主観と客観について
テーマ:考えてみました申し訳ないのですがはじめに私信を書かせて頂きます。
先月メッセンジャーで登録して頂いた方へです。
できる限り21時台にログインしていましたが
お会いできませんでした。
毎日とはいきませんでしたのですれ違っているのだと思います。
もしこちらをご覧になり、曜日などご希望がございましたら、
コメント欄に匿名でかまいませんので書きこんで頂けると
大変ありがたいです。よろしくお願いいたします。
(アメーバのメールが使用可能でしたらそちらでも構いません)
では本編にまいります。
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前回のコメント欄で、「主観と客観」について
いろいろ話されました。
この事はこの間歴史と日本人―明日へのとびら― さんで
書かれた記事、嗜好と尺度 にありました
大事なのは主観を磨くことである。(略)
物事を正確に判断することなど、不完全な人間にはどうせ出来やしない。
というのを読んで考えていた項目でもありましたので
今回こちらでも考えてみようと思います。
例えば、政治をどう行ったらよいかというときに
主観だけで行ってはすべての国民のためにはなりません。
しかし、客観だけで物事が見れる人間はなかなかいません。
客観的と思っていても主観が常に中にあります。
世論、客観とは主観の集まり、無数の主観の中の多数派(が世論)
と農民さん が前回のコメントで書かれています。
本当にその通りと思います。
選挙で誰に投票するかを選ぶ時、
自分の考えに合わない人に投票する人はいません。
みな主観で選ぶと言う事です。
例えば、私は以前、共産党の候補者に投票した事があります。
政治の事をほとんど知らなかった頃です。
知らなくても興味無くても選挙には毎回必ず行っていました。
選挙公報をじっくり読んで、教育、医療の問題を
重点的にとりくんでくれそうだと思っての選択でした。
今は皇室制度(日本の核の部分)を大切にするかしないかで
選んでいるので、共産党に投票する事は無いですが、
私の主観が変わったと言う事で、選び方は同じとなります。
自分の価値が基準です。
私の親せきに、労働組合での活動や生協の立ち上げを
熱心にやっていたおじさんがいます。
共産党支持でした。
おじさんが会社でも重要な地位になってきた頃に退社し、
友人と一緒に企業しました。
従業員を雇い、会社を経営していくのはとても大変だったようで、
何度も危機に遭いながらなんとか持ちこたえ
取引先を確保していったそうです。
今では身を引き、ボランティアなどしています。
共産主義一色だったおじさんが、経営側に回ってからは
そういう話を一切しなくなったそうです。
私や私のおじさんがぶれている人間と言われてしまったら
それまでなのですが・・・(^^;;
自分自身、私情で意見を変えることはよくないけれど
そうなってしまうということに悩んでもいました。そんな時に
テロと戦うということ という記事を読ませて頂いて
これでいいんだ、と思うことが出来ました。
引用させて頂きます。
今の所、僕はテロとの戦いに賛成でも反対でもない。
別に自分の命がテロリストの命より大切だなんて思っていないし、
テロとの戦いが正義なんて言ってるハゲどもにはあきれているし。
でも、カミさんもらって、子供ができたら、テロとの戦いに大賛成すると思う。
まだ分かんないけど、たぶん、カミさんもらって子供できたら、どんなことがあってもカミさんと子供を守りたいと思うと思う。
テロリストの正義なんかより、アメリカの傲慢さに対する反抗心なんかより、ずっとカミさんと子供の方が大事だね。
例え全世界を敵に回そうが、人殺ししようが、自らのプライドを全て捨てようが、何がどうあろうとカミさんと子供を守りたいと思う。
絶対に。
それが全世界を敵に回さなくても、人殺ししなくてもいいのだから、僕は絶対にそっちを選ぶね。
ただ、「テロとの戦いは正義との戦いです」なんていう偽善者になるだけでいいのだから。
嫁さんと子供のためなら偽善者になることくらい屁でもない。
偽善者になることを拒否して嫁さんがテロで死んでしまうよりずっとましだ。
最後の結論に、
そうだ。大人は偽善者だ。
それを承知で偽善者になるもののみ、大人になれる。
おとぎ話を作り話だと知りつつ信じるもののみ、社会人になれる。
偽善者になることを拒否して子供のままでいたいのなら、ずっとそうしてろ。
とあります。
私はずっと何事も公平にできるのがいいと思って
そういう人間になるのを目指していましたが、
心のどこかで無理とは思っていました。
それを綺麗事抜きで語ってくれたと思った記事でした。
私は娘2人の為に生きる存在です。
だからといって、なんでも娘の得になるようにする
というわけではありません。
相手の心を思いやるきもちは誰でもありますよね。
けれど全てを選ぶ事はできませんから
どちらかとなった時に何が基準になるかと言えば
こういうことになる、というお話です。
娘が生まれていないときは、
宮沢賢治さんのグスコーブドリの最後のお仕事のような
役目になってもいい、なんて真面目に思っていましたが
今はそういうわけには行かないです。
これも主観によって考えが変わったという事です。
それから、農民さんが前にすすめて下さった小説にも
こんな言葉がありました。
「せやから個人の主義主張なんか、あんまり意味がない。
自分の立っている地面がどういう色をしてるかによって、
その人間の色も決められてしまう」
これは主観どころか立場が優先されるという事です。
ますます客観的に判断するという事から離れますが
それも真実だと思います。
この矛盾というか、不公平な自分というものを
念頭に置きながら、
己の人間を極める作業から、学問は始まる。
それが己の嗜好と尺度を磨くことになる
(歴史と日本人 さん)
を目指していったらいいのかもしれません。
なんかいろいろと私には難しいのですが、
自己弁護含む結論となりました。
いろんな立場のブログを読むことも
違う意見を聞き話し合う事も
尺度を磨くことになってるといいなと思います。
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■娘さんは親の遺伝子を半分受け継いでいますから・・・
きょーちゃんが
娘さんを愛しているのは「自分の遺伝子を持っているから」です。
きょ-ちゃんの方が先に死んでしまうので・その先の人生を娘さんに託しているのです。
結局・きょーちゃんは娘さんを愛しているようで自分自身を愛しているのです。
群れを作る猿は
猛獣が近づくとわが身の危険を忘れて群れに危険を知らせます。
(音を立てれば猛獣に見つかる!)
これも群れが遺伝子の共有によって成り立っているからであって、自分が殺されても親戚猿が生き残れば「自分の遺伝子が生き続けることになる」からです。
これがナショナリズムの起源でしょう。