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訓辞を受ける特攻隊員
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昭和19年10月20日朝、大西は特攻隊員達を集め訓示した。豪胆で知られていた大西は話の間中、体が小刻みにふるえ、顔面が蒼白で引きつっていたという。
訓示では「日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、自分のような地位の低い司令官でもない。したがって、自分は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうか、であろう。みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。我々もその結果をみなに知らせることはできない。自分はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。この点については、みな安心してくれ」と言った。
大西は涙ぐんで、「しっかり頼む」と言って訓示を終わった。大西中将はパイロットの一人一人と握手して彼らの武運を祈った。
大西は米軍が特攻対策を講じ、その戦果が急激に落ちてからも特攻をやめなかった。しかし、大西自身 「特攻を命ずる者は自分も死んでいる」
と言って、生ある者としての振る舞いを禁じているが如くだったという。
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敷島隊の出撃
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昭和20年5月、大西は軍令部次長として内地に帰還した。官舎に独居して妻とは一緒に住まなかった。それを聞いた者が「週に一度は帰宅して奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と勧めた。大西は「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」と答えた。大西の目には涙がいっぱい溜まっていたという。
大西には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟ができあがっていたのであろう。しかし、自らにそのような覚悟があるからといって、特攻が正当化されることはないということを彼は次のように語っていたようである。
「特攻は統率の外道である」
「わが声価は棺を覆うて定まらず、百年ののち、また知己なからんとす」
つまり、自分が死んで後その評価は百年経っても定まらない、誰も自分がやったことを理解しないだろうと語っていたのである。
大西は、敗戦の翌日未明、自らの命を絶つことによって責任をとった。
「吾死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」
から始まる遺書を残して。(遺書の全文)
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