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紫電改(紫電二一型)
宇和海展望タワーのある南レク馬瀬山頂公園の一角に「紫電改展示館」があります。太平洋戦争後半、零戦に変る日本海軍主力戦闘機となったのが「紫電改」です。紫電改は400機製が製造されましたが、現存する機体は2機だけといわれています。アメリカ軍に接収された一機がスミソニアン国立航空宇宙博物館に保存されています。そしてこの機体です。
展示館に入ると窓から西日が差し込んで逆光の中に紫電改が厳かな雰囲気で姿を現しました。私たちの年代の男の子は「ゼロ戦はやと」「大空のちかい」「紫電改のタカ」などを読み、戦争の実体とは無関係に戦闘機に憧れを抱いていました。その1機に自分の故郷で会えるとは・・・。
昭和53年11月、久良湾で潜水中のダイバーに偶然発見されました。翌54年7月14日、34年ぶりに引揚げられました。その様子はNHKのニュースでも報じられ、勤めていたデザイン事務所で昼休みに偶然見ていました。遺族の他、引揚げの様子を見ようと千人もの人がつめかけました。取材中のヘリコプターが墜落して海中に沈むというアクシデントもあったということです。
機体は塗装の他、必要最小限の修復で展示されています。写真で分かるように慰霊を込めての展示です。
この機体のこと
戦時中の諸々の記録、墜落の目撃証言などから昭和20年7月24日に墜落したものと断定されました。この日、豊後水道から広島の呉軍港へアメリカ空母艦載機500機(呉の記録では870機)の空襲がありました。戦艦榛名、空母天城など軍艦6隻が大破しました。帰艦しつつあった米空軍機の要撃に長崎県の大村航空基地から海軍343航空隊の紫電改が出撃し、豊後水道上空で空中戦となりました。ノースアメリカンP51ムスタングを3機、グラマンF6Fヘルキャットを13機撃墜と記録されています。出撃した紫電改は21機で、未帰還機は6機。その6機の内の1機がこの機体とされています。上の写真の機首の下に搭乗員6人の遺影が掲げられていますが、この6人の年齢は20歳が2人、22歳、25歳、28歳となっています。この中の1人がこの機体で戦死されたということです。合掌。
海面に激突した時の衝撃でプロペラが曲がっています。これを見ると少年の頃の単純な憧れは消えていきます。
上から見たところです。後方にあるプロペラは艦上攻撃機「天山」のものです。西宇和郡の二名津沖から引揚げられました。
壁には引揚げの様子を撮影した写真が展示されています。写真を見るとほぼ原型のまま沈んでいたことが分かります。
正面から。零戦などと比べて太い胴体です。米空軍機の馬力に対抗する為「誉」という大きなエンジンを積んだからです。
取り外された部品も展示されています。外からは分からない部品の数々。航空ファンには興味をそそられます。
近くで見ると穴が沢山開いています。角度によっては向こう側が見えます。長年海底にあった為、腐食したのでしょう。しかし、被弾したと思える穴は見当たりませんでした。キャノピーもオリジナルのままのようです。どのような状況で墜落したのでしょうか?

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