回天の夢
キーポートのアンダーシー・ミュージアムに保存されている「人間魚雷・回天」を見に行ってきた。
太平洋の戦いもいよいよ敗色濃い昭和19年夏に出現した必死必殺の水中決戦兵器である。
帝国海軍きっての奇才黒島亀人軍令部第二部長(戦備資材担当)が提唱していた「必死必殺戦法と相俟つ不敗の戦備」そして「作戦上急速実現を要する兵力」として要求を出した9つのアイデアの6番めのものに該当するので⑥(マルロク)と称した。
ときに「人間魚雷」のアイデアは特殊潜航艇の青年士官らからたびたび上申されていたところであり、この九三式酸素魚雷を改造したものを乗員が操縦して自ら敵艦に命中する究極の兵器が実現することとなった。
おもえば任務の為には自らの生還は期せざる特殊潜航艇隊員の一途熱烈の思いは開戦劈頭の真珠湾攻撃時に遡る。
当時5隻の特潜を真珠湾口まで運んだ三潜隊司令佐々木 半九大佐の回顧では作戦の打ち合わせに於いて襲撃計画には色々と熱心に意見も出たが作戦後の収容計画になると「別に意見はありませんから万事司令によろしくお願いします」とだけだったと言う。
そして発進のさい電話線を切断する直前の「攻撃が終ったら必ず帰ってこい、みんな待っておるぞ」との言葉にも岩佐大尉は「必ずやります。」とだけで帰ってくるとは言わなかった。
「今にして思えば生還することなど全く考えていなかったのではあるまいか」と佐々木司令は述べている(決戦特殊潜航艇―朝日ソノラマ)。
当時の特潜隊員にとっては戦局の推移とともに「もはや一艇一艦の必死必殺戦法をもって戦果の確実を期すほか回天の術はない」という発想はその一途熱烈な精神の自然な帰結ではなかったろうか。
いま「特攻」というものを考えれば往時の特攻烈士の純粋熱烈たる殉国の精神には近づき難い燐然としたものへの畏れを感じ、また若くして死を選択せざるを得なかった時代の哀れも同時に憶える。
しかしながら特攻を第一の戦法として航空、海中はたまた海上に多くの特別攻撃隊を編成し特攻要員を大量に養成して作戦に投入し続けた軍の決断には同意しかねるものがある。
国家百年いや国の千年先を思えば、とかく体当たり的攻撃に走り易い若い将兵の心情を考慮しつつ、「徒に早々な自爆をすることなく、命のある限り生還し五体の動く限り執拗に攻撃を反復する不撓不屈の精神。」
をこそ周知徹底せしめて戦争指導すべきではなかったのか。
必死必殺の特攻戦法を採れば本当にそれで「皇国不敗の戦備」となり得るのか? 軍の上層部においてはもっと冷静真摯科学的に検討され判断されるべきではなかったか。
思えば昭和の大日本帝国そのものが冷静真摯科学的に情勢を判断する術を失っていたのかもしれない。自らが創り出した「神州不滅」の虚構の夢に自ら溺れ終には世界中を敵にまわして戦争に突入し、滅んでいった狂気の時代だったのか。
かつて大日本帝国が戦った相手である米国に住み、何に束縛されることも無い自由と近代文明の恩恵に浴しているからこそこのようなことが言えるのかもしれない。
もし自分が当時の帝国日本に居て皇紀2600年他民族の支配を受けたことが無い不滅の神州がその危機に直面し陛下が股肱と頼む軍人であったなら、滾ったその空気の渦中で果たして確信を持って特攻に反対し得たか? 自信はない。
錆付いた回天を眺めればこれは魚雷の中に誘導装置として人間を詰め込んだ正に「人間魚雷」そのもので、兵器とは言えあまりにも人の命というものを粗末にするものへの本能的な不快感を聊か憶えつつ展示室を出た。
隣の部屋には音響ホーミング魚雷にまで発達したドイツG7系魚雷が眩しく照明を反射させてそこに横たわっていた。
今も南瞑の海底に眠る回天戦の烈士たちよ、せめて安らかに眠られよ。
<回天作戦>
回天搭乗員戦死者 106名。 (訓練中殉職15名、終戦時自決2名を含む)
回天作戦で未帰還の潜水艦8隻。その乗員810名。
戦果
米国給油艦(USS Mississinewa AO-59)及び護衛駆逐艦(USS Underhill DE-682)撃沈。
*靖国神社およびUS
NAVY HISTORICAL CENTER資料による。
<回天画像>
2002年 8月日