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│<< 前へ │一覧 |2008/07/22
今から23年前の夏、1985年8月12日に日本航空の旅客機が墜落、乗員乗客524名のうち520名が死亡した。18時過ぎに東京の羽田空港を出発、大阪の伊丹空港に向かっていた日本航空123便が群馬県南西部の山岳地帯に落ちたのだ。今年7月にはこの「事件」をあつかった映画「クライマーズ・ハイ」が公開されたこともあり、再び注目されている。
運輸省(当時)の航空事故調査委員会が公表した報告書は「しりもち着陸事故を起こした後のボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が原因」だとしているのだが、隔壁の破損が墜落の原因だった可能性が低いことは再現実験で確認できたと話す調査関係者もいる。この見方に同調する航空関係者は少なくない。 要するに、調査委員会の報告書が十分な科学的検証に基づいているとは言えず、説得力はない。説得力はないのだが、別の力がこの報告書にはあるようで、政府の公式見解に挑戦するような形で事件を調べたジャーナリストの中には「怖い目」にあい、節を折った人もいると話す大手マスコミの編集者がいる。 この話に限らず、123便の墜落事件では奇妙なことが多い。早い段階で現地の住民から正確な墜落地点に関する情報が伝えられていたとも言われているが、なぜか捜索は難航し、救援隊が現場に到着したのは事件の翌日、13日の8時半頃だった。 そして事件から10年後、1995年8月にはアメリカから重要な情報が飛び込んできた。事件当日、日航機のそばを飛行していたアメリカ軍のC-130に乗っていたマイケル・アントヌッチが「星条旗」の同月27日付紙面に当時の状況を詳しく書いたのである。 彼によると、日航機に異常が発生した当時、彼が乗った米軍機は横田基地に向かって大島上空を飛行中だった。日航機の管制に対する最初の緊急コールは切迫している様子が感じられなかったようだが、18時40分のコールは叫び声のようで、尋常ではなかった。そこで、横田基地の管制から許可を受けた上で日航機に接近を図る。 日航機は18時56分には墜落していたが、その地点を米軍機は19時20分に特定、報告している。運輸省に捜索本部が設置されたのは19時45分なので、捜索を始めた時点で日本政府は日航機の墜落現場を把握していたはずだ。もし、別の場所を探していたとするならば、意図的に発見を遅らせようとしていたとしか考えられない。 米軍機が墜落現場に到着した直後、厚木基地から海兵隊の救援チームが現地に向かっている。20時50分には救援チームのヘリコプターが現地に到着、2名の隊員を地上に降ろそうとしたのだが、このときに基地から全員がすぐに引き上げるように命令されている。日本の救援機が現地に急行しているので大丈夫だということだった。 21時20分に日本の救援隊を乗せた航空機が現場に現れたのをアメリカ側は確認した。その後、C-130と米軍の救援チームは現場を離れるのだが、日本側の救援活動は行われなかった。夜間の山間部で救難活動ができなかったというのならば、自衛隊に戦闘などできないだろう。米軍は救助活動を始めようとしていたのだ。 いずれにしろ、日本側が米軍の救援活動を止めた責任は重い。能力もないくせに「自分でやる」などと言ったのだとしても、決して許される話ではない。12日21時20分から翌日の8時半までの間に日本側は何を行ったのか、行わなかったのか、詳しく説明する責任が日本政府にはある。
Last updated
2008/07/22 06:09:42 PM
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