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プリンスの誕生

プリンス自動車工業は。立川飛行機系のたま電気自動車と中島飛行機系の富士精密が合併して誕生した。立川飛行機は軍用機の機体の製作を手掛けるメーカーであり、一方冨士精密は、零戦のエンジン「栄」を開発した中島飛行機の発動機部門にその起源を持つ。
写真はプリンスと命名された、国産初の1500ccエンジンを搭載した乗用車である。
発売は昭和27年(1952年)で、初代クラウンが発売される3年前。当時は乗用車よりトラックの生産台数のほうが多く、同じ車台をベースにしたトラックも販売された。後発の自動車メーカーとして戦後発足したプリンスが、大手のトヨタ、日産に対抗するには、先進技術で勝負するしかなかった。プリンスには旧中島飛行機の技術者が残っており、世界有数と言われた航空技術に携わったエンジニアのプライドから、「他社に技術面では負ける筈が無い。」という強iい信念を持っていたのだろう。
中島飛行機といえば敗戦で解体されるまで、名門大学の理工学部卒業者が優先的に就職した会社であり、三菱重工業と並んで日本の航空産業の中核をなした会社である。
技術面では高いプリンスではあったが、生産設備は大手に大きく送れをとっており、このクルマのボディは職人の手叩きで、とても量産化というレベルでは無った。しかしタクシーの需要等で販売面ではそれなりに成功を収めたようだ。
ちなみにプリンス自動車のオーナー兼会長は、ブリジストンの創業者である石橋正二郎氏である。



クラウン

昭和30年(1955年)に販売開始。国産初の大量生産が可能な本格的乗用車。昭和24年(1949年)頃から開発の構想はあったが、当時トヨタはドッジラインのあおりで激しい労働争議の真っ只中であった。争議の結果、社長の豊田喜一郎が辞任に追い込まれ、会社は混迷を極めた。しかし、朝鮮戦争(昭和25年)による特需で会社は息を吹き返し、クラウンの開発が本格化する。他社が海外のメーカーと技術提携を結ぶのをしり目に、トヨタは徹底してオリジナルの技術に拘った。
トヨタは自動車産業に進出する当初から、自動車産業は大量生産が前提でないと成り立たないという信念を持っていた。クラウンの開発に掛かった約5年間、自動車に高い信頼性と耐久性を徹底的に追求した事で、現在の世界ナンバーワンの礎を築くことが出来たと言っても過言ではないだろう。ここらあたりが、戦後発足したプリンスと大きく異なる点である。トヨタが開発したかったのは、奇をてらった先進技術てんこ盛りの商品では無く、飽くまでも売れる事を第一義的に考えた商品である。同時にトヨタは信頼性の高い商品を供給する全国規模の販売体制を、早い時期から確立する努力をしていた。良い商品を開発しても、販売力が乏しいと宝の持ち腐れになってしまう事をよくわきまえていたのだ。
初代クラウンの開発は、大きなリスクが伴った。失敗すれば巨大な開発費ばかりか、ユーザーも他社に取られかねない。手堅いトヨタは、もしもクラウンが失敗した場合に備えて、当時の乗用車の大口ユーザーであったタクシー会社向けに、クラウンを簡素化したトヨペット・マスターの開発を同時進行させていた。
このクルマは前後リーフによる固定式のサスペンションを採用しており、殆どトラックの足回りといって良いものであった。クラウンの開発が成功した後、マスターは3年で生産を打ち切られることになる。



名車、スカイライン誕生!

トヨタのクラウン発売でプリンスの技術陣は、「絶対に負けられない」という強い思いを胸にしたであろう。初代スカイラインはクラス最高の60馬力のエンジンを搭載してクラウン発売の二年後の昭和32年(1957年)に発売された。
戦前と戦中、航空技術者というのは自他共に認める、エンジニアのエリート中のエリートだった。「自動車屋に飛行機屋が負ける筈が無い!」 零戦のエンジンを始めとして、傑作機を製造してきたプライドはプリンスを技術偏重へと駆り立てて行く。この企業風土が日産に吸収合併される原因のひとつであった事は否定できないだろう。つまり小規模の後発メーカーの性で、技術的にインパクトのあるものを開発する為なら多少のコストが掛っても容認してしまうのだ。初代スカイラインは,トレー式フレームやドディオンアクスルといった国産車初の装備が奢られており、スペックでは、明らかにクラウンを凌いでいる。しかし、どんなに優れた技術が有っても、クルマを商業ベースに乗せなければ、企業経営は成り立たない。そもそも、ユーザーが技術的な優劣をどれだけ感じる事が出来るかという問題が存在する。当時スカイラインとクラウンを乗り比べた顧客がどれ程いただろうか?実業の世界で技術力がアドバンテージとなるためには、販売力でアピールし、購入させてこそ成立する。
昭和32年4月24日、日比谷の宝塚劇場で初代スカイラインの発表会が開催された。歌謡ショーが同時に催され、「スカイラインの歌」まで披露されたという。派手な宣伝もあって、販売は良好であったらしい。



初代グロリア

プリンスの石橋会長は、会社を国際的なメーカーに育て上げたいという考えが強く、小型車枠を超えて、輸入車と同じ土俵で勝負出来るクルマの開発を指示した。恐らく石橋に限らず、この時代のクルマ好きの羨望の的はアメリカ車だったのだろう。初代スカイラインのスタイルを見ても、テールフィンを持つなど、至るところにアメリカ車の影響が見て取れる。
そこで、スカイラインの1500ccのエンジンを1900に拡大し、馬力を80馬力にまで伸ばした。販売直前まで、スカイライン・スーパ−と呼ばれていたが、グロリアに改められた。
石橋の本音はもっとゆったりしたサイズで高価なクルマを開発したかったのであろうが、エンジニアはあまり乗る気でなかったようだ。それが証拠に初代グロリアはスカイラインの上級車の位置づけであり、プリンスお得意の先進技術が新たには盛り込まれてはいない。
石橋の指示を無視する訳にも行かず、渋々開発したというのがエンジニアの本音だったのではなかろうか。
このグロリアの生い立ちをみても、プリンスという会社の内情がよく現れている。つまり、技術者の存在が強すぎて、会長でさへも、遠慮してしまうようなところがあったのではないだろうか。
トヨタ、日産に比べて、エンジニアをマネージメントするという要素が、プリンス社内には希薄だったように思えてならない。プリンスという組織は、職位の階段の意識が希薄で、風通しの良い社風だったとも言われているが、風通しの良い会社が必ずしも経営的に優れているとは言えないと思う。



二代目クラウン

昭和37年にフルモデルチェンジしたクラウンはボディサイズを小型車ぎりぎりまで拡大し、国産のハイオーナーカーの道をまっしぐらに歩み始める。この2代目のデザインからクラウンのクラウンたるボディーフォルムが始まったように思われる。簡潔に言うと「、いつかはクラウン」に辿り着く日本的豪華さである。
エンジンを1500tから1900tへと拡大したが、サスペンションは前輪ダブルウィシュボーン、後輪はコイルとなったものの,手堅く固定式のままである。またボディーもフレーム型を引き継いでいる。このスペックは基本的には1980年代まで続けられる事になる。トヨタがターゲットにしている顧客層は自動車マニア以外のマジョリティーなので、オーソドックスな技術の熟成にこだわり続ける。高級車であっても古典的なリジットアクスルの熟成によって、満足出来る乗り心地を追求する。新しい技術を簡単には導入しない。信頼性と耐久性を重要視しているのはもちろん、コストもきちんと管理されているのだ。
尚、クラウン以外のボディー構造は、速い時期からモノコック化が進められており、クラウンだけが特別扱いされている。(あのセンチュリーも当初よりモノコックだった)



二代目グロリア(スーパー6)

二代目クラウンの発表の一ヶ月前、プリンス自動車の小型車の最上級車として、二代目のグロリアが産声を上げた。プリンスは、クルマの需要の拡大に対応するべく、乗用車をスカイラインとグロリアの二車種の構成とした。このころ村山工場も稼動を始め、プリンスも町工場から量産メーカーへと変貌を遂げている。
当初グロリアは4気筒エンジンを搭載していたが、プリンスは6気筒エンジンの開発に取り組み、日本初の6気筒OHCエンジンのグロリアスーパー6を発売した。他社に先駆けて6気筒エンジンを開発すのは並大抵の事ではなかったらしく、エンジンの素材や構造を大幅に見直し、気の遠くなるほどの試行錯誤を繰り返した。オーバーヘッドカムシャフト方式を採用し、高速回転に対応したエンジンに仕立てた。日本初の高速道路(名神高速)の開通を強く意識したものであったのは間違いない。開発された6気筒エンジンは105馬力を達成し、G7型エンジンと名付けられ、後にスカイラインGTにも搭載され「スカイライン伝説」を生み出す事になる。
そもそも、プリンスがあれだけレース活動に力を入れたのは、後発メーカーとして技術的なアドバンテージを持ちたいという願望と、高速時代の幕開けが間近で、高速走行に対応したクルマをいち早く開発する必要性に迫られていた為でもある。
また、この頃通産省は来るべき自動車の輸入自由化に備えて、国内メーカーを@量産車グループ,A特殊乗用車グループ、Bミニカー生産グループのグループに再編する構想を持っていた。プリンスはグロリアをもってして、特殊乗用車のグループとして存続する事を考えていたようだ。(この後、プリンスがスカイラインの開発に当たって、通産商から認可を受けようとした際、かなり揉めたらしく、スカイラインの発売は競合メーカーにとって不快なものであったという。)
グロリアは、同時代の他社の同クラスのクルマと比較すると、先進技術で抜きん出ている。
プリンスはこの後、昭和39年に、2500t6気筒OHCエンジンのグランドグロリアを発売する。国産初のパワーウィンドウの装備など、技術的に他社を更に大きく引き離した。
しかし、販売面ではあまり成功したとは言えなかったようだ。



第一回日本グランプリ

昭和38年(1963年)5月鈴鹿サーキットで第一回日本グランプリが開催された。2日間で20万人の観客を動員し、テレビ中継もされるほどの人気振りであった。
しかし、高性能車を売りものにしていたプリンスのレース結果は惨敗。写真のスカイラインスポーツの7位が最高だった。反面、トヨタは各クラスでダントツの成績を収め、グランプリの成果を販売にフルに生かす為、全国的なキャンペーンを展開した。
このレースでは、自動車工業会の申し合わせで、「メーカーはレースに関わらない」という取り決めがなされた。プリンスは正直にそれを守り、車をほぼノーマルの状態で出場させた。ところが優勝したトヨタは、トヨタ自動車販売(自動車工業会に属していなかった)がレースに出場したので、クルマを改造し、ドライバーも早そうな人材を組織を挙げてスカウトしていた。トヨタは、このグランプリへの消費者の関心が非常に高く、レースに勝てば販売面で有利に立てると睨んでいた訳だ。このトヨタの思惑は見事に的中した。
プリンスにとって第一回グランプリの結果は大きな転換点になった。後に日産に吸収合併されるまで。プリンスはレース活動に血眼になって行く。本来は販売の為のレースである筈が、レースに勝つ事のみに執念を燃やし、会社の資源をレース車両の開発に集中的に投下させて行く。
第一回日本グランプリは、もともと技術偏重的な性格の強かったプリンスを更に深みへと導いて行った。



スカイライン伝説の始まり

第一回日本グランプリ敗退は飛行機屋のプライドを著しく傷つけ、その雪辱を果たすべく、プリンスは第二回の日本グランプリに備えて、1500ccのスカイラインにグロリアの2000ccエンジンを無理やり押し込め、ロングノーズの4ドアセダン、スカイラインGTを完成させた。G7型エンジンはスカイライン搭載にあたって、ウェーバーの3連キャブレターが奢られ、馬力は165PSを達成した。
レースでの勝利に、これ程こだわったのは当時の自動車レースが現在とは比べ物にならない程販売面に対する影響が大きいと考えられていた事にあるのだろうが、プリンスの場合、こだわり方が極端である。レース車両を開発している間、量産車は殆ど手付かずといった具合だった。
トヨタや日産はレースに参加こそしたものの、経営の軸足は飽くまでも一般大衆車に置き、コロナやブルーバードといった経営の核となる車の開発を地道に進めている。
個人的にはこのS54は歴代スカイラインの中で最も好きなモデルである。第二回日本グランプリが開催された昭和39年は、東京オリンピックの開催された年で、日本が技術力を急上昇させた時期でもある。YS11や出光丸も然り。このレースでポルシェ904をスカイラインが抜いたという「スカイライン伝説」が誕生したのも頷けよう。ただ、この伝説がその後スカイラインの大きな呪縛となり、40年の後にニッサン・スカイラインの存亡の危機を生み出す要因になったのではなかろうか?「欧米に追いつけ、追い越せ!」という戦後のスローガンを体現していたのが、スカイライン伝説であり。現代の時代精神とは相容れないものであろう。
ロングノーズに丸いテールランプ、21世紀のR34までこのコンセプトでいってしまった。
時代と共に変化する柔軟性を持てなかったのがスカイラインの悲劇であり、プリンスのエンジニアも航空技術者のプライドという呪縛から逃れられなかったのだろう。



イメージの確立

日本グランプリに敗れたとはいえ、ポルシェを相手に善戦したスカイラインは、スポーティカーのイメージを確立し、2000GTは販売面でも成功を収めた。レースに使用したエンジンを市販車用にデチューンした2000GT−Bと(125馬力)とシングルキャブの2000GT−A(105馬力)の二本立ての販売を行い、マニアには好評だった。ただ、2000GTの存在感があまりにも強烈過ぎた為、先行して発売されていた1500tのファミリー向けモデルの販売がパットせず、2000GTも価格的に押さえ気味であった事もあり、プリンスが期待していたほどには、レースの結果は会社の利益には繋がらなかったように思う。
第二回日本グランプリの翌年の昭和40年、日本はいわゆる40年不況に突入し、プリンスの販売台数は激減してゆく。
トヨタ、日産と比較すると、先進的で複雑な構造のプリンスの乗用車はコスト面で不利に働き、大手二社と比較すると不況のダメージは深刻だった。
しかし、プリンスはこの後もレースにめり込んで行き、高性能車という、採算性の悪い商品の開発に経営資源をつぎ込んで行く。もう後戻りは出来なくなっていた。
ところで、個性的なスペックの乗用車を世に送り出したプリンスだが、スタイリングに於いても、他社とは一線を画してた。
まだ子供の頃、二代目スカイラインを見るたびに、一種グロテスクな印象を受けたのを覚えている。二代目のグロリアも同じで、特にグロリアの霊柩車は見かけがちょっと怖かったくらいだ。明らかに他のメーカーのクルマでは感じる事の出来ない佇まいである。



BC戦争

第二回日本グランプリの直後から、トヨタのコロナと、日産のブルーバードが熾烈な販売競争を展開していく。高度成長で、庶民にも乗用車に手が届き始める時代になり、トヨタと日産はお互いに競争をすることで、販売台数を伸ばし経営基盤を磐石なものにしてゆく。昭和38年(1963年)に登場したブルーバード410型は当初コロナに対して善戦していたが、写真のコロナRT40型に昭和40年(1965年に販売台数で抜かれてしまう。BC戦争の結果、一つの車種で月間10000台の販売が達成されるなど、日本のモータリゼーションは急速に発展し始める。高性能車と大衆車、企業にとってどちらが経営的に美味しいかという事になれば、右肩上がりの経済下では大衆車に軍配があがるだろう。クルマは量産出来なくては会社は利益を出せないし、利益を出せなければ、会社は拡大出来ない。外国車の輸入自由化に備えるには、量産化は避けて通れなかった訳だ。
プリンスもスカイライン1500を大衆車としてもっと売り出す努力をしていれば、その後の展開が変わっていたかも知れない。



R380、 中島飛行機の遺産

第二回日本グランプリでポルシェの後塵を拝したものの、スカイラインはその健闘ぶりが支持され「スカG伝説」は人々の記憶に名車として刻まれた。普通ここまでの成功を納めると、あとは量産車にレースの技術を反映させて量産効果を享受するのだが、プリンスという会社、一筋縄では終わらなかった。「何が何でもポルシェに勝つ!」・・・・・・・・
またもやエンジニアの執念で会社は突き進んで行く。イギリスのブラバムからフレームを買い付け、ミドシップにチューンされた直列6気筒エンジンを搭載し、スカイライン2000GTから約380キロ減量したレーシングプロトタイプ、R380を完成させた。昭和41年の第三回日本グランプリで優勝し、レースに勝利するという念願は達成できた。しかし開発中、日産との合併が突然発表される。日産とプリンスの合併比率は1:2.5、合併というよりも吸収されたと言った方が良いかもしれない。合併についてはいろいろな説があるようだが、オーナーの石橋正二郎(ブリジストン創業者)のタイヤ事業の拡大にとって、プリンスが大手のトヨタや日産と競合する事が必ずしも良い事ではないと思えたのではないか。
また、通産省も外車の輸入自由化に備え、国産メーカーの競争力を高めるには業界再編は避けて通れないと考えていたのであろう。
プリンス最後のクルマ、R380がチェッカー・フラッグを受けた3ヶ月後、プリンスは日本の自動車産業の歴史から姿を消してゆく。プリンスという名が自動車に命名され僅か14年余りの事であった。



羊の皮を被った狼

日産との合併後、旧プリンスの設計チームは3代目スカイラインを開発した。まだトヨタが開発していない、前輪がマクファーソンストラット、後輪セミトレーリングアームの4輪独立懸架を採用したクルマである。正確にはブルーバード510型が日本で最初にこの足回りを採用したのだが、スカイラインの方が信頼性の面で高かったという説もあるようだ。スタイリングについても、この当時の日産車のシンプルなデザインとは異なり、造詣美ともいえる彫の深いエクステリアを持つ。特にGT系はそのロングノーズも手伝って、機能美すら感じてしまう。歴代スカイラインの中でもデザインはベストである。写真の、国内レース50勝という金字塔を打ち立てたGTRのデイテールは、そのずば抜けた運動性能を余すところ無く体現しているかのようだ。
3代目スカイラインは、合併後の発表になったものの、旧プリンスの開発陣の技術レベルの高さを窺い知る事が出来る傑作である。
3代目スカイライン、否、初代日産スカイラインは、日産のドル箱となり、会社に大きな利益をもたらした。しかし70年代初頭、オイルショックでGTRのような高性能車はその命脈を絶たれ、スカイラインも「羊の皮を被った狼」から、次第にソフト路線を歩むようになり、スカイライン伝説も記憶の彼方に消えていった。



トヨタ2000GT(企業としての)バランス感覚

トヨタ2000GTはメカニズムといい、デザインといい、日本が世界に誇れるクルマである。
007シリーズでボンドカーとして採用されたコンパーチブルのスタイルなどは、完璧に近いと思う。だが、トヨタはこの車の量産化に全く積極的では無かった。当時のような高度成長下のクルマ社会はなんと言っても大衆車であった。「庶民の手が届く安いクルマを量産化し、低コストで売りまくるというのが企業経営にとって望ましい」というトヨタの信念には、揺るぎの無いものがあったのだろう。技術者にしてみれば、トヨタ2000GTのようなクルマを開発する事は冥利に尽きるのかも知れないが、会社にとっては決してのめり込んではならない領域なのだ。
トヨタ2000GTは当時としては相当に高額なクルマであり、購入出来るのは幸福なマニアに限られていたので、社内で装備を簡素化した低価格のシリーズを販売する案も出たそうだが、結局採用されなかった。もしも、トヨタ2000GTの廉価版が販売されていれば、商業的には成功を収めていたかもしれない。しかし、当時トヨタが最も力を注いでいたのは、「かんばん方式」によるコスト削減だった。高性能GTカーとかんばん方式は相性は良くないだろう。
高性能車に対する取り組みをみるとトヨタはプリンスの対極に位置する。
トヨタが生産台数世界一になるのも頷けるというもので、企業経営的にはトヨタが正しいのだろう。



プリンスという伝説

会社とは残酷なもので、日産に吸収された後、旧プリンスの社員は職位が一階級下げられ、社員番号も特殊なものであったと聞いた事がある。
企業合併の際、いろんな建前を経営トップは言っているが、本音の部分は飲み込むか、飲み込まれるかという事であって、飲み込まれる(吸収合併される)方には厳しい現実が待ち受けている。
日産村山工場の跡地にあるプリンスの丘公園の入り口に「スカイラインGTR発祥の地」と刻まれた記念碑(写真)が建てられている。カルロス・ゴーンの日産リバイバルプランでプリンスの主力工場だった村山工場と富士精密の本社があった荻窪工場が閉鎖された。閉鎖になった工場が共に旧プリンスのものであった事は単なる偶然とは言い切れまい。日産の車内では、やはり傍流だったのだろう。
確かに、初代GTRは記念碑に刻まれているとおり「サラブレット」であったが、その後のスカイラインは肥大化をして行き、GT(グランドツーリング)という名前とはかけ離れたコンセプトのクルマになって行く。途中R32あたりで一瞬GTへの回帰の芽を出したが、長くは続かなかった。
スカイラインはプリンスのような風通しの良い社風でしか生まれてこなかったし、生き長らえる事が出来なかったのではなかろうか。日産の組織が硬直していたと言うつもりは無いが、合併によってスカイラインという宝物にもっと磨きをかけていれば、日産が経営不振に陥る事はなかったように思えてならない。高度成長の時代が終わり、コロナやブルーバード、サニーといった日本のモータリゼーションの立役者たちのネーミングが各メーカーから姿を消してゆく中、スカイラインとて例外では無いだろう。ただ僕達のようなクルマ好きのオヤジにとって、「スカG」は特別な響きをいまだに持っている。村山工場の跡地を訪れた際、工場建設当時に東洋一と言われた高速周回路跡地にはショッピングセンター等の建設が進められていた。中川良一さんや桜井眞一郎さんをはじめとした旧プリンスのエンジニアの方々が執念を燃やして開発したたR380のエキゾーストノートが聞こえてきそうな気がして、感慨深いものがあった。
数年後にはここにプリンスの巨大工場があったなんて事は忘れられてしまうだろう。しかし、スカイラインとプリンスというふたつの伝説は私達の記憶の中に生き続けるに違いない。



悲劇の発動機「誉」 

草思社より今年の7月31に発行された、前間孝則氏の著書。戦時中、中島飛行機により開発された航空機用発動機「誉」をテーマにしたものである。
「誉」は当時の最先端技術を駆使し、中島飛行機の中川良一氏(後のプリンスと日産の役員に抜擢)が設計の中心となり開発された傑作である。
「誉」はガソリンのオクタン価の変更や量産時における熟練工の不足といった対戦中の劣悪な環境下で、その並外れた性能を発揮出来なかった。しかし、著者は「誉」の性能低下の根本的な原因を、軍部が絡んだ開発過程そのものや、中島飛行機の経営スタンスにまで踏み込んで問題を提起している。この点を掘り下げ、「中島飛行機」という会社の特徴が「誉」に集約されているという結論に至っている。
中島飛行機は中島知久平という人物によって大正6年(1917年)に設立された。
終戦で解体されるまでの約24年間で、小さな町工場から従業員25万人を擁するマンモス企業に成長している。知久平の考えは徹底した技術至上主義で「経営の根本義は良い品を作る事にある。いかにソロバンに妙をえても製品が粗悪では工場はつぶれる。これはあらゆる製造業に通ずる鉄則であり、特に飛行機を造ることに営々として性能の優れたものを生産しておりさえすれば、営利は無視しても自然に大をなす事が出来る。」という強い信念を抱いていた。
知久平は国会議員に当選するなど、当時の軍部に深く食い込んで会社を発展させてゆく。
この知久平の経営理念はプリンスの経営そのものではないだろうか。
中島飛行機の場合、顧客が国(軍部)であったので、コスト意識が低くても、経営は揺らがなかったが、自動車産業ともなれば話は違ってくる。
プリンス自動車は中島飛行機譲りのDNAで戦後の自動車産業に打って出る事になる。そしてこのDNAがもっとも集約されているのが、スカイラインGTである。プリンス自動車のオーナーの石橋正二郎はプリンスを世界的な自動車メーカーへ発展させるべく努力するが、最終的には日産に吸収されてしまう。当時の通産省の自動車業界の再編への思惑等々、様々な要因があっての事かもしれないが、多くの原因はプリンス自体に内包されていたのではないだろうか?
石橋ほどの経営の才覚を持った人物が途中でさじを投げるにはそれ相応の理由がある筈で
技術偏重の社風は、彼を持ってしても変える事が出来無かったのではなかろうか。
いくら良いものを造ってもそれを世に問う組織や体制が会社に無ければ宝の持ち腐れであ。この著作を読み、この事を痛切に感じた。
高度成長と伴に歩んだスカイライン。このクルマの事を掘り下げてゆくと、自動車の事に限らず日本経済が歩んで来た道のりが見えてくる。そして今後の事も・・・・・・
多くの方に読んで頂きたい本です。



河口湖自動車博物館へ 

前間孝則さんの著書を読んで早速、河口湖自動車博物館へ行ってきました。
ここの飛行機館には戦時中の航空機や発動機が展示してありまして、今回の目的は自分の目で零戦に搭載された「栄」や、疾風や紫電改に搭載された、太平洋決戦用のハイテクの戦闘機用発動機「誉」を見る事でした。
写真が「誉」です。空冷二重星型18気筒、出力2000馬力、排気量は36リッター。ちなみに零戦に搭載された「栄」が14気筒、1000馬力、27リッターでしたから、排気量が僅か1.3倍に拡大されただけで、出力は倍にもなっています。また気筒あたり100馬力以上は、開発当時は冷却の問題で無理だと言われましたが、中島飛行機の開発人は実現させました。
ただ、トラブル続出で敗戦まで、信頼性は殆ど上がらなかったのは周知のとおりです。
やはり設計に余裕が無かったのでしょう。
コンパクトで高出力という二律背反する目標を、無理やり発動機に閉じ込めてしまったこの中島飛行機のやり方を見ていると、プリンスが大衆車のスカイライン1500にグロリア用のG7(直列6気筒)を搭載するのに、ボディを真っ二つに切断し、無理やりに滑り込ませたこととオーバーラップしてくるんです。
「三つ子の魂百まで」ではありませんが、企業に於いてもDNAって変わらないんですよね。
プリンス自動車とスカイラインGTの特殊性ってここにあるんだと思うんです。開発の発想に余裕の無さを強く感じます。
スカイラインには「誉」の亡霊が宿っているのかもしれませんね。



河口湖自動車博物館へ(その2) 

写真はB29に搭載された、ライト社のサイクロンエンジン。「誉」と同じ星型空冷二重18気筒エンジンである。
B29は太平洋戦争末期に日本に爆弾の雨を降らせ、その無差別爆撃により日本の貴重な労働力を奪った。
同機は超高度飛行が可能で、日本の戦闘機の上昇高度を遥かに凌駕していたという。
この当時の日米間の航空エンジンの技術格差は大きく、「誉」が2000馬力を目指して四苦八苦しているのとは対照的に、サイクロンは最終的には3700馬力の出力に達した。
コンパクトで高性能を目指した「誉」とは違い、サイクロンは直径がすこぶる大きい。これはサイクロンのみならず、ゼロファイターとして名高いグラマンF6Fヘルキャットに搭載された、プラットアンドホイットニー社のダブルワスプR2800もかなり太い。
「誉」の直径が「栄」(零戦に搭載されたエンジン)のそれのと3cm増しでしかなかったのは、空気抵抗を考えてのことであったのだが、この余裕の無い設計がエンジンの冷却の問題を始め、様々なトラブルを抱え込む事になる。
翻って、アメリカのエンジンは設計的に余裕を持たせてあり、冷却面や整備性にも優れていたのだろう。
軍用機は実用性が第一。高性能に気を取られ、信頼性と実用性が疎かになっては、戦闘機としては用をなさない。
中島飛行機の余裕の無い設計思想が、「誉」に如実に現れていると言えはしまいか。



河口湖自動車博物館へ(その3) 

第二次大戦の各国の航空エンジンを比較すると、その国々の個性が反映されており、興味をそそられる。特に中島飛行機は戦前の、今で言う「ベンチャー企業」と言えるかも知れない。
飛行機の生産のみを手掛け、急速に拡大したこともあって、会社に良い意味での余裕が無いのである。この点が技術に過度に偏重した社風を作り出すキッカケになったのだろう。
しかし、中島飛行機は飛行機の試作のレベルでは各国に引けを取らない技術があったのだと思う。戦後、「誉」を搭載した、「疾風」や「紫電改」を調査した米軍は、技術レベルの高さに驚愕したという。
ただ、当時の日本は、安全保障の問題から航空産業が突出しして発達しており、他の産業は旧態然という始末。つまり産業の裾野が欧米に比較して狭かった為、工作機械等の品質管理のシステムが未成熟だったと言える。そこへ持ってきて、「誉」のようなスペシャルチューンのエンジンを量産すれば、忽ち混乱となり、用を足さなくなるのも頷ける。
しかし、日本の素晴らしいところは、戦後、この「品質管理」を徹底的に磨きあげ世界有数の自動車生産国に生まれ変わったことでる。その結果沢山の外貨を稼ぎ出し世界第二位の経済大国の地位も得た。中島飛行機の事を知ることで、日本の長短が同時に見えて非常に興味深いものがある。



マン・マシンの昭和伝説 

またまた、前間孝則氏の著書の紹介である。
上下それぞれ500ページに渡る力作で、日本の航空技術者達が終戦後、自動車技術者に転身し、現在の日本の自動車工業の礎を築く過程が赤裸々に描かれている。プリンス自動車の中川良一氏、トヨタの長谷川龍雄氏、ホンダの中村良夫氏らを中心に描かれており、敗戦でアメリカ軍により壊滅的且つ屈辱的に解体された日本の航空技術が自動車に応用され、特に乗用車の開発で世界トップクラスにまで登りつめる過程は大変読み応えがある。
戦後60年を経過し、戦争や戦後を振り返る風潮が強い昨今ではあるが、ここで整理しておかなければいけないのは、戦中の日本の航空技術は決して高いものでは無く、その工業力は貧弱で、 大国と戦争出来る程度のものでは決してなかった事である。たとえば、ゼロ戦が優秀な戦闘機のように評価する向きもあるかも知れないが、現実は少々異なる。当時日本は産業の裾野が狭く、資源にも乏しいという決定的なハンディがあったので、優秀な武器など作れる筈は無かったし、品質管理なんてものはその発想すらなった。
戦前、戦中に技術の素地はあったものの、技術力が目覚しい発展を遂げるのは、むしろ戦後になってからであろう。
航空技術者達は、戦中に欧米の高い技術力を見せつけられ、歯がゆい思いで終戦を迎え、焼け野原から見よう見まねで乗用車の開発に着手する。戦中に日本が遅れていた工作機械も外国製から国産に切り替えられ、外国製のものより精度が高いものまにで出始めて、今では世界中に輸出されるようになった。自動車業界を眺めても、これほど世界的なメーカーが数多く存在する国は他には無いだろう。
では、どうしてここまでの復興を遂げることが出来たのか。いろいろな要因が考えられる訳だが、まずは人材である。
有能な技術者がいたということもさることながら、戦中のハイテク産業で国家がもっとも力を注いだ航空産業が敗戦で命脈を絶たざるを得なかった無念さがエンジニアの魂を奮い立たせたのではないかと考える。
戦後の乗用車開発は欧米に追いつけ追い越せの凄まじい勢いで行われた。その中で奮闘したエンジニアの魂がこの著書に集約されていると感じた。
自動車に興味を持つ御仁には必読の書であろう。



白洲次郎のこと 

一見プリンスとは関係無いように思えるかも知れないが、ここで白洲次郎(1902〜1985)の事を述べてみたい。戦後の日本の産業全般を考える時、彼は重要な存在である。
一昨年、NHKの「その時歴史が動いた」で取り上げられ、密かなブームになっているようだが、初めて彼の事を知ったのは、約20年ほど前であろうか、二玄社の自動車雑誌、「Navi」で連載された時であった。白洲は身長185cmで、抜群のファッションセンスを持ち合わせ、おまけに、容姿端麗で晩年には三宅一生のファッションモデルを引き受けている。また「日本で最初にジーンズを履いた男」とも言われている。自動車にも造詣が深く、大正時代にケンブリッジに留学し、現地でブガッティやベントレーを乗り回していた。日本では二代目ソアラの開発アドバイザーも勤めている。
強烈な個性を持っている人物であるので、エピソードを挙げると際限が無いのが正直なころだが、最大の功績は何と言っても、昭和24年5月に通商産業省を発足させたことであろう。
資源の乏し日本に於いて、貿易立国の道を選択することが戦後からの復興であると考え、商工省を改め、通商つまり貿易で外貨を稼ぐ政策に邁進して行った。その切り札が通産省である。
戦後の日本の経済発展は奇跡とまで言われている。そこには当然日本人の勤勉さや当時の国際情勢という要因もあろう。しかし、忘れてならない事は「高度成長」と呼ばれるものが、政策であり戦略であった事である。白洲は通産省創設の際、各局長に外務省から腕利きの外交官をひっぱてきたと言われている。この創業者精神(この場合は「創省者精神」とでも言った方が良いか?)がのちのち経済大国ニッポンを築くこととなり、日本車をはじめとした、メイドインジャパンが世界中を多い尽くすきっかけにもなったと考える。
通産省と言えどもお役所なので、賛否両論もあることだろう。
しかし通産無くしては、日本は世界一の債権国にはならなかったことも事実である。
通産省も現在は省庁再編により経済産業省と名前を変えている。
ただ、戦後の復興期に将来の日本を憂い、尽力した人々がいたことも忘れてはならないだろう。
写真は北康利氏の著書。白洲次郎を知るには持って来いの一冊である。



白洲次郎のこと(その2)

敗戦後約7年間、日本はアメリカ軍の占領下におかれた。この時期は日本のその後にとって、大きな意味を持つ。政治や経済といった国家の根幹のシステムがこの次期に形成されてゆくことにる。戦後60年以上を経た今日でも、基本的には変わっていない。
占領軍の民生局が日本の統治の実務を執り行った訳だが、民生局のメンバーは社会主義的な経済システムの下で日本を復興させようとする考えが強かったようで、日本を統制経済の実験台にしたかったように思われる。この占領軍の政策に真っ向から立ち向かったのが、白洲次郎や吉田茂に代表される人々で、通商派ともよばれるグループ。
「資源の無い日本は貿易により外貨を獲得し、その外貨で資源を購入する。」この基本的な理念の下、通産省は通商政策を遂行してゆき、日本を世界第二位の経済大国に押し上げた。
当時、絶大な権力を持っていた占領軍の政策に対抗するというのは並大抵の事では無い筈。
白洲が「マッカーサーを叱った男」として有名なことをとってみても、如何に必要以上に抵抗したかが窺い知れよう。つまり、戦後の高度成長は自然発生的なものではなく、苦労を重ねて占領軍から勝ち取った経済政策に起因するものである。ではなぜここまで抵抗したのか?それは占領という屈辱を味わっていたからに他ならない。そう言った意味では「屈辱」から生まれた国家戦略だと言えるのではないだろうか?
「今に見ていろと、密かに涙す」 白洲は外交文書にこう記していたと言われる。
通産省創設という白洲の最大の功績がもっと語られて良いと思うのだが・・・・・・・・



通産省と産業政策 

戦後の産業政策が日本の高度成長に大きく貢献した事、またキーポイントとなる通産省の創設に白洲次郎が大きく貢献した事も述べた。日本の製造業は様々な分野で脅威的な発展を遂げる訳だが、自分が知り得る中でも驚愕に値するのが、日本とアメリカの約40年に及ぶコンピューターの開発競争である。写真はNHKで放映されたプロジェクトXのDVD。
タイトル下の顔写真は富士通のコンピューター開発技師の池田敏雄氏である。
敗戦直後、電々ファミリーの中で最も格下の富士通が、池田という天才技術者に会社の将来を託し、当時IBMが世界を牛耳っていた大型電算機の分野に切り込んで行く、その結果、IBM製のコンピューターを差し置いて、富士通が製造したコンピューターがNASAに導入されることが決定する物語である。
当時IBM制の大型電算機は世界シェア70%と言われていたが、シェアが50%を切ったのは、先進国で日本だけだった。
DVDでは通産省の働きには触れられていないが、どう割り引いても富士通だけでは成し得なかった快挙であろう。通産省が国産のコンピューター産業を育成する為に政治家をも巻き込み、様々な制度を作ってゆき、IBMの日本支配を食い止める。大型電算機は国防の中心的な産業であり、アメリカのような軍事国家にとってIBMは国防そのものと言ってよい。そのIBMの顧客を富士通が切り崩そうとするまでになった。巨象にモスキートが挑んで倒そうとしたということだろう。官僚が政治家をを動かしていたという今では考えられない時代の出来事である。
日本のモノ作りの素晴らしさは誰もが認めるところであるが、想像以上に凄いと思う。
いや、「凄い」という月並みな言い方では物足りないというのが正直なところで、「カミガカリ的に凄まじい!」とでも言いたくもなるくらいだ。
プリンス自動車の話題から少し脱線してしまったが、この歴史は一人でも多くの日本人に知ってもらいたい。



国産旅客機40年ぶりに始動 

2008年3月28日、三菱重工が国産のリージョナルジェット旅客機、MRJ(三菱リージョナルジェット)の事業化を発表した。リージョナルジェットとは100人以下の乗客を乗せるクラスで、戦後初の国産旅客機、YS−11とほぼ同じ範疇になる。
戦前、日本は航空産業がハイテク産業で、欧米に迫るほどの技術を持っていたが、GHQの占領下により航空産業は解体され、1952年の講和条約締結まで、国産機の開発は一切行われていない。この敗戦から7年間、海外ではレシプロからジェットへ航空機の発動機開発が移行するという非常に重要な期間に当たったにもかかわらず、成す術も無い日本は、航空技術に於いて著しく後れをとることになる。
優秀な航空技術者達も職を追われ、一部の人々は自動車産業に活路を見出してゆく。
プリンス自動車の中川良一氏もその一人で、スカイラインは翼を失った航空産業が生み出した傑作車とも言える訳だ。航空機のノウハウは様々な形で自動車に反映されている。プリンスがR380の開発で採用した、アルミ合金の溶接や、4バルブエンジン、スカベンジングポンプ(オイルポンプ)といった技術は皆、中島飛行機時代の航空技術から移植されたと言って良いだろう。
プリンス自動車が日産に吸収されて約40年が経過し、このタイミングで国産旅客機の事業化がスタートするというのがなんとも面白い。三菱重工には是非頑張ってもらい、日本の翼を蘇らせて欲しいものだ。因みに、計画が順調に行けば、MRJは約4年後に姿を現すことになる。



国産旅客機40年ぶりに始動(その2) New !

プリンス自動車と航空機との関わりのなかで触れておかねばならない事がもうひとつある。それはロケットエンジン。
日本のロケット技術の生みの親、糸川博士は戦時中に中島飛行機に在籍していた。戦後東大に移った博士は国産ロケットの開発の為スポンサーを求め、プリンス自動車を訪れ旧知の間柄である中川良一氏に協力を求めた。中川氏は快諾し、国産のロケットの開発がスタートすることとなる。写真は糸川博士が実験で使用したペンシルロケットである。現在のH2A型ロケットはこの小さなロケットの発射実験から始まったと言っても過言ではなかろう。
自動車会社であるにも拘らず、ロケット開発をおこなっていたところにプリンスという会社の個性が現われていると言える。プリンスの宇宙航空部門は日産に吸収合併される際、会社ごと日産に移されたが、カルロス・ゴーンの「日産リバイバルプラン」で合理化の対象となり、IHIエアロスペースに売却されることになる。
IHI(石川島播磨重工業)の宇宙航空部門はドル箱の収益力があり。国際共同開発されたベストセラー航空機エンジンのV2500では、開発の重要な役割を果たしている。
MRJは主要パーツのほとんどが外国製であり、正直言って「純国産」と言い難い部分がある。
しかし、MRJが成功した暁に、中島飛行機・プリンス・日産の流れを汲む石川島のエンジンが開発され、国産ジェットに搭載される日を期待したい。
ちなみに石川島は自衛隊の対潜哨戒機P−X用に純国産のターボファンジェットを開発済みではある。



日産 GTR (日産よ、大丈夫かいな?) 

第40回東京モーターショーに行ってきました。
写真は話題のGTR。黒山の人で、5メートル以内で見物できるまで10分位掛かったかもしれません。GTRに限って、見る人が多すぎて容易に近寄れないんです。日本人は本当にGTRが好きですよね。
数年前から焦らせた、日産のデモも功を奏したのかもしれませんが・・・・・・・
今回、日産はスカイラインという名前を敢えて外しました。日産のそれなりの戦略なのでしょうが、そのくせしっかりとテールランプは丸型。これじゃあ、スカイラインの以外の何者でもないでしょう。
また、イメージカラーをガンメタにして、相変わらず「ニュルンブルクでポルシェより速いタイムをたたき出した。」等と、頑張っているようです。まったく、ご同慶の至りですね。
恐らく、日産の持てる技術力を総結集させて完成させたクルマですから、かなり高いレベルに仕上がっているとは思います。性能的には、ヨーロッパの老舗スポーツカーメーカーに追いついているか一部凌駕しているかもしれない。
でも、本音を言うと、「まだそんなことやってんの?」って感じです。
「ポルシェに追いつけ、追い越せ!」これじゃ40年前の第二回日本グランプリと同じでしょう。
さては、第二回グランプリで「スカG伝説」が生まれたんで、同じことやって新たな伝説を作ろうって魂胆なんでしょうか?
高度成長期ならいざ知らず、成熟社会の現代にあって、メーカー側も新しいカーライフを提案すべきだし、またそうしないと経営的にも大変だと思います。トヨタはハイブリットで環境面の提案をしているし、ホンダはオデッセイで、新ジャンルのトランスポーターをマーケットにアピールしています。クルマを売るのではなく、「クルマに乗る生活のイメージ」を売る時代だと思います。
そこへ持ってきて、こういう体育会系のクルマって、息が詰まりそうですよ。
時速100kmに到達する時間を競うのは、インプレッサやランエボにでも任せておけばいいし、そもそも、スカイラインという高度経済成長の申し子のような車種のイメージは、経営的には名前と伴に消してしまった方が良いと思います。
「日産リバイバルプラン」で、村山と荻窪といった旧プリンスの工場を閉鎖した日産が、プリンスの流れを汲むGTRに未だにこだわり続けているとは・・・・・・・・・
今後の日産がちと心配になってきました。



追記1 ノスタルジックカーショウに行ってきました。

写真はケンメリGTRのコックピット。非常にシンプルでスパルタンな雰囲気が漂っています。
ケンメリは歴代スカイラインの中では、最も商業的に成功したクルマですが、スカイラインの没落が始まったのはこのモデルがきっかけだったような気がしてなりません。ケンメリ以前のスカイラインと以降ではコンセプトが全然違います。「羊の皮を被った狼」から「羊の皮を被った中身も羊」ってところでしょうか。研ぎ澄まされた鋭さってものを感じないんですよね。R32でスカイラインらしさが復活したような時期もあったけれど、長くは続かなかった。やはり日産時代にローレルと車台を共通化していたのがいけなかったんでしょう。合理化だとかコスト管理という考えと、スカイラインは両立しないような気がします。



追記2 往年の名ドライバー

会場にR380で第三回日本グランプリで優勝した砂子義一さんがいらしてました。(写真左に座っておられる方)とても気さくな方で、冗談を飛ばしながらファンにサインをしてました。レース当時のフィルムで見ると華奢な印象がありましたが、実際は結構がっしりした感じでとてもお元気でした。「スカイライン伝説」を生んだのは第二回日本グラはンプリで41号車をドライブした生沢徹さんでしたが、レースの結果は一位がポルシェ904で二位は砂子さんのスカイラインの39号車でした。その時のボディーカラーが写真のクルマと同じブルーです。
伝説を生んだS54はスカイラインの中では名車中の名車だと思います。クルマ全体に「大手には負けないぞ!!」という作り手の決意が込められていて、クルマのコンセプトに強い上昇志向を感じます。まさに永遠のスカイラインですね。



追記3 似たもの同士

写真左はブルーバード510の1600SSS。このクルマは日本で始めて四輪独立懸架とSOHCエンジンを搭載したクルマで、国産車のレベルを一気に引き上げた車です。ただこのコンセプトで写真右のハコスカもほぼ同時に開発されていました。両者とも日産とプリンスの合併直後に発売されたクルマですが、もし合併が無ければ、ハコスカが510より先に発売されていた可能性が強かったという見方をする人もいるようです。両車の発売後ブルーバードの方はサスペンションのブッシュ類のトラブルが多かったようですが、ハコスカは信頼性が高く、あまりトラブルは出なかったそうです。
ハコスカはGTR以外の2000tは日産のL型エンジンを搭載しており、旧プリンスのエンジニアの方々は悔しい思いをされたことでしょう。ただ、彼らはL型エンジンを改良してスカイラインに搭載したという話もあるようで、真偽の程は分かりませんが、もし本当のことであれば、日産のエンジニアは面白くなかったでしょうね。



追記4 時間の流れ

会場でR380‐UとR381のエンジン音を聞くことができました。R380‐Uのエンジンは基本的にはR380と同じプリンス開発のGR8です。直列6気筒2000tエンジンは本当にいい音してました。言葉にするのは難しいけれど、如何にも素性の良いエンジン音で、かなりの爆音なんですが不快感は全然ありません。(この音は当ホームページのトップページで聞くことが出来ます)一方のR381はシボレー製の排気量5000ccのV8エンジン。GR8と比較するとかなりマッチョなサウンドです。どうしてもプリンス贔屓なので、あまり良い音には思えませんでした。
この二台のエンジンを掛けてくれたのは元レーシングドライバーの方々で年齢的には60歳は超えておられるのでしょう。自分が子供の頃ヒーローだったレーシングドライバーがもうおじいちゃん(失礼)になっているとは・・・・・、時間の流れを痛切に感じました。
ところで、どうして国産初のレーシングプロトタイプであるR380はレストアされないんでしょうか?日産のブランドであれば、R380−Uのエンジンがプリンス製であってもレストアするのにプリンスの名が着いているクルマは日産にとってどうでも良いのでしょうか?
桜井眞一郎さんが私財を投じてR380レプリカを作ったのもこういう事情だったのかと思ってしまいます。会場に置かれてあった11号車の赤いR380がとても悲しげに見えました。



追記5、PSミュージアム訪問記

長野県岡谷市のやまびこ公園内にある、プリンス・スカイラインミュージアムに行ってきました。
東京から、中央高速で160キロほどでしょうか、首都圏からだと少々遠い。おまけに冬季は閉館となるそうで、この場所にミュージアムがある事自体、運営の厳しさを物語っているようでなりませんでした。展示車両も31台で、茨城県にあったレッドパークの規模と比較するとこじんまりとしています。入場料1000円也。
写真は初代スカイライン。スカイラインはクラウン誕生の二年後に販売されました。クラウンが1500ccで45馬力のエンジンを搭載したのに対し、同じ排気量で60馬力のエンジンを搭載していました。スタイリングもクラウンと比較すると都会的で洗練されたデザインだと思います。
プリンスという会社、デザインには結構こだわりを持っていたようで、ある種の気品すら感じますね。勝手な推測ですが、こういうクルマのデザインを考えるには、クルマの事だけ勉強しても思いつかないかもしれません。広い意味での文化に対する教養みたいなものが必要なんでしょうね。クルマのデザインとはいえ、作り手の教養の高さを感じます。



追記6 プリンススカイウェイ

初代スカイラインのワゴンです。今ですらワゴンは日本に定着してきたようですが、以前はレジャー目的のクルマではなく、飽くまでも仕事用のクルマで、写真のように、ドアは2枚でした。つまり、ワゴンではなくて、バンというやつですね。この当時、乗用車の生産台数よりもトラックの方が多く、マイカーなんてのはずっと後になってからです。
このクルマはスカイラインとは呼ばず、スカイウェイと呼ばれました。プリンスの場合、商業用バンでもデザインに気を抜いていないようで、本当にスマートなスタイルです。後ろ姿が見られなかったのが残念ではありますが、今、街中を走らせても良いくらいですね。
ミュージアムに何気なく置かれていましたが。相当に貴重なクルマだと思います。
殆ど残っていないのではないでしょうか。



追記7 エスゴーヨン

何度も書きましたが、歴代スカイラインでベストカーはこの二代目、S54(エスゴーヨン)だと思います。プリンスという会社の性格がよく出ているんです。
このクルマ、昭和39年の第二回日本グランプリに参加する為に突貫工事で作られたクルマで。大型エンジンを載せる為、ボンネットを20センチも伸ばし、徹夜の連続でホモロゲーション獲得すべく100台のクルマをレースの直前までに作り上げました。ベースとなったのはスカイライン1500でプリンスがコロナやブルーバードに対抗して開発した大衆車です。スカイライン1500のデザインには,二代目のグロリアやプリンスロイヤルにも共通する品の良さと言いましょうか大衆車にしては格調の高さを感じます。
そんな1500に、日本初の直列6気筒エンジンであるG7型を滑り込ませた。「滑り込ませた]
と言うと聞こえが良いですが、ボディをぶった切って押し込んだと言った方が的を得ていると思いますます。S54はこのアングルで眺めるのが一番好きです。この角度から眺めると車の「獰猛さ」がよく現れてます。気品と獰猛さが二律背反するこのクルマのキャラクターは僕の大のお気に入りです。



追記8 エスゴーヨン2 

写真左は第二回日本グランプリでポルシェについで第二位でゴールしたゼッケン39号車です。右は市阪の2000GTBです。右下は日本初の自動車用の6気筒エンジンでグロリアスーパー6に積まれたG7エンジンです。(もちろん、写真の二台にも搭載されています)プリンスという会社が大きくなったのもこのG7に負うところが大きいでしょう。
つまり、プリンスが6気筒2000ccエンジンに拘ったのは「高性能車はこのスペックである!」との考えが技術者にかなり強かったのではないでしょうか?R380も例外ではないですね。
それにしても、S54のリアビューはカッコイイ!の一言につきます。NHKのプロジェックトXでプリンスが取り上げられたのを見ましたが、中でも、S54が鈴鹿サーキットへ向け、列を成して走って行くシーンが最高でした。レース車両の低い車高と長いボンネットに独特の味わいを感じます。どう考えてもこのクルマは最高のスカイラインだと思います。気持ちが良いくらいに無駄な部分が無いんです!



追記9 トラック

プリンスという会社、実はトラックも生産していまいた。戦後20年くらいは乗用車よりトラックの生産台数の方が多かったのでしょう。それにしても懐かしいトラックです。トラックのデザインにも他社には無い強烈な個性を感じますね。
子供の頃でも、一目で「あっ、プリンスだ・・・」と感じさせた佇まいです。ところでプリンスは日本で始めてキャブオーバーのトラックを開発したそうです。商用車の分野でも先進技術を投入していたんですね。
写真のトラックはプリンス・ホーマーで昔よく走ってました。この他にクリッパーというトラックがありましたね。クリッパーはホーマーよりも大型で、2トン積み位まであったと思います。
トラックの分野では、プリンスは商業的に成功していたんじゃないでしょうか。よく見かけました。



追記10 スーパー6

グロリア・スーパー6
日本で最初のSOHC6気筒エンジンを搭載したクルマです。このエンジンはG7型と命名され、後にスカイラインに搭載され、第二回日本グランプリで「スカG伝説」を生みました。
グロリアはスタイリングも特徴的で、フラットデッキという、小型クルーザーのようなスタイリングを取り入れています。大手のトヨタや日産ではなかなか採用しないような、かなり冒険的なデザインですね。これも一目でプリンスと分かるデザインです。最近は個性的なデザインの車が少なくなりました。ただこのデザインは必ずしも好評だった訳ではなかったようです。
先進のテクノロジーと都会的なデザインを纏ったグロリアでしたが、商業的には決して成功とは言えるものではなく、プリンスが日産に吸収合併される大きな原因の一つになったと考える人もいるようです。



「黒の試走車」事件 

昭和37年(1962年)「黒い試走車」という企業小説が刊行されました。
内容は、主人公のタイガー自動車社員、朝比奈豊という男がライバル会社で日本最大のナゴヤ自動車と業界二位の不二自動車の新車開発の情報を探るという、所謂産業スパイ小説です。
読み進んでゆくとタイガー自動車はプリンスで、ナゴヤはトヨタ、そして不二は日産を暗示しているようで、かなり読み応えのある小説です。
新車開発が企業の命運を左右するという自動車業界にあって、ライバル他社の開発動向をキャッチすれば、大きなアドバンテージになります。主人公の朝比奈はありとあらゆる手を使います。時には自分の恋人を他社幹部に接近させ、色仕掛けで情報を入手する事までやってのけます。
著者の梶山季之はルポライター出身であり、この作品の刊行にあたり、緻密な取材を行っているようで、ノンフィクションじゃないかと思ってしまうほどです。
タイトルの「黒い試走車(テストカー)」はスカイラインスポーツがモデルになっているようで、興味は尽きません。
当時は今ほど、新車開発がメーカーによって多様化していなかった事もあって、実際にスパイ合戦が展開されていたとしてもなんの不思議も無いでしょう。
この小説が面白いと感じた人は相当なクルマオタクです。お勧めの本です。



スカイラインとともに 

神奈川新聞社より出版された桜井眞一郎氏の自叙伝です。
この本は、プリンスという貧乏な自動車会社の開発人たちが、スカイラインというクルマをこの世に生み出し、日産との合併により時代に翻弄されながらも、悪戦苦闘した様子が描かれています。
桜井さんのチームがとても固い絆で結ばれており、スカイライン開発の舞台裏は日本のサラリーマンの古き良き時代と言った感じがしました。
現代はコンピューターグラフィックを駆使して設計を行っていますが、当時は設計図という絵画を描き、それをクルマという作品に作りあげてゆく訳ですから、自分が生み出したクルマに対する愛着は並々ならぬものものがあったのでしょう。
デザインを見ても、S54やハコスカには単なる商品を超えたものを感じます。
「クルマが人生を彩る」
これがスカイラインの真髄ではないでしょうか。
この本、読んだほうが良いですよ。





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