中島飛行機 武蔵野製作所

 

 

中島飛行機鰍ヘ日本最大を誇る航空機生産企業で、武蔵野製作所は海軍用の西工場、陸軍用の東工場、

病院、その他の付属設備から成っており、主に発動機(エンジン)の生産を行う最重要軍需拠点だった。

 

昭和19年11月24日から終戦までの間に十数回の銃・爆撃を受け爆弾五百発以上が命中し、200名以上

の殉職者と500名以上の負傷者を出して、工場は全くの廃墟と化した。

 

東伏見稲荷神社

東京都保谷市

中島飛行機兜髄野製作所 殉職者慰霊碑

建碑之由来

中島飛行機株式会社は大正六年十二月群馬県太田町に創立され 終戦後富士産業株式会社と改称した

昭和十三年五月北多摩郡武蔵野町西窪に武蔵野製作所が建設され 昭和十六年十一月隣接地に多摩製

作所が増設され陸海軍に分かれ生産を行った 昭和十八年十月時局の要請により両製作所を合併して武

蔵製作所と呼称するに至った。

この間従来の従業員に日本全国からの徴用工員男女動員学徒を加へその総数は五万人に及び日夜生産

に励み国内第一の航空発動機工場となった。 

米軍は日本空軍の補給力を全滅するため武蔵製作所を本土編隊爆撃の第一目標とし 昭和十九年十一月

二十四日の空襲以来終戦まで十数回の爆撃が行われ爆弾五百発が命中し 二百余名の殉職者と五百名を

越える負傷者を出し工場は全く廃墟と化してしまった

武蔵製作所はこの爆撃のため終戦後平和産業に転換することが出来ず富士産業株式会社武蔵整理部とし

て整理業務に専念し 毎年十一月二十四日を迎える度に戦争の恐怖と罪悪を想起すると同時に平和日本の

礎となった殉職者の霊を慰める祭祀を行った

昭和二十三年十月占領下であるにも拘らず慰霊碑の建立を企図 中島飛行機武蔵製作所殉職者慰霊碑

建設委員会を組織し有志の浄財をもって武蔵製作所稲荷神社跡に慰霊碑の建立を行い 同時に殉職無縁

者永代供養のため武蔵野市源正寺に供養碑を建立した 昭和二十三年十二月東伏見稲荷神社司祭により

遺族を迎え除幕式並びに慰霊祭を挙行した

爾来旧武蔵整理部従業員有志によってささやかながら祭祀を続けてきたが 慰霊碑の完全な保存と永代祭

祀のため当所より多大の助力をされた東伏見稲荷神社の好意により境内に遷座することになった 昭和三

十九年十一月に遷座を完了し翌十二月全国より遺族を招き遷座祭並びに二十年祭を挙行した

茲に慰霊碑建立の由来を記述して後世に伝え平和日本の礎となった中島飛行機株式会社武蔵製作所殉職

者の霊を永えに慰めんとするものである

昭和三十九年十二月五日  中島飛行機株式会社武蔵製作所 殉職者慰霊碑建設委員会

 

  

中島飛行機兜髄野製作所 殉職者慰霊碑

 

  

中島飛行機兜髄野製作所奉献 国旗掲揚台

 

源正寺

東京都武蔵野市

  

中島飛行機兜髄野製作所  殉職無縁者永代供養碑                      源正寺 本堂前の蓮華       .

 

都市空襲

更新日:2007/07/28