このページでは、ミステリ作家の視点から、書籍、映画、ゲームなど色々な「表現」について評論したいと思います。
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以下の文章をよく読んでいただきたい。
読者の皆様、また『新・UFO入門』に好意を寄せたメッセージをお送りいただいた多くの皆様には、今回の件で多大な心配とご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げると共に、向後、このような事態のおこらぬよう、厳しく自分をいましめて今後の活動にあたるつもりです。よろしくお願い申し上げます。
2007年8月1日 唐沢俊一
よろしいか。8月1日付けで、こんなことを書いた奴が、前のエントリで示したように『pronto pronto?』Vol.10 が2007年10月で、またもや平然とパクっているのだ。読者(自分のシンパだな)を嘗めきった態度。
こんな奴が作家を名乗り、朝日新聞の書評委員(朝日社員、植木不等式、皆神龍太郎両と学会員のコネによると思われる)をやっている。
と学会員諸兄。これでもこんな人間と、共に天を戴くのか。
そんなに一度つかんだ利権(せこい利権だが)おいしいのか。袂を別つ人間が一人もいないことが不気味。
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盗作の発覚後、多方面の方々が唐沢俊一の著作を検証し、驚くべき数のガセとパクリを発見しているが、それに対し唐沢の取り巻きと思しき人間、と学会員は志水一夫という馬鹿が、『新・UFO入門』初版は貴重品となるから早く買いましょうと書いた以外はほっかむり。鬼畜、村崎百郎はサイトで唐沢なをきの『まんが極道②』を取り上げながら、「パクリ」はスルーするというへたれぶりを発揮している。
その他の有象無象、マイミク、取り巻きはヒステリックに「唐沢さんの仕事は減ってませんよーwwwww」と見当違いに叫ぶばかりで、その犯行に対する弁明も反証も一切なしという体たらくである。
それに反して、検証を進める側は、すでに何度も紹介している「トンデモない一行知識の世界」がますます充実する一方、新たに参入してきた「唐沢俊一検証blog」が、舌鋒鋭くガセネタを洗い出し、唐沢擁護組との能力の違いを見せ付けている。
さて。
その「唐沢俊一検証blog」と京都大学人文科学研究所の安岡孝一准教授のお二方が、唐沢の極めて悪質なパクリを発見して、検証している。
『pronto pronto?』Vol.10のガセネタ 』
>政治家などに贈られるお歳暮には高価なものが多いようだが、
>彼らも青くなるのは、豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていたころ、
>主君の織田信長に贈ったお歳暮だ。記録によれば備前長船の名剣一振
>白銀千枚・衣服百着・馬の鞍十頭分・白紙三百束・なめし革二百枚
>明石干鯛千匹・干蛸三千個・野里の鋳物、ほかに信長の側室たちに
>銀子三百枚・小袖数百枚というすごさで、さすがの信長もこれには驚き
>秀吉の実力に舌を巻いたという。
馬の鞍10頭分? 戦国武将に鞍だけ贈ってどうするんだろう? さっそく、これの元ネタを探してみたところ、遠山信春の『織田軍記』(貞享3年)が、天正9年12月の出来事として、以下のように記していた(巻第21)。
>翌日秀吉登城し御目見、獻上の次第、國久御太刀一腰、白銀千枚、
>呉服百、鞍置馬十疋、播州杉原三百束、革二百枚、明石干鯛千枚、
>鑄物色々、蜘蛛蛸三千連、此外女中にも其々に進上これあり、
>大臣家甚だ御怡悦、今度因州鳥取の城を始め所々に於て武功の働き、
>當時無双名譽の由、斜ならず御褒詞これあり
元ネタには、ちゃんと「鞍置馬十疋」つまり「鞍を着けた馬10頭」って書いてある。「鞍置馬」を「馬の鞍」と解釈するなんて、正直言って、頭のネジが緩んでるとしか思えない。馬を贈る時には鞍を含め馬具一式を着けて贈る、っていう当時の慣例を知っていれば、馬の鞍だけ贈るなんていう馬鹿げた話にはならないはずだ。そう思ってこの文章を読み直してみると、元ネタは「國久御太刀一腰」なのに、これを唐沢俊一は「備前長船の名剣一振」にしてしまってる。宇多国久は越中の刀工だろ。なんでそれが備前長船になるんだ。
っていうか、信長は「甚だ御怡悦」だったのであって、「秀吉の実力に舌を巻いた」なんてことはない。そもそも信長が認める「実力」ってのは、因幡鳥取など各地の平定であって、お歳暮の量じゃない。それとも『pronto pronto?』のいう「ビジネス」においては、鳥取の城攻めより、主君へのお歳暮の量こそが「実力」だ、という主張なのだろうか?
このエントリに対し、さらにこんな検証がなされたのだ。
「安岡先生を援護射撃」
ヒドいのは豊臣秀吉のお歳暮のガセビアで、安岡先生が書かれているように、どうしてここまでヒドい勘違いができるのか不思議なのだが、唐沢のガセを検証してきた経験からいって、こういう間違いをするときは決まってパクリをやらかしているものだと見当がつく。そしたら、今回もやっぱりありましたね。パクリ元はこちら。
秀吉と寧子はそれに倍する品々を信長に献上しようと、羽柴家の金蔵が空になるほどの品々を買い求めた。
>備前長船の名剣一振・白銀千枚・時服百襲・鞍置き物十頭分・
>播磨杉原紙三百束・なめし皮二百枚・明石干鯛千匹・干蛸三千個・
>野里の鋳物様々、他に信長の側室達に銀子三百枚・小袖数百枚、
>と進物台にして二百連を超える前代未聞の贈り物を用意していた。
つまり、「鞍置馬」→「鞍置き物」、「國久御太刀」→「備前長船の名剣一振」という間違いごとパクってしまったといういつものパターンですね。しかも、パクリ元の文章にはない信長のリアクションを捏造しているからタチが悪い。このガセビアが載った『pronto pronto?』Vol.10 が2007年10月に発行されていることから『新・UFO入門』の盗作が発覚した後もネット上からパクリを続けていた事実は明らかだ(これも盗作発覚後のパクリ)。唐沢俊一は盗作をしたことを全然反省なんかしていないのである。
上の引用をよく見ていただきたい。
唐沢俊一はこのパクリを2007年の10月にやっているのだ。「無断引用」の「ケアミス」のと恥ずかしいくらいうろたえて言い訳し、相手に訴訟の意志がないと見るや掌返したように、誹謗したあの男が、舌の根も乾かぬうちに、堂々とネットからパクッテいた。
これが犯罪でないのならなんなのか。
性犯罪の常習犯は去勢される国があると聞く。
この男は、最早、死刑にするしかないのではないのか。
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盗作家唐沢俊一が「裏モノ日記」でこんなことを書いていた。
さて、最も大きな問題(真相に関わるあることを主人公たちがどうして知ったか、説明が少し足りないという指摘)の解決をどうするか、ここは悩むだろうなあ、と思っていたら、そこの部分にかかったとき
「そうか、こうすればいいのだ」
というアイデアが急にポン、と浮かび、たった数行の書き加えで全部片づいてしまった。
ある意味拍子抜けである。
処女長編小説『血で描く』の原稿直しに関しての記述だが、至難の業と思われたことが、秀逸なアイデアで易々と解決したことを自慢したいらしい。
素人って可愛いね。
プロの作家にとってそんなことは日常茶飯事。わざわざ日記に書いて公開するようなことじゃない。たとえて言うなら、初めてF.Fやった子供が、「いきなり魔物が3匹出てきたけど、一発で倒しちゃった」と喜んでいるようなもの。作家ぶりたいのなら、そんなこと日記で自慢せんようご忠告申し上げておきましょう。
『血で描く』。発売されたら、即、購入しよう。楽しみだなあ。
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ドイツのニーダーザクセン州で、年金生活者の男性(65)がサッカー場に隣接する自分の庭に入ったサッカーボールを返却しないとして、サッカークラブが当局の介入を求めるという事件があった。
うむ。
ボール返してくれない爺さんて昔はあちこちにいたよな。わたしが子供の頃はサッカーじゃなくて野球だったけど。
7、8歳の頃だったと思う。
友達と道でキャッチボールをしていた。路地ではなく、住宅地の広い道だったが、当時車なんて滅多に通らないから、悠々と遊べたのだ。だんだん距離を空けていき、フライを投げたら、なんの弾みか、長く続いている塀を越えて、民家の庭に入ってしまった。
「あ~あ、あ」友達はがっくりした。「このうちの爺ぃ、凄え怖いんだ。絶対ボール返してくれないし」
さて。わたしは昔も(今同様)生意気な餓鬼であり、屁理屈を垂れたり喧嘩したりするのは大好きだった。
「そんなの泥棒じゃん。いいよ、おれが返してもらってくるよ」
と、友達を振り切って、門の引き戸を開け、その家に入っていった。
癇症、なんて言葉は無論当時は知らないが、まさにこの言葉がぴたりと当てはまる、チリ一つない庭だった。
小さな植え込みが、そこかしこにあり、剪定された潅木が植えてある。その周りを、躑躅やモチや千両万両のような低木が囲み、林檎大の石でぐるりが囲ってあった。箱庭のような庭。枝の一本でも折れていたら、住人の逆鱗に触れるだろうことは、子供心にもよく分かった。
母屋はその先にあり、沓脱ぎの上、開け放たれた廊下に、主人らしい老人が着物姿で鎮座していた。金仏を思わせる見事な禿頭。金縁眼鏡。
「すみません」
と言いかけて、わたしは気が付いた。老人は船を漕いでいる。しかもわたしの足下にボールは転がっていた。千載一遇のチャンスとばかり、わたしはボールを引っつかみ、外に飛び出した。
ははは。話せば分かってくれるじゃん。大嘘をついてわたしはボールを友達に渡した。
学生時代に駅前の古本屋に入ったら、園遊会の写真か、モノクロの切抜きが額装されて壁に掲げられていた。昭和天皇と可也高齢の老人が談笑している姿だった。
わたしは禿頭の主人に訊ねた。
「これはもしや、ご主人ですか」
主人は苦笑しながら答えた。
「こりゃ、あなた、里見 弴先生ですよ」
ああ、なるほどと頷きかけて、わたしは恐ろしい事実に思い当たった。
あの縁側で寝ていた金仏は、文豪里見 弴であったのだ。
鎌倉市扇が谷。間違いない。
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「均一小僧」VS「古本ソムリエ」
わたしは岡崎武志の大ファンなんである。岡崎さんの本なら、中身のチェックなんかしないで(値段はチェックするが)即、購入してしまう。
というわけで早速購入し、炎天下の池袋を1時間ばかり歩いて、通しでやっている蕎麦屋(千川・安曇野)に入って読んだのです。
同じ工作舎から、『気まぐれ古書店紀行』という本も出ていて(2006/2)、一目で同じ著者の作品と分かる素敵な装丁が嬉しい。
で、ビールを注文して、早速頁を開いたら。おやまあ、なんと山本善行さんとの対談ではないか。思わず、蕎麦屋できゃっほーと叫びそうになっちまった。
無知を曝すが、わたしはお二人が高校の同級生だとは全然知らなかった。いいよなあ、こういう関係って。気心の知れた二人が、相手の知識を慮る必要もないから、どんどん飛ばしていく対談は、馬鹿な聞き手と馬鹿なゲストのイライラむかむかするような対談とは違って、素敵なリズムで疾走していく。こうでなくっちゃ。
せいろを注文し酒に切り替え、さらに頁を繰っていくと、恐ろしい記述にぶち当たった。お二人は高校一年の現代国語の教科書で西脇順三郎を知ったというのだ。おれとおんなじじゃん。
そして、『あんばるわりあ』の中の「天気」と「雨」を引用して(教科書に載っていた詩である)、
岡崎―やっぱりええなあ。
山本―ええなあ。
岡崎―なんや、二人で、よだれくりの年寄りが日向の縁側で喋ってるみたいやな。なんか、ないんかい、感想は。
山本―ええとしか言いようのない詩ってあるな。説明するより余韻を感じたいんや。
もう! 酒のお代わりしちまいましたぜ。素敵な時間をありがとう!
蛇の足ですが、わたしは和田誠は嫌いです。以前電話で大喧嘩した。
『新・文學入門』 岡崎武志・山本善行 工作舎 2008
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美浜町でミサイル着弾の恐れと誤放送
また一つ行政の杜撰さが――という論を進めるわけではない。
ご存知かと思うが、以下読売新聞の記事から
30日午後4時35分ごろ、福井県美浜町の防災無線全58基から、「ミサイル発射情報。当地域にミサイルが着弾する恐れがあります」との放送が誤って流れた。
町役場は10分後訂正放送を流したが、50件以上の真偽を問う電話があったとか。
短い記事から推し量られることがある。それは地元の住民も防災無線の中に「ミサイル発射」情報が含まれていることを知らなかったということだ。「10秒後に地震波が到達、津波の危険がある」という情報なら「本当か」と確認する前に(間に合うか否かは別にして)、避難行動に移るだろう。
そもそも「ミサイル着弾の恐れ」と警告されてもどんな行動をせよと言うのか。防空壕でも設置していなければ、合掌して天に祈る以外なにができるだろう。つまり、放送素材は用意してあるが、対策は何一つしていなかったことは明白である。
さて。ここからはミステリ作家としての発言。
もし、ミステリの冒頭で今回のような事件が発生したなら、どんなストーリー展開が考えられであろうか。
1、翌日、同様の放送があり、皆呆れている所にミサイルが着弾。誤放送は陰謀だった。
2、その後何度も誤放送が続き、システムが撤去される。そこにミサイルが着弾。誤放送は陰謀だった。
いづれも短編ネタであるし、この防災システムがあったところで、ミサイル攻撃には何ら対抗できない状況なので、わざわざこんな手間はとらないだろう。
3、地域住民は自分が住んでいる場所が、ミサイルの標的地域と知り、次々と転出していく。町民はいなくなり、跡地に美浜原発の施設が増設される。電力会社が政府とつるんだ陰謀。
これなら、長編になりそうだが、美浜原発の立地を考えると、勘のいい読者は気がつくだろうな。そこで――
4、実は美浜町には秘密裏のうちに、最新ミサイル迎撃システムが設置されている。住民の半分はその組織に勤務する防衛省の職員である。防災システムはそうした人々用に作られたもの。しかし、事故以来誤作動が続き、システムが撤去される。そこにミサイルが着弾。誤放送は陰謀だった。
うむ。これなら面白くなりそう。かくしてわたしはバカミス作家と呼ばれる。
このネタで書こうとしていた方がいたらゴメン。
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なにゆえにこんな馬鹿が「雑学王」などと名乗るのだろう。
「トンデモない一行知識」で検証された、唐沢俊一の出鱈目な雑学。
『トンデモ一行知識の世界』 P.90
これは、イザナギ・イザナミの神話に出ていることだ。『古事記』によれば、ふたりが、子孫をつくるためにセックスしよう、と思ったとき、何しろ人類史上初めてのことで、やり方を知らなかった。マゴマゴしているふたりのところに、高天原から使いのセキレイのつがいが飛んできて、セックスのやり方をふたりに教えた。鳥が教えたわけだから、当然、人類最初のセックスは後背位だったと想像できるわけである〈略〉
ともあれ、一回ソノ味を覚えてからのふたりのやりまくりといったらすさまじいもので、江戸川柳に
「セキレイも 一度教えて呆れ果て」
というのがあるくらい。
太字の部分は総て誤り。
まず、セキレイが登場する逸話が載っているのは『古事記』はなく、『日本書紀』である。
「子供をつくるためにセックスしよう」とは呆れ果てた無知ぶり。「国生み」という言葉も知らないようだな。二人はまず国土を生んだのじゃ。「高天原から使いのセキレイのつがいが飛んできて」って、原文は「時有鶺鴒飛來搖其首尾。二神見而學之」で「高天原からの使い」でもなければ「つがい」でもない。「当然、人類最初のセックスは後背位だった」ってなあ、イザナギ・イザナミは「人類」じゃねえぞ、神様だぞ。そんな基本的なことも知らんのか。
そもそも、唐沢はセキレイがつがいで飛んできて交尾したと思っているようだが、「飛來搖其首尾」とは「飛び来りて其の首尾を揺す」であって、あのセキレイが長い尾を上下させる動きから、性行為を連想したということだ。なにが「後背位だった」だ。そんなこた、一行も書いてないぞ。「鶺鴒は一度教えてあきれ果て」は有名な川柳。「鶺鴒は」である。
酷いというか、もはや惨状としか言いようがない。よくもまあ、これだけの無知な出鱈目を堂々と出版したもんだ。しかも、
『トンデモ一行知識の世界』 P.90
岡田斗司夫『東大オタク学講義』(講談社)の中で、ゲスト講師の僕は
「文献に残るもっとも最初のセックスは後背位です」
と言っている。
これは、イザナギ・イザナミの神話に出ていることだ。
東大にまで出向いて、この話を披露して馬鹿を曝したようだ。「もっとも最初のセックス」てのもいい塩梅の馬鹿だな。
未だに「唐沢さんてなんでも知ってる雑学王だ」なんてブログに書いている人がいるが、そろそろ目を覚ましたらどうかね。
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なんちうタイトルな
あの「エルフを狩るモノたち」の矢上裕先生の新作だぞ。角川の「コミックチャージ」を是非是非チェクして下さい!
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NIKKEI NET『丸の内オフィス』に寄稿しております。柴田よしきさんのWeb小説の、ゲストエッセイです。
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ネタバレ(反転)あり、注意。
原作は言うまでもなくスティーブン・キングの『霧』。以前、早川書店から出た、『闇の展覧会』の第1集に収録されていました。扶桑社ミステリーの『スケルトン・クルー〈1〉骸骨乗組員』でも読めるはずです。モダンホラーの傑作ともいうべき作品で、 これが映像化出来るのかしらとかなり不安でしたが、フランク・ダラボンならなんとかしてくれるのでは、と淡い期待を抱いていたのです。
ダラボンは『「ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』から推して、キングのことが分かっている監督のように思えたもんでね。原作のラストでは、霧の中にうごめく巨大な影が、非常に効果的に恐怖を盛り上げるんですが、映画ではダラボンは思い切り具体的にその正体を描いている。キング自身が、小説にもこのラスト採用したかったと語ったとか。
作家の立場なら、あるいはそんなことも考えたいでしょうが(意外性というか、ひっくり返しの効果は確かに捨てがたいものがある)、あの総てが不明のまま終わるラストに比べると、分かり易くなった分、安っぽく感じられるんですけどねえ。
いや、それよりなにより、あの最後の選択はないんじゃないの。
ストーリーは至極単純、田舎町を嵐が襲い、その後発生した霧に、町は包まれます。主人公は息子のビリーと一緒にスーパーマーケットに篭城を余儀なくされる、イラストレーター、デヴィッド・ドレイトン。「霧の中に何かがいる」と叫びながら、血塗れの男が駆け込んできてから、店の外に出るのを躊躇するような雰囲気になってきます。静止を聞かずに外に出た男の悲鳴が霧の中から聞こえ、蛮勇を奮って、裏口のシャッターを開けたマーケットの店員は、巨大な触手に浚われていく。
やがてガラス窓に巨大な昆虫が張り付き、それを捕食する怪物が、ついにガラスを破って進入してきます。
ヒッチコックの名作『鳥』の冒頭で、主人公をはじめとする何人かが、ガソリンスタンドに逃げ込むシチュエーションがあったけど、まさにあれですね。
やがて、これは黙示録の実現だと説く、聖書原理主義の狂信的な女性に、居合わせた人々は一人、二人と洗脳され、子供(ビリー)を生贄に捧げないと皆が犠牲になるという恐ろしい結論が提示されます。
狂信的な教祖を射殺して、ドレイトンは彼の意見に従う幾人かの人間と外に飛び出し、車まで走ります。怪物に襲われ、何人かは犠牲になるけど、結局、ドレイトンとビリー、それに男性一人、女性二人の計五名が、車で霧の中を進んでいくのですが――
(ここから、ネタバレ)
外に出る前にドレイトンはビリーとある約束をしています。それはビリーが「絶対にぼくを怪物に殺させないで」と懇願したことへの答えです。実はこの伏線が実にズルい。これは実は二つの役割をもっています。一つは映画作法の常識で、主人公の父親がそう約束したからには、ビリーは絶対に無事なんだろう、そう見ている人に思わせる“ミスディレクション”。
そして―
車の燃料が切れ、外の霧の中では怪物の跋扈する音が聞こえている状況。ドレイトンは悪魔の選択をします。つまり、怪物に殺されるくらいなら自殺しよう、という。手許の拳銃には残弾が4発。ドレイトンは三人の男女と、ビリーを射殺します。そうなんです。ビリーがパパにお願いした「絶対にぼくを怪物に殺させないで」という約束は、ここで果たされたことになる。
ドレイトンは自ら怪物に殺されようと車外に出ます。すると、徐々に霧は晴れ、なんとそこには――
(ネタバレ終わり)
『エイリアン』はあんなに面白かったのに、なんでその続編は面白くないんだろう。アメリカ版ゴジラはなんであんなに面白くないんだろう。ジョック(スポーツエリート)を頂点とするアメリカ社会では、充分な戦力さえあれば、どんな敵でも征圧できるという考えがあるんでしょうか。
このラストは全然買えません。意外性なんていう方が多いけど、最後まで何か分からない敵(怪物)と対峙していたから、成り立っていたサスペンスを、あんなふうに絵解きされてどうしようってんでしょうね。
そして、なにより、後味の悪さは酷いもんです。こうやって、物語を壊し、なおかつ嫌な気分にさせる。そりゃ、キングも「参った!」と思ったか知れませんが。