2008-04-23
コミュ力こそ全ての源泉
「リア充」とは、サークル・恋愛・バイト・学業など、大学生活の根幹を形成している諸処の行為を充実の中行っている人間を指す言葉である。その意味で「リア充」は「オタク」と何ら対立する概念ではなく、むしろ「非コミュ」概念の対局に存在しているといって良いだろう。
ところが今、「リア充」なる単語は自分が羨む生活をしている全ての人間に対して使われる用語となっており、個々人の中にある「リア充」のイメージはそれぞれ違っているのが現状だ。けれどもそこには、リア充と認められるに至る基本的な「核」、即ち「リア充と認定される最低要件」が存在するのは確かなようだ(最終的にその人物が「リア充」と認定されるか否かは、個々人の判断基準による)。では、「リア充」たる基本的要件はなんだろうか。その絶対的必要条件は「コミュ力」だろう。「リア充」に慣れるか否かの決定的要因となるのは、新しく作られるコミュニティに対しすぐさま順応できる能力を持っているか否かであり、また見ず知らずの他人に対し仲良く話しかけることが出来るか否かである。これは「リア充」と呼ばれるにふさわしいテニサー達の行動を見ていれば分かる。あの行動の源泉になっているのは他でもない「コミュ力」であり、コミュ力こそがリア充につながるのである。
顔や体型などの条件は、所詮コミュ力の養成を支援するか否かのものでしかない。デブでもコミュ力のある奴はリア充となりうる。そこにある違いはただ端に「自らの身体条件にコンプレックスを抱いている人間は自らに対し否定的になりがちであり、それがコミュ力の低下につながる」というだけの話である。所詮人間の第一印象は顔と体とファッションその他の身体属性で決まるわけだが、それが悪い人間は初対面で相手に悪い印象を植え付けてしまう可能性を考えざるを得ないため、自分から積極的に相手に話しかけるということをしない。それが「コミュ力」の非育成につながり、そして「積極的に他人に話しかけていく力」が付かない以上、「共通の話題を見つける」的な作業もしづらい。身体属性の悪い人間は「自分には無理だ」と最初から自分を狭めてしまうがためにリア充たる第一要件としての「コミュ力」を獲得できない。全ては「コミュ力」からはじまるというのに。
コミュ力のある人間は、たとえその場に存在するプロトコルを共有していなかったとしても、すぐさまプロトコルを自らの体内に吸収しようと努める。「聞き上手」とはまさにこのことで、「聞き上手」的な立場に回ることで、「たくさん話がしたい」と思っている人間を満足させることが出来る。そこに違和感を覚えないこと、「すぐさまクラスタの相違を受容する」「相手のプロトコルをコピーする」ということを、コミュ力のある人間は「質問とその受け答え」を通じて自然と行っているのである。話題の中に自分が入り込める場所を見つけ、そこに焦点をズラすというテクニックを、彼らは自然と行使している。*1恋人なんてコミュ力がなくても出来る。けれどもリア充になるためには、コミュ力がなければ、しかも意識しない形でコミュ力を持たなければならない。コミュ力があれば、サークルだって恋愛だってバイトだって学業だってうまくいく。それは「コミュニティ」にとけ込むことで、嫌で嫌で仕方ないつまらない教官の授業ですら至福の時に変わるからだ。
だからこそ、全てコミュ力のある人間は、自分が誰かにとってのリア充である可能性があることを認識しなければならない。それにコミュ力さえ存在すれば、他の属性など全てがプラスに見えてくるということもある。オタク達がなれ合っている姿ですら、コミュ力のない人間からすれば桃源郷であり、「......このリア充が!」という一撃に沈むのである。コミュ力のない人間の敵は、テニサー達ではない。毎日合コンを繰り広げている連中ではない。インターネット上に蔓延る「コミュ力があるのに『リア充氏ね』と言っているような奴」であり、オフ会を楽しんでしまう人間などもってのほかだ。コミュ力不足の人間がやるべきことは、自らの仲間の中に「リア充たる可能性を持つモノ」が存在していることを自覚することであり、彼らを攻撃することである。なれ合うオタク達も合コンを重ねるテニサー達も、皮をはいだところに残るのは「コミュ力」であり、そのベクトルの方向性と「距離」が異なっているに過ぎない。
追記
このエントリは、21日付けの東京大学新聞に「東大新入生の2人に1人は恋人持ちor恋人持ちだったことがある」ということが載っていて(有効回答数3030人)、それにびっくりした僕の魂が別の方向に空振りしたがために出来たようなもの。「そうか!俺の身近にいる奴らは実は非リア充を装ったリア充だったのか!」と思い綴ってみたものの最終的に出来たものは全然違う方向性になっていた。
それにしても、あのオタクばかりにみえる東大生の半数が既に俺とは違う次元の人間であったとは、本当にびっくり。全員死ねばいいのに。しかし、彼らの全員が「リア充」というワケではなく、リア充であるか否かと恋人がいるか否かは大して関係ない。だからこそ「自分はなぜ」という劣等感に駆られるわけである。
*1:もっとも、「コミュ力」自体が不安定なものであることに異論はない。たとえ周りから見て「コミュ力」があるように見えても、当人がそのコミュニケーションに対し何らかの疑問を持っていると、それは「彼がコミュ力を持っている」とは言えない。コミュ力は意識した瞬間に消滅してしまう