*予備士官及び予科練出身者の場合*
純然たる募集。土浦海軍航空隊の予科練習生の場合、応募者2千余名の中から、身体健康で意志強固な者、攻撃精神旺盛で責任感の強い者、家庭的に後顧の憂いのない者(一人っ子、長男でない者)を基準に100名を選抜。募集にあたっては「生還の望みはない」と説明された。
募集要綱には「右特殊兵器(回天のこと)は挺身肉薄一撃必殺を期するものにしてその性能上特に危険を伴うもの」(挺身・・自分の身を投げ出して事に当たること)。「選抜せられたる者はおおむね三月及至六月間別に定められたる部隊において教育訓練を受けたる上直に第一線に進出する予定なり」とある。
(註:募集要項は、当時回天作戦がまだ軍機密事項の段階であったため、敵への情報流出を防ぐ必要から、兵器に関する具体的な内容は一切記述していない。)
資料
朝日ソノラマ『人間魚雷回天』より/
神津直次(元回天四期予備学生隊員)
藤沢善郎(元学徒出陣搭乗員)「(あの時の説明で)特攻兵器なる事は直ちに分かった。志願は自発的で決して強制ではなかった。此の事は極めて大事な事で戦死殉職者に対しても『我々が自殺兵器に乗せられた』が如き発言は、小生予ってよりの持論として許し難い処である」
杉本恵(元学徒出陣搭乗員)「(回天志願の時、個人面接で)隊長から『君は決して生きては還れない。旨い汁を吸うのは銃後の国民だよ。それでも君はよいのか。もう一度ジックリ考えよ』と言われたが、今さら後には退けなかった」
大野藤之助(元学徒出陣搭乗員)「その夜、私は隊長室のドアをノックした。私は隊長の前で、老人や女子供が平和に暮らしていけるなら、軍人としていかなる死をも問わないこと、兄弟はたくさんおり家の心配はないことなど、心情を吐露して訴えたのである。戦局いよいよ苛烈の時、やむにやまれぬ気持ちであった。せめて本土だけは戦場にしたくない。それが私の切実な願いであった。特攻兵器(その時はまだ回天とは知らされていなかった)搭乗志願の選に洩れた私の訴えをジット聞いておられた隊長は、最後に一言いわれた。『よしわかった。帰れ』」
*海軍兵学校(海兵)・海軍機関学校(海機)出身者の場合*
海兵71期の加賀谷武大尉、帖佐裕大尉、72期の久住宏中尉、河合不死男中尉、海機53期の村上克巴中尉、福田斉中尉、都所静世中尉、豊住和寿中尉、川崎順二中尉は潜水学校11期卒業と同時に志願して回天隊に参加。この時点では回天作戦は海軍内部でも極秘事項であったため、以上は創始者黒木大尉、あるいは仁科中尉と直接、間接的に連絡があったと推察される。(河合中尉は久住中尉と海兵卒業学年で同分隊、また川崎中尉とは前任の戦艦榛名で同勤務だった。)
海兵70期の上別府大尉、樋口大尉は特四内火艇より後志願参加。海兵70期の近江(山地)大尉、71期の三谷大尉、72期の橋口中尉も回天と同じような特攻兵器を発案した後志願参加。
それ以後(海兵72、海機54期以降)着任の海兵、海機士官については転勤命令(指名)による。(本人の配属希望を考慮し選考)
資料
小灘利春(元第二回天隊隊長・海兵72期)「いきなり指名でしたが、この様な大きな働きが出来る配置は光栄でした。もし聞かれれば当然志願しました。指名されたのは適任と認められた証明であると、今でも誇りに思っています」
小幡昭信(当時海兵75期生徒)「特攻作戦の是非ついては、当時のマスコミは情報統制がなされていたと考えられますので批判の余地はなかったでしょう。そう言う情勢であったとしても、国民の大部分はこのままでは国の存亡の危機であり、特攻しか採るべき手段がないものと覚悟していたのではないでしょうか。黒木中尉と仁科少尉の上申書からの回天誕生のきっかけにも、そのような危機感の表れがあったと考えられます。小生自身も当然特攻作戦に参加する運命になるものと考えておりました。」
予備士官及び予科練出身者に対する募集で、特攻兵器であることを口頭で伝えざるを得なかった点、また海兵、海機士官に対する指名のあり方等、募集採用に際してまったく問題がなかったとはいえませんが、一部に聞かれる志願強制、騙して搭乗員にさせた等の見解は、たとえそのように思った搭乗員がいたとしても、使命に従い日本再建を願って死んでいった多くの隊員達の命を蔑ろにする、責任を欠いた発言であると思われます。 |
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