19日にあるテレビから発達障害「当事者」としての出演依頼があり、収録してきた。数組の当事者を含むカップルが思いをぶつけ合い、うちのカミさんも当然出ている。
番組は特定のシナリオも作らず成り行きに任せるという非常に意欲的な制作姿勢で「さすが本物のプロ」と感服した。
ところでこの番組には九州のある県から成人発達障害をケアしているカウンセラーという人物X氏が専門家的な立場として出演しておられ、要所でまとめるというスタイルだった。
収録終了後、突然このX氏から呼び止められ、「私は医師ではありませんがあなたはASです」と断定され、実はかなりショックだった。その晩はほとんど眠れなかった。その場では、「私のブログを読んでください」とやっとのことで反論したが、「先生と私とは考えが違うようですね」とバッサリ切り捨てられ、話にならなかった。
私はジャイアンなのでその後私の中にどのような恐ろしいファンタジーが起こったか想像できる人も多いだろう。医師でないと断りながら、医師に向かって、相手の自分への診断は間違っていると公然と指摘し、説明しようとしても耳を貸さないで「考えの違い」と切り捨てる。
実はこのX氏は番組の中でもとんでもないKYぶりを発揮して、私のほかにもある当事者の出演者を突き落としている。 余計なことかとは考えながらディレクター氏にメールはしておいたので、実際にはその場面は放映されないかもしれないが、簡単に言えば、「自分のあまり人に見せたくない面を、番組のためにあえて公開して、カミングアウトして出ている当事者の心理を全く理解せず、逆に(高みの見物の立場から)その弱みをわざわざ指摘して突き落とす」ということをしている。
おかしな話だが、(私が言うのもへんだが)専門家として出ているこの人が一番場の空気を読めていなかった。
この番組は出ている当事者が非常に率直ですがすがしく発言し、私自身も(医療者というよりは)「発達障害的な面をあえて前面に出して」意識的に努力して私の出演している役割に応えようと努力した。それを表面的に見て「ASだ」というなど、しかも初対面で、HPもほとんど読んでいないだろうだけの情報から、医師を相手に自分の診断をぶつける。
この表面的な特徴と重症のKYぶりは、このブログをご覧になってきておられる方にはどういうことを意味するかは説明の必要も無いだろう。
番組に出るかどうかは分からないが、「発達障害のカップルはいくつになっても可愛らしい」という発言もあり、「あなたは何様か」と胸ぐらをつかんで怒鳴りつけておけば良かったかとも思う。
診断されていないあるタイプの害の一例。
沖縄の言葉で「難儀」(ナンギ)という表現があり、意味としては「面倒」と同じような使い方をされる。実は受動型ASがよく使う表現である。
主に行動しないときの理由を問うた場合にこの「ナンギ」が登場する。自分の自発的な行動が求められるときはすべて「ナンギだから」しないということになる。
この「ナンギ」には、「それ以上に突っ込んで話を深められない」という作用があり、周囲の人の意欲を失わせる結果になる。
さてこの「ナンギ」の意味を私はずっと考えてきて、やっと一つの解釈を思いついた。
「何で自分がしなければならないか?」「自分でしなければならないのなら面倒だからしない」という意味であると思う。周囲の愛着の対象に対して「(自分のことでも)お前たちがやるのが当たり前だろうが」という強い依存のメッセージなのだ。
受動型ASは依存できると思った相手には、徹底的に理不尽な要求をし続ける。他方「自分」が存在せず、「あなたはどうしたいか?」と聞かれると答えられず、結果、「自分の責任」を認識も実行も出来ない。だから本人にとっては依存が当たり前だから「ナンギ」ということになるわけだ。
私は最近は、特に母親に要求をし続ける受動型ASのケースは(もちろんパートナーでも)、「一旦離れるしかない」という環境調整を本気で検討するようになった。
受動型ASにとっては、周囲に一人も愛着の対象が居ないほうがずっと表面上の社会適応が良くなるのだ。
真のパートナーを得るには、思春期を過ぎて、本人に受動型ASを告知して、その問題点を本人とともに考え、依存で無い生き方を少しずつ模索するしかないのではあるが。
ジャイアン(自己正当化型ADHD)には「一廉の者であらなければならない」「自分を下に見られるのは腹が立つ」という中心志向と、非常に合理的な志向との両方がある、この矛盾がジャイアンのさまざまな行動パターンを形成している。
この二つを「うまくマイナスを少なく使いこなして乗り切る」方法の一つが、(表面上はきれいではないけれども)「見下す」という方法である。
私自身はうまく出来ないが、実は「この相手はどうせ低レベルだ」と見下して、「それから合理的に理解する方向に行動できる」ということが可能になるのだ。
「見下す」ことで自分の中の中心志向から来る「お前が何を偉そうなことを言うか」といった醜い感情の動きを一旦抑えると、あと残るのは合理的な部分なので、逆に合理的に理解の努力が出来てむしろ冷静で平等なADHDらしい関わりが可能となる。
ASの非言語的な表現の中にある「自分のほうが世界の中心だ」という前提に反応しないジャイアンの人にはこういう認知の方法が出来ているのかもしれない。
世の中の現象をすべて学歴で説明する浅はかこの上ない私の母親ジャイアンが、昔「負けるが勝ち負けるが勝ち」と自分に言い聞かせるように繰り返し言いつづけていたことを思い出す。
表面的に見れば「なんて偉そうな」ということになるが、そうでもしないと感情的に反応して心穏やかに生きていけないのがジャイアンの現実である。
私自身はこの「見下す」ということ自体への合理的な自己突っ込みが非常に強いので、合理的に理解するところまでたどり着けないというところだろう。
ASの人で明らかに激しい幻聴を訴える人がいて、こういうケースを「統合失調症の合併」と考えるべきなのか否かは、治療法とも関連して重要な問題だ。
私もそれほど多くの症例を経験しているわけではないので、一般的に言えるかどうかは分からないが、あるイメージは持っている。
一つの特徴は、「(安心できる人が近くにいるなどの)状況によって幻聴が変動する」という特徴があることだ。ここが統合失調症とは少し異なる。
「ASだけで説明できる幻聴」とは
①基本に受動型AS特有の「影響されやすさ」や積極奇異でも二次障害によるACがある場合で、
②現実の状況が明らかに自信を持てないような立場(自己評価が下がったり自己突っ込みがある)である場合に、
③「過去の非常に嫌な気分が頭から消えない」というAS的な特徴から、
④最初に特定の嫌な気分がよみがえって、
⑤その気分を過去に体験した場面の声や音が気分に付随してありありと再体験される。
というプロセスで説明できるように思う。
と考えれば、抗精神病薬(リスパダールやエビリファイ、ジプレキサなど統合失調症の薬)があまり効かないことも説明でき、また、 リーマスやレスリンなどの抗うつ薬、感情調整薬で改善することも説明が出来る。
ジプレキサは不安も取るので、効きはするが、副作用も多く、正常な認知を抑える作用があるので、私はあまり使いたくない。
思春期の積極奇異型ASのサポートの現場よりの考察。
ある思春期ASのケースF氏は、学童期までにASの告知と理解を終え、特別支援体制をきちんと利用し、本人のペースで登校や参加する授業等も決められる体制で過ごした。
思春期にかかり、F氏は急速に中心志向が出てきて、「普通がいい」という意向から主治医が提案する特別支援の体制さえ当初は利用しないで「自分でやってみる」ということだった。
主治医である私はその方針を尊重し、本人が出来るところまで「普通」の線にトライすることを学校側に説明、本人の試行錯誤のプロセスの間は積極的に介入しないようにお願いした。
全く「普通」の線で努力する間は、F氏は学校では完璧に過ごしたが、過度の緊張から帰宅すると毎日のように情緒不安定になり、不眠、頭痛などの身体症状が激しくなり、一学期も後半となるとついに疲れ果てて休み始め、やむなく一部方針を変更した。
そのF氏が語った言葉が、「普通の範囲内で認めてほしい」という言葉で、私は感心した。
本人の「普通」の範囲が、「100パーセント完璧でないと行けない」ところから、少し融通が利くようになったということだ。
ここで「気の利いた」理解あるベテランの先生が関与できれば、上記の事情をよく理解して、「本人に実際上はかなり特別に対応しながら表面上は特別でなくごく普通に」と接することが出来るはずだ。
もしもそうできれば本人の試行錯誤のプロセスを微妙にサポートして、その後の本人の人生の基本形を見出す非常に良いチャンスを提供することが可能となる。
実際のF氏の経過は実は正反対の状況になりつつあるのだが。
いろいろな角度からASとジャイアンの共存の可能性を最近考えてきて、何となくポイントが見えてきた。
共存の障害① 根本的な思考のあり方
ジャイアンはASの、「自分が多数派側に立つ」「自分の考えは一般的普遍的である」というような思考を、激しく独断的(「井戸の中」と呼びうる)と認識する。「何の根拠があってそう言えるのか?」、「あなたは神様か?」という不合理さへの反発とともに、「中心の方向から蔑まれている」という激しい反発が起こることは避けられない。(ただしこれはASが徹底的に合理的な環境で鍛えられた場合には例外は生じうると私は思う)。
共存の障害② 表現方法
ジャイアンはASの「非言語的な表現」に過剰反応する。ここのコメントの中でもmario氏の主張に対して、ネット上の言葉での書き込みであるにも拘らず、「その言葉の背景に感じられる思考の前提」や「ちょっと漏らした本音的なためらいの感情」などの部分にジャイアン側の反発が集中している。
共存の障害③ 求めるものの違い
ASは「必要とし、必要とされる」という情緒的な依存関係を(少なくとも非言語的な部分では)どうしても求める。「利用」という表現に抵抗があることからも分かる。ジャイアンはこれに応じれば病気になり、応じなければ非常に「うざったく」感じて振り払うことになるだろう。ジャイアンは「必要」という言葉で現されるような関係を必要としない(だけでなく有害でさえある)からだ。
ASとジャイアンの共存を考える場合、上記の①②③はどうしても超えなければならない壁だ。いずれもASおよびジャイアンにとってかなり根本的な脳の働きの特徴から帰結しており、変えることは容易ではない。少なくとも多大な努力を要することは覚悟すべきである。
これを書くかどうかかなり悩んだが、やはり本当のことだと思うので厳しいことだが書いておく。
ウィルスは自身の細胞を持たず、生き物の細胞に寄生して自分を増やす。そのプロセスは「吸着」「侵入」「脱殻」「ウィルスの増殖」「脱出」と呼ばれる。
受動型ASは「自分」を持たず、依存しか出来ない点でウィルスに似ている。受動型ASはジャイアンと接する際に、最初は表面上優しく、断定的な表面上は確信に満ちたような表現をする。表面的で浅はかなジャイアンはその見掛けだけのもっともらしさに引っかかる。(吸着)。
次に受動型ASは引っかかったジャイアンを「誉め殺し」にして共依存に引っ張り込む。誉められたジャイアンはいい気になって、「あなたが必要」と依存する。(侵入)。
(ウィルスにとって浅はかなジャイアンは表面的でだまされやすく、簡単に引っかかる良いカモである)。
「あなたが必要」と言われた瞬間から受動型ASは態度を一変させ、自分の依存を顕にする。驚くほどの誇大的で自己中心的な要求をし続け、今度は言葉で罵倒して共依存のジャイアンを疲弊させる。(脱殻)。
ジャイアンは依存する楽さ(自己突っ込みから開放されるため)に味をしめ、再び自立することの不安のために罵倒されても逃げ切れない。結果、身体症状や抑うつが悪化して、病気になる。(病原性の発揮)。
病気になったジャイアンは治療の中で自分の依存性への「直面化」を行い、結局依存から自立し、身体症状や抑うつからやっとのことで回復する。(免疫と回復)。
私の理解する限り、受動型ASは「依存」「共依存」以外に他の人と関わる方法を持たないので、結局「ジャイアンに感染して病気にするしかない」ということになる。
そういう意味では、最悪の相性だ。
このことが分かっているのは大事なことだと私は思う。
漫画、テレビドラマともに非常に面白かった「のだめカンタービレ」はAS-ADHDカップルの典型例だと思う。このカップルはうまく行きそうであると私は思う。その一つの理由が「ブランドイメージ」である。
ジャイアンは中心志向があるので、表面的な権威やブランドが好きだ。「世界的な才能豊かな若手指揮者」というのはブランドとしては最高で、これだけでも「他の事は許せてしまう」ということに成りうる。
これと同様に、(世間的に)「本当に偉大」な地位、ステータスがあれば、ASがかなり「オレ流」でも、ジャイアン側からの「尊敬」のようなもので関係は安定しうる。
「のだめ」も才能豊かなピアニストなので、お互いに世界的な演奏活動が忙しく、年を取るまで「時々会う」様なカップルのあり方で、お金は十分にあってジャイアンは贅沢が出来るし、あまり一緒に居ないので「オレ流」の拘束も実質的なマイナスにはならない。
出来れば子供も持たないか、あるいは産んでも家政婦が養育する形になり、ジャイアンは家事や子育てもしなくて良い。ただ華やかなアーチストの人生を送る。
積極奇異型AS-ジャイアン型ADHDカップルのうまく行く一つのシミュレーションである。
ASは世界的な名声を保ち続ける必要がある。落ちぶれてずっと同居する状況になったとすれば、私はその後には悲観的だ。
(自分で書いていて、やはり「利用」に近くなってしまうのは何故だろうとつくづく思う)。
前回の「邪心」を別の表現で説明してみると、「二つ目の非言語的なチャンネルを使用しない」ということになる。
多数派は言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーション(口ぶり、言い方、表情など)の区別を、常に普通に使い分けている。言ってみれば二つのチャンネルを同時に使い分けながらコミュニケーションをはかっている。
ASも同じく、上記の二つのチャンネルの入力と出力は出来るという意味では(ADHDよりは)多数派に近いという言い方も出来るだろう。しかし「全く同じように出来ると思い込んでいる」だけで、ほとんどの場合この能力を有効に使えていない。その理由はAS独特の極端な認知のシステム(理解の枠組み)にある。
合理的なADHDは非言語的なチャンネルを通常は使用しない。言語的なチャンネル一本でコミュニケーションを続けるため、多数派とはかなりのズレを体験する。
さてこの見方で言えば、ジャイアンは「言語的なコミュニケーションは合理的な部分で行い、非言語的なコミュニケーションは中心志向のエゴの部分で行う」というような形になる。言語的な部分は合理的ADHDと同様なので、合理的ADHDと同じく「自分が空気を読めていないことを自覚する」。
特に非言語的なコミュニケーションは中心志向の部分が前面に出るために、「自分を馬鹿にするか」とか「相手が自分の分をわきまえないで偉そうに言っている」などの上下関係に非常に過敏に反応することになる。
ASの言動がジャイアンを刺激することが多いのは、ASが常に二つ目のチャンネルで微妙に違うメッセージを出し続けることにあると私は考える。
例えば相手を徹底的に追い詰めながら、別のチャンネルでは「情緒的に救いを求めなさい」とフォロー(にならないで多くの場合逆効果になるが)のメッセージを出したり、言葉では謝りながら別の形で「許してくれてもいいだろう」と甘えるようなメッセージを出したり、その矛盾がジャイアンにはカチンと来るのだ。
ジャイアンの側から言えば、「非言語的な表現に振り回されることが多い」と自覚することは重要だろう。非言語的なメッセージを受け取るのは中心志向の部分になることが多いので、必然的に過剰反応となり、後で合理的に自己突っ込みする羽目になることが多いのだ。
ジャイアンに対しては言葉で言っていること以外に別の形で伝えるあらゆるメッセージが「邪心」と映ることになる。多数派はもともと裏表を使うと知っているので腹も立たないが、正直そうに見えるASが二つのチャンネルを使うから抵抗があるのかもしれない。
ジャイアンが人に助けられる可能性について考え続けている。積極奇異型ASのmario氏にジャイアン女性軍からかなり手厳しい反応が見られるが、私は実は少し違う。このあたりのことを考えていて、「依存でない関係は可能かも」と思い至った。
実際私はジャイアンだけでなく診療の場で接するASの人とも「依存」とは違う良い関係を築けている。
この関係を冷静に観察してみると、「相手が本当のことを言うことへの信頼」のようなものであるように思う。実際私自身、そういう相手から褒めてもらえることで「救われる」思いをし得ることがあったことを思い出した。
ここで大事なことは、情緒的な邪心が入らないことだ。「相手のために自分が役に立つ」とか「相手を自分の思い通りにする」ような邪心が全く無いことがジャイアンと率直な関係を築ける絶対の条件となるのだ。
ASの場合、そういう感情抜きに人と接することは少なく、また愛着となった場合にはなお情緒的となることは避けられない。しかし個人の努力の可能性は無いことは無いだろう。
mario氏と私は男性同士というところもあると思うが、mairo氏から私自身に対して情緒的なアピールをあまり感じないので、私が反応することが少ないのかもしれない。
ジャイアン女性軍はmairo氏の女性に対する見方(表現)の中に上記の邪心をはっきり見出すのだろう。
「相手が自分を支配する下心も無く、同情さえしないで、冷静に本当に思ったことを言ってくれる」という率直さへの信頼があれば、ジャイアンは人と関われると私は思う。
ジャイアンとASの間の困難さのひとつの説明にはなるのではないかと思う。
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