谷崎潤一郎 犯罪小説集

集英社文庫


平成15年8月2日

英社独自の集成による、著者の犯罪をテーマにした短編集。




柳湯の事件(大正7年)
途上(大正9年)

白昼鬼語

――の四編。




柳湯の事件
或る夏の夜、老弁護士S博士の事務所に一人の青年が転がり込んできた。年の頃は二十七、八歳、なりは汚らしいが青白い顔はどことなく上品でもあり、長く伸ばした髪などからして、美術家に近い風采といえた。しかし青年は見るからに尋常でない様子で、しばらくは口を利くことも叶わず、何かよっぽどの事情を持っているであろうことは一目で想像がついた。
やがてその口から語られたのは、恐ろしい犯罪の告白であった。彼は今しがた《柳湯》で湯浴みしているとき、その客たちから「人殺し」と指差され逃げてきたのだという。しかし、彼には何故か自分が本当にそれをしてしまったのか、しなかったのか自信が無いのだという。いったい、そんなことがありえるのだろうか・・・。

途上
東京T・M株式会社員法学士、湯河勝太郎が散歩を楽しんでいるとき、突然一人の男から声をかけられた。差し出された名刺の面には「私立探偵安藤一郎」と書かれていた。いったい、自分に探偵が何の用があるのだろう――突然の事に驚き、訝しがる湯河。
その話によれば、探偵の目的は湯河そのものにあり、内容は婚約者の家族から依頼された身辺調査だという。直接本人に質すというのは風変わりだが、そうした話なら解らないでもない。湯河の婚約者久満子はまだ若く、家族からその身を案じられる年頃である。この婚約を契機にその関係がギクシャクしているのは事実であり、とくに両親の心配はもっともなものと思われた。
しかし探偵の質問は最近の彼の暮らしぶりについてではなく、以前亡くした先妻のことに集中する。そこから話は不思議な方向へと進んでいく・・・。


それは「私」が一高の寄宿寮に居た時分の話である。その頃、寮生の間で話題となっていたのは、自分たちの中に泥棒が潜んでいるのではないかということだった。
「私」はその噂話を聞き、ひょっとして自分が疑われているのではないかという恐れを抱き、またそれによって自身の持つ人間関係がギクシャクとしたものになってしまうだろうことを嫌悪した。とくに平田は自分を疑っている様子がある。犯人は「下がり藤」の紋が付いた羽織を着ていたというが、それは「私」のものと同じなのだ。
いったい、「私」はこの疑いをどうしたらいいのだろう。

白昼鬼語
園村からの突然の電話で呼び出された高橋。忙しいときだと言うのに一体何だというのだろうと思いながら出向いてみれば、待っていたのは予想をはるかに上回る驚くべき話であった。なんと彼は、この夜、ある男女によって殺人の計画が実行に移されるのに違いないというのだ。
園村は数日前、映画館の中でその事実を記した紙片を手に入れたという。目の前の席に居た三人――、二人の男が並び端に女。その並びは一組の男女と、その男の方の友人といった関係をうかがわせた。しかし両端に座り、無関係なはずの男女は座席の背後でひそかなやり取りを繰り返している。それはもう一人には知られていけない秘密の関係を思わせた。
問題の紙片はその二人が落としていった。「仏陀の死する夜、デイアナの死する時、ネプチューンの北に一片の鱗あり…」文面は暗号化されていたが、これを解くことに成功した園村は、それが殺人の計画であることを知った。つまり女は恋人の男を殺し、その友人に乗り換え、男は友人を殺し、その女を手に入れようというのだ。
高橋は詳しく説明されながらも、何処となく割り切れず、半信半疑のままその夜を待った。果たして二人を待つものは、本当に殺人の場面なのだろうか。


 間では谷崎潤一郎といえば、日本的情緒に溢れた純文学的作品を数多く残した作家というイメージが強く、このように犯罪をテーマにした作品を残していたことなどはほとんど知られていない。『痴人の愛』『卍』『細雪』など代表作の名がまず挙がることは当然かもしれないが、ここに収められているような小説を書いたことは言及されることも無い。
しかしミステリマニアにおいてそれは知る人ぞ知る事実である。とくにこの一連の作品のようなスタイルが、江戸川乱歩や横溝正史の初期作品に極めて強い影響を与えていることは有名だ。

本書の位置づけは、このある種あいまいなタイトルのつけ方が象徴しているような気がする。ここでいう「犯罪小説」とは、すなわち近年で言うところのクライムノベルとはニュアンスの違うもので、単に犯罪を扱っているというだけに過ぎない。
つまりより確信的に表すなら、『谷崎潤一郎ミステリ傑作選』もしくは『谷崎潤一郎・探偵小説集』などといった明確な表現が選ばれていてもいい。しかしそうなっていないのは、つまりこの一連が、本当にそれらに相当するかどうか微妙だということだ。
確かに作品は「ミステリ」という一面からのみ読み解いていいものとは言い切れず、また著者自身がこうしたスタイルの作品を集めた短編集を出版したわけではなく、セレクション自体にも偏向のニュアンスがある。これに明確な色をつけてしまうのは確かに恣意的でありすぎる。
しかし、谷崎は偶然ミステリっぽいものを書いたというわけではなく、他の探偵小説家と同じような出典からこれを発想したことに変わりはない。たとえば『白昼鬼語』にはエドガー・アラン・ポーの『黄金虫』の名や、同作の暗号トリックが登場するし、ここに収められていないが同時期の作品『秘密』にも、ホームズの短編『ギリシャ語通訳』を思わせるシチュエーションがある。
谷崎は島崎藤村らの自然主義と対立する新しい浪漫主義の作家だが、海外においてもポーやドイルのようなミステリ作家に、同じようなロマンを追うスタンスを感じ取った。
欧米においてもゾラやフローベール、あるいはモーパッサンのような写実主義により一度否定されたロマン主義が、ミステリやホラーのような形で復興したという構図は確かにあった。谷崎はミステリの形式そのものには拘らなかったが、その源にあるロマンには同調を示し、そこでこのような近い線の作品が生まれたということになるのだろう。
してみると、谷崎はミステリに対する影響の与え方という点では、英国のディケンズやスティーブンソンに近い作家と言えるのかもしれない。

江戸川乱歩は自著『探偵小説四十年』の中で「谷崎潤一郎」を論じているが、それ以前からもこの先達にジャンルを超えた親近感を感じていることを隠さなかった。
それどころか、極論すれば初期の乱歩の短編に含まれている諸要素、たとえば犯罪の背後にある猟奇性や、物語全体を包む幻想性、そして「プロバビリティの犯罪」というテーマなどは皆、ここに納められているような谷崎の小説に触発されて花開いたものだと言ってもいい。
この傾向の作品としては乱歩のものの方が世間的な認知度が高く、私個人としてもこの本を読んでいて何度も「乱歩のようだ」と感じずには居れなかった。たぶんここにある何れかを乱歩の短編集の中に組み入れたとしても、ほとんど違和感はなく、知らぬ人なら気づきもしないだろう。


 『柳湯の事件』は事件という言葉こそ入っているものの、ミステリとしてのニュアンスは薄く、恐るべき告白をした者の幻想的な狂気を描くことに主眼がある物語だ。
犯人の狂気の生み出した幻想を読者にもそのまま見せつけ、同じような恐ろしい心理に惹き込んで行く――乱歩もこんな小説を書いている。つまりそれは『人間椅子』や『屋根裏の散歩者』などであるわけだが、特にここで男の持つ「ぬるぬるした」ものを好む歪んだ嗜好のように、読者の中の感覚を呼び覚ますディテイルの使われ方は、『人間椅子』などと同一と言ってもいい。

『途上』は「プロバビリティの犯罪」というテーマを持つ作品で、これはれっきとしたミステリ的命題の一つである。すなわち、きわめてリアルな可能性の中で、完全犯罪が成し得るのではないかという点で、ミステリとしては重要なのだ。
やはり江戸川乱歩はこの作品に影響されて『赤い部屋』という作品を書いているが、そこでもこれこそを完全なる犯罪としている。

『私』は、ある種、叙述トリックに近いギミックがある作品。しかしそれが単にミステリ的な意外性の表出のためのみに使われているのではなく、深い心の闇を思わせるのは谷崎ならではの味と言ったところだろう。

『白昼鬼語』は、この中では最長の作品だが、構造的にも一番ミステリっぽい。そもそも犯罪計画を察知する下りからしてポーの『黄金虫』から来た暗号が登場し、その後二人の青年は自分たちがホームズとワトスンの役を負っていると自覚しながら、この犯罪を追いかけていく。
殺人の場面の衝撃的な描写の後、ホームズ園村はなおもこの犯罪に深く食い入っていくが、ここで一般的なミステリと、谷崎が書きたいものの違いが出ている。すなわち園村は犯罪を阻止したり、これを解決して手柄を上げることをまるで考えていない。ミステリとしては犯罪が起きたからにはこれを解きほぐして、それ以前の日常を回復する方向へ進んでくれないと話が収束しない。しかし谷崎は犯罪の裏側にある秘密に一種のロマンを感じ、それを禁忌と知りながらなお追いかけていく。これは『秘密』にも言えたことだ。