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私達カトリック教徒は… - ヨゼフ・ジェンマ(男性)

2007/09/06 (Thu) 00:21:23

神父様。

私は今シスター・コンソラータの伝記を読んでいますが、その中に次のような精神が見られます。
「すべての人の中にイエズスを見、すべての人をイエズスのように取り扱うこと」
これはまたマザー・テレサの精神だったとも思います。

私達カトリック教徒は、このことを自分の日常生活の中で、出会う人ごとに、どれほどの真剣さをもって行じなければならないでしょうか。
私達は同じカトリック教徒でも、それぞれ考え方が違います。それで、自分の信念や持論を受け入れてくれない人、あるいはもっとはっきり否定したり攻撃したりしてくる人のことを、私達はつい憎らしく思ってしまうことが多いです。そして「真理のために」と称して、「真理を暗ませないため」と称して、相手を批判し返したり、見下したり、あるいは敬遠してしまったりします。
このような在り方、私達の姿は、どう言うべきでしょうか。

「すべての人の中にイエズスを見、すべての人をイエズスのように取り扱うこと」
これは「理想」でしょうか。真理のためなら、私達はこれをどこかに置き忘れてもいい------そうしたとしても大して罪ではない------ものでしょうか。

私達はどうしたら良いのでしょうか。

Re: 私達カトリック教徒は… - マザー・テレサは異端者(?)

2007/09/06 (Thu) 11:25:19

死んでいく異教徒に洗礼を授けず、異教徒の葬式の儀式を修道女が行うなど、マザーテレサこそ第二バチカン公会議の精神を体現する異端者。
彼女が死に行く人にイエズスを説かず、洗礼を授けなかったことによってどれほど多くの異教徒が望みの洗礼の機会すら与えられずに地獄に落ちただろう。
彼女が典礼破壊をすすめる社会派の共産主義親派の聖職者たちを勢いづかせたことによって、どれほど多くの霊魂が失われたことだろう。
すべての人の中にイエズスを見ることができるなら、新ミサを創ったブニーニやサタンの中にすらイエズスを見ることができるだろう。
彼らも天主の被造物なのだから。
汝の敵を愛することと、異端者を異端者として峻別し、信仰の敵を敵と峻別することは別問題だ。
敵をはっきりさせずに、何を何から護教するというのだ。

Re: 私達カトリック教徒は… - 山師(男性)

2007/09/06 (Thu) 17:56:50

「異端を説く者がいたなら、2,3の戒めを述べた(諭した)後、その者から離れよ。」

なんて感じの言葉が聖書の中にあったと思います。
争うのは良くない事ですが、まったく放置するのも良くないようですね。

やはりおかしな事に対しては、ある程度諭すのは必要な気がします。

私はそんな気がしますし、そうしています。

「マザー・テレサについての評価」と「投稿者の方の思い」・・・ - 1(女性)

2007/09/06 (Thu) 19:01:47

 マザー・テレサについて・・・

 異端であるという評価は、極端で受け入れられませんが、マザー・テレサに対してこのようなマイナスの見方があることに、驚きました。

 彼女の行動と思想的根拠の詳細を把握していないので、軽率な判断はできませんが、「諸宗教の神学」の問題点に通じますね。

 しかし、どうでしょう。運びこまれて24時間以内に息を引き取る方も多いといわれる、その壮絶な施設の中で、まず、身体をきれいにし、洗った衣類を身につけさせ、飲ませ・・・、キリスト教の救霊に導く余裕もないほど、凄惨な状況だったのではないでしょうか。
 テレサ修道女も、できることならば、洗礼を受けさせたいと思われたのは、当然ですが、それができなかったのではないのでしょうか。



 投稿者の方の思いについて・・・

(「私達」と一般化されていますが、あえて、自分の問題として考えるために「私」で考えさせていただきます。)

 教会で、あるいは、宗教的問題について、自分がこれだけは譲れないと大切にしている信念・考え方について、
同じ(?)カトリックの信仰をもっているとされる方から、否定されたり、攻撃されたとき、
自分の心に起こる感情(憎らしいと思う・・・)と、
その後の自分の行動(”真理のために”批判し返す、見下す、敬遠する・・・)が、
”キリスト教の教える精神(シスターの言葉)”に、矛盾しないか・・・
問いかけておられるのだと思います。

 私は、なかなか直視したくない(表現したくない)、感情と、心理的(精神的)行動を、正直に書き表されていることに、まず、敬意を払いたいです。

 私なんかは、「憎む」とか「憎らしいと思う」という行為や感情は、理性で”いけないこと”としているので、自分の中にあることすら、認めたくないのです。

 そういうとき、「憎い」という言葉で、自分の心に起こっていることを理解せず、「なんとなく、肌が合わない」「距離を置いたほうがいい」として、その方とはそのことについては議論しないことも多いのです。
 つまり、逃げているのでしょう。

 話を戻します。この投稿者の方の思いは、私の思いでもあります。

 理想を言えば(心がけていることは)、

「私」に手厳しい批判をなさるこの方も、神から愛されておられるかけがえのないお一人なのだ、
「私」のことを憎んでこのようなことをおっしゃったり、されるのではなく、
その方は、その方としては、精一杯「私」のことを考えてくださっているのだろう、
「私」にも至らぬところは多いのだから(これだけは、揺るがない、決定的な事実)
まあ、一度、冷静になって、今までの事を、ふりかえってみよう、
私も、神からの恵み(gratia)を、受けているのだから・・・

どうしても、うまくいかなければ、

しばらく、(心理的、物理的に)距離を置く(離れる)しかない、と思います。
これは、”精神的健康を保つために”、許されていると思います。
たとえ、(物理的に)離れていても、双方とも正しく神とつながっているのなら、
天にまします「われら」の父よ、と祈るとき、「われら」で、確かに連帯しているのですから・・・


 マザー・テレサについてだけ書くつもりが、勢いで書いてしまいました。
 ヨゼフ・ジェンマさん、神父様に質問されているのに、ごめんなさい。失礼しました!

 

問題は私達の感情、情動です - ヨゼフ・ジェンマ(男性)

2007/09/06 (Thu) 22:02:22

私の問いかけは集中的に私達の持つ「感情」「情動」というものに向けられたものだったのです。私はマザー・テレサのそのような行状(「異教徒の葬式の儀式を修道女が行う」)については知りませんでしたが、それでもこの問いかけの趣旨は何も変わりません。
「汝の敵を愛することと、異端者を異端者として峻別し、信仰の敵を敵と峻別することは別問題だ」とはその通りです。でも私達の心の動きの実際のところを見てみましょう。私達は誰かをいわゆる「敵視」(この言葉を「憎しみという "感情" が伴う見方」という意味で使っています)する時、それと同時に「その者を愛する」、すなわち「敵を愛する」ことが「十分にできている」と言えるのでしょうか。あるいは「敬遠しながら同時にその人を愛する」ことは可能なのでしょうか。-----これが私の問いかけの趣旨でした。
これは理屈上の問題ではなく、私達自身の心の動きを正直に「観察」するところから出て来る疑問なのです。「1」さんが私の質問の意味をよくご理解下さっています。
このへんのところを神父様に整理して頂ければ有り難いと思います。

ヨゼフ・ジェンマさん - ・・・(男性)

2007/09/06 (Thu) 23:30:05

>「1」さんが私の質問の意味をよくご理解下さっています。

こういう書き方はしない方が良いと思います。なぜなら、あなたも他の人のコメントの意味を読み取っていない・・・とも取れるからです。

ごめんなさい - ヨゼフ・ジェンマ(男性)

2007/09/07 (Fri) 00:02:38

そうですね、ごめんなさい。

すみません、確認です。 - 山師(男性)

2007/09/07 (Fri) 12:05:34

横道のさらに横道の話題になってしまうのであまりしたくはなかったのですが、第三者への誤解があるといけないので確認させて下さい。

>−1さん
>しかし、どうでしょう。運びこまれて24時間以内に息を引き取る方も多いといわれる、その壮絶な施設の中で、まず、身体をきれいにし、洗った衣類を身につけさせ、飲ませ・・・、キリスト教の救霊に導く余裕もないほど、凄惨な状況だったのではないでしょうか。


とありますが、緊急の場合には神父様だけではなく平信徒、さらには未信者でさえも洗礼を授けることができる・・・ということをご存知でしょうか?

私の場合、もし目の前で「確実に瀕死の状態」の人がいたなら、何でも良いから水を用意し「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を授けます。その人がたとえ見知らぬ誰かであってもです・・・。私はそのように要理で教わりました。

以前、病室で神父様の到着が間に合わず、洗礼を受けられずに亡くなった人の話を聞いたことがあるのですが、その場にいた信者さんは何をしていたのだろうと思ったことがありました。

緊急の洗礼がどこまで有効か分かりませんが、それは神様が判断されることと思います。

マザーテレサも密かにそのようにしていたかも知れませんが、異教徒との関係で公にはされなかったのかなぁ、とも思います・・・。

小野田神父様、この「緊急の洗礼」については信徒にとって非常に大事なことと思われます。私もどこまで正しいのか分かりませんし、間違っているかも知れません。別の所で詳しく教えていただけたらと思います。

-1さん、第三者への誤解がないように確認の意味で書きました。スミマセンでした。
ヨゼフ・ジェンマさんには、余計なコメントを入れてしまい、申し訳有りませんでした。

マザー・テレサ・・・緊急洗礼・・・ - 1(女性)

2007/09/07 (Fri) 19:54:35

 山師さん


 「マザー・テレサも密かに・・・」
 実は、勝手な憶測ですが、私もそういう可能性はあるのでは、と思っていました。ただ、非常に微妙なデリケートな問題も含むので、口に出していいのかどうか・・・と思っていました。神様はご存じですね。


 日本の小学生の教科書にも必ず登場するある方も、カトリックの臨終洗礼を受けられた、と最近知りました。もっとも、この方は神父様からです。公会議の頃のことです。もちろん、仏式のお葬式です。日本の場合には、未だに、堂々とは、教会にかかわれない方もありますからね。


 私の周辺では、この数ヶ月の間に、女性の信徒の方が、お一人は夫に、もうお一人は友人に、洗礼を授けるということがありました。教会では、神父様が、すばらしい事だ、と話されました。

 しかし、本当に緊急で神父様が間に合わなかった、という状況では、なかったようなのです。むしろ、「信徒奉仕職」の考え方の延長で、洗礼が執行されたようなのです。あくまでも、”叙階の秘蹟をうけておられる神父様が間に合わない緊急の場合に限って” ということが優先されたのか,疑問には思いました。

 ただ、その友人のご主人が時々ミサに与っておられます。洗礼をお受けになるかもしれません。結果としてはいいことだったのでしょう・・・。

 ヨゼフ・ジェンマさん、またまた、失礼しました!

Re: 私達カトリック教徒は… - あなたはアンチ教皇?(?)

2007/09/07 (Fri) 21:43:50

そもそも、臨終間際の死の苦しみのために洗礼を受けたとしても、それって有効なのでしょうか。

マザーテレサは、そういう死の苦しみをダシに洗礼を受けさせることはできなかった結果、異教のやり方での葬式を認めたのかもしれませんね。

だって、まともな神経を持っていたら、洗礼やかカトリック式葬式を受けたがらない人を(死んでも)放置することなんてできないと思いますもの。
もっとも、ひょっとして、「マザーテレサは異端者」さんのような方なら、そういう異教徒が亡くなっても、「地獄に墜ちたな。自業自得だ」と考えられるのかもしれません。

Re: 私達カトリック教徒は… - あなたはアンチ教皇?(?)

2007/09/07 (Fri) 21:46:25

補足。上記カキコ第1行目の「臨終間際の死の苦しみのため」というのは、本心ではキリスト信仰に回心したくないが、自らの命を握る人々(ここではマザーテレサと彼女をお手伝いしている人々)からの圧力によって洗礼を受けることにしたような場合を指すこととします。

私のいい加減な書き込み - ヨゼフ・ジェンマ(男性)

2007/09/08 (Sat) 03:04:44

> ヨゼフ・ジェンマさんには、余計なコメントを入れてしまい、
> 申し訳有りませんでした。(山師さん)

> ヨゼフ・ジェンマさん、またまた、失礼しました!(1さん)

いや、別に構いません。


しかし、思えば... 私の質問の仕方もとても乱暴なものでした。「すべての人の中にイエズスを見、すべての人をイエズスのように取り扱うこと」とのシスター・コンソラータの言葉がどのような意味で言われたものなのか、私は詳しく説明していないからです。しかも私は以前マザー・テレサがこれと同様のことを言っているのを知った時にはこれに反応しなかったのです。私の目にとっては彼女はバリバリの「宗教家」というより熱心な「社会奉仕家」の印象が強かったので、彼女の口からこの言葉が出るのを聞いてもあまり霊的な深みを感じなかったのです。むしろ“マザー・テレサは異端者”さんの仰るように「だって彼らは実際イエズスではないではないか。あまりに無理のある見方である。このような無理のある単にお人好し的なだけのような見方によって、私達の目からある種の大事な信仰の感覚が脱落して行くことがあり得るのではないか」としか思っていませんでした。でもここに来てシスター・コンソラータがこの言葉を発しているのに触れました(これは勿論彼女自身の思想と言うより主イエズスからの指導の言葉とされているのだけれども)。すると俄然、彼女の神秘的な修道生活の情景と相俟ってこの言葉がとても霊的な深みをもって私の前に新たに立ち現われて来たのでした。
「すべての人の中にイエズスを見、すべての人をイエズスのように取り扱うこと」・・この言葉を利用することによってシスター・コンソラータの生活の中から、他者の不完全さに対するあらゆる否定的な思いが徐々に完全に抜け落ちて行ったように思います(もちろんこれは無知や盲目を意味せず、気づきや弁別のなさを意味しないのだけれども)。そして彼女の生活は「兄弟姉妹」達に捧げられたものと言っていいと思いますが、この場合の「兄弟姉妹」達とは.. 言いづらいですが「堕落したり微温的になってしまった司祭や修道者」達のことなのです(そのようにハッキリ書かれています。だからこの彼女の伝記は絶版になっているのでしょうか?笑)彼女の生涯は主イエズスによって、彼らへのあらゆる反感を超えて彼らの救霊のために全てを捧げるという、彼らの霊魂のためにただ黙して自分も十字架にかかる(心として、体として)というものに変わって行ったように思います。
しかし私達はどうでしょうか?「汝の敵を愛することと、異端者を異端者として峻別し、信仰の敵を敵と峻別することは別問題だ」と言いながら(これは一応理屈としては正しいのです。私も盛んに言っていた時があります。「今の教会に必要なのは洗者ヨハネのようなタイプの人間だ!」とか)、実際はこの表面上正しい理屈の周りにある私達自身の心の動きをよく観察し考えてみることもせず、もう反射的に怒りを発したり、冷たく批判し切って捨てたり、見下したり、「俺らに寄るな、寄ってくれるな」と敬遠したり、酷い時には蛇蝎のように忌み嫌ったりしてしまうのではないでしょうか?(言い過ぎかな.. 言い過ぎだな)
それに比較して主イエズスの、あるいは真の聖人達の心はどうなっているのでしょうか。“マザー・テレサは異端者”さんだけを槍玉にあげるようで申し訳ないですが(しかしこれは実際私達の誰にもあり得ることです)、マザー・テレサは「第二バチカン公会議の精神(あるいはその間違った運用)を体現する異端者」であった「だけ」でしょうか。彼女は演壇の上から堕胎の罪を訴えましたし、また確か手による御聖体拝領のことをとても悲しんでいたと思います。彼女には私達が確かに尊敬の念を向けなければならない何か-----何か大きなもの-----がなかったでしょうか。また、ブニーニ大司教はフリーメイソンの確信犯であり聖伝の破壊者として大罪人である可能性が充分あるかも知れませんが、しかしそれでも、やはり悔い改める可能性の全くないサタンと同列に扱う訳にはいかないのではないでしょうか。主イエズスは彼らの救霊を望んではいらっしゃらないでしょうか。ただ「そのような者は地獄に行っても仕方がない」と言っているのでしょうか。「汝の敵を愛することと、異端者を異端者として峻別し、信仰の敵を敵と峻別することは別問題だ」とは本当のことです。ではこのセンテンスの前半部分に従って私達は本当に「異端者」や「破壊者」の霊魂のためにも祈ることができるのでしょうか。それを実際「している」と言えるのでしょうか。ふつふつと湧き上がり噴出する怒りを抱えていて同時に「敵を愛する」ということはあり得るのでしょうか。
私の質問の仕方もとても乱暴なものでした。「なんとなく」書いてしまいました。でも、私の心にあるのはだいたい以上のようなことでした。

「なんとなく」の次も「だいたい」か... これではどうしようもないな...
すみません!<(_ _;)>
(そしてまた今回もオシャベリが過ぎました)

神父様、どうか反応なさらないで下さい。読み流して下さい。いい加減なものですから。掲示板を汚してすみませんでした。
(私もまた沈黙の行でもやった方がいいのだ)

一区切りついたみたいなので再び・・ - 山師(男性)

2007/09/08 (Sat) 23:01:00

-1さんの信徒による洗礼の話はいただけませんね。平信徒の越権行為のようになってはいけないと思います。一時的に良い結果が得られたとしても、私としては懐疑的です。(-1さんを責めているわけではないので、気を悪くしないで下さい。)

「愛する」ということ・・・ - 1(女性)

2007/09/10 (Mon) 18:41:58

 山師さん

 気を悪くなんかしていません。ご心配なく・・・。私も問題に感じたから、書いたのです。


 ヨゼフ・ジェンマさん

 「ふつふつと湧き上がり噴出する怒りを抱えていて同時に敵を愛する≠ニいうことはあり得る」のでしょうね。

 私の場合、これまでの人生では、「ふつふつと湧き上がり噴出するレベルの怒り」を感じたことは、あまりないのです。あったとしても、すっかり、忘れてしまったのかもしれません。もしかしたら、怒りを感じることも、憎むことと同様に(無意識に)良くないこととして、抑圧しているのかもしれません。

 もし、家族や自分に対して危害を加える人が現れたら、(それまで、免疫がない分だけ)大爆発する可能性はないとはいえません・・・。

 フィリッピ人への手紙2;5
「たがいに、イエズス・キリストの心を心とせよ。」
と、あります。

 「イエズス様のように人を愛し、イエズス様のように人を見る」
ことなど、一生かかっても探求しきれないことのようにも思います。

 でも、(嫌悪感や憤りや生理的不快感などで、)どうしてもある人を愛せないとき、鍵になるのが、このシスターの言葉なのではないでしょうか?

 ある特定の人を愛せないときにこそ、
「その方の中にイエズスを見、その方をイエズスのように取り扱うこと」
によって、愛する行為ができる・・・と。

 このシスターの伝記は読んでいませんが、
その愛せないと思われる方を、「好きになれ」、とは言ってませんよね。

 必要なことは、「イエズスを見ること」と「イエズスのように取り扱うこと」・・・
「見る」ことと「取り扱う(接する)」こと・・・
わきあがる否定的な感情があっても、少なくとも、愛の行為は行うようにすること・・・
と、勧めておられのではないでしょうか。

 これはもしかしたら、血のにじむような「祈り」が必要な行為なのかもしれませんね・・・。

Re: 私達カトリック教徒は… - 防衛大臣(?)

2007/09/11 (Tue) 00:50:26

異端の排斥と愛は同じなり。
神を愛し自ら天国に入ることを望み、しかのみならず隣人を愛し隣人を天国に入らせることを望む我々は、神と天国との障害たる異端を排斥せざるべからず。

これで本当にやめます...(^^;ゞ - ヨゼフ・ジェンマ(男性)

2007/09/11 (Tue) 01:06:48

1さま。

>「ふつふつと湧き上がり噴出する怒りを抱えていて同時に敵を愛する
> ということはあり得る」のでしょうね。

いや、私は、「一見神のために信仰のために怒りを発しているような恰好を取っていながら、実は自愛心が多大にある」可能性について考えたかったのです。

> ある特定の人を愛せないときにこそ、「その方の中にイエズスを見、
> その方をイエズスのように取り扱うこと」によって、愛する行為が
> できる・・・と。

はい、だからこの言葉は一つの「道具」であると思います。この言葉を「利用」して、私達の心から悪しきものを排除する助けとすることができると思います。


防衛大臣さま。

はい、ですから、言葉としてはその通りなのです。でも、問題は排斥の「仕方」であります。どういう「感情」をもって排斥するか、です。


ああ、こんな会話はここに相応しいものではありませんので、これで本当にやめます。

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