月、4人の女優をだまして撮影に参加させ、集団で乱暴するなどして重軽傷を負わせた。
1審判決は、栗山被告がAV作品の内容を決定し、「女優が真に苦悶(くもん)する場面を撮影するように、監督を叱咤(しった)していた」と指摘、事件の首謀者と認めていた。
*********
一審の有罪、二審の控訴棄却の決め手となったのは、内勤の西山さん、栗山の愛人の証言ですね。
制作の浜本やパンティー仮面、矢野がいくら証言したところで、「栗山に恨みを持っているから嘘の証言をしているのでは?」と思われる可能性があった。
彼らは、言わば「栗山に罪を押し付けられ、切り捨てられた」人たちです。
けど、内勤の西山さんと、栗山の愛人に関しては、栗山と友好関係を保っていた。2人とも、特に逮捕の危険もなかった。
そういった人たちが、客観的な証言をしたことで、栗山有罪の可能性が一気に高まりました。
ちなみに、僕の証言はというと、「浜本がこう言っていた。パンティー仮面はこう言っていた。だから、栗山は有罪だと思う」という程度でした。
ちょっと、弱かったのです。
西山さんとは一度「abcDAYs」のときにお会いしたことがありますが、人の良さそうな好青年という印象でした。
映像編集を納品する際も、電話で丁寧な指示を出してくださりました。
なぜ、彼がバッキーに関わっていたのか、いまだによく分かりません。おそらく、たまたま人との巡り合せで、会社に入ってしまったのでしょう。
根はすごく「真っ当な人」ですから、今回、罪悪感を覚え、警察に全面協力したのではないでしょうか。
まあ、池袋のマル暴の巧みな聞き出しもあったのかもしれないですが。
今後は日の当たる道で成功していただきたいです。
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14:22
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2008年06月10日
バッキー事件手記3 浜本大洋のこと
今でもそうだけど、僕は自信家だと思う。
たいていのことはうまくいく、と根拠のない自信に満ち溢れている。
失敗しても、次はうまくいくだろう、と考える。すごい楽天家でもある。
けど、その男と出会ったとき、僕は自分の小ささを思い知った。
いかに、自分がぬるま湯の、小さな世界で生きているか分かった。
僕は、ただの大学出の苦労知らずのボンボンだった。仲間内で集まって、リアリティーのない自主映画を撮っているだけの男だった。
浜本大洋。
栗山龍と並ぶ、バッキー事件の主犯格で、現在、16年の刑を受けて服役している。
彼を慕って付いていく者は多かったけれども、彼を嫌い、敬遠する者も同じぐらい多かった。
断片的にしかその人生は分からないけれど、僕が話を聞いた限りでは、彼は、幼い頃からお寺に預けられ、寺の坊主として育ったようだ。10代後半で、プロの格闘家を目指して上京。何の当てもなく、ホームレスとしての日々を送る。
そんな男が、なぜか上京1年で、ライターになり、数年後には、編集プロダクションの社長になる。
彼はその頃から、自分を大きく見せるために、年齢を5歳ぐらい上に詐称していたようだ。そして、どんなに年上と話したとしても、その大きな声と、強引な論理で、話の主導権を握った。たいていの人は、浜本に呑み込まれてしまう。
だから、雑誌の企画会議などをすると、浜本の企画は必ず通るのだ。
けど、それは浜本の強引さだけではなく、その企画にも魅力があった。というか、ありえない企画ばかりだった。
「新興宗教の団体に潜入取材します」「ホームレスに風俗嬢を抱かせましょう」「中国マフィアと接触します」
彼は怖いもの知らずだった。
バッキーの気狂いじみた企画も、ほぼ全て浜本が出したものだ。恐るべき、アイデアの宝庫だった。そして、それを実行してしまうのだ。
本来なら、まだ大学に通っているような年だというのに、彼は、死に物狂いで生きていた。
絶対に成功してやる!
そんな強い思いがあった。
「何をこんなに生き急いでいるのだろう?」
彼を見ていると、そう思わずにはいられない。
成功するためならば、1日20時間ぐらい働くことは苦にしない男だった。
彼は20代半ばの頃には、多くの成功者たちと交友を深め、幾つかの会社の役員を兼任していた。
出版社や芸能プロダクションなど、表のきれいな世界もあれば、いかがわしい裏の世界とも深く繋がるようになっていた。
彼に誘われていくと、そこは広域暴力団の事務所だったことがある。僕は縮こまってしまうが、彼は、その暴力団員たちと仲良く話す。
「忘年会にも誘われちゃったよ」と言って、イベントにも平気で顔を出す。彼と親交のある暴力団の団体は幾つもあった。
また、合法ドラッグや、裏ビデオの商売にも手を染めたりしていた。大量にドラッグを購入し、それをネットや路上で売りさばいていたのだ。
彼は、浮浪者のような男を拾っては、事務所に泊めさせた。全く差別しなかった。
「新しいメンバーが入ったぞ」
と紹介された男を見てみると、どう見ても、浮浪者だ。実際、字も読めなければ、ろくに喋れない。
浮浪者に何をさせる気なのか?
彼自身もホームレス生活を送ってきたので、そういう人たちに対して愛着があったのかもしれない。
けれども、残念なことに、浮浪者の多くは、浜本のように向上心がなかった。
2004年の7月の半ばだったろうか。
僕は、ABCDAYSの募集に応募し、初めて渋谷の事務所で浜本と会った。
そして完全に呑み込まれてしまった。
そのとき、太刀打ちできる人間ではない、と感覚的に分かった。
たいていのことはうまくいく、と根拠のない自信に満ち溢れている。
失敗しても、次はうまくいくだろう、と考える。すごい楽天家でもある。
けど、その男と出会ったとき、僕は自分の小ささを思い知った。
いかに、自分がぬるま湯の、小さな世界で生きているか分かった。
僕は、ただの大学出の苦労知らずのボンボンだった。仲間内で集まって、リアリティーのない自主映画を撮っているだけの男だった。
浜本大洋。
栗山龍と並ぶ、バッキー事件の主犯格で、現在、16年の刑を受けて服役している。
彼を慕って付いていく者は多かったけれども、彼を嫌い、敬遠する者も同じぐらい多かった。
断片的にしかその人生は分からないけれど、僕が話を聞いた限りでは、彼は、幼い頃からお寺に預けられ、寺の坊主として育ったようだ。10代後半で、プロの格闘家を目指して上京。何の当てもなく、ホームレスとしての日々を送る。
そんな男が、なぜか上京1年で、ライターになり、数年後には、編集プロダクションの社長になる。
彼はその頃から、自分を大きく見せるために、年齢を5歳ぐらい上に詐称していたようだ。そして、どんなに年上と話したとしても、その大きな声と、強引な論理で、話の主導権を握った。たいていの人は、浜本に呑み込まれてしまう。
だから、雑誌の企画会議などをすると、浜本の企画は必ず通るのだ。
けど、それは浜本の強引さだけではなく、その企画にも魅力があった。というか、ありえない企画ばかりだった。
「新興宗教の団体に潜入取材します」「ホームレスに風俗嬢を抱かせましょう」「中国マフィアと接触します」
彼は怖いもの知らずだった。
バッキーの気狂いじみた企画も、ほぼ全て浜本が出したものだ。恐るべき、アイデアの宝庫だった。そして、それを実行してしまうのだ。
本来なら、まだ大学に通っているような年だというのに、彼は、死に物狂いで生きていた。
絶対に成功してやる!
そんな強い思いがあった。
「何をこんなに生き急いでいるのだろう?」
彼を見ていると、そう思わずにはいられない。
成功するためならば、1日20時間ぐらい働くことは苦にしない男だった。
彼は20代半ばの頃には、多くの成功者たちと交友を深め、幾つかの会社の役員を兼任していた。
出版社や芸能プロダクションなど、表のきれいな世界もあれば、いかがわしい裏の世界とも深く繋がるようになっていた。
彼に誘われていくと、そこは広域暴力団の事務所だったことがある。僕は縮こまってしまうが、彼は、その暴力団員たちと仲良く話す。
「忘年会にも誘われちゃったよ」と言って、イベントにも平気で顔を出す。彼と親交のある暴力団の団体は幾つもあった。
また、合法ドラッグや、裏ビデオの商売にも手を染めたりしていた。大量にドラッグを購入し、それをネットや路上で売りさばいていたのだ。
彼は、浮浪者のような男を拾っては、事務所に泊めさせた。全く差別しなかった。
「新しいメンバーが入ったぞ」
と紹介された男を見てみると、どう見ても、浮浪者だ。実際、字も読めなければ、ろくに喋れない。
浮浪者に何をさせる気なのか?
彼自身もホームレス生活を送ってきたので、そういう人たちに対して愛着があったのかもしれない。
けれども、残念なことに、浮浪者の多くは、浜本のように向上心がなかった。
2004年の7月の半ばだったろうか。
僕は、ABCDAYSの募集に応募し、初めて渋谷の事務所で浜本と会った。
そして完全に呑み込まれてしまった。
そのとき、太刀打ちできる人間ではない、と感覚的に分かった。
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03:32
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2008年06月08日
バッキー事件手記2 そもそもの始まり
「なんで、あんな事件と関わったの?」
バッキー事件が公けになったとき、僕の友人たちは、みんな疑問を口にした。なかなか事情を説明するのは難しい。
その半年ぐらい前まで、僕は自主映画を撮っている、ただのフリーターだった。いや、事件が起こった2004年12月の当時でさえ、僕の友人たちは、そう思っていた。
疑問に思うのは当然だ。
今日は、事件に関わるようになった契機を、その少し前から話そうと思う。
2001年3月、僕は、W大学の文学部を2年留年して卒業し、一部上場のIT系の企業に就職した。
ちょうどIT革命などと言われていた頃で、僕のような駄目な文系学生でも、名のある大学を卒業していれば、簡単にIT系企業に就職できた。
とりあえず、卒業したら働いておいたほうがいいのかな。
そんなバイト感覚での就職だった。
大学時代は、ほとんど授業には出席せず、ひたすら趣味に没頭していた。社会人になっても、そんな生活は変わらない。
会社の有給を使っては、小説を書いたり、自主映画を撮ったりしていた。有給がなくなると、普通に休んだ。
その当時から、サングラスのような眼鏡をかけて出勤していた。
「ありえない」社会人だったと思う。
新人研修のときは、なぜか新入社員の仲間たちで劇団を作り、僕が脚本を書き、劇を披露して喝采を浴びた。
ただ、研修が終わって、仕事が始まると、数ヶ月で退屈になった。
最初は、パソコンユーザーのヘルプから始まり、ネットワーク系の仕事、開発の仕事、営業など、一通りやった。
別に良くも悪くもない社員だったと思う。査定も普通だった。
仕事している振りをしながら、いつも新しい小説や映画の構想を練っていた。
このままずっと会社員をしているつもりはなく、いずれ一人立ちできる実力が付いたら、小説の世界で食っていこう。
いつもそう思っていた。
1998年、大学4年生のとき。
文学賞を受賞して、大学内ではそれなりに注目を浴びたことがある。
ただ、それは、地方の自治体が主催している小さな文学賞で、それで即、作家デビューできるほどでもなかった。その文学賞の応募総数も170程度と少なかった(純文学系の大きなところだと、1000以上の応募がある)。
小説家としての実力はまだまだだった。
2000年ごろから、小説と平行して、映画にも興味を持ち、自主映画も撮り始めた。
それなりにうまく撮れて、幾つか映画祭にも入選したけれど、小説と同様、自分には足りないものがあった。
それは経験だ。
自主映画では、SFやファンタジーっぽいものを撮っていたけれど、それは上辺だけをなぞったような、薄っぺらいもの。
人間や人生が描けていなかった。
発想と、ストーリー作りだけで書いていた。
今の仕事を、ストーリーに生かせないだろうか?
そう考えてみた。
けれども、システム会社の仕事はとにかく地味だ。幾つかストーリーも作ったけれど、それが世間の興味を惹くかどうか分からない。僕が書きたいストーリーでもないように思えた。
このまま続けていても、クリエーターとしては何も得るものがないだろう。
そう思って、2年半勤めたあと、会社を退社した。
たいして貯金もしていなかったので、すぐにお金に困窮するようになる。それでも、何十万円というお金をかけて、自主映画を撮り続けた。
その当時、撮っていたのは、「霧娘」という、2人の女の子の殺し屋の話だった。役者や制作者など全ての関係者を合わせると、30人以上が関わる、自主映画としては大きな規模だった。
しかし、このままだと、この映画の制作資金も足りない。
そんなとき、たまたま、知り合いから「渋谷にある編集プロダクションが、ライターを募集しているよ」という話を聞く。
文章を書くのは好きだから、ライターぐらいならできるのではないだろうか。そう思って、応募してみた。
2004年7月のことだ。
それが、あの浜本大洋(仮名)が社長の編集プロダクション「ABCDAYS」だった。
このバッキー事件に興味を持っている人であれば、ABCDAYSの名前は聞いたことがあるのではないかと思う。
そして、浜本大洋の名前も。
浜本は、栗山龍以上に、僕に影響を与えた人物だ。
年は、僕よりも3つぐらい年下だったけれども、その当時、僕は、浜本が自分よりも5つぐらい年上で、33歳ぐらいだと思っていた。
とても25歳には見えない。
どうやって生きてきたら、あんな25歳になるのだろうか?
浜本は全てが桁外れだった。やることなすこと、その発想も、普通じゃなかった。
次回は、彼との出会いを中心に書いていこうと思う。
バッキー事件が公けになったとき、僕の友人たちは、みんな疑問を口にした。なかなか事情を説明するのは難しい。
その半年ぐらい前まで、僕は自主映画を撮っている、ただのフリーターだった。いや、事件が起こった2004年12月の当時でさえ、僕の友人たちは、そう思っていた。
疑問に思うのは当然だ。
今日は、事件に関わるようになった契機を、その少し前から話そうと思う。
2001年3月、僕は、W大学の文学部を2年留年して卒業し、一部上場のIT系の企業に就職した。
ちょうどIT革命などと言われていた頃で、僕のような駄目な文系学生でも、名のある大学を卒業していれば、簡単にIT系企業に就職できた。
とりあえず、卒業したら働いておいたほうがいいのかな。
そんなバイト感覚での就職だった。
大学時代は、ほとんど授業には出席せず、ひたすら趣味に没頭していた。社会人になっても、そんな生活は変わらない。
会社の有給を使っては、小説を書いたり、自主映画を撮ったりしていた。有給がなくなると、普通に休んだ。
その当時から、サングラスのような眼鏡をかけて出勤していた。
「ありえない」社会人だったと思う。
新人研修のときは、なぜか新入社員の仲間たちで劇団を作り、僕が脚本を書き、劇を披露して喝采を浴びた。
ただ、研修が終わって、仕事が始まると、数ヶ月で退屈になった。
最初は、パソコンユーザーのヘルプから始まり、ネットワーク系の仕事、開発の仕事、営業など、一通りやった。
別に良くも悪くもない社員だったと思う。査定も普通だった。
仕事している振りをしながら、いつも新しい小説や映画の構想を練っていた。
このままずっと会社員をしているつもりはなく、いずれ一人立ちできる実力が付いたら、小説の世界で食っていこう。
いつもそう思っていた。
1998年、大学4年生のとき。
文学賞を受賞して、大学内ではそれなりに注目を浴びたことがある。
ただ、それは、地方の自治体が主催している小さな文学賞で、それで即、作家デビューできるほどでもなかった。その文学賞の応募総数も170程度と少なかった(純文学系の大きなところだと、1000以上の応募がある)。
小説家としての実力はまだまだだった。
2000年ごろから、小説と平行して、映画にも興味を持ち、自主映画も撮り始めた。
それなりにうまく撮れて、幾つか映画祭にも入選したけれど、小説と同様、自分には足りないものがあった。
それは経験だ。
自主映画では、SFやファンタジーっぽいものを撮っていたけれど、それは上辺だけをなぞったような、薄っぺらいもの。
人間や人生が描けていなかった。
発想と、ストーリー作りだけで書いていた。
今の仕事を、ストーリーに生かせないだろうか?
そう考えてみた。
けれども、システム会社の仕事はとにかく地味だ。幾つかストーリーも作ったけれど、それが世間の興味を惹くかどうか分からない。僕が書きたいストーリーでもないように思えた。
このまま続けていても、クリエーターとしては何も得るものがないだろう。
そう思って、2年半勤めたあと、会社を退社した。
たいして貯金もしていなかったので、すぐにお金に困窮するようになる。それでも、何十万円というお金をかけて、自主映画を撮り続けた。
その当時、撮っていたのは、「霧娘」という、2人の女の子の殺し屋の話だった。役者や制作者など全ての関係者を合わせると、30人以上が関わる、自主映画としては大きな規模だった。
しかし、このままだと、この映画の制作資金も足りない。
そんなとき、たまたま、知り合いから「渋谷にある編集プロダクションが、ライターを募集しているよ」という話を聞く。
文章を書くのは好きだから、ライターぐらいならできるのではないだろうか。そう思って、応募してみた。
2004年7月のことだ。
それが、あの浜本大洋(仮名)が社長の編集プロダクション「ABCDAYS」だった。
このバッキー事件に興味を持っている人であれば、ABCDAYSの名前は聞いたことがあるのではないかと思う。
そして、浜本大洋の名前も。
浜本は、栗山龍以上に、僕に影響を与えた人物だ。
年は、僕よりも3つぐらい年下だったけれども、その当時、僕は、浜本が自分よりも5つぐらい年上で、33歳ぐらいだと思っていた。
とても25歳には見えない。
どうやって生きてきたら、あんな25歳になるのだろうか?
浜本は全てが桁外れだった。やることなすこと、その発想も、普通じゃなかった。
次回は、彼との出会いを中心に書いていこうと思う。
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05:24
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
バッキー事件手記 プロローグ
お久しぶりです。
最近は、あまり猫屋と名乗らなくなってきている猫屋陽平です。
ですが、自分では名乗らなくても、出版者の方とか、取引先の方とかは、いまだに「猫屋さん」と呼んでくれています。
まあ、その方々には、どうせ別の名前を名乗っても、そう呼んでくれないので(笑)、今までどおり、「猫屋です」と名乗って話しています。
例の事件のせいで、猫屋という名前は、黒く染まってしましました。ですが、僕自身はいまだに愛着のある名前です。
前回、日記を書いたのが、もう3年近く前。
この3年の間に、色々なことがありました。
その体験に関しては、雑誌などでも書いたりもしました。
そう、「月刊創」です。
計10回以上にわたって、書かせていただきました。
本当に「創出版」には感謝しております。
はたして、その手記を書いたことが良かったのか悪かったのか、よく分からないのですが、そこそこの反応はあったような気がします。
多くの方々が、感想を寄せてくださいました。
「とても興味深かった」という意見もあれば、中には「突込みが甘い!」という、叱咤の声もありました。
実際、自分でも、「甘いかな」と思う部分はありました。
本当に、全部、自分が見てきたことを書いたかというと、実を言うと、重要な部分を隠したりしていた部分もあったのです。
なぜ隠したのか──。
初めて、「月刊創」に手記を発表したのは、2005年の5月7日。
バッキー関係者が逮捕されたのが、その年の3月中旬だったのですが、実は、まだ第一弾の手記を書き始めた時点では、捜査が続いていました。実際、その後、ブローカーの若本さん(仮名)や、男優兼制作の只野さん(仮名)などが、夏にかけて逮捕されていきます。
そして、第一陣の逮捕者の裁判も始まろうとしていました。
僕自身も、「たぶん僕は大丈夫だろう」と思いつつも、下手すると、獄中手記になる可能性がなきにしもあらずでした。
そんな状況の中、僕が雑誌に洗いざらい書くことによって、新たな逮捕者を生み出すとか、逮捕者の刑を重くするとか、さらには自分自身が逮捕されてしまうとか、そういう事態は避けたかったのです。
それは自分の身を守るためでもありました。
下手に書いて、誰かが逮捕される。あるいは、誰かの罪が重くなる。
そしたら、その人に一生涯に渡って恨みを抱かれるでしょう。
そこで、創の手記を書く上で、決めたことがありました。
・逮捕者たちの刑が重くならないように配慮する
・何よりも、自分が逮捕されないように気を付ける。
・そして、責任逃れしている「バッキー」というメーカー、並びに社長の栗山龍氏の罪を追求する。
その三点でした。
確かに、バッキーの制作陣は、極悪非道なAV制作をしていたのですが、それはあくまでも、バッキーというメーカーが「こういうビデオを作ってくれ」と依頼してきたからです。
べつに、AV制作じゃなきゃ、そんなことはやりません。
制作陣の中には、「仕事だから」と、嫌々ながら現場に行っていた人もいたのです。
なのに、その当時、バッキー自体は、「制作陣が勝手に作ったものを、うちは買い取っていただけだ」と言って、責任を逃れていた。
これはひどい──。
制作者の立場からすると、このバッキー(栗山氏)の言い逃れは許せなかった。
そこで、手記の中では、徹底して、バッキーという腐ったAVメーカーのことを非難し、やむを得ず、巻き込まれてしまった制作者側を弁護していたわけです。
けれども、それから、3年経った今。
はたして、僕の手記が効果があったのかどうかは分かりませんが、最初の手記から、8ヵ月後、社長の栗山氏はついに逮捕されます。
そして、ご存知の方も多いかと思いますが、18年の判決が下されました。
正直、そのときは、ここまで重い判決が下るとは思ってもいませんでした。手記で栗山氏を攻撃しながらも、この人だけは最後まで逃げおおせるのではないか、とも思っていたのです。
(そうか、18年か──)
年商100億と豪語し、カリスマAV会長と呼ばれていた栗山氏。
彼は僕にたくさんの影響を与えてくれました。いい意味でも、悪い意味でも。
そもそも、僕がライターとしてデビューしたのは、某実話誌での栗山氏の対談がきっかけだったのです。
事件から3年以上過ぎた今、その当時のしがらみなどもなくなりました。
ご存知のように、逮捕された制作者の裁判は終わり、軒並み10年以上の刑を受けたのです。監督などにいたっては、15年前後でした。
彼らの刑が罪の対価に合っているのか。「それでも足りない」と思う人もいれば、「重すぎる!」と思う人もいるでしょう。
ただ、世間一般的な意見としては、10年というと、非常に重い刑です。初犯で怨恨の殺人者が、普通は、10年ぐらいではないでしょうか。
このブログ上では、暇なときにでも、正直に当時のことを回想していきたいと思います。
最近は、あまり猫屋と名乗らなくなってきている猫屋陽平です。
ですが、自分では名乗らなくても、出版者の方とか、取引先の方とかは、いまだに「猫屋さん」と呼んでくれています。
まあ、その方々には、どうせ別の名前を名乗っても、そう呼んでくれないので(笑)、今までどおり、「猫屋です」と名乗って話しています。
例の事件のせいで、猫屋という名前は、黒く染まってしましました。ですが、僕自身はいまだに愛着のある名前です。
前回、日記を書いたのが、もう3年近く前。
この3年の間に、色々なことがありました。
その体験に関しては、雑誌などでも書いたりもしました。
そう、「月刊創」です。
計10回以上にわたって、書かせていただきました。
本当に「創出版」には感謝しております。
はたして、その手記を書いたことが良かったのか悪かったのか、よく分からないのですが、そこそこの反応はあったような気がします。
多くの方々が、感想を寄せてくださいました。
「とても興味深かった」という意見もあれば、中には「突込みが甘い!」という、叱咤の声もありました。
実際、自分でも、「甘いかな」と思う部分はありました。
本当に、全部、自分が見てきたことを書いたかというと、実を言うと、重要な部分を隠したりしていた部分もあったのです。
なぜ隠したのか──。
初めて、「月刊創」に手記を発表したのは、2005年の5月7日。
バッキー関係者が逮捕されたのが、その年の3月中旬だったのですが、実は、まだ第一弾の手記を書き始めた時点では、捜査が続いていました。実際、その後、ブローカーの若本さん(仮名)や、男優兼制作の只野さん(仮名)などが、夏にかけて逮捕されていきます。
そして、第一陣の逮捕者の裁判も始まろうとしていました。
僕自身も、「たぶん僕は大丈夫だろう」と思いつつも、下手すると、獄中手記になる可能性がなきにしもあらずでした。
そんな状況の中、僕が雑誌に洗いざらい書くことによって、新たな逮捕者を生み出すとか、逮捕者の刑を重くするとか、さらには自分自身が逮捕されてしまうとか、そういう事態は避けたかったのです。
それは自分の身を守るためでもありました。
下手に書いて、誰かが逮捕される。あるいは、誰かの罪が重くなる。
そしたら、その人に一生涯に渡って恨みを抱かれるでしょう。
そこで、創の手記を書く上で、決めたことがありました。
・逮捕者たちの刑が重くならないように配慮する
・何よりも、自分が逮捕されないように気を付ける。
・そして、責任逃れしている「バッキー」というメーカー、並びに社長の栗山龍氏の罪を追求する。
その三点でした。
確かに、バッキーの制作陣は、極悪非道なAV制作をしていたのですが、それはあくまでも、バッキーというメーカーが「こういうビデオを作ってくれ」と依頼してきたからです。
べつに、AV制作じゃなきゃ、そんなことはやりません。
制作陣の中には、「仕事だから」と、嫌々ながら現場に行っていた人もいたのです。
なのに、その当時、バッキー自体は、「制作陣が勝手に作ったものを、うちは買い取っていただけだ」と言って、責任を逃れていた。
これはひどい──。
制作者の立場からすると、このバッキー(栗山氏)の言い逃れは許せなかった。
そこで、手記の中では、徹底して、バッキーという腐ったAVメーカーのことを非難し、やむを得ず、巻き込まれてしまった制作者側を弁護していたわけです。
けれども、それから、3年経った今。
はたして、僕の手記が効果があったのかどうかは分かりませんが、最初の手記から、8ヵ月後、社長の栗山氏はついに逮捕されます。
そして、ご存知の方も多いかと思いますが、18年の判決が下されました。
正直、そのときは、ここまで重い判決が下るとは思ってもいませんでした。手記で栗山氏を攻撃しながらも、この人だけは最後まで逃げおおせるのではないか、とも思っていたのです。
(そうか、18年か──)
年商100億と豪語し、カリスマAV会長と呼ばれていた栗山氏。
彼は僕にたくさんの影響を与えてくれました。いい意味でも、悪い意味でも。
そもそも、僕がライターとしてデビューしたのは、某実話誌での栗山氏の対談がきっかけだったのです。
事件から3年以上過ぎた今、その当時のしがらみなどもなくなりました。
ご存知のように、逮捕された制作者の裁判は終わり、軒並み10年以上の刑を受けたのです。監督などにいたっては、15年前後でした。
彼らの刑が罪の対価に合っているのか。「それでも足りない」と思う人もいれば、「重すぎる!」と思う人もいるでしょう。
ただ、世間一般的な意見としては、10年というと、非常に重い刑です。初犯で怨恨の殺人者が、普通は、10年ぐらいではないでしょうか。
このブログ上では、暇なときにでも、正直に当時のことを回想していきたいと思います。
Posted by abcneko at
03:58
│鬼畜AV「バッキー事件手記」
2005年10月17日
ピアソラ
最近、またピアソラの音楽にはまっています。
階段のように上がったり下がったりを繰り返す独特な旋律。ひとつの曲の中にやさしい曲調と冷たい曲調が混在する構成。
アルゼンチンタンゴの代表だとか言われているけど、ピアソラはアルゼンチンタンゴの中では異端中の異端ですね。
タンゴよりも現代音楽に分類した方がいいと思います。
後期の作品の方が好きです。
どんどんと大衆性から離れ、ピアソラ独自の世界を突き進んでいます。
「タンゴ ゼロアワー」のアルバムとか、ほんと何度聴いてもゾッとするもんなぁ。
それ聞きながら、ひたすら脚本、脚本です。
原稿を書いているとき、僕はたいてい音楽をかけています。
最近よく聴くアルバムというか、アーティスト。
・クラムボン
・PAT C
・カーディガンズ
・プリンス
・Sing out sister
・山下達郎
大学の頃のお気に入りの南米系アルバム。
・ミルトンナシメント「CLUBE DA ESQUINA2」
・エリスレジーナ「IN London」
・ピアソラ「タンゴ ゼロアワー」
CDを聴いていないのに、頭の中で鳴り響いている曲。
・Calling You
A desert road from Vegas to Nowhere
Someplace better than where you've been
A coffee machine that needs some fixin'
in a little cafe just round the bend.
I am calling you
Can't you hear me
I am calling you
『バグダッドカフェ』の主題歌となったこの曲、名作です。
階段のように上がったり下がったりを繰り返す独特な旋律。ひとつの曲の中にやさしい曲調と冷たい曲調が混在する構成。
アルゼンチンタンゴの代表だとか言われているけど、ピアソラはアルゼンチンタンゴの中では異端中の異端ですね。
タンゴよりも現代音楽に分類した方がいいと思います。
後期の作品の方が好きです。
どんどんと大衆性から離れ、ピアソラ独自の世界を突き進んでいます。
「タンゴ ゼロアワー」のアルバムとか、ほんと何度聴いてもゾッとするもんなぁ。
それ聞きながら、ひたすら脚本、脚本です。
原稿を書いているとき、僕はたいてい音楽をかけています。
最近よく聴くアルバムというか、アーティスト。
・クラムボン
・PAT C
・カーディガンズ
・プリンス
・Sing out sister
・山下達郎
大学の頃のお気に入りの南米系アルバム。
・ミルトンナシメント「CLUBE DA ESQUINA2」
・エリスレジーナ「IN London」
・ピアソラ「タンゴ ゼロアワー」
CDを聴いていないのに、頭の中で鳴り響いている曲。
・Calling You
A desert road from Vegas to Nowhere
Someplace better than where you've been
A coffee machine that needs some fixin'
in a little cafe just round the bend.
I am calling you
Can't you hear me
I am calling you
『バグダッドカフェ』の主題歌となったこの曲、名作です。
Posted by abcneko at
06:58
2005年10月15日
もう一歩
はい、猫の道も一歩から、千里の道はまだまだはるか遠く――というか、一年以上も経つというのに、たった5歩しか歩いていませんね。
せっかく久しぶりに更新したので、知り合いの方々のブログや掲示板に片っ端から書き込んでみました。
それでなのですが、
基本的にこの数ヶ月、気分はLOWです。
でも、今日、フラッシュを見たら、知り合いの女の子が出ていてハッピーな気分になりました。毎日、何かしらいいことがひとつでもあれば、いいわけです。
トリフォーの『アントワーヌとコレット』『夜霧の恋人たち』をまとめて見ました。
アントワーヌはコレットが大好きで、彼女の真向かいの部屋に引っ越してくるんだけど、コレットに振られちゃうわけです。
たった、それだけの話。
なんだけど、いいんですな。
映画とか小説とか漫画とか、全部そうだと思うんですが、ストーリーよりもずっと大事なもの、それは作者のタッチというかカラーというか。
魅力的なタッチを持っている人なら、別にストーリーの破綻は気にならないというか。
久しぶりに撮ろう。
そう思いたくなる映画でした。
Posted by abcneko at
03:27