平和の語り部
07年7月5日/専門演習U(4年次生)
ゲストスピーカー=⇒松友 順三氏=松山大空襲のとき14歳/空襲後の松山
松山大空爆は,128機のB−29により決行された。 この日の天気は快晴,風向305(北西),風速17ノット(8メートル)。豊後水道を東北に進んできたアメリカ軍機の大群は,高度11,000〜12,500フィートで佐田岬上空から松山市の西方上空に入った。途中,日本軍の高射砲火による反撃はまく,松山上空での高射砲火も極めて貧弱不正確にして,アメリカ軍機の損失は皆無であった(「米軍松山爆撃報告書」(国立国会図書館所蔵マイクロ)−−『ひとの顔 まちの顔松山−−戦中戦後』所収196〜201頁)。 わずか2時間10分で松山市のほぼ全域が焼夷弾による炎に包まれ,逃げまどう市民によって街は大混乱に陥り,道後・新立・立花・旭町・小栗・持田各町の一部と三津浜地区および周辺農村部を残して,市街地のほとんどを焼き尽くした。 死者は251人(男子117人,女子134人),行方不明8人,負傷者数は全く把握できない状況を。松山市全域87.81平方キロのうち,5.4%に当たる4.785平方キロに被害が及び,松山市の全戸数26,000戸のうち,55%に当たる14,300戸が,また松山市全人口117,400人のうち53%の62,200人が罹災(りさい)する大惨劇(『松山市戦災復興誌』3頁)。 |
ビデオ=⇒No1(11分30秒)/No2(11分34秒)/No3(7分58秒)