友達
皆様、おはようございます。

先日、東京メトロ日比谷線の茅場町駅でばったり見つけましたが、最近ではこのような大きなテレビが地下鉄の駅にはあるんですね。
昔は地下鉄の駅、というと暗くて薄暗いイメージでしたが、すっかり変わってきています。
自分はお登りさんなので、どうも都心の実情が把握できていないですね(笑)。
〜ここからが、本日の記事になります〜
友達、というカテゴリを線引きすることは、非常に難しい。
別に無理して線引きをする必要もないけれども、自分の心の中ではある程度の区分はしておかなければいけないと思っている。
じゃあ、友達とは一体どう暫定的に定義したら良いだろうか?
少なくとも
「一緒に居る時間が長い知人」
ではないことは確かだろう。
小学校から中学校までずっと一緒のクラスだとしても、友達にならない人間は多い。
要は時間の長さは、その相手が友人かどうかの判断基準にはならない。
「知人の中でも、よりお互いを良く知っている知人」
お互いを良く知っているかどうかは相手の何の部分を良く知っているかによって、話が全く違ってきてしまうし、そもそも相手を良く知っているかどうかは結果論であって、友達になったから良く知ったことになっているかもしれない。
だからこれも当てはまると考えにくい。
結局のところ、どうしてこの2点が当てはまらないのか、と考えてみると、それはあくまでも自分自身の話で終始しているからである。
上記の件でいうならば、
「一緒に居る時間をお互いが何とかして捻出しようと思うことが出来る知人」であるだろうし、「知人の中でも、お互いがその相手を良く知ろうとしている知人」であるといえるのではないだろうか。
相手をどれだけ理解しようとお互いが思っていなければ、友達という状態は成立しない。
自分はこの内容については非常に重要なことだと思っている。
ただ、最近ではそのことをあまりにも認識しない人間が多いような印象を受ける。
自らの何らかの働きかけをしようとしないにも関わらず、既成事実(会っている回数や時間等)だけで物事を判断しようとするからこのような勘違いをしてしまうのである。
またこれの裏返しで考えてみると、何だかんだ言っても相手からの働きかけを絶えず自分の心の中でジャッジしているのである。
これは言葉を悪く言えば、自分の行動に対して常に見返りを求めているということであり、純粋な相手を思う気持ちではない。
しかしながら、それはそれで良いのではないかと自分は思っている。
相手からの見返りを全く求めないというのはウソであって、必ず何かしらの皮算用をしているものだということを自らが認めなければならない。
自分の場合は自分に対して何かしらの働きかけを感じた場合、必ずそれ以上のお返しをしようと心掛けている。
また最初に自分から働きかけた場合には、相手のお返しの反応を見て相手を判断している。
これを良く思わない方もいるかもしれない。
ただ、繰り返すけれどもこれは意識しているかしていないかの問題であって、何かしらの反応は期待している方が人間として正常なのだと思う。
ブログを通して未だにお会いしていない方とも、充実したお話ができる状態ならば自分はそのお相手を友達だと思っている。
(あくまでも一方的なので、心を害した方がいらっしゃったらすみません)
それは自らの経験則から判断してのことであるが、それは実際にお会いしていなくても相手からの働きかけで自分はその誠意というものを感じ取ろうとしている。
それはコメントの長さやコメントの回数だけではない、一つ一つの様々な積み重ねだといえる。
この記事の内容を考えることが出来た機会が得られただけでも、自分は大きくなれたと思っているし、またご訪問頂いている方々には心から感謝しなければならない。
皆様、本当にありがとうございます。
これからも是非ともよろしくお願い致します。
Posted by cpa1806 at 09:18
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おはようございます。
>ブログを通して未だにお会いしていない方とも、充実したお話ができる状態ならば自分はそのお相手を友達だと思っている。
という部分に共感します。
例えば2日に1回コミュニケーションを取っていれば、頻繁に連絡を取り合っているような気分になります。
文字だけのコミュニケーションは難しく、リアルで会えばまた印象は変わるのでしょうが、最近ではスカイプ・声の出るBlog等文字から一歩前進し始めている動きもあります。
こんにちは。物理的時間の共有が友人たる要因には何も影響を与えないことは、まさにおっしゃるとおりですね。所詮1人では充実した人生は送れないですが、肉親は選択余地のない関係だから除外するとして、自分が広げたい心のキャパにどれだけマッチする考え方や行動を共有できるか−そのことが友人になり得る、そしてその深さの幅につながる因子なのでしょう。
ただ、その共有環境に至るまでには、時に痛めつけあって血を流すこともあるでしょう。それをつい避けたがる性格だと、「人づきいが苦手→人間関係が希薄」になってしまうのかなとも思います。(自分もそんなところあります)
こんばんは。
私も友達の線引きは難しいと思っています。
引き方次第で友達は増えたりまたは全くいなくなったりします。
使い古された言葉ですが、やはり価値観の合う人。
それが友達だと私は思っています。
こんにちは
個人的偏見で....。
例えば自分はこの人は友達だと思っていても
相手は知人と思って要るかもしれない?
相手の心の中はその時の気分で利と、価値観を共有できるかで知人から友達に、そして知人にと変るのではないかと考える。
人間誰しも自分が一番可愛い、損を承知で骨身を削ると言う言葉を
実行してくれる本当の友達は? 残念ながら私には居ない。
(だから、いつも身近にいる家内と仲良くしなくては)笑う。
基本的には自分の事は自分で解決しなくてはならない
友達を持ち人生を豊かにと考えるのは理想かも知れないが
友達とは? 答えがあって無い様な 禅問答のような
ものになってしまう
これは本当に難しい
dias51さんへ
そうですか、音声にまで広がりを見せているんですか。
ハム無線のような感じになりそうですね。
dias51さんとは自分は面識がありますが、やはり面識の有無で感じ方が違うということは言えそうです。
前回のオフ会の時も、皆様お忙しい所、ご都合を付けて頂いたというその気持ちが自分は嬉しかったですし、そのお互いの歩み寄りが必要なのではないかと思っています。
これは本人の資質と、それまでの人生の歩み方というものに左右されそうですね。
この辺りに鈍感な人間は、自分はどうも合いませんね。
横綱もも乃海さんへ
少々関係ないことかもしれませんが、恋人同士→夫婦になって良くなくなるカップルをたまに見かけます。
それは結局、恋人段階ではお互いが理解しようという歩み寄りを見せているのにも関わらず、夫婦になったらそれがなくなってしまうというパターンではないかと思います。
やはり夫婦になると、安心をしてしまう、もっと言えば横柄になってしまうので、自分も気をつけたいと思っています。
友達同士でケンカ等をしても、本人同士が来るもの拒まず、という広い心がなければなかなか難しくて、根に持つ人間はこういう場合は損をしますね。
自分も避けたがる気がありますが、何故か職場では望んでもいないのに波風が立ってしまいますね(笑)。
菜花さんへ
価値観が合う人、というのは逆に自分はいないと思っています。
むしろお互いの価値観を理解し合える人、というのがベターな表現ではないでしょうか。
特に結婚をすると、価値観が違うことに良く直面します。
これはしょうがないことで、例えば自分の両親に対する気持ちは相手に取ってみれば一緒の筈がありません。
友達も然り、なかなか価値観が合うのは難しいです。
だからこそ、自分は違っていても相手の価値観を理解するように心掛けています。
そう考えれば、価値観が違っていても摩擦が少なくて済みますし、無駄な期待をしなくても済むのではないでしょうか。
フルベンさんへ
お久しぶりです、お元気でしたか?
そもそも友達という言葉自体に意味があるのか?という話にもなってきますが、自分もその辺りに疑問を感じていたので今回の記事にしてみました。
自分も何だかんだ言っても、損得を考えて行動しています。
短期的に見れば身を削って、損をしてまでも相手に何かを働きかけることもありますが、それはその行動以前に相手が自分に対してしてくれた事に対する答えの意味合いもありますし、自分が働きかけることによって、長期的には相手が返してきてくれるという期待があるからです。
それが無いのに、行動している方というのは、相手に親切にしているんだ、ということを自分自身に酔っているか、もしくは本当に何も考えていない場合です。
友達とは?という答えはないかもしれませんが、社会で生きていく以上、自分の中でそれなりの考えを持っておく必要があるのではないでしょうか。