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またまた揺れましたね、東北が [時事・ニュース★]

マンディーさん、あんたれすさん、コメントありがとうございます。

言ってるそばからまたまた揺れましたね、東北が。

今朝は茨城県沖震源。夕方は、昨日と同じ福島県沖。本格的に「ヤバイかな」と感じますね。

備えは必要ですよね。また、普段から心構えも持っていないと、いざ非常時にパニック起こしてしまいます。

何にしても、あまりに地震が続きすぎです。

ちょっと、不気味なタイミングも感じますしね。

宮城・福島の皆さんは特に注意なさった方がいいでしょう。


四国お遍路旅の記憶☆ [☆プライベート★]

DSC07048.jpg

いいですよ、四国遍路は。

一度は歩いてみることをオススメします。

いずれ「本編」でも、自分の遍路旅について語ります。

2回にわけて歩いてきましたが、総歩行距離1400キロメートル、38日間にわたる長い旅でした。

その間、多くの人に出会い、そして支えられました。

一度八十八の寺を回った自分ですが、いつかまた、あの地を歩きたくてうずうずしています。


また揺れましたね東北が [時事・ニュース★]

福島県沖を震源に、東北地方全域が揺れる地震がありました。

なんか、最近多くないですか?

 

30年前、宮城県沖地震が起きたときも、本震の前に強い余震が何度かあったんですよね。

どうも、嫌な感じがします。

ただ、どちらにしても日本に生きる以上、大きな地震については常に備えていなくてはならないわけですからね。大切なのは、起きてしまったとき、どう身を守るか、でしょう。

あとは、大切な人を守れれば何よりですけどね☆


本編1-2 「天皇陛下マンセー!~戦え先生達☆」 [本編第一章]


 平成5年。N町に、なんと天皇陛下がいらっしゃることになった。国道45号線を装甲車……じゃねえ専用車で走り、開いたままの窓から沿道の一般民どもにお手をお振りくださるというものだった。
 コレは見物しないテはない。


 学校としても「できるだけ子供たちと参加してください。」ということだったので、俺は担任していた6年生クラスの子供たちを引率し、堂々と国道沿いのベストポジションに陣取った。


 ちなみに、俺のクラスの子供たちは(毎年)ノリがいい。
 今時の教師には有り得ねえほど猛厳しい指導方針の俺だったが、同時になぜか子供たちはのびのびと育ってくれた。「厳しいから萎縮する。甘やかすからのびのびする」なんて単純なモノではないのだ。やりようによっては、俺のような恐怖のオーラを発する教師のもとでも、子供たちは自由に自分を表現し、力強く成長するモノなのだ。


 現に、この日の子供たちは沿道の笑いを誘った。
 通りかかる全ての車に旗を振り、手を振り、声をかけた。

「お前らいい加減にしろよ。」

 笑いながら俺が言っても、子供たちは楽しそうに国道を走る車に声をかけた。俺たちのポジションは、信号のすぐ脇だったので、停車した車の運転手と話になることもしばしばだった。あるトラックの運転手は、

「お前たちなにやってんだ?」

と話しかけてきた。子供たちは、

「天皇陛下を待ってるんです!」

と元気に返事をしている。こいつら、一応当初の目的は見失っていないようだ。ま、その辺がさすが俺の教え子よ。

「天皇陛下ぁ!?バカ言ってんじゃねえよ。こんなとこ天皇が通るわけないだろ。」

 そう言って笑う運ちゃんに、子供たちは日の丸の旗を振って、

「嘘じゃないよ。この旗が証拠だよ。もうすぐ公民館から走り出すって。昨日なんか河口のトイレ見に来てたんだよ。」

と説明する。

「あぁ、そういや昨日のニュースでそんな話ししてたなあ。じゃホントに天皇通るんか?」

「うん!」

 信号待ちの運ちゃんと普通に会話する小学生。今なら、「生きる力だ」とか言って感心する大人もいることだろうな。

「じゃ、がんばれよ。」

 何をがんばるのかわからんが、運ちゃんは激励の言葉を残して走り去った。
 その後、外人の車が信号で止まった。欧米人3人組のその車は、沿道の人々に手を振りながら走っている、ノリ抜群の連中だった。むう、嫌な予感がする。

「うおお!外人だ!」

ある男子が無意味に盛り上がる。

「ハロー!」

別の子が3人組に声をかける。
あーあ、もうこうなったら止まらない。
子供たちに気づいた3人は、車から身を乗り出すような勢いでこちらに手を振り、声をかける。子供たちは大喜びで日の丸をふり、拍手と歓声があたりに響く。

つーかよ、日の丸振られて喜ぶ外人もどうかと思うぞ。

「nanisiterunndai?」

「テンノウ!カム、カム」

「OH!テンノウ!?」

おいおい……会話成立してるよ。こりゃホントに生きる力になってんなあ……。ま、子供に本物のバイタリティーをってのは、俺の教育目標の一つだから、よしとするか。

「イエーイ!」

「OH!イエーイ」

信号が変わり、車は走り去った。ノリの悪いN町の住民の中で、このガキどもだけは3人組に負けないテンションだった。なんという恐ろしい連中を育ててしまったのだ、俺は……。


 そして、いよいよ天皇陛下を乗せた車がやってきた。
 窓から手を振る陛下は、さすがなれた手つきである。素人にはとてもまねできない手の動きだ。そう、あの動きは……トキ。激流を制する静水のごとく、穏やかなお手振りだった。うっかり棍棒なんかで殴りかかったら「こんなんやだ!」なんてことになりそうだぜ。天皇恐るべし。
 が、子供たちはようやくお目当てのものが現れたと一気に盛り上がり、「ギブ・ミー・チョコレート」と言わんばかりに旗を振る。頼むからお前ら、陛下の前でN町と俺の恥を晒さないでくれ。

 わずか30分ほどの間に、数々のエピソードを生んで、「天皇陛下見学会」は終了した。改めて感じたが、思い出なんてモノは作る気になればいくらでも作れる。逆に、感動する心のない連中など、一生涯生きても、人に語れるような思い出は一つも作れない。

「ノリがいい」とは、「感動する心を持っている」ということなのだ。

 俺は、子供たちになによりもこの「感動する心」を持ってほしいと願い、日々教育に当たっていた。毎年毎年、俺のクラスの子供たちは確実にその心をもって進級、卒業してくれていた。現に、この日通りかかる車に強烈な印象を植え付けた6年生たちは、中学校進学後数々の改革を行い、中学校の教師たちに「こんな子供たちは初めてだ」とまで言わしめたのである。
 夜の職員室で、俺は一人、安らいでいた。子供たちの成長に、感動していたのだ。

 しかし、この話にはさらにオチが待っていた。
 突然、電話が鳴った。職員室には俺一人だったので、俺が受話器を上げた。

「はい、H小学校です。」

「雷門先生はいますか?」


 なんや名乗りもせずにぶっきらぼうな声だ。歳は40くらいの、男の声。ま、どうせまた細かいことに突っ込むのが趣味の、暇な父親あたりだろう。「お前、取引先にもそういう態度で電話すんのか」と思いつつ、俺は応対した。

「私が雷門ですが、どちら様ですか。」

「どちら様でもいいよ。あんた今日、子供たち連れて天皇陛下見に行ったんだってな。なんでそんな勝手なことするんだ。だいたい天皇なんて存在はな……。」


 ああ五月蠅い。天皇制反対は結構だが、こちらはそんな脳みそ偏った連中とまともに話してる時間がもったいないのだ。せっかくのいい気分を害された俺は一気にぶち切れた。

「あぁ!?それがどうした!だいたい名乗りもしねえで失礼だとはおもわねえのか貴様!天皇見に行ったのが気にいらねえってか?珍しいモンが来れば見に行きてぇと思うのがフツーだろが!!動物園に珍獣が来たらみんな見に行くだろが!それと同じだ!文句あるならテメエがどこの誰か名乗ってかけ直しやがれ!!」

職員室に俺の声が響く。というか、確実に外にも漏れていただろう。おそらくこんな音量で怒鳴られるのは初めてであろう電話の向こうの坊や(いや、大人の男だったがね)は、一言も返せずにいた。もはや抵抗のオーラは感じない。

 言うだけ言って、俺は電話を切った。二度と、かかってこなかった。
 完全勝利である。

 つくづく、俺は教師ではないな。天皇陛下を珍獣に喩えるなんて、右翼連中が聞いたらこれまたぶち切れそうだが、そういう台詞が電話でさらりと出るのが俺なのだ。
 子供たちは、様々な体験をするべきだ。トラウマになるようなものはまずいが、感性を育てたり、知識を広げるような活動は、少々授業をぶっ潰してでも味わうべきなのである。それこそが、本物の「生きる力」を育てるのだということを、今も昔も教師は知らなすぎる。そうは思わないかい?みなさん。
 子供たちの「体験のチャンス」を潰すような先のクレームは、決してまともにとりあってはならない。俺は、クビになるまでこのスタンスを貫き、幾度となく石頭の親連中とケンカすることとなった。
 それも、免職の一つの原因かもしれない。


 一つ余談を付け足すが。

 昨今、モンスターペアレントというドラマまで作られるほどに、「わけわからねぇ親」が問題になっているが、学校、教師があまりにも軟弱な対応をとりすぎることも、そういった親をますます増長させる原因の一つではないかと感じる。

 H小学校は昔からの浜地域であるため、気性の荒い人も多い。時には、話半分の怪しい情報や、拙い子供の伝聞を真に受けて学校に怒鳴り込んでくる親もいた。

 ある時、少年野球団の監督が、H小学校、それも雷門をターゲットに怒鳴り込んできた。
 まだ早朝であったため、職員室には俺一人だったのだが、その監督はどえらい剣幕で学校玄関にやってきて、「お前に話しがあるんだ!!」と大声を張り上げる。

「とにかく、職員室でお話しを伺いますので、どうぞこちらへ。」

 丁寧に監督を職員室に通す俺。談話スペースに座らせ、話を聞く。

「お前、子供たちになに言ってんだよ!野球やってる連中のせいで校庭が荒れるから邪魔だって話したそうだな!俺たちがいつもどんだけ一生懸命指導してやってるかわかってんのか!!」

 まあ、一般人としては大きな声を出しているつもりなのだろうが、雷門にしてみれば可愛いもので、まるで天使のささやきのようなものである。
 だが、あまりにも興奮したままのお父さんを、まずは静かにさせなくてはならない。そこで俺の語りかけた言葉は、こうだった。

「お話は承りますが、あなたさっきから私を『お前』呼ばわりしてますね。あなたに『お前』とか言われるのは気分も悪いですよ。あなたがそういう態度で話すなら、私もそういう対応をしますが、いいですね?」

 その時の俺の表情は、圧倒的捕食者が獲物を見据えるような顔だった。
 その「気」を感じてくれたのか、その監督は一瞬で静かになり。

「す、すいませんでした。ちょっと興奮していて。実はですね、うちの息子が…………」

と、落ち着いて事情を話してくれた。
 なんのことはない誤解で、すぐにその監督は事情を理解し、笑顔で帰ってくれた。 
 相手が男親の場合は、わりとこの手が有効なのだ。やはり男という生き物は、「力量」に敏感なところがある。興奮している人間に下手に下手に出ても、その誤解のままに事を大きくされてしまうことがある。まずは、会話自体を「対等」にしなくてはならないのだ。

 学校は、何でも屋ではないし、親の下僕でもなんでもないのだ。子供たちを預かり、教育を行っているという自負と誇りをもって立たなければならない。時としてわけのわからない親に対して、毅然として己の信念を貫かなくてはならない。

 教壇を離れた雷門だが、「学校」には、そのように自信を持って教育に当たってほしいと、今も願わずにはいられない。

  次回1-3 「用務員の涙~子供たちの全力運動会」に続く


パートさんとのお付き合い☆ [☆プライベート★]

寝る前に一言

今日、とても頼りになるパートさんが退社されました。

もう1年半年以上も前に辞める予定だったものを、今日まで「もう少しやれます」を繰り返し、頑張ってくれた、とても戦力になる方。
もちろん、そんな優秀な方に辞められてしまうのは痛手ですが、感謝をもって送りたいと思います。本当に、私個人としてもどれ程助けられたことか……。

本当は、その方と最後に一緒に仕事ができる予定はなかったのですが、幸いにも最終勤務日に私も職場にいることが出来たわけです。

正社員がパートさんや派遣さんを見下すようなことが現実にあるようですが、そういった人間が私は大嫌いです。

「お前の代わりはいくらでもいる」とでもいわんばかりの横柄な社員。むしろ、そういう人間的に欠けているお前こそ、誰かと代わった方が会社の為だよと諭してあげたいですね☆

社員とか管理職ってのは、上で威張る為の肩書きじゃないんです。責任が回ってきたときにそれをかぶる「立場」なんですよ。

常々自分が思い、実践していること

「売り上げ伸びたらパートさんのおかげ。こけたら俺の責任。」

私と初めて話したとき、「もう辞めます」と言いながら、結局2年間も私の元で活躍してくれたあの方に、今夜深く感謝する雷門です。
ありがとうございました。

コメントありがとうございます☆ [☆プライベート★]

いろいろありましたが、現在ようやく予定の軌道に乗りつつあります。

以前からのお知り合いの皆さんも、初めての方も、どうぞよろしくお願いします☆

以前は、「今日」あたりは大仕事を終えて一息ついていた頃なのでしょうが、今の仕事にはメリハリがないまま、時々ビッグバンの様にキツイ日があるという状態で、年中息つく瞬間がないですね。

まあ、民間の方は大半がそうなのだろうなと、今さらながら公務員という仕事の「特殊性」を感じています。

次に一息つけるのは、定年退職の後かな?(悲

できれば、もう一度「お四国」を回りたいです。

自分の足で1400キロメートルをひたすら歩くあの感動は、我が人生の中でももっとも思い出深いモノです。

ん~~
これも退職後かな

1-1 「新任教師雷門修司が来てしまった」 [本編第一章]

昨日上げる予定だった、まあある人物の自伝もどきです。
実はネット上での語りは相当先まで進んでいますが、こちらでは冒頭から紹介していきます。
いずれ、これに関していろいろサブストーリーも書いていきます。
結末は極めてネガティブなラストシーンになる予定ですが、それでも最後まで語り抜くことが我が人生の一区切りだと信じていますので、この長大な語りを進めてまいります。

では、いつ終わるとも知れない物語、開幕致します。




第一章

 俺は、かつて教師だった。
 自分の教師時代を思い出すのはもはや苦痛だが、今の自分を語るためには避けて通れぬ試練といったところか。
 しかし、その内容は決して苦痛に見えるものではない。むしろ、輝かしい過去、ぶっちゃけ、自慢話に聞こえるものになるだろう。それほど、俺の教師時代は日々充実したものだった。しかも、それは決して自己満足の範囲にとどまるものではなく、子供たちの思いや成長に支えられた厳然たる事実である。
 平成14年5月。俺は停職処分を受けたが、そのきっかけになる出来事を語る前に、少しだけ俺の教師時代の思い出を語ろう。「教師」という職業に就く者は多いが、俺のような思いが出来ている教師はどれほどいるものだろうか?星の数ほど転がっている俺の教師時代のメモリーから、いくつかを知ってもらおう。
 教師・雷門修司を理解するための第一の手がかりとして。


 本編 第1章 1話 「新任教師雷門修司が来てしまった……」

 平成2年4月1日。
 俺は、M県N町(現在は隣の町と合併してH市)の、「H小学校」に赴任した。
 しかしどうでもいいことだが、イニシャル化というのは鬱陶しいものだな。地名や人名を解説すると何がなんだかわからんわコレ。
 とにかく俺は、新任教師としての第一歩をこのH小学校で踏み出すことになった。
 教師時代について長く語るつもりはないので、脳の片隅で積み上げられ、発酵しているメモリーの中から数編を語るだけにしよう。リクエストがあれば、あらためて語ることもあるかもしれない。
 初めて担任したのは3年生。1学年1クラスしかない、いわゆる小規模校だったH小学校なので、新人だろうがなんだろうが3年生は俺が預からなくてはならなかった。

 身長176センチメートル、体重77キログラムと、まあ体格的にはがっちりした方だったおかげで、初日から男子たちがスポーツマンと勘違いしてよってきた。しかし、残念だったな少年たちよ。俺はスポーツはさっぱりなのだ。俺が得意な「運動」といえば……そうだな、無理矢理分類すれば格闘技かな。なぜ無理矢理なのかは、この後子供たちは身をもって知ることになっていく。

 初めての授業は国語。大学で専攻していたのが国文学であったことから、まずは得意分野で勝負しようと考えたのだが、これが自分が勉強するのと子供に教えるのとではまるで違うという「当たり前」の事に打ちのめされ、そのショックからか、その日の放課後、給食費の集金袋を職員室の机の上から持っていき、そのまままるでお知らせプリントのように子供たちに配るという真似をしてしまった。

 当然、次の日子供たちは「これ、何入れて持ってくるんですか?」と不思議な顔で詰め寄ってくる。

 いやいや、波乱の教師人生の幕開けがこれだ。アホすぎる雷門修司。

 それでも、その後得意の力押しでそれなりに教師していく俺だったが、その正体が初めてちょっとバレたのは、5月の運動会の時だった。
 担任していた3年生たちが徒競走の入場をするときのことだった。入場曲が校庭中に鳴り響く中、俺はマイクを握り、入場の号令をかけようとした。しかし、「マーフィーの法則」にもあるように、大事なものは本番にこそ壊れる。突然マイクが故障し、うんともすんとも言わなくなってしまったのだ。だが、子供たちはもう入場体勢になり、いつでも動き出せる状態になっている。

 さあどうするか。

 普通に立派な教師さんたちなら、一旦入場をやめて機材をチェックするなどの対応をとるんだろう。が、俺はマイクを下ろし、指揮台の上で一歩踏み出した。そして、くいと顔を上げ、久しぶりに腹筋を全開にして横隔膜を動かした。
「駆け足よおーい!」
 マイクを通さない肉声が、BGMを切り裂いて入場門の子供たちに突き刺さる。会場は一瞬静まりかえり、「ウチの子の出番じゃないから~」と弁当中の親たちまでが指揮台に注目する。指導の中で俺の声になれていた3年生の子供たちも、これまでとレベルの違う「声」に驚いているようだ。
 俺は、声がでかい。生まれつきのものもあろうが、3年間声を出すことが目的の部活に所属していたので、俺の発声は常人離れしたものになっていた。入場曲が少々流れていようが関係ない。俺の指示は確実に子供たちの脳に届き、競技は滞りなく終わった。
 この出来事で、保護者や来賓としてきていた学校関係者たちは、俺のことを「ただ者ではない」と勘違いしてくれたようだった。その後も学校内外で「教師とはお上品」という(勝手な)先入観をぶっ壊し続ける俺は、新しモノ好きの人々からは篤く支持され、逆に保守的だったり、権利意識の強いオバ様たちからは忌み嫌われる教師となっていった。

 そうそう。この運動会の時、もう一つ正体がばれる場面があったのだった。

 競技中、子供たちが俺のところにやってきて、なにやらもじもじしている。

「どうしたんだい?」
「あのね、先生。中学生の男の人が体育館で遊んでるの。」

 このH中学校は、当時卒業生が地元で馬鹿やらかしていて、警察のやっかいになるものもたくさんいる「問題地区」だった。話は聞いていたが、その下っ端でも悪ふざけに来たか?

 体育館の中では、これから競技に使うボールで遊び狂う中学生らしい男が4人。

「やれやれ……。」

 一応、ここの卒業生たちが無邪気に遊んでいる可能性もあるので、俺は優しく声をかけてみた。

「やあ、卒業生の皆さんかな?」


……
…………

 ほう、無視か。いい度胸だ。

 もう一度優しく笑顔で声をかけるが、聞こえているであろうに、やはり無視。
 クソガキ決定だ。

「なにしてやがんだこのクソガキども!!」

 ビクッと動きが止まり、ボールはてんてんと床を転げていく。

「てめぇら卒業生か!?後輩が一生懸命準備した道具でふざけてんじゃねえぞ!!ここに集まれクソガキ!!」

 運動部かお前ら?という勢いで集合する4人の悪ガキども。

「まあ、懐かしい気持ちはわかるが、体育館の中で遊ぶのは感心しないな。遊ぶなら校庭の片隅で、小学生の邪魔にならないようにしろ。いいな。」

 やっちまった。学生時代、近所の中学校にいわゆる不良少年たちを注意に乗り込んだ時、互いにエキサイトして20人ほど相手に乱闘した俺だが、その時はもう、まるで潰れたニキビを触るように手加減したにもかかわらず、病院のやっかいになるガキが数人出てしまった。
 後々、どんな意味が込められているか知らないが「GTR」と呼ばれる事になる雷門修司。

 その第1ラウンドがこの運動会の出来事だったのかも知れない。


 ま、こんな感じで徐々に「こいつやべぇ!」という本性がばれていった俺だが、子供たちからはどう見られていたか?
 好かれていたかどうかは知らんが、次々と新しいことをやらかし、子供たちの自由な発想を常に実現させてやろうという俺の想いはそれなりに伝わっていたようだ。新任の年、教師として迎えた初めての誕生日に、子供たちから手作りのケーキやプレゼントをもらった。
 その後、教師をクビになるまで(いや、正確にはクビになった後もだが)毎年バースディには子供たちと楽しく過ごすことができた。
 親たちが俺という存在を掴みかねてあたふたする中、子供たちは俺がどんな教師なのか、肌で感じ取っていてくれたのだろう。

 そうそう、親(保護者)を困らせたといえば、こんな馬鹿話もある。

1-2 「天皇陛下マンセー!」に続く 

石巻、仙台で津波20センチ☆ [時事・ニュース★]

まあ、そんなもんでよかったですよ。
被害も出てないようだし、何よりです。

それにしても、最近東北がよく揺れますね。いよいよ来るんでしょうか、宮城県沖が。

今日の地震も相当広範囲が揺れたようですね。地震自体のエネルギーはかなり大きいようです。

ただ、七ヶ浜の映像が出たときにちょっと気になったのですが、津波注意報が発令されている区域内の防波堤で、釣りをしている馬鹿者が数名いました。

きついことを言いますと、そういう連中は別に死んでもいいのでしょうが、その遺体を捜索したり、事後の処理でいろいろな人に多大な迷惑をかけることを理解していないのでしょうか?

釣り人の中に、そういった馬鹿者がいると、全ての釣り人が同じような目で見られかねません。

ちと残念な一場面でしたね。

連携成功しております☆感謝感謝 [お知らせ]

昨夜から「連携」開始しました。現在のところ順調のようです。ありがとうございます、皆さん。

このまま、当ブログの露出度を高めていきたく思いますので何卒よろしくお願いいたします☆

今夜(出来るかな……)、ここもあそこも「本編」上がる予定です。いよいよ本格稼働ですよ、「この国のどこかで」!!

どうか最後まで、雷門修司に皆さんのお力を分けて下さい。

では、また夜に☆

東京ディズニーシーを貸し切り!!!! [時事・ニュース★]

いやいや!!
本当はとても重くて大事な記事を上げる予定だったのですが、このニュースがあんまり衝撃的だったので!

とある一家族のために、東京ディズニーシーが2時間半にわたって「貸し切り」となったそうで。驚きです!

というか、そういう企画があればいいなあと以前から思っていたのですが、やっぱり存在してたんですね☆

1600通の応募から抽選で当たったある家族のために、朝7時半から東京ディズニーシーが貸しきりとなった話題

その家族のためだけにいろんな企画が催されたそうで、すばらしい企画ですよね☆

羨ましいより、「よかったね」と笑顔になってしまいます☆

ただ、不思議なのは、1600通という応募の少なさ。多分、何かの条件とかあったのでしょうね。
でなければ、裏マニュアル的なモノがあるのでしょう。

雷門家も、以前その裏マニュアルのおかげで、マークトゥエイン号の操舵室に入れましたし。息子が記念撮影して、喜んでました。

平和だった頃の、イイ思い出です☆
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