見沢知廉 一周忌(池内ひろ美の考察の日々)
葬儀や一周忌に出席するたびに思うことがある。
人ってのは、あんがい冷たいものだな。
生きているうちに、見沢知廉と関わりのあった人はこんなに少数ではなかったはずだ。見沢知廉に近付いた人は多くいただろうし、仕事で関わった人(原稿を書かせるときには良い顔をして近付く編集者とか)も多数いただろう。しかし、彼に十回以上も書き直しをさせた編集者は来ていたんだろうか。
あの頃の見沢知廉は本当に苦しそうだった。十回を超えて書き直しをさせられると自分が何を書きたいのか分からなくなると言っていた。もう自分の文章ではなくなるとも言っていた。
この編集者がどの程度の直しを見沢氏に依頼していたのか、
僕には知るよしもない。
とはいえ、10回以上の書き直しとなると、表現レベルの直しではなく、
元の原稿とはまったく別のものになってた可能性も少なくないだろう。
編集者という人種は(よほどおかしな人間でないかぎり)、
「よりよくする」ことを第一に、著者に加筆・修正をお願いし、
またケースバイケースで自分で原稿に手を入れる。
すべては、よりよい表現、構成、本をつくるため。
と言いつつも、自分の舵取りで、100パーセント
「よりよいもの」が出来上がるとは限らない。
書き直して、書き直して、さらに書き直して改変された原稿が、
ただの改悪でしかない可能性がまったくないとは言い切れない。
プロの編集者である限り、「よりよいもの」をイメージし、
それに近づけるための努力は日々していることだろう。
しかし、いくらその精度を高めようと、間違うことはあると思う。
少なくとも、
自分が手を入れることが「余計」なのかもしれない、という一抹の不安を抱いたうえで仕事をするという姿勢は必要だ。
どんな人間も完全ではない。
完全ではないからこそ、「よりよくする」ことを追い求めるのだろうが、
なにが「よいもの」なのかは、慎重に慎重に吟味しなければいけない。