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消えゆく「日本」の痕跡…記者が見た北方領土の今

7月20日19時29分配信 産経新聞


消えゆく「日本」の痕跡…記者が見た北方領土の今

昭和5年に建設された旧紗那郵便局。ここ数年で天井が完全に落ち、手入れがされないまま放置されている=2日、択捉島・紗那

 北方四島のビザなし交流団が訪れた国後、択捉両島は、規模は違うが、日本の高度経済成長期を思わせる。舗装されていない道路を行き交うダンプと、それに伴って舞い上がる砂ぼこり。至る所で重機がうなりを上げ、道路脇には資材が積み重ねられていた。

  ■フォト■ビザなし訪問団ルポ

 道路、地熱発電所、国際空港、港湾、病院、学校、幼稚園−。これらはみな、2007年からの8カ年で810億円相当を投入するロシア政府の「クリール諸島社会経済発展計画」によるものだ。北方四島のロシア人は、オイルマネーを背景にした大規模な発展計画を後ろ盾にして自信に満ちあふれ、ますます「北方領土はロシアの領土だ」と主張することに迷いがない。

 国後島の行政府幹部は、ビザなし交流訪問団に参加した自民党の石崎岳衆院議員に向かい、「領土問題は存在しない」、「領土問題を指摘する日本は第三次世界大戦でも始める気か」と言ったという。彼らにとっては、日本の北方領土返還運動は「侵略」だという認識なのだ。本末転倒である。石崎氏は「現地のロシア人は領土問題にかたくなで、考えが変わらない感じだった」と振り返る。

 これは決して偶然の産物ではない。旧ソ連時代から今も続くモスクワ政府のしたたかな国策の表れだ。

 北方四島ではソ連時代から一定期間の在住者に賃金や年金をかさ上げする優遇政策がとられてきた。出稼ぎ感覚で島に移住し、そして蓄えができれば、島を離れる。住民1人1人が特別手当を受ける「国境警備隊の一員」といっても過言ではない。実際、択捉島で出会った住民の中には、「早く本土の故郷に戻りたい」と漏らす初老の女性もいた。

 ところが、オイルマネーによる好況は、こうした「本土志向」も変えつつある。詳細な統計は明らかではないが、北方四島が生まれ故郷という2世、3世のロシア人が着実に増えているという。訪問団に加わった村井友秀防衛大教授は「彼らにとっては北方領土は奪ったものではなく、生まれ故郷という感覚だ。そういう人たちは1世のロシア人よりも、北方領土を返還することに強く抵抗する」と指摘する。

 これは何を意味するのか。村井氏が続けた。

 「これから経済が発展して北方領土にとどまるというロシア人が増えた場合、北方領土を日本のものにするために考えなければならないコストがドンドン大きくなる。だから日本の返還運動の質的なレベルアップが求められる」

 ひるがえって日本は北方領土のみならず、竹島を不法に韓国に占拠され、領土問題が存在しないはずの尖閣諸島まで中国や台湾に脅かされている。領土という国の根幹に対する気概がロシアとははっきりと違うのだ。

     ◇

 ロシアの国策と軌を一にして、日本の名残は確実に消え去っている。

 交流訪問では、さまざまなプログラムが企画された。その一環で行われたのが、択捉島の中心都市・紗那にある日本人墓地の清掃だった。

 オホーツク海を臨む小高い丘の墓地にはロシア人の墓も混在し、子供の背丈ほどありそうな草がうっそうと生い茂っていた。現地のロシア人は、年に1回、「お墓参り」の風習があると強調するが、日露双方の墓とも、とても人の手入れがされた形跡はない。

 択捉では珍しい陽気の中、ヤブ蚊と格闘しながらロシア人の子供も加わった総勢70人以上による草刈り作業で、草で見えなくなっていた墓も小1時間で姿を見せた。訪問団が持参した線香をともし、周辺に咲いていた花も添えた。地下に眠る日本人は、まさか自分の墓が放置され、しかも島自体をロシアに占拠されるとは思ってもいなかったろう。そう思うと涙がにじんできた。

 紗那には、戦前に建てられた日本家屋2棟がある。いや、あったと言ったほうが正確だ。すでに「廃屋」だからだ。

 そのうちの1つ、昭和5年に建てられた旧紗那郵便局は2年前まで外観を保っていたというが、今回の訪問では屋根が完全に落ちていた。20年8月28日、ソ連の侵攻は、この郵便局からの無線で本土に伝えられた。中をのぞくと当時の面影はまったくない。廃材が散乱し、ペットボトルなどのゴミも無造作に捨てられていた。

 道路を挟んだもう一つの水産会事務所(5年築)は、なんとか外観は保っていたが、中に入れば状況は郵便局と同じだ。床は抜け落ち、1階からは2階がのぞけるように穴が開いている。ロシア側は2棟の再建に向けた取り組みを約束したそうだが、現状は完全放置といっていい。

     ◇

 日本の名残は、歴史上からも抹殺されようとしている。紗那の博物館を訪れた際のことだ。博物館といっても、通されたのは古びた2階建ての建物の一室だった。説明役の学芸員は「15世紀にアイヌが択捉島に現れた」、「ヨーロッパ人の択捉島初上陸は1643年、オランダ人のデ・フリースだ」といった説明ばかりで、その後の日本に関する言及は一切ない。

 すると、話は一気にソ連がいかに島を発展させていったかという話に移った。展示物を見てもアイヌ民族の生活ぶりは石器や宝飾品の展示などを含めて詳細にふれているが、戦前の日本人の生活に関するものは無視されている。数年前にこの博物館を訪れた訪問団員の1人は、「以前は確かに日本に関する展示もあったはずだ」と証言する。意図的な日本はずしだった。

 国後島では、戦前に日本人が切り開いたという山中の道も歩いた。クマを警戒して猟銃を手にしたロシア人の先導に従い、身の丈もありそうな草地の中の「獣道」を歩くこと約1時間。眼前に広がったのはオホーツク海と、その先に立ちはだかる知床の山々だった。

 携帯電話をみると、特別な設定なしに電話が通じた。手が届きそうなところにある日本。20年夏、終戦後のソ連による不法占拠が行われた際、一部の日本人は闇夜にまぎれて脱島を計画し、荒れ狂う海を手こぎで渡ったという。途中で海の藻くずとなってしまった人もいた。当時の北方四島の全住民約1万7000人のうち、犠牲者の数は1割程度というから、相当な数だ。近くて遠い日本という現状は、63年たっても少しも変わっていない。
(酒井充)

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最終更新:7月20日19時29分

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