第二章
「デカルト二元論における理論的パラダイムの問題点」
について問う。
前回の続きで、デカルト二元論は彼の理論的パラダイムには次のような問題点がある。彼は、心の基本的特性を「意識していること」に求め、心とは「思惟する存在」であると定義した。この定義は言うまでもなく、私の心の状態について私自身が直接的に経験している状況、つまり先にあげた第一の場合を念頭においたものである。

{LEVELが上がります。何故ならデカルトは大大数学者でもあります。}

デカルトは物の基本的特性を「空間的大きさ(延長、容積)をもつこと」に求め、物質とは「延長をもつ存在」であると定義した。この定義は元来、私が外界の事物を観察し認識している状況に即して導かれるものである。身体についていえば、このような観察のしかたは、他者の身体の状況についてのみ可能である。
言い換えれば、身体が物理的物体と同じように空間的大きさをもつ存在であるということは、われわれの日常的経験の場における認識のしかたを反省する観点に立つ限り、元来は、他者の身体の状態を基準にしてはじめて下すことができる定義なのである。
要するに、デカルト的二元論のパラダイムは、心の存在様式について考えるときには、右に言った私の心の状態についての直接認識を基準にしている。
これに対して身体の存在様式について考えるときには、外界知覚によって観察可能な他者の身体の状態を基準にしている。従ってデカルトの二元論を心身問題に適用する場合には、心と身体の関係を考えるに当たって、私の心と他者の身体を並置して両者を考える。というやり方をとることになる。しかしながら、私の心と他者の身体の間には、直接の関係は見出すことができない。このように二つの異なった基準を設定して心と身体の関係を考えてゆくところに、デカルト二元論が物質と精神を原理的に分離する二文法にらざるを得ない理由がある。
そこでデカルトは、図によって表現した。
M1 → B1
←
↓ ↑
B2 ← M2
→
M・・・MIND(心)、BODY(身体)
i・・・1,2,3、***
日常生活の中でとっている実践的配慮に基づいている。
図の解釈
・私の心は私の身体状態を、内側の感覚によって直接知る。
・他者の身体状態は間接的推理することしかできない。
・・・・

哲学の世界では、この問題は他者問題と呼ばれている。つまり自我意識の立場から出発して、いかにして論理的に他者の意識にまで到達できるかという問いである。これまでいろいろな答えが出されてきたが、少なくとも知的な論理だけでこの問題に解決を与えることは相当難しい。
何故なら私たちは他人の言葉を一種の機械とはだとは考えていない。言い換えれば私たちはお互いに人間であるということを承知している。これは知的な論理判断と推理にもとづいた認識ではなくて、実践場面におけるわれわれの共同の了解であり配慮である。

われわれは人と人の「間」において生きていることをあらかじめ了解している。このことは理論的にどういう意味をもっているのか。
お互いが人間であるという、われわれの判断は、日常生活における実践的で前反省的な配慮と了解から導かれるものである。わかりやすく言えば、自分と他者がお互いに人間であること、その意味において相互に互換可能な存在であるということを了解している。
経験的に認識される個人的特性(容姿も含む)は、私と他人は違っている。しかし、私と他者は同じ人間であるという了解に従えば、経験的認識で私と他人はいずれもひとりの人間としてとらえられる。
自分も他人も同じ「人間のひとり」としてみるということは言い換えれば、自他を無名化するということである。また、

デカルトは、心身問題を見る場合には日常経験の場における実践的・経験的な了解を無視し、純然たる知的・理論的関心に従って問題設定を限定しているわけである。
そこでわれわれは、心身問題を知的な理論的関心の対象とするに先立って、まず日常的実践の場に問題を移して考えていく必要があると考えるわけである。
そして人間の問題にとって重要なことは、哲学に示されているように世界に関する問題認識の基礎には、人間に関する心身問題が隠れている、ということである。
ここに「重要な問い」が隠されているということを示唆している。