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<礎(いしずえ)>近代が残したもの

2006年10月12日掲載

「紫電改」を格納した 山本工務店倉庫

姫路市

鉄材の入手が困難な時代、安価な木材を高度な計算で組み合わせたトラス。当時の鶉野工場の大型建築物はどれも同様の構造だったという=いずれも姫路市西中島

鉄材の入手が困難な時代、安価な木材を高度な計算で組み合わせたトラス。当時の鶉野工場の大型建築物はどれも同様の構造だったという=いずれも姫路市西中島

屋根は建設当初板張り。その後瓦ぶきを経て、30年ほど前スレートぶきに。手前のグラウンド部分に、もう一棟が建っていた

屋根は建設当初板張り。その後瓦ぶきを経て、30年ほど前スレートぶきに。手前のグラウンド部分に、もう一棟が建っていた

 複雑に木を組んだトラス構造の梁(はり)が、柱のない広い空間を支える。今は多くの資材が横たわる倉庫内に六十一年前、旧海軍の戦闘機「紫電」や「紫電改」が翼を寄せていた。
       ◆

 太平洋戦争中の一九四二(昭和十七)年七月、軍用機を生産する川西航空機(現・新明和工業)が姫路製作所を開設。完成機の試験飛行を行うため、加西郡(現・加西市)の鶉(うずら)野(の)飛行場に隣接して翌年、組立工場を設けた。姫路で造った機体をいったん分割し、十数キロ北東の鶉野まで馬車で運搬。そこで再度組み立て、滑走路へと送り出した。

 飛行場の歴史に詳しい上谷昭夫さん(67)=高砂市=が入手した米軍の資料を見ると、鶉野には終戦時、組立工場が三棟、格納庫が二棟あった。現在残る建物は格納庫のうちの一棟で、幅二十四メートル、奥行き三十三メートル、高さ十一メートル。戦闘機を数機収容した。神戸大建設学科の足立裕司教授は「トラスの木は薄く製材も良くない。そんな材料で最低限必要な強度を得るため、構造計算を手掛けた技術者は苦労しただろう」と察する。

 鶉野工場で働いていた小谷裕彦さん(80)=加西市=は油圧系統の担当で、紫電改を手掛けた。「徹夜作業もしばしばで、組み立て中の機体の中で寝たこともあった」。四五年に入ると米軍機がたびたび飛来。爆撃で輸送機が炎上し、工場も被弾した。小谷さんが伏せた退避場所の五メートル先を機銃掃射がかすめていった。

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 終戦後、連合国軍総司令部は川西航空機の飛行機製造を禁止。鶉野の施設群は解体が進んだ。そうした中、二棟の格納庫の建物は姫路の農機具会社が引き取り、移築されて工場として再出発した。七一年、土地・建物の取引に伴い一棟が撤去され、残る一棟は地元の山本工務店の資材倉庫になった。「造りが頑丈で大きな補修をしたことがない」という。

 漏れる光に鈍く輝いた機体の群れを思う。静寂の中に激動の時代の記憶が潜む。(写真・文 田中靖浩)
メモ
 〈紫電と紫電改〉
 川西航空機が大戦後半に製造した局地(迎撃用)戦闘機。水上戦闘機を基に開発された紫電はエンジンや主脚などに問題点を抱えていたため、全面的に改良されたのが紫電改。紫電改は大戦末期、米軍機を相手に大きな戦果を挙げたが、400機余りが生産された時点で終戦。伝説的名機として知られる。実機が愛媛県に1機、米国に3機残る。

※この記事は過去に神戸新聞に掲載されたものです。
内容については変更になっている場合がありますので、おでかけの際はあらかじめご確認ください。

[36] 「紫電改」を格納した 山本工務店倉庫(2006-10-12)