大村大空襲
第二十一海軍航空廠は東洋一といわれた大軍需工場で、総敷地面積三百四十万平方メートル、二十四時間体制で
戦闘機「紫電改」や「零式水上観測機」などを生産し、約五万人の航空廠員や動員学徒が働き何千世帯もの住宅が
造られた。
昭和19年10月25日 午前十時頃、航空廠にけたたましい警戒警報・空襲警報が鳴り響き、中国・成都から渡って
きた米爆撃機B29数十機による大規模な空襲を受けた。上空から波状爆撃を展開し、無数の焼夷弾や爆弾を雨霰
のように降らせた。
廠内は火の海となり消火に当たった廠員を爆弾が襲った。数十センチの鋼鉄の爆弾片が顔面に突き刺さり顔の半分
を失った者、手を切断した者・・・。およそ二時間の空襲で航空機工場はほぼ壊滅した。
その被害者は、死者300人、重軽傷者300人という。
この後、大村市では終戦まで数十回に及ぶ空襲があったとされる。大村市は同航空廠・大村海軍航空隊・陸軍歩兵
四六連隊などが早くから整備され、文字通り軍都として発展を遂げた。これらの軍事施設が攻撃され、市民にも大き
な被害をもたらした。
同廠飛行機部、補給部などは大村市周辺地区や東彼杵郡波佐見町等に工場の機能を疎開させたが、昭和20年
11月に廃廠、開廠から四年でその歴史を閉じた。
放虎原地区
長崎県大村市
第二十一海軍航空廠 防空壕
第二十一海軍航空廠 防空壕
防空壕に残る空襲時の弾痕
防空壕に残る空襲時の弾痕
慰霊碑公園
長崎県大村市
第二十一海軍航空廠 慰霊碑
小長井地区
長崎県諫早市
B29搭乗員鎮魂碑
由来
第二十一海軍航空廠を空襲したB29を、大村海軍航空隊などの零戦・雷電・月光など計五十九機が迎撃した。
多良岳の上空で空中戦になり、坂本幹彦海軍中尉のゼロ戦がB29に体当たりして自爆。B29は同町の五百m
沖合の有明海に墜落、乗組員十一人全員が死亡したという。
B29の機体は引き揚げて大村に搬送され、搭乗員の遺体は墓地に埋葬され戦後になって米軍が引き取った。
昭和十九年秋 詩碑
尾翼だけが海面に突っ立っていた トラックの上には すでに引揚げられた飛行士がころがしてあった
どよめく群集に向って 髪の毛をつかみ ぐいとあげられたその顔は 桜色の 少年のおもかげをもっていた
はじめて鬼畜をみた やすらかな ねむりの姿勢だった その頬に消防団員の平手がとんだ
波佐見金山跡
長崎県東彼杵郡波佐見町
波佐見金山の坑道跡に作られた第二十一海軍航空廠の分散工場
説明版
明治二十九年、金鉱脈を発見し、翌三十年、鹿児島県祁答院重義により採鉱開始し、日露戦争時(明治37・38年)
有望金山として外債募集に役立った。
坑道は西側に朝日坑をはじめ五坑、東側に三坑、その他に一坑があり、鉱石は電車で精錬所(現在の白山陶器)に
運び粉末に砕き、金、銀をとり出していた。
電力は初め川上水力発電所からの送電によったが、のち火力発電所(赤煉瓦建物)を設けた。
明治四十三年、日本興業銀行が直接経営に当り”波佐見鉱業株式会社”となる。 大正三年八月、貧鉱となって突然
閉山した。この間、金一、〇三三Kg(二七五貫余)、銀二、三九四Kg(六三六貫余)を採掘する。
その後、金山は三菱鉱業の手に移り、大東亜戦争中、大村空廠が疎開して坑道に地下工場を設けていた。
平成四年一月 長崎県波佐見教育委員会
更新日:2008/03/30