鎮 魂
戦没者慰霊際。
(拡大)4月4日、桜咲く靖国神社で戦没同期生の慰霊祭を行いました。













甲飛十二期生として最後に入隊したわれわれ三次組は、訓練期間が八ヵ月に短縮されて
予科練を卒業し飛練へと進んだ。この間、再度の検査で身体壮健な者を選抜したにも拘わ
らず、猛訓練に耐えかねて発病し入院する者が出はじめた。彼らの中には治癒回復するこ
とができず、入院のまま死亡した者や、志願免除となって帰郷した者もいる。
飛練に移り飛行訓練が開始されると、飛行機事故による死者が出はじめた。初めての殉
職事故は、偵察専修の大井空で起こった。次に、上海空でも墜落事故で死亡した。だが、
上海空の場合は、外地ということで、訓練飛行でも爆装して哨戒を兼ねていたため、幸い
にも戦死に認定された。
操縦専修では、中間練習機教程では死亡事故は起こしていない。ところが、実用機教程
に進んでからは事故が続発している。飛練を卒業して実施部隊に配属され、実戦さながら
の錬成訓練が開始されると事故は飛躍的に増加した。
われわれが入隊した当時の遠いソロモン群島方面での戦闘は、南洋群島及びフイリピン
方面へと移動してきた。そして、台湾沖航空戦がわれわれ同期生の初陣となって初めての
戦死者を出すに至った。これ以降、索敵や哨戒に爆撃や雷撃にと、次々と戦闘に参加する
ことになり戦死者は急増した。
昭和二十年三月になると、内地からも特攻出撃が行われるようになった。鹿屋基地を発
進して、長躯ウルシー環礁の敵泊地を攻撃した、「菊水部隊梓隊」には、葛佐真夫二飛曹
以下三名が参加している。また、アメリカ軍の相次ぐ空襲により乗機が破壊され、フィリ
ピンや沖縄に取り残され、陸戦隊に編入されて陸上で戦かって戦死した者もいる。
次に、アメリカ軍が沖縄方面に侵攻するに及んで、「神風特別攻撃隊」が次々に編成さ
れ、帰らざる攻撃に飛び立ったのである。そして、クラス総員七百余名のうち二百二十三
名の者が実役二年の間に戦死または殉職されたのである。そのうち実に六十一名は特攻の
名のもとに帰らざる体当たり攻撃を命じられた者たちである。
また、終戦の当日八月十五日にも、溝口和彦一飛曹以下が「特攻出撃」している事実も
見逃すことができない。そして終戦を迎えた後も、異国にあるため行動意のごとくならず、
祖国帰還を夢見ながら異郷に果てた者もいる。
彼らの事績を残すため名簿を作成するに当たり、戦没した年月日順に並べてみた。これ
によって、われわれのクラスが予科練を卒業した後どこの航空隊で訓練を受け、実施部隊
はどこに配置され、どの戦闘に参加したのかが判断できる。
この名簿を作成しながら、戦没者全員の声を収録できたらとの思いが募る。巻頭でも述
べたとおり、遺書や遺稿など殆ど残されていないのが実情である。残された数少ない記録
から彼ら戦没者の声を聞き取って欲しいとの願いとともに、あらためて戦没同期生諸兄の
ご冥福を心からお祈りする次第である。
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