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ベトナム戦争略史 1945年9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言によって、ベトナムは一応独立したものの、フランス政府はあくまでベトナムを元の植民地に戻し、戦争で失われた自国の国力を取り戻そうとしました。 9月23日にフランス軍はサイゴンの人民政権へ攻撃をしかけます。翌1946年3月18日フランス軍はハノイへ進駐、6月1日には南部ベトナムにコーチシナ自治共和国を樹立します。11月20日フランス軍はハイフォンでベトミンを艦砲射撃で攻撃し6000人のベトナム人の命を奪います。これに対して12月19日ベトミンは全国で反撃を開始、第1次インドシナ戦争の始まりです。 1949年6月14日フランスはベトナム国を樹立しバオダイ帝を立て傀儡政権を作り上げます。これに対して設立まもない中華人民共和国がホーチミンのベトナム共和国を1950年1月18日に承認し、1月31日にはソ連のスターリンも承認します。ここに、ベトナム国内の上に、資本主義国家対社会主義国家の構図が描かれることになります。そして、それまでインドシナ情勢には消極的だったアメリカが2月7日にイギリスと共にフランスの作ったベトナム国を承認し、3月19日には米空母一隻と駆逐艦2隻をサイゴンへ派遣しベトナム人民軍と交戦することになります。そして8月2日には米軍事援助顧問団(MAAG)がサイゴンにできます。 これに対しベトナム人民軍は、1951年11月19日から翌年の2月にかけて大規模な攻勢をかけハノイの北の大部分の地域を制圧してしまいます。1953年11月20日にはフランス軍がジャングルに潜むベトナム人民軍の物資補給経路をたつために、ハノイの北方でラオスとの国境地帯にあるディエンビエンフーへ降下部隊を投入し、占領して要塞を建設します。 翌年1954年3月にベトナム人民軍は不落といわれたディエンビエンフー要塞を攻撃し5月7日に陥落させてしまいます。これによって北部ベトナムでのフランス軍の力は徹底して弱まってしまいました。 5月8日にはインドシナ休戦協定に関するジュネーブ会議が開かれ、約3ヶ月かけてジュネーブ協定が調印されます。7月21日のことです。ジュネーブ協定では、ベトナムの主権と独立を認め、北緯17度線で南北に分割することが決められました。 フランスに変わりベトナムに影響力を持ったアメリカは北の社会主義に対抗すべく、反共産主義者でクリスチャンのゴ・デェン・ジェムを擁立しジェム政権を樹立します。1955年10月26日国民投票が行われ、バオダイ帝が退位し、ゴ・ディン・ジェムが大統領に就任し、ベトナム共和国が成立します。 1961年ジョンFケネディが米国大統領に就任すると、それまでキューバ革命の成功や宇宙開発での有人宇宙飛行などで、ソ連に一歩遅れをとっていた米国を立て直そうと、キューバやベトナムなどの第3世界への軍事介入をアメリカは強化するようになります。 1961年には南ベトナムへの駐留米軍の数は3200人になり、翌年にはそれが11300人になります。1963年の南ベトナムでは、独裁的な政治を取り出したジェム政権へ市民からの批判が強まり出しました。ジェム政権は仏教徒の弾圧を行い、そのために寺院の僧侶が広場でガソリンをかぶって焼身自殺を計るなどの抗議がおこり、11月1日クーデターによりジェム大統領は殺害されてしまいます。 あとを受けて副大統領のグエン・ゴク・トが大統領に就任します。この新政権を米国は承認しました。 11月22日にはこんどは米国でケネディ大統領が暗殺されます。代わって副大統領のジョンソンが大統領に就任します。
1964年にはジョンソン新大統領は、ベトナムへの介入をますます強めて行きます。 1月30日に南ベトナムで軍事クーデターが発生しグエンカーン将軍が権力を掌握します。8月16日にはカーン将軍は大統領に就任します。 8月2日に米軍駆逐艦マドックスと北ベトナムの哨戒艇がトンキン湾で交戦し、米軍は報復措置として北爆(ハノイへの航空機による爆撃)を行います。この事件によって本格的なベトナム戦争へと突入して行くことになります。 1965年米国の選挙で勝利したジョンソン大統領はベトナムへの軍事介入をさらに強化します。この年は、北ベトナムへのローリングサンダー作戦をはじめ、米海兵隊のダナン上陸、B52の南ベトナム解放区への爆撃、北爆の強化、南ベトナム解放戦線によって占領された南ベトナム領内への枯葉剤の散布など、ベトナム戦争は泥沼化して行きます。 1968年1月30日の南ベトナム解放戦線のテト攻勢が開始され、サイゴンのアメリカ大使館の一部が占領されます。このころから南ベトナム軍は劣勢になって行きます。年末にはニクソンが米国選挙に勝利し、大統領に当選します。ベトナム戦争でのアメリカ軍戦死者の数は3万人を越します。 泥沼にはまったベトナム戦争から抜け出せず、反戦世論の風も強まった中、パリでアメリカのキッシンジャー補佐官と北ベトナム側のレ・ドク・ト特別顧問の間で平和交渉が進められ、紆余曲折の末に1973年1月27日「ベトナムにおける戦争と平和の回復に関する協定」に米国、サイゴン政権、ベトナム民主協和国、臨時革命政府(南ベトナム解放戦線)の4者が調印をし停戦協定が成立します。3月29日ニクソン大統領はベトナム戦争終結を宣言し、米軍は南ベトナムを撤退します。 この後は、南ベトナム政府軍と北ベトナム軍のベトナム人どうしの戦争ということになりますが、1975年4月30日、北ベトナム軍はサイゴンへ入り、南ベトナムのズオン・バン・ミン大統領は無条件降伏をし、長く泥沼だったベトナム戦争は終結します。 ベトナム戦争は終結しましたが、この戦争がフランスの植民地からの独立だったことは、すでにニュースペーパーやTVのメディアからは忘れられ、ただ単に資本主義対社会主義の冷戦構造の枠組みの中にはめ込まれて報道されてしまいました。 この歴史シリーズを読まれればよくわかるはずですが、ベトナムの歴史は単純にソビエトとアメリカの都合によってできたものではありません。清国のアヘン戦争以降、植民地としてきびしい環境にさらされてきたアジアの歴史の一部として、見て行かなくてはならないものだと思います。インドシナ半島に植民地の魔の手が伸びていなければ、現在とはずいぶん違った世界ができていたかもしれません。しかし、歴史には、たら・れば・は無いことも事実ですが…。 |