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発信箱:渇望の不在=玉木研二(論説室)

 先週亡くなった国語学者、大野晋さんの「日本語の年輪」を高校の教室で私たち生徒に勧めたのは国語教師である。1966年に新潮文庫で登場して間もないころだ。「うつくしい」「さびしい」など歴史と民族の心に根差した言葉の源、変遷をたどる本編。これに書き添えられた50ページ程度の「日本語の歴史」に感銘深い一節があった。

 日本人が初めて文字を手に入れ、懸命に使いこなそうと苦労を重ねるくだりだ。<漢字と漢文の不自由さを克服し、日本語の特性を生かして、自由に、やさしく、感情のすべてを豊かに表現できる文字と文章とを獲得したい>

 その強烈な欲望は後に仮名を生み出すが、そこに至るには官人や知識人の間で権威ある漢文の様式に抗し、和風に変容させる過程がある。<人から、漢文を書けないものと見られるある屈辱と、別の意味では、日本語らしい文章をのびのびと書き、自分の気持をにじみ出させることができるという喜びとを同時に感じることであったろう>

 各地で出土する習字の木簡などは、試行を重ねて表現方法を得、対面せずとも離れた人と意思疎通できて記録も残せる喜びがにじむようだ。

 そして現代、ネット登場にもその躍動感はあったはずだが、どうもその気分は薄く、もてあます空気さえある。天与のように精密で至便の記入・通信機器が私たちの前に用意され、大量の情報が交わる。そんな目まぐるしさの中で<不自由さを克服し、自由に、やさしく、感情のすべてを豊かに表現できる文字と文章とを獲得したい>渇望感を経ることがなかったからか。

毎日新聞 2008年7月22日 0時15分

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