『 敗 戦 前 夜 の 松 山 』
田村 譲
1.はじめに
2.敗戦への道
5.おわりに
1.はじめに
敗戦から数えて半世紀が経過しつつある今日,内外の状況は激変している。国際的には冷戦構造の終結,国内的には55年体制の崩壊,その後の新秩序構築のための模索状況が,この関係を端的に表している。かかる社会の変動,しかもそれが予想もしない速度で展開される中で,我々は過去を忘却する傾向にある。しかし,新しい秩序が形成されなければならない今日であるが故に,我々はここで冷静に,日本が歩んできた歴史をふりかえる必要がある。歴史に学ばない新秩序は,あやまった道を歩む契機となる危険性があるからである。
また現代日本社会の疲弊現象は,健全な地方自治が確立していないことから派生したものでもある。中央直結の地方政治・行政が,中央の腐敗構造に牽連して地方の汚職体質を生み出している事実からもそれはいえる。それゆえ健全な社会の再構築には,新らしい地方自治の確立が急務の課題になる。それには地方が,いわゆる「3割自治」から脱却するとともに,中央から独立してそれぞれの政策を遂行できる体制を獲得する必要がある。
その第1歩が,中央に従属する体質の改善である。その原点は,中央に対する批判的視点を持つことである。中央に対して無批判的従属する体制が侵略戦争を鼓舞し,日本を破滅に導びいた一因であることも歴史的事実だからである。
同時に国民に正確な情報を提供することは,主権者である国民が物事を的確に対する判断をする上で重要な課題となる。いうまでもなくマスコミは,情報提供の主たる媒介者でありその役割は大きい。したがってマスコミが権力に媚たり,盲従していては民主主義は成熟しないばかりか,その崩壊をもたらした上で,ファシズムの台頭を許し,ひいては国や国民を破滅に導くことになる。侵略戦争遂行過程は,この事実の端的な歴史的例証であるとともに,マスコミ報道を,主権者である国民は常に検証しなければならないという教訓をも示している。遠い昔の話しではないのである。
さてここでは,上の前提から敗戦前夜の日本と地方都市松山が歩んできた道のりを考察し,新秩序形成の一助となすことを目的にするものであるが,まずはその第1段階として,敗戦前夜の日本と松山市の状況を外観するものとする。
パールハーバー奇襲によって,成功したかにみえた日本軍部の戦術は,その6カ月後には破綻を来すこととなる。それは,あまりにもあまく,そしてあまりにもアメリカの力を知らなすぎた,陸軍を中心とする東条に代表される日本権力がゆき着いた当然の結末を意味した。換言すれば,おのれを過信し,相手を侮り,そして学ぶことを忘れた日本軍部の体質的欠陥が早くも現実になったということができる。
すなわち,アメリカの反抗は早くて1943(昭和18)年の中期以降と想定していた日本の陸海軍部は,予想を裏切る早い段階でアメリカの猛反撃を受けることになるのである。
戦略の転換となったのが,いうまでもなく1942(昭和17)年6月の中部太平洋ミッドウェー沖海戦における日本海軍の敗北である。これを契機に日米の戦略的指導権は逆転し,反撃に転じたアメリカ軍は,日本軍の太平洋の拠点であったソロモン諸島の日本から直線距離にして6,000キロに位置するガダルカナルに上陸した。これにより,日本軍は孤立無縁の状態に陥り,1943(昭和18)年2月1日にはガダルカナルを撤退するという事態に立ちいたった。半年間にわたるガダルカナルでの死闘で日本の戦死者・餓死者は実に25,000人に達し,これにより日本は,制空権のみならず制海権をも失うこととなる。
1943(昭和18)年4月18日には,連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六がソロモン諸島上空で戦死(発表は1ケ月以上遅れた5月21日),つづいて5月12日,アメリカ軍15,000人が猛烈な艦砲射撃とともに,アリユーシャン列島最西端のアッツ島に上陸,2,500人の日本守備隊は全員玉砕する。5月30日大本営は,アッツ島玉砕を公表するが,これは,「神州不滅」の日本軍が敗走したことを,大本営が国民の前に事実上告知した最初の出来事を意味した。アッツ島玉砕を発表した大本営は,よもやこの時点では,日本軍の敗退につぐ敗退の連続した状況が現実に醸し出されるとは考えてなかったであろう。
それはともかく,これまで大本営勝利の発表を信じて浮かれていた国民は,激しいショックに襲われるとともに,この事実を前に,日本国民の一定の人達にとっては,大本営発表とは別の「戦争の実体」を認識する契機となる。
ガダルカナルを奪還したアメリカ太平洋艦隊は,中部太平洋の島ずたいに日本本土攻撃の基地を築くため,1943年9月22日からいわゆる「カエル飛び(飛び石)作戦」を展開,各島の日本軍の孤立化をはかるとともに,容赦ない攻撃を日本軍に加えた。攻撃された島の日本軍は玉砕し,攻撃されなかった島の日本軍は,アメリカ軍の背後に取り残され,補給路を絶たれて孤立し餓死した。そして同年11月24日にはマキン島の,同月25日にはタラワ島の日本軍が玉砕,12月27日に至りアメリカ軍は,ニューブリテン島南方の日本軍最大の拠点のラバウルへの猛爆を開始する。
このように日本の敗戦は決定的となっていたが,日本軍敗北の真相は,大敗北による退却を「転進」と強弁した大本営と,無批判的に軍部に追従したマスコミによって徹底的に隠された。アッツ島玉砕公表時の余裕を,もはや軍部は持ち合わせていなかった。
すでに,ミッドウェー沖海戦2カ月前の1942(昭和17)年4月18日には,アメリカ航空母艦「ホーネット」から発進したドゥリットル中佐を爆撃隊長とするB−25アメリカ陸軍中型爆撃機16機によって東京,名古屋,神戸などが攻撃されていたのである(いわゆる「ドゥリットル空襲」)。
アメリカ軍の本土攻撃は,日本軍部が予想した日より6カ月も早かったが,ここでは相手の力量を冷静に分析して,新たな戦略を構築しようとしなかった。この日「4月18日」は,「防空日」に指定された。この日以後全国で,防空頭巾にモンペ姿のいでたちで,「火たたき」・「バケツ」・「消火道具」を武器に,防空訓練・灯火官制・用具の点検などが,女性達により実戦さながらに行われたが,アメリカ軍の空爆に対しては有効な対策とはなりえなかった。
1944(昭和19)年1月18日には,緊急国民勤労動員方策要綱と緊急学徒勤労動員方策要綱が閣議決定され,国民は侵略戦争の完遂のための生産に駆り立てられた。しかし,破壊と損耗を繰り返す戦争という大消耗戦に,資材は欠乏して生産力は追いつかなかった。特に損失を重ねる航空機と船舶の増産は間に合わず,生産されたものの性能も低劣をきわめ,不足していた資材や生産された航空機等を巡っての陸軍と海軍の争奪戦も激しさを増した。戦局が不利になるにつれて,その宿命的な反目はさらに加速し,「敵は外より内にあり」といわれるまで深刻になって行くのであった。戦局悪化に伴う内部矛盾の露呈である。
さらに政府は同年2月25日,「決戦ノ現段階ニ即応シ国民即戦士ノ覚悟ニ徹シ国ヲ挙ゲテ精進刻苦其ノ総力ヲ直接戦力増強ノ一点ニ集中シ当面ノ各緊要施策ノ急速徹底ヲ計ル」目的で非常決戦措置要綱を閣議決定して,学徒動員の徹底,国民勤労態勢の刷新,防空体制の強化および空地利用の徹底等の非常措置を講じた。これは,これまでの「必勝戦略」と基本的に矛盾する「一億総玉砕」(日本本土の人口7,200万人,植民地朝鮮250万人,植民地台湾600万人弱であった)という無謀極まりない戦術の採用としかいいようがなかった(正木ひろしは「近きより」第8号で,「全滅を覚悟で闘うなどというのは『必勝の信念』と矛盾します」と記した−−『昭和2万日の記録』第7巻95頁)。
2月29日には,歌舞伎座・東劇・京都南座など5大都市の19の高級劇場が3月5日までに閉鎖されることとなったが,これによる措置の一つであった3月4日宝塚歌劇団の最終公演には,ファンが殺到し警官が抜剣して整理にあたるほどであった。3月6日新聞各紙の夕刊が廃止され,同月10日東京都は空地利用総本部を設置,上野・不忍池までも水田にしなければならないほどに食料不足は深刻となっていた。また,同月31日には,松竹少女歌劇団が解散して団員は芸能女子挺身隊が結成され,4月1日に,帝劇・日劇などの大衆劇場までをも閉鎖され,同時に国鉄1等車・寝台車・食堂車も全廃された。さらに4月4日には,警視庁が女子の工場進出を要望するといった状況が醸し出された。
こうした国内情勢の中でアメリカ空軍は,サイパン島に上陸した翌日の1944(昭和19)年6月16日,B−29など約20機を中国の航空基地成都から飛び立たせ,北九州を空襲した。アメリカ軍による本格的な日本本土爆撃の開始であった。B−29は,日本本土爆撃のために開発されスーパーフォートレス=「超空飛ぶ要塞」といわれた航続距離5,600キロの長距離重爆撃機であったが,この日日本軍は7機のB−29を撃墜した。撃墜したB−29の残骸を写し出した当時のニュース映画(1941年1月1日よりニュース映画の強制上映が,全国の映画館に義務づけられていた)は,「−−汝ら侵略主義の成れの果てである。我が本土空襲のために生産を急ぐと伝えられるB−29,如何にこれを大量に繰り出すとも,わが鉄壁制空陣はこれに徹底打撃を与えんのみ」と勇ましく報道した(NHKサービスセンター『映像でつづる昭和の記録4−−迫りくる破局』C−−08)。
だが,制空権ばかりか制海権まで失った日本軍の反撃の多くは失敗し,この日以後日本本土の各都市は,B−29の猛爆を受け,日本国民は,未曾有の惨憺たる状態に遭遇することになるのであった。
6月30日にはアメリカ軍の日本本土空襲に備えて,「疎開も戦争だ! さあ急がう」との標語の下,学童の集団疎開が閣議決定されたうえ,7,8月には,各都市の密集地で防火地帯(戦う空地)を設けるため建物疎開が行われた。指定された建物は二束三文で買いたたかれ,戦車まで投入されて引き倒されたのである(最初に内務省が,改正防空法による建築物疎開命令を東京・名古屋に出したのは1944年1月26日であった)。
翌月の7月10日には,雑誌『改造』と『中央公論』が廃刊となる中(同月末改造社と中央公論社解散),翌11日の閣議において,国民学校高等科および中学校低学年をも勤労動員することが決定された。なりふりかまわない,かつ敗色が濃厚であることを表現する政策としかいいようがない「根こそぎ動員」である。
かかる状況では,当然人心は東条から離れ,軍部の威信は地に落ちるところとなる。また軍事戦略の拠点サイパンの陥落は,東条の独裁的な戦争指導に対する支配階層内部の不信と反感を一挙に表面化させ,かつて東条内閣を誕生させた重臣や木戸内大臣らの宮廷勢力は,この機に乗じて東条の打倒をはかることとなるのである。
とどのつまり,戦時強力内閣だった東条政権は,1944(昭和19)年7月7日のサイパン島の日本軍守備隊3万人全滅,無謀の極致の戦略を意味したインパール作戦の失敗(それは第2次世界大戦の中でもっとも悲惨な戦闘であった)の報に接した直後の7月18日に崩壊する。代わって7月22日に陸軍大将小磯国昭が,日露戦争以来陸軍がロシア,海軍がアメリカを主要想定敵国として作戦計画を立てていたことに根幹を有する対立・抗争を繰り返していた陸軍と海軍の意思統一という目的をもって,海軍大将米内光政とともに連立組閣を行った。
だが,新内閣成立前日の7月21日にはアメリカ軍がグァム島に上陸,新内閣成立翌々日の7月24日にはマリアナ諸島のテニアン島に上陸,8月3日テニアン島の日本軍守備隊が玉砕するといった戦局が展開されていた状況では,政権交代は,単に政府部内と軍部との権力争いを増幅させたに過ぎなかった。
小磯は,「この際軍官民を問はず一億国民が真に一丸となつて戦闘配置につき,本格的戦争態勢を確立することにこそ現下の急務であるにかんがみ」(1944年8月5日付『朝日新聞』),8月4日の閣議で一億国民総武装,航空機の絶対生産を決定し,5日には大本営・政府連絡会議が最高戦争指導会議と改称したが,「竹槍訓練」がはじまった他は,中身は何ひとつ変わらなかった。
同年8月8日付読売新聞は,「日本皆殺しを狙ふ米鬼を断固撃滅せよ−−勝たざれば平和なし」とまた翌9日付京都新聞は,「一億総武装・総進軍の秋−−軍官民絶対力を発揮,神の試練に打克たん」,さらに11日付読売新聞は,「米鬼の蛮行はこれからだ−−復讐に我らの血は沸き返る」と国民を鼓舞したが,これとは裏腹にグァム島日本守備隊が玉砕した8月10日には,アメリカ空軍はテニアン島をB−29,B−24の基地として使用を開始,同月31日には,小笠原諸島の攻撃を始めることになる。
マリアナ諸島の陥落は,日本本土がB−29の行動圏内に入り,アメリカ空軍による日本が空襲の危険にさらされることを意味したのにかかわらず,国内では天皇が,小磯内閣成立後の初の地方長官会議に参列して,「戦局危急皇国ノ興廃繋ツテ今日ニ在リ汝等地方長官宜シク一層奮激励精衆ヲ率イ官民一体戦力ヲ物心両面ニ充実シ皇運ヲ夫翼スヘシ」と述べたり(8月23日宮内省発表−−1944年8月24日付『朝日新聞』),8月28日に内務大臣大達茂雄が,全国神職寇敵撃滅祈願を訓令,「夜間や夜明け前に心を込めて祈る」よう指示するといった,空虚にして時代遅れの精神論だけが空回りしていた。そのさ中の10月10日,マリアナ諸島攻略後の攻撃戦略点を日本の南方防衛拠点のフィリピンにおき,その奪還をめざしたアメリカ軍は,レイテ島上陸を援護するため艦載機をもって沖縄・奄美大島,つづいて台湾を空襲する。これに対して日本軍は,航空部隊の全力を挙げて10月12日より3日間台湾沖で航空戦(「台湾沖航空戦」)を展開した。
大本営はこの空中戦の戦果を10月19日,「我が部隊は10月12日以降連日連夜台湾及ルソン東方海面の敵機動部隊を猛攻し,其過半の兵力を壊滅してこれを退行せしめたり」と大勝利の発表をした(1945年10月20日付『読売新聞』)。
しかしこの「大勝利」は,実戦経験のない航空機の搭乗員が,自爆機や海中への落下弾を命中弾として報告したものを基礎に,太平洋戦争中,一度の敗北も発表しなかった,否,できなかった大本営が作り上げた虚構の戦果で,実際にはアメリカは空母1隻,重巡洋艦1隻,軽巡洋艦2隻,駆逐艦1隻を損傷しただけで,沈没は1隻もなかった。また航空機についても日本が出動した800機中650機(81%)を失ったのに反し,アメリカは出動600機中わずか89機(15%)にすぎなかった(『太平洋戦争(5)』−−現代史資料(39)811頁)。
一方,一度は日本軍の猛攻で,1942(昭和17)年3月31日に「アイ・シャル・リターン(私は必ず帰ってくる)」との言葉を残してコレヒドール島からオーストラリアへ退却を余儀なくされた西南太平洋連合軍司令官マッカーサー(1942年4月19日就任)は,1944(昭和19)年10月20日,その予言通りフィリピン中部のレイテ島に上陸したのである。マッカーサーは,戦場のスピーカーを通じて「フィリピン市民諸君,私は帰ってきた。わが軍はアメリカ,フィリピンの両国民の血で清められた土の上に再び立っている。全将兵よ団結せよ」(『映像でつづる昭和の記録4−−迫りくる破局』C−−29)と,万感の思いを込めて放送した。第2次世界大戦の行方の一つの象徴的な出来事を意味した。
度重なる大消耗戦で多くの兵力を失った日本軍は,10月18日に17才以上の者を兵役に編入するとともに,かつて長官山本の命令で真珠湾奇襲攻撃の戦術を練った1人であった海軍中将大西瀧次郎が,神風特別攻撃隊を編成する。そして日本軍は,残っていた全勢力,全機能をかたむけた総攻撃でレイテ沖(湾)海戦(日本側呼称は比島沖海戦−捷1号作戦)に挑み,日本海軍の象徴の一つであった不沈戦艦「武蔵」を失った翌日の10月25日から特攻突撃を開始することになる。
だがそれは,三菱航空(現重工)製造の零式艦上戦闘機(1万49機が製造された)という本来空中戦専用の戦闘機に,搭載能力をはるかに超える250キロの爆弾を抱かせて敵艦に体当たりするといった無謀な戦術であったがために,零戦の巡行速度と飛行および戦闘能力を極端に落とすこととなり,その上に最新のレーダーを備え,かつ原爆に匹敵する新兵器となったVT真管の開発により,対空砲火の威力を飛躍的に増していたアメリカ機動部隊には歯がたたず,その上命中率16.5%(安延多計夫『南溟の果てに』277頁)では,戦局の打開という当初の目的は,到底達成不可能であった。
この日から日本の航空戦術の主体となった特攻は,ただただ若い命を無駄に散らすだけの無意味な人的消耗戦を意味した。もとより,レイテ沖でアメリカ軍を一気に撃滅しようとした日米海戦は,残存機動部隊連合艦隊の退却あるいは全滅で終わり,日本連合艦隊は海上決戦の戦闘力を失い壊滅状態となった。そして,新たな生産が全く不可能な経済状態と戦闘員が枯渇していた国内の状況では,当然のことながら,日本の連合艦隊の決戦力が二度と回復することはなかった。
大本営は,10月27日午後4時50分レイテ沖海戦の総合戦果を,「撃沈・航空母艦8隻,巡洋艦3隻,駆逐艦2隻,輸送船4隻,撃破・航空母艦7隻,戦艦1隻,巡洋艦2隻,撃墜約500機,我方の損害,沈没・航空母艦1隻,巡洋艦2隻,駆逐艦2隻,中破・航空母艦1隻(この他戦艦1隻沈没,1隻中破)」と発表した(1944年10月28日付『読売新聞』)。だが,実際のアメリカ軍の損害は,沈没・航空母艦1隻,護衛空母2隻,駆逐艦3隻,潜水艦1隻,損傷・護衛空母7他計15隻に対して,日本の損害は,沈没・武蔵を含む戦艦3隻,空母4隻(参加空母全滅),重巡洋艦6隻,軽巡洋艦3隻,駆逐艦6隻,損傷は参加艦船のほとんど全部に及んでいた(『太平洋戦争(5)』−−現代史資料(39)812頁)。
この結果,日本の保有海軍兵力は,開戦時アメリカ海軍に対して69.5%であったのが,マリアナ海戦後28.3%,レイテ沖海戦後18.0%,沖縄作戦前には実に13.8%までに低下することになる(『太平洋戦争(5)』−−現代史資料(39)解説)。
さて,1945(昭和20)年=運命の年は,除夜の鐘の代わりに,高射垉の音であけた。1月1日午前0時5分,警戒警報が発令され,東京の空には長いサイレンの音が響きわたったが,この年日本全土は,B−29による空襲につぐ空襲で,まさにこの世の地獄絵を作り出することになったのである。
1月1日付各新聞(すでに物資不足により,全国の新聞は1944年11月1日より朝刊2ページ建となっていた),一斉に「天皇陛下最高指導会議に親臨」の写真とともに大本営12月31日発表の「我特別攻撃隊一誠,鐵心,旭光,進襲,皇華各飛行隊は,戦闘機俺護の下12月29日以降連続ミンドロ島に対する敵増援輸送船団に突入,之に大なる打撃を與へたり。右特別攻撃隊の収めたる戦果中現在迄に判明せるもの次の如し。輸送船・撃沈3隻,大破炎上5隻,巡洋艦・撃沈2隻」という『輝ける戦果』を,毎日新聞は「30隻敵船団壊滅」,朝日新聞は「敵船団殆ど壊滅す」との見出しで勇ましく報道した。
こうした大本営の虚偽の戦果発表は,単に国民を欺瞞するだけでなく,戦場の軍隊をも混乱に陥れることになる。撃沈したはずのアメリカ空母の雄姿を第一線の兵士が洋上で眼にするようになっては,戦術の混乱はその極に達し,日本帝国の戦争遂行能力は急降下してゆくしかなかった。
しかし,同日付毎日新聞が「大東亜の安定・正に今年−−粘り強く戦ひ抜かん」,朝日新聞が「明朗敢闘−−戦局転換の年」との見出しで首相小磯談話をそれぞれ掲載したように,天皇を頂点とする日本の為政者達には,世界情勢と戦局を冷静に判断する能力が全く欠如していた。
そもそも明治以来新聞界は,新聞紙法(明42・5.6法第41号),軍機保護法(明32・7・15法第104号)等によって権力の厳しい言論統制下に置かれており,特に権力に不都合な事実に対しては,真実を報道する体制が育っていなかった。その上に戦時中は,国家総動員法(昭13・4・1法第55号),新聞紙等掲載制限令(昭16・1・11勅令第37号),言論出版集会結社等臨時取締法(昭16・12・19勅令第97号)等の施行により,さらには物資不足を背景に,新聞紙の供給の全ての権限が権力の下にあったがために,完全に報道の自由が奪われたのである。すなわち,「戦時下にあって人心を動揺せしめ社会不安を誘発し,或いはことさら国策に反対し,戦争遂行上に障碍を及す」とみられるものは厳重に監視された(東京空襲を記録する会『東京大空襲・戦災誌』第4巻18〜19頁)結果,真実の報道あるいは客観報道といったマスコミの生命線は完全にたたれることとなったわけである。その結果マスコミは,大本営発表の虚偽(フィクション)の報道を続け,真実とのギャップは拡大再生産された。マスコミは,とどのつまり国民を騙し,日本を破滅に導く役割の一翼を担ったこととなったのである。
ところで,同年1月8日皇居前広場で陸軍最後の観兵式が天皇臨席下で行われたが,参加した将兵の姿は,戦闘帽に鉄兜という国土防衛のスタイルだった。10後の1月18日の最高戦争会議は,今後採るべき戦争指導大綱を決定,本土決戦即応態勢強化をはかるとともに,閣議は前日の郵便料金と鉄道運賃の値上げにつづいて,所得税等の改定決定を発表した。政府は戦争に疲れ果て,飢えに苦しみ,アメリカ軍の空襲により家を焼かれて寒空に放り出される国民に増税をもって報いたのである。
その5日前の1月13日,愛知県を中心とする東海地方にマグニチュード6.7の大地震(三河地震)が起き,愛知県の死者は実に1,961人を記録した。たがこの事実の詳細は,戦線の敗北・退却とともに,前年12月7日に起きた愛知・三重・静岡をはじめとする東海地方臨海部の重工業に大被害を与えたマグニチュード8の東南海大地震(死者998人,家屋全壊2万6千戸)同様,国民には知らされなかった(『昭和2万日の全記録』第6巻362頁および同書第7巻34頁)。
この2回の大地震が,住民のみならず,飛行機などの軍需産業にも壊滅的打撃を与えたにもかかわらず,1月14日付朝日新聞は,2面に小さく「東海地方に地震,被害,最小限に防止」との見出しで,「生産陣は全く健在,余燼のつヾくなかにも滅敵の翼増産は,いつに変らぬ逞しい鼓動を打ちつヾけ万全の防護陣を布く−−」と,ここでも虚偽の報道を行うのであった。敗戦を前にし,”神風“の代わりにもたらされたのが,この大地震であったが,それは日本の完全敗北を印象づける決定的事変となった。
明けて同月14日,余震のつづく名古屋付近に,こんどはマリアナ諸島から飛び立ったB−29約60機が来襲,伊勢神宮等を爆撃した。15日付朝日新聞は「−−神ながらの国,神ながらの民族に対するこれ以上の挑戦があろうか,−−戦ひ抜いて戦ひ抜いていつの日か再び起ちあがれぬまでにけだものどもをたヽきのめす」と報じたが,この事実も,日本敗北の象徴的な出来事を意味した。
そして,ルソン島で勝利なき戦いを続けている中の1945(昭和20)年1月20日大本営陸海軍部は,本土外郭地帯の縦深作戦によってアメリカ軍の進行を阻止し,その間に本土の戦備を強化して,本土において最終決戦を行おうとする帝国陸海軍作戦計画大綱を決定した(服部卓四郎『大東亜戦争全史』747〜748頁)。
つづいて1月25日最高戦争指導会議は,決戦非常措置要綱を採択したが,それは本土決戦を叫号し,一億特攻,一億玉砕を叫んだ陸軍の狂気の表現でしかなかった(安藤良雄「輸送の崩壊と物資動員計画の終焉」−−日本外交学会編『太平洋戦争終結論』所収295頁)。いうまでもなくアメリカ軍の圧倒的な近代兵器の前に,すでに制海空権を失って久しく,また生産力と兵士の枯渇が極度に達していた日本現状での本土決戦は,日本民族の集団的自殺行為以外のなにものでもなかったのである(小林龍夫『対スェーデン和平工作』−−『太平洋戦争終結論』所収483頁)。
同年3月5日アメリカ軍はマニラを完全占領したが,翌6日政府は,勅令第94号により勤労関係諸法令のうち,学校卒業者使用制限令,国民徴用令,労務調整令,国民勤労報国協力令および女子挺身勤労令の5勅令を整理統合した内容を持つ国民勤労動員令を公布,同月10日より施行した。だが,「猫の眼」のように法律を変えたところで何らの実質的効果も期待できなかった。
特に太平洋戦争末期の国民は,戦局の決定的な不利な状況に,食料難による栄養不良が相まって肉体力・精神力も衰えはてて,戦意は著しく低下していた。したがって大本営が如何に号令をかけても,もはや生産性をもった労働力とは到底なりえなかったのである。
そればかりか,上級将校の特権的生活や,軍需工業の幹部および経済統制法を無視した顔役などに対する民衆の反感が増幅し,一般国民の間に欠勤が増加して,サボタージュ的気分が蔓延していた。「世の中は,星(陸軍)と錨(海軍)にヤミに顔」とか,「正直者がバカをみる」といった言葉が流行するようになっては,労働能率は期待出来ず,生産力は極度に低下していった。
その結果,ソ連のモロトフ外務人民委員が駐ソ大使佐藤尚徳に対して,日ソ中立条約不延長を通告した4月5日,アメリカ軍の沖縄本島上陸と和平工作問題(小磯は,3月21日の最高戦争指導会議懇談会で日中和平工作案を提案して戦争の集結を模索したが失敗に終わった)の責任をとる形で,木炭自動車(のろくて故障がちの意味)といわれていた小磯内閣が崩壊した。その後を受けて,4月7日日本海軍の象徴であった不沈戦艦「大和」が沖縄突入作戦で沈没したその日に,鈴木貫太郎最終決戦内閣が成立する。だが,鈴木もただただおうむ返しのように,「聖戦完遂」を叫ぶだけであった。
翌4月8日大本営は,沖縄突入作戦を「我方の収めた戦果・空母等15隻撃沈,撃破19隻,我方の損害・戦艦1隻を含む5艦沈没」と発表したが,大和沈没の公表はなかった。同日付朝日新聞は,「この戦い必ず勝つ−−1億に各個戦闘の気力」という鈴木との一問一答を掲載するが,当然のこととはいえ,勝利の女神はファシズムには微笑まなかった。つまりこの日,日本の海上特攻隊の主力は全滅し,沖縄突入作戦を断念せざるを得なくなったのである(防衛庁防衛研修所戦史部『戦史叢書陸海軍年表』295頁)。
もはや戦争の結末は明白であった。したがって戦争目的の遂行には無縁な戦いを意味した沖縄戦で,沖縄県民50万人を巻き込んだ死闘を繰り返しているさ中の4月22日,ソ連戦車隊がベルリン市街に突入する。そしてポーランド,ブルガリア等東ヨーロッパ諸国をナチスの手から解放しドイツに攻めいったソ連軍と,イタリー,フランス等の西ヨーロッパを解放し,ドイツに入ったアメリカ軍とが4月25日エルベ河畔トルゴウにおいて出会い,二度と戦争の惨禍を繰り返すまいと誓い合った(『エルベの誓い』・『エルベの出会い』)。ソ連人民がアメリカ民主主義をたたえれば,英語を話す人民がソ連を光栄ある赤軍と呼ぶ,まさに象徴的なこの出合は,第2次世界大戦の性格をものの見事に表わしていた。
さてアメリカ軍は,1945(昭和20)年3月9日夜から10日にかけて,サイパン,グァム,テニアンの各基地から飛び立った300機を超えるB−29で東京を夜間に大空襲した。陸軍記念日を狙った攻撃であったが,この日B−29は,これまでの高度1万メートルからの高々度精密爆撃による軍事施設と軍需工場に限定された攻撃ではなく,高度4,000メートルという低空からの無差別絨毯爆撃に戦略を転換していた。低空による攻撃は,対空砲火攻撃や防空戦闘機による迎撃を受けることを意味したが,これを恐れず敢行されたこの日の空爆作戦は,日本の防衛体制が脆弱であると判断した証明でもあった。防御用火器を取り外したB−29は爆弾搭載能力の飛躍的に増強し,その破壊力はますます強力になったのである(『昭和2万日の全記録』第7巻57頁)。
この日の焼夷弾投下で,東京の下町一帯は火の海となり,江東地区は全滅,約23万戸が全焼し,約100万人以上の人が家を失い,死傷者は12万人を上回った。焼け跡には「この仇必ず討つ」といったビラが張り出されたが,このころより空襲が激化,同月13〜14日には大阪(13万戸が焼失),17日には神戸が,19日には名古屋,18日から20日にかけては九州各地,つづいて後述のように四国や呉が空襲された(『昭和2万日の全記録』第7巻57〜61頁)。
アメリカ軍は5月25日にも東京大空襲を決行した。焼夷弾の嵐に強風が重なり,いたるところで大火災が発生し,残存市街地を焼き尽くした上に,宮城内の表宮殿と大宮御所なども炎上した。同月29日にはサイパン,テニアンからの500機以上のB−29と護衛する硫黄島からの100機のP−51戦闘機が横浜市を白昼爆撃し,死者は4,600人以上,負傷者も14,000人以上に達し,同市の3分の1が焦土と化した。また同日南九州にアメリカ軍のP−43,P−47等の小型軽飛行機が来襲したが,これは沖縄基地からの慣熟飛行であり,沖縄が事実上アメリカ軍に占領されたことの証明であった(『決定版・昭和史−−−空襲・配線・占領』第12巻74頁)。
また15歳から60歳までの男子,17歳から40歳までの女子を国民義勇隊に編入する,「一億戦闘配置」の大号令である義勇兵役法が施行された6月23日には,沖縄の日本守備隊が全滅した。住民をまもるべき軍が住民を楯に戦い,集団自決を強要したことに「捨て石」戦であった沖縄戦死闘の悲劇があったが,それはアメリカ軍事史家ハンソン・ボールドウィンの言葉をかりるまでもなく,「戦争の醜さの極致」以外説明のしようがない無意味かつ無残な戦いとなった。
ちなみに,アメリカ軍の沖縄上陸前の日本軍の兵力は陸軍86,400人,官軍10,000人その他現地招集の者を含めて約12万人と推定されている。6月22日までは兵役法で満17才から満45才までの男子に徴兵は限られていたにもかかわらず,その年令も無視され,その上正規の招集令状もなく,現地住民は応召兵,防衛隊,学徒隊,義勇隊,挺身隊の名目でかり集められたのである(『15年戦争史』3−−「太平洋戦争」207〜208頁)。
なかでも軍事訓練も受けず最前線に追い立てられた防衛隊員は約22,000人を数えたが,そのうち戦死者は57%にあたる13,000人以上と異常に高率であった(陸上自衛隊幹部学校編『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』30頁)。そして,空襲に次ぐ空襲と疎開で東京の人口は6月現在において,前年度2月の3割(220万人)に激減していた(『映像でつづる昭和の記録5−−焦土から再生』C−−13)。
そして8月6日午前8時15分,B−29「エノラ・ゲイ号」が広島に原爆を投下,大本営は翌7日,「1. 昨8月6日広島市はB29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり 2. 敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」と発表,8日付朝日新聞は,「落下傘つき空中で破裂−人道を無視する残虐な新爆弾」,翌9日付同紙は,「敵の非人道,断固報復−−新型爆弾に対策を確立」と報じたが,一瞬にして死者は24万人(推定)に達した。
8月8日にはソ連が対日宣戦布告(モロトフが8月9日以降ソ連が日本と戦争状態に入る旨の宣戦布告文を8日夜佐藤大使に通達),この報に日本が接した9日午前,最高戦争指導会議構成員会議が開かれ,ポツダム宣言受諾のための条件について,「皇室の安泰」とか,「本土占領の制限」などといった議論が行われているさ中の11時2分,今度は長崎に原爆が投下された。
西部軍管正司令部は,「1. 8月9日午前11時頃敵大型2機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 2. 詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」と発表,これを10日付西日本新聞が報道(朝日新聞の報道は12日付であり,しかも小さい見出しであった)したのみであった。だが長崎の死者は,12万人を超えていた。長崎原爆投下報道の代わりに,10日付朝日新聞は,「東西から国境を侵犯−−満州国内へ攻撃開始。我方,自衛の邀撃戦展開」とソ連の対日宣戦布告を大見出しで報道した。
同日情報局総裁下村宏は,「戦局は最悪の状態」との談話を発表,陸軍大臣阿南惟幾は,全軍将兵に「死中活あるを信ず」と訓示し,「−−全軍将兵宜しく1人も残さず楠公精神を具現すべし,而して又時宗の精神を再現して醜敵撃拭に邁進すべし」との激を飛ばすのみであった。
ここにいたってもマスコミは,統治能力や戦略能力を完全に喪失していた軍部への追従姿勢を変えず,無益な戦いと屍を重ねるだけの軍部や政府の愚策を批判できないばかりか,一かけらの真実も報道せず,ただひたすら国民を騙しつづけるのであった。
3.松山空襲のはじまり
開戦時において多くの日本人が予想もしなかった本土空襲という事実に,日本国民が直面した1945(昭和20)年のはやい段階で,戦局の行方は,誰の目にもはっきりしていた。だが軍部・政府=大本営は,前述したようにただただ「聖戦」完遂を叫ぶだけで,犠牲を最小限に止め,壊滅的打撃を回避した上で,国民の将来を展望した戦後処理を考える思考と余裕を持ち合わせていなかった。こうした軍部の無謀な戦争の継続と,軍部に盲従した日本政府の無為無策によって日本国民は,未曾有の惨憺たる状況に遭遇するのである。
この事実は,状況を冷静にかつ客観的に分析した上で解決策を見いだし,それを直ちに実行するといった,沈着なる問題解決能力と的確なる方向転換への決断力,そして勇気,中でも「引く」判断力の欠如が,大惨事を招く要因になる端的な歴史的例証といえた。その結果,松山市民も未曾有の惨憺たる状況に遭遇することとなるのである。
さて松山市は,加藤嘉明が関ケ原の戦功で加増されて6万石から20万石の大名となり,何かにつけて手狭になり,また要害も十分でなかった松前から,立地条件で優れていた松山に移り,1602(慶長7)年1月15日に築城工事を起こしたことにはじまる(伊藤義一『愛媛の市町村』116頁)。
その城下町松山市上空にアメリカ軍機が偵察のために初めて現れたのは,1943(昭和18)年の3月であったが,重爆撃機B−29(1機)が飛来したのは,1945(昭和20)年2月10日昼すぎのことである。それ以後松山市が,アメリカ軍機による空爆の標的になったことはいうまでもない。すでに愛媛県下では,同年1月31日午後9時ごろ西宇和郡宮内村山中にB−29によって最初の投弾が行われていた(『愛媛県警察史』第2巻522・535頁および『松山市年表』290〜292頁)。
否松山市では,1945(昭和20)年1月1日松山放送局が昇格して,四国一円を管轄するようになった松山中央放送局から頻繁に警戒警報(サイレン3分間連続吹鳴)や空襲警報(8秒宛間を置き,4秒宛10回鳴らす)が出された。それは松山市が,豊後水道に隣接する都市であったことに起因する。すなわち豊後水道が,商都大阪や関西の工業地帯の中心地である阪神地区や,日本海軍の中核的軍港のひとつであった呉基地,あるいは鉄鋼生産の拠点である北九州工業地帯への入口であったという地理的条件から派生するものであった。
つまり,阪神・中国・九州の各拠点都市を空爆するために,アメリカ軍機は豊後水道を北上したが故に,直接松山市が空爆の標的になっていない場合でも,松山市は,空襲の可能性を否定できず,畢竟その都度,警報を発せざるを得なかったわけである。それゆえ愛媛県は,「空襲銀座」といわれたほどである。
同時に,松山に海軍航空隊の基地が配備されていたことと,松山が四国の中心的な工業都市(アメリカ軍は松山を,大牟田,福山と同列の日本における第2次工業都市と位置づけていた−−アメリカ軍B−29松山空襲報告書−−国会図書会所蔵マイクロ−−『ひとの顔 まちの顔 松山−−戦中戦後』198頁)であったことが,空襲をより激しいものにしたということができる。そのため松山市民は,恐怖の日々を送る羽目になったわけである。
だが頻繁に出される警報が,実際の空襲を伴わない場合が多かったため,市民は,警報に馴れしてしまい,その結果警報がだされても,いつもの警報だけだろうという感覚が生まれたものまた必然的なことであった。こうした状況の中で現実に空爆が行われたので,市民の避難は緩慢,手遅れとなり,畢竟,被害を大きくすることとなった。当時松山市の工業地帯は,市街地地区と臨海地区に分かれていた。市街地地区の工場は,海岸と松山市街地の中間区域の久万ノ台の丘陵地帯にある衣山から,同市市街地区内の国鉄松山駅前を経て,同市市街地南部の一帯に分布しており,その中には1922(大正11)年操業の井関農機(八代町),1912(大正11)年操業の関谷農機(幸町),1921(大正10)年操業の白方機織所紡績工場(久万台),1927(昭和2)年操業の岡田印刷所(萱町)等の工場があった。また臨海地区には,丸善石油松山製油所(大可賀)が1944(昭和19)年から操業を開始していた。
さて,“招かざる客”B−29の松山初飛行から1週間後の2月17日には,アメリカ艦載機が松山上空に飛来,吉田浜の松山海軍航空隊基地を空襲した(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。松山初空襲である。同月21日には,伊予鉄道高浜線松山市〜高浜間9.4キロが,線路供出のため単線運転となった(この後遺症が,現在も梅津寺〜高浜間単線運転という状態で残っている。また線路供出は,市内城南線一番町〜道後間2.1キロも対象となったが,撤去工事に着手しないうちに敗戦になり,その撤去を免れた。このときの単線化による供出物件は,軌条13.725キロ,鉄材にして411トンであった−−『伊予鉄道百年史』293頁)。
その上,軍による船舶徴用と空爆によって,旅客船舶は極度に不足するようになり,1944(昭和19)年頃からは松山市と関西・九州地方を結ぶ幹線であった関西汽船の内海航路は,定期便の発着がままならぬ状況になっており,「高浜港では乗船客がいつ出帆するかわからない船を待ちあぐんだり,またむなしく引きかす姿が」頻繁にみられるようになっていた(『松山市誌』331頁)が,これらの出来事は,侵略戦争の行く着くところを松山市におても明確に示すものであったということができる。
国民勤労動員令(勅令第94号)が公布された1945(昭和20)年3月6日直後の3月9日には,前述したように,アメリカ軍によって東京大空襲が行われたが,同日松山でも,2回にわたりアメリカ軍機が松山海軍航空隊基地を空爆している。また,同月14日の大阪空襲に続き,硫黄島の守備隊が全滅した(同月17日)翌日の同月18日にも,九州方面の海上から飛来したアメリカ艦載機33機が松山市を空爆した。海軍航空隊基地以外の松山市街地に対する空襲は,この日が最初であった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山市年表』290頁)。
ただその被害の実態については,他の都市と同様に,大本営によって徹底的に隠され,市民には知らされなかった。前述したように,敗退を「転戦」という言葉で偽るように,どんなに重大に被害をも「軽微」という虚構で軍部・政府およぴ自治体は隠蔽し,マスコミはそれに無批判的に追従したが,もとよりそれは,愛媛新聞も例外では無かった。
すなわち,内務省の1県1紙の方針により愛媛県においても,松山市の『海南新聞』と『伊予新報』それに宇和島市の『南予時事新報』の3社が合同し,『愛媛合同新報』として太平洋戦争開戦1週間前の1931(昭和16)年12月1日に新発足(『愛媛新聞80年史』239頁),それが1944(昭和19)年2月から『愛媛新聞』と改題された(1945年4月の新聞非常措置法で県下に配付される新聞は愛媛新聞一紙に限られたので,同紙は,大阪朝日新聞・大阪毎日新聞・大阪新聞の3紙の持分を合同した(同年10月解除)。その結果発行部数は5万2千から一躍13万5千になった−−『愛媛新聞100年史』71〜73頁)が,同紙も虚偽の報道に終始した。
この日以後松山市民は,アメリカ軍機による空爆の現実的恐怖を継続して受け続け,「敵機常駐」の観を呈する(『愛媛県警察史』第2巻523頁)こととなり,空襲警報のたびに防空濠に退避しなければならない不自由な生活を強いられるのである。つづいて3月20日4時30分,アメリカ艦載機1機が松山海軍航空隊を爆撃,同月27日には,3機のアメリカ軍大型機が松山上空を偵察飛行するとともに,豊後水道に爆雷を投下,同月29日にも,松山上空に飛来するところとなる(『愛媛県警察史』第2巻537頁)。
こうした空襲と偵察飛行が続く中,松山の誇るべき観光資源である道後温泉が夜間営業を停止しなければならない状態に陥ったが,4月中松山市には大規模爆撃はなかった。ただ3日,13日,22日に,いずれも1機ではあったがB−29が松山上空に飛来している(『松山市年表』290〜291頁)。
しかし,1602(慶長7)年に藤堂高虎により築城され,明治以来綿工業で栄えていた今治市には4月26日,4機のB−29により爆弾60発が落とされ,死者68人,重傷者34人,全壊家屋12戸,半壊家屋42戸を出す惨事が発生していた(『新今治市誌』323頁。なお『愛媛県警察史』第2巻537頁は,死者90人,重軽傷者300余人と記している)。今治市は,愛媛県において本格的な空爆を受けた最初の都市となったわけである)。すなわち同日午前9時すぎ,今治市に警戒警報が出され,それは直ちに空襲警報に切りかえられた。まもなくB−29が上空に飛来,市民は防空濠等に避難した。だがB−29の編隊はゆっくり北上して海上に消えた。空襲警報は解除され,市民もいつもの空襲銀座の「定期便」と思い退避場所が出てきてホットした瞬間,B−29の編隊が急旋回して突如襲い,無防衛状態下の市民の上に100キロから150キロの大型爆弾を投下したのである(『愛媛県警察史』第2巻541頁)。
例によって愛媛新聞は,翌27日付で「26日朝わが郷土上空に来襲した敵機は,少数の爆弾を投下して遁走した。被害は極めて軽微であるが,それでも家屋や住民の各々多少の損害をみてをり」と報じのみで,被害の実態はもとより,爆撃が行われて場所すら報道しなかった。それゆえ,今治市の被害の正確な実態を隣接都市の松山市民は,クチコミと噂以外知る手だてを持てなかった(状況は5月に入り深刻になった。5月4日午前8時10分には第1波8機のB−29が,同日午前8時25分には第2波9機のB−29が松山海軍航空隊基地を空襲し,それは,基地周辺の民間人7人を含む76人にのぼる多数の死者と,3人の行方不明,169人の重軽傷者がでる惨事となった(『愛媛県警察史』第2巻537頁および『松山の歴史』281頁)。松山市における大悲劇の幕開けである。
この事実を愛媛新聞は5日付けの小さい見出しで,「被害は僅少」と以下のように報じたが,もはや「でっち上げと」しかいいようがない内容の記事であった。
「マリアナ基地のB29は4日朝またも松山市を盲爆した。すなわち午前8時15分ごろ松山市上空へ西南から進入したB29八機は,高度約4,000メートルの低空で軍事施設を盲爆し,そのヽち今治付近上空を経て遁走したが,10分もたヽぬ間に,こんどは別行動隊のB29九機が南西方面から同市に来襲,軍事施設を狙つて投弾−−被害は僅少で付近の一部民家や田畑が猛爆されたが,軍官民一丸の防空活動はめざましく,3度目の盲爆ながら県都市民の敵愾心は弥が上にも昂まり『この仇きつと打つぞ』と微塵の動揺も見せなかつた」。
3月19日の空襲で,零戦に対抗して製造されたグラマン機により本社ビルを機銃掃射された愛媛新聞は,最悪の事態を予想して松山市郊外樽味の石手川に沿った撰果工場を借り受け,輪転機,平版印刷機各1台を疎開するとともに,道後グランド下のプール跡に巻き取り紙を運んで万が一に備えていたのである(『愛媛新聞80年史』250頁)。
いうまでもなく,防空体制は全く壊滅状態,市民は戦う手段を持たず,命からがら逃げるのが精一杯であった。
4月末には,満州にあった第11師団が本土防衛の任務をもって四国に集結,高知市一帯に配備されたが,もはやアメリカ軍の敵ではなく,5月5日には,100機を越えるB−29が松山上空を飛行した(『松山市年表』291頁)が,松山市民は,前日の激しい空襲の残像と相まって,100機以上というこれまで目にしたこともない巨大な重爆撃機の大群が大空に舞う姿を仰ぎ,世紀末的な状況を身を以て経験することとなった。
しかも3月19日には,日本海軍の戦闘機「紫電改」が迎撃し,アメリカ艦載機数十機を撃墜した(『松山市年表』290頁)松山を基地とする源田実率いる第343海軍航空隊は,前月の4月中に特攻隊基地である鹿児島県鹿屋基地へ転出していた(『松山市年表』291頁)ので,もはやアメリカ軍機を迎え撃つ術を,松山海軍航空隊基地は持ち合わせていなかった。まさしく松山市は,「裸」当然の状態になっていたが,アメリカ軍の攻撃は容赦なく続けられた。
ドイツが無条件降伏した翌5月8日には,2機のB−29が松山上空に来襲するとともに今治市を空爆,同市では,死者29人,重傷者4人,全壊家屋43戸,半壊家屋97戸を出した(『新今治市誌』324頁)。翌5月9日にも1機のB−29が松山市上空に飛来,翌10日には,20機のB−29が松山海軍航空隊基地に爆弾を投下し,同日は1機のB−29が宇和島市を空襲した。
伊達10万石の城下町で,市街地は三方を山にかこまれ,西に海が開け,城址を中心として五角形に形成されていた宇和島市(伊藤前掲書152頁)では,この日18個もの100キロから250キロの爆弾が投下され,死者115人,重傷者26人,軽傷者55人を出す大惨事となった。宇和島市空襲のはじまりである。これ以後宇和島市は,9回の空襲を受けることとなるが,この日の記録を,緊急市会開会に変えて送付された「市長議長連名の報告書」は,以下のように記載している(『宇和島市誌』367頁)。
「1.昭和20年5月10日 米国飛行機B−29ノ1機来襲 午前8時59分投弾地面ヘハ9時到達 朝日町2丁目・1区・2区 同3丁目1区・2区・3区 須賀町1区・2区・3区 寿町1区ニ被害アリ 2.5月10日午前9時30分 市長名ヲ以テ市内各所ニ左記布告ヲ掲示ス」
市長布告第1号
朝日町2丁目付近ニ爆弾投下 被害僅少ナリ 目下救護中 市民ハ安心シテ次ノ防空ニ敢闘セヨ (翼壮団伝達)
市長布告第2号
敵機去ル 被害現場モ落付ク 市民ハ各々ソノ職場ニ敢闘セヨ」
また同月14日には,第1波としてアメリカ軍艦載機グラマン戦闘機約20機が,第2波として約60機が松山市を襲い,市民2人が死亡した(『愛媛県警察史』第2巻538頁および『松山市年表』290〜291頁)。
前述したように,アメリカ軍爆撃機や戦闘機による日本全土にわたる激しい空襲・爆撃に対して,日本軍は有効な防衛体制が確立できなかった。つまり,敗色濃厚な戦局の根本的な転換を可能するほどの軍事力がない以上,人的・物的被害を最小限に止めるために,戦争遂行主体の軍部や政府が取りえた唯一の政策は,一日も早い戦争終結=敗北宣言であった。だが,かかる当然の政策を遂行できる賢明さを,日本の為政者はもっていなかった。軍部・政府は,致命的な被害が続出しているにもかかわらず,天皇制護持と一億総玉砕,本土決戦をただひたすら叫ぶ愚策しか選択できなかったのである。そうした中で犠牲を少なくするためにせいぜい取りえた方策が,疎開であった。すでに5月11日には,激しく続く空襲に対する避難・防空道路確保のために,愛媛県の命令で花園町から西堀端にかけて建築されていた建物を撤去する防空法5条ノ6に基づく,いわゆる「建物疎開」が開始されていたが,5月25日愛媛県防空本部は,松山市内の疎開先を発表するとともに,疎開相談所などを開設した。これを受けて松山市は,「松山市国民学校に関する件」を通達,直ちに,低学年児童の教室疎開が行われ,分散授業が開始されることとなった(『松山市年表』291〜292頁)。
例えば東雲国民学校は,慈恵会,松山商業学校,若宮八幡,松高グライダー倉庫の4カ所へ教室の分散・疎開が行れた(『松山市資料集』第11巻84頁)。もっとも,法令による強制疎開以前にも,いわゆる縁故疎開が行われていた。例えば上の通達から外された松山市一番の都心の学校であった番町国民学校では,1944(昭和19)年以来のそれで,1945年7月当時,全校生徒の7割近い700余人が疎開しており,残っていた生徒はわずかに280余人に過ぎない状態であった。これらの生徒も,同年7月に自主的に松山市堀江大栗会堂,温泉郡五明村公会堂,伊台村青年会堂等に集団疎開するところとなる(番町小学校『昭和20年戦災日誌』)。まさしく疎開は,いよいよ戦局が重大な局面=決定的敗北に突入していることを市民が肌で感じる契機ともなったのである。
6月中のアメリカ軍の戦略は,心理作戦を中心とした。すなわち,アメリカ軍機による「空襲予告ビラ」と「宣伝ビラ」(これを「伝単」=宣伝ビラを中国でこう呼んでいた)が上空から撒かれたのである。当時日本では,とんとお目にかからなくなっていた上質紙の白いビラには,当時日本の人気漫画であった大学帽姿の「フクちゃん」(1944年3月6日の夕刊休止とともに,朝日新聞連載横山隆一作の「フクチャン」も休載になっていた)が空を見上げた絵に,「日本よい国,神(紙)の国,7,8月灰の国」との文字が書かれていたのである(1945年はじめに広島で舞ったビラの文句は,「日本よい国,夢の国,3月4月花の国,5月6月泥の国,7月8月灰の国」とあった−−宮脇輝一「松山被災回顧」−−『ひとの顔 まちの顔 松山−−戦中戦後』321頁)。
すでに政府は,1945年3月10日に「敵ノ文書図書等ノ届出等ニ関スル件」(内務省令第6号)を制定し,伝単を発見,拾得,収受した者は警察官吏に届出る義務を課し,違反者に対しては,3月以下の懲役もしくは拘留,または100円以下の罰金もしくは科料に処したが,真実は,刑罰の前にも強かった。結局市民は,アメリカ軍の宣伝ビラと体験から,身を以て戦局の重大性を知るところとなるのであった。
宣伝ビラの中には,沖縄陥落やポツダム宣言などについて,その内容を詳細に記載したアメリカ軍司令部発行の「落下傘ニュース」や「マリヤナ時報」(その体裁は,日本の新聞そのものであった)等もあり,大本営発表の勝戦ニュースしか知らされなかった市民は,目の前で惨劇を体験していたが故に,大本営発表に疑問を抱き,アメリカ軍のニュースが正しいのではないかと動揺するところとなったわけである。アメリカ軍の宣伝攻撃は,空爆と相まっていたがために,極めて効果的だったこととなる。このように,いつ来るか知れないアメリカ軍機の来襲,しかも爆弾,焼夷弾,機銃掃射ばかりでなく,宣伝ビラにも見回れ,松山市民の恐怖心はますます高まり,動揺は極限に達しようとしていた。
戦局悪化の状況の下では,いくら大本営が勇ましく叫び,また陸海軍刑法の軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第99条「戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関シ造言飛語ヲ為シタル者ハ3年以下ノ懲役ニ処ス」,海軍刑法100条も同じ条項)で憲兵や警察が逮捕を繰り返し,『デマ』防止の宣伝を強化しても,人の口に戸は建てられず,激しく動揺した国民の敗北的な”噂“の横行はまたたくまに市民の間に広がっていった。かかる事態は,それまでにも日本のいたるところで見られた現象であった。ちなみに,1945年1月以来検事局に送致されたものは同年2月現在で40件に達していた(岩波書店編集部『近代日本総合年表』342頁)。
また東京憲兵隊は,同年2月18日から同月24日まで停車場や電車内等で一斉取締りを行ったが,その中で処置した件数は333件(内訳=事件送致3件・厳諭283件・注意29件・その他18件),その内容は,「海軍ハ全滅シタノタ」・「軍ハヤラレタリ負ケタコトハ一ツモ発表シナイ」等の対軍不信,「3月ニ入レハ日アメリカ戦争ハ休戦講和ニナルサウタ」・「本土ニ敵機ヲ入レル様テハ到底勝テナイ」等の反戦反軍和平希求,「放送局・東京ノ町・太田ノ工場ハメチヤクチヤニヤラレタ」等の被害誇張であった(東京空襲を記録する会編『東京大空襲・戦災誌』第5巻334〜335頁)。だがこれらの多くは,造言飛語とかデマという類のものではなく,ほとんど真実に近かいものも多数存在した。
その間愛媛県下では,同月20国鉄八幡浜〜卯之町間が開通し,予讃本線松山・宇和島間が全通するところとなった。全国の県庁所在地で国鉄が開通した最後の都市が松山市であったが,その松山に,国鉄が開業(予纉線高松・松山間)したのは1927(昭和2)年の4月ことである。愛媛県において国鉄の営業が遅れたのは,線路敷設に係わって争奪戦が繰り広げられ,これに政治と利権が絡んだという事情があった。それは政権交代の度ごとに,そのルートが変更されたという事実から明白である。その上当時,比較的海上輸送が発達していており,住民の間でも,また産業界でも鉄道の必要性をさほど切実に感じていなかった事情が加わったわけである(『松山市誌』325頁)。
こうした事情から遅れていた予讃本線全区間開通は,いわば南予地方の県民の悲願であったが,それが達成された感激に人々が浸る間もなく,翌々日の22日に宇和島市が空襲され,死者9人を出すのであった。全線開通という事実も,空襲下であったがために,束の間の喜びにもならなかったのである(『宇和島市誌』367頁)。
6月29日には,またもや宇和島市が空爆され8人が死亡になった(『宇和島市誌』367頁)。翌6月30日松山挺身義勇隊が結成されたが,7月2日,B−29が松山上空に飛来し,激しい空爆から逃れるために,同市衣山に“疎開”していた松山航空隊本部へ焼夷弾が投下された(『松山市年表』292頁)。松山市に対する本格的空爆は,1カ月半ぶりであったが,この事実は,アメリカ軍の情報がいかに正確であったかをうかがわせる出来事を意味した。
7月13日には,宇和島市が5回目の空襲に会い,犠牲者は死者28人,重傷者15人,軽傷者34人の多数にのぼった。宇和島市は,同月25日にも空襲され,重傷者2人を出した(『宇和島市誌』367頁)が,24日にはアメリカ軍艦載機が,松山海軍航空隊基地に隣接して1944(昭和19)年に,南方原油の処理を目的とする民間最大の海軍の直轄製油工場として建設が着手されていた(目的そのものは敗戦により挫折した−−『松山市誌』356・364頁)丸善石油松山精油所(現コスモ石油),それに東洋レーヨンを爆撃した(『松山市年表』292頁。なお『愛媛県警察史』第2巻にはこの空襲の記載はない)。
4.7.26松山大空襲
アメリカ・イギリス・中国の連合国(後にソ連が加わる)からポツダム宣言が発表された翌7月26日アメリカ軍は,松山,徳山,大牟田の攻撃を実施した。すなわち,アメリカ軍第20航空軍本部戦闘命令第9−−「第73砲撃大隊に対する飛行作戦番号第293」の中で松山への空襲を命令したのである。
その中での松山は,「四国の西海岸上5マイル内陸にあり,呉の真南33マイルに位置しているのであるが,軍事と鉄道の中心地であり,農業機械の中心地として重要である。2カ所の小さい港を持っており,松山は松山西飛行場と陸軍航空連隊本部へのサービスセンターである。交代要員兵営並びにいくらかの小さな鉄工所もまたここにある」と位置づけられていた。
松山攻撃の平均ポイントは,松山城のまわりの堀の南東のコーナーが選ばれた。いうまでもなくこの円形のコーナーの中には,松山市の重要な工業地域の全てが含まれていたのである。26日夜のアメリカ軍による松山大空爆は,128機のB−29により決行された。この日の天気は快晴,風向305(北西),風速17ノット(8メートル)。豊後水道を東北に進んできたアメリカ軍機の大群は,高度11,000〜12,500フィートで佐田岬上空から松山市の西方上空に入った。途中,日本軍の高射砲火による反撃はまく,松山上空での高射砲火も極めて貧弱不正確にして,アメリカ軍機の損失は皆無であった(「米軍松山爆撃報告書」(国立国会図書館所蔵マイクロ)−−『ひとの顔 まちの顔松山−−戦中戦後』所収196〜201頁))。
愛媛県下には警戒警報に続き,午後10時35分に空襲警報が発令された。その30分後(グリニッチ時14:08)アメリカ軍機は,第1弾を城北地区の新町(現清水町1丁目−−『松山市戦災復興誌』3頁。第1弾が投下された場所については幾つかの説がある(島津豊幸『愛媛の百年』240頁)が,現在の古町から清水町にかけての城北地区であったことは間違いない。なお『愛媛新聞80年史』251頁は,木屋町7丁目当たりに焼夷弾の火の手があがったと記している)に投下した。市民には,十分なる避難の時間がなかった。それが被害を大きくした。その後B−29の大編隊は,松山城上空を右旋回して松山市街地へと標的を移し,西南方向に去っていった(グリニッチ時16:18)。
そのため,松山城をとりまくように形成されていた松山の市街地は,わずか2時間10分でその全域が焼夷弾による炎に包まれ,逃げまどう市民によって街は大混乱に陥った。松山城の内堀は焼死体で埋まったが,この光景は,「この世の地獄」以外の言葉で形容しようのないものであった。
この攻撃は,松山に対するこれまでの空襲の中でも最大の規模であったが,その被害は,道後・新立・立花・旭町・小栗・持田各町の一部と三津浜地区および周辺農村部を残して,市街地のほとんどを焼き尽くすほど激しいものであった。死者は251人(男子117人,女子134人),行方不明8人,負傷者数は全く把握できない状況を醸し出し,松山市全域87.81平方キロのうち,5.4%に当たる4.785平方キロに被害が及び,松山市の全戸数26,000戸のうち,55%に当たる14,300戸が,また松山市の全人口117,400人のうち53%の62,200人が罹災するという大惨劇となった(『松山市戦災復興誌』3頁)。
松山市の交通網の要である伊予鉄道は,本社および松山市,江戸町,古町,一番町の各駅を焼失したばかりか,ボギー電車1両をはじめ各種電車車両34両を失い,高浜,横河原の両郊外線のほか,城南,城北の各市内線も多くの被害を受け,いたるところで不通箇所が発生し,その被害総額は55万円に上った。このような惨状の中でも,横河原線と森松線が立花駅以遠,また郡中線が余土駅から郡中まで運転できたことと,すべての機関車が助かったことが伊予鉄道にとっては,何よりの救いとなった(『伊予鉄道百年史』300頁)。
伊豫銀行も,本店,本町,湊町,一万,大街道,南,土橋,大手町,木屋町,榎町の10店が焼失した(『伊豫銀行史』172頁)。
国鉄では,すでに旅行するには証明書を必要としていたが,四国管内においても,1945(昭和20)年には極度の石炭不足と度重なる空襲によって,列車ダイヤの取消が続出しており,特に旅客輸送は末期的症状であった。国鉄各駅には,「空襲は必至の情勢下です。いざ空襲に備へて旅は身軽に」という掲示が張り出されていたが,空襲によって,車両約30両の客車を喪失していた。それゆえ戦後暫くの間は,貨車が客車の代用として使用され,その輸送力の回復も敗戦後2〜3年を要したのである(『四国鉄道75年史』219頁)。
いかにダメージが大きかったかは,7月30日に開会された臨時市議会が,議員定数41人中出席議員僅かに16名で市議会開会の定数を満たすことができない始末になったことからも容易に想像できた。だが市議会は,事態が事態だけに,再告をしてこれを開催することとし,1945年度追加更生予算3,345,367円,(建物)疎開跡消防道路新設費充当起債の件,防空退避壕構築費に充当起債更生の件などの議案の専決処分を了解したのである(『松山市誌』231頁)。
しかし,翌々日7月28日付の手刷りタブロイド版の愛媛新聞は,「敵機遂に県都松山市を焼爆,B−29六十機2時間半夜襲,軍官民敢闘し重要施設は殆ど無事」とのタイトルで,愛媛県発表の次の記事を掲載したのみであった。
「−−市民の敢闘にかヽわらず市内に相当の被害を生じたるが,幸ひ軍官民の敢闘により午前5時に至り火災完全に鎮火し,また人員の死傷極めて軽微なり,既に市民は余燼の内に逞ましく起ち上り復興に全力を尽くしつつあり−−」。愛媛新聞社は,この空襲で社屋・機材・印刷機を焼失したが,幸いにして社員1人の犠牲者を出さずにすみ,疎開していた一部の機材を電力の代用の人力でフル回転して,5時間で3,000部を刷り上げたのである(『愛媛新聞80年史』252頁)。
また愛媛県知事の土肥米之は,27日早朝120万人の愛媛県民に「−−県民各位はいやしくも流言蜚語に惑はされることなく不撓不屈あくまで冷静沈着,なほ今後再び生起することあるべき空爆に対して万全の措置を講ずるとともに,ますます必勝の信念を昂揚して職域に邁進し,以つて皇土の防衛,聖戦の完勝に遺漏なきを期すべし」と告諭した。
さらに28日付愛媛新聞社説は,「焼土に誓う」との見出しで,「吾々の郷土が焼野原になったことも,必勝の本土上陸作戦の前の尊い一つの犠牲に外ならない。吾々は焼土の上に強く両脚をふん張り,歯を喰いしばって宿敵粉砕のための日本魂をいよいよ振起し,旧に倍して勇奮敢闘せんことを,戦災者とともに誓うものである」と論じたが,現実を目の前にしては,何とも虚しかった。
愛媛県の発表とは裏腹に,壊滅的打撃を被った松山市であったが,アメリカ軍の空襲は止まるところを知らなかった。つづいて7月28日,アメリカ軍艦載機グラマンが松山海軍航空隊基地に隣接する垣生地区の住宅を空爆,8月9日にも同地区を機銃掃射や焼夷弾攻撃が行われ,死者3人,行方不明1人のほか,民家3軒が消失した(『松山市年表』293頁)。
今治市もまた,広島原爆投下の前日の8月5日午後11時50分(前日の4日,5日の空襲予告ビラがアメリカ軍によって撒かれていた)約70機のB−29により第3回目の空襲を受け,市の重要施設のほとんどが破壊された上に死者454人,重傷者150人,全焼家屋8,199戸,罹災者34,200人の被害を出した。松山から勤労動員されていた県立松山高等女学校,松山城北高等女学校の女生徒計12人や沖縄から動員されていた女子工員多数が死亡したのもこの日の空襲である(『新今治市誌』325頁)。
7月26日の松山大空襲の夜,「奈良山のかなたの空をあかね色に染め,燃えさかり,炎と爆弾,銃の下にさらされた松山市民の惨状を想像した」今治市民は(『新今治市誌』324頁),そのわずか10日後に同じ運命に遭遇することとになったわけである。今治市当局は,第2回目の空襲の後5月14日付で,「憎みても余りある米鬼は郷土に対して再度の盲爆を敢行し非戦闘員に迄尊い犠牲を強要して参りました。然し幸いにも市民各位が第1次空襲の戦訓を活し,冷静沈着に迅速なる避難を致しました為に直撃弾に依る以外に人畜の死傷は極めて僅少でありました。再度に亘る戦訓から判断して覆蓋ある退避濠に待避して居れば絶対に危険はありません。−−神州は不滅であり皇軍は神兵である。吾々一億国民が悉く神兵になることに於て神風も起り勝ち抜くことができるのであります−−」との「市民各位に告ぐ」通達を市長,警察署長,憲兵分駐所長の連名で出していた(『新今治市誌』324〜325頁)が,こうした空虚な精神論がいかに現実離れをしていたかが,この空襲で明白になった。
9日長崎にも原爆が投下され,さしもの頑迷なる軍部による敗北宣言も,時間の問題となっていたが,8月12日には,約40機のB−24が松山市街地に焼夷弾を投下している(『松山市年表』292〜293頁)。
このような度重なるアメリカ軍による空襲で松山市は焦土と化し,この現実から松山市民も,ようやく侵略戦争の本当の姿を思い知らされることになったのである。今治市での罹災面積は,市街地の80%に達し(『愛媛県警察史』第2巻544頁),宇和島市での焼失面積は1,312ヘクタール(397万8千坪),実に市街地の70%に相当していた(『宇和島市誌』368頁)。
5.おわりに
1945(昭和20)年6月9日に開会された第87回帝国議会(臨時会)の施政方針演説で鈴木首相は,「……今ヤ我々ハ全力ヲ挙ゲテ戦ヒ抜クベキデアリマス,一部ノ戦況ニ依リ失望シタリ落膽スルハ愚デアリマス,天皇ノ大纛ノ下,一切ヲ捨テテ御奉公申上ゲテコソ日本国民デアルノデアリマス,私ハ政治ノ要諦ハ国体ヲ明カニシ,名分ヲ正スニアルト信ジマス,国体ヲ護持シ,皇土ヲ保衞シ全国民一体トナリ,而モ各自ガ一人以テ国ヲ興スノ決意ヲ固メ,自ラ責任ヲ負ヒ,自力ヲ以テ最大ノ工夫ト努力ヲ凝ラシ,目標ヲ戦争完遂ノ一点ニ凝集シ,一人モ残ラズ決死敢闘スル時ニ,国民道義ハ確立セラレ,秩序ハ整然タル態勢ノ下ニ,戦力ノ彌ガ上ノ発揮ガ出来ルモノデアルト確信致シマス……」(『歴代総理大臣と内閣』411頁)と述べ,あくまでも戦争の継続をその基本方針とする。
いうまでもなく,鈴木のこの演説の背景には,前日8日の御前会議における「七生盡忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衞シ征戦目的ノ達成ヲ期ス」(参謀本部所蔵『敗戦の記録』−−「明治百年史叢書」266頁)という戦争完遂の決定があった。
敗戦が確実で,しかも空襲による壊滅的打撃が日本全土で続出していた中での聖戦完遂の訓示は,国民を欺瞞し,ただいたずらに犠牲者の山を築くだけにすぎなかったが,これも太平洋戦争に突入したファシズム体制が,国民大衆にもたらした結果そのもの,換言すれば,軍部の独善と過信,情報不足と変化に対応できない硬直した体質の歴史的結末でもあった。
ところで6月22日には,天皇が招集する最高戦争指導会議構成員会議が開かれたが,このとき天皇は初めて政府や軍指導者に対して,「先般の御前会議決定の如く,飽く迄戦争を完遂するということも一応尤もであるが,また一面,時局収拾方について考慮する必要があろう,これについてどう考えるか」(外務省編纂『終戦史録』410頁)との意見を表明する。
結局,これが終戦工作に大きな影響を与えるところとなる(田中直吉「対ソ工作−−太平洋戦争中における日ソ交渉」−−『太平洋戦争終結論』所収459頁)が,この天皇の終戦方策推進方に関する指示の背景には,内大臣木戸幸一が6月8日に起草した「時局収拾対策試案」があったのである。その骨子は,1945(昭和20)年下半期においては食料,衣料は極端な不足をきたし,人心の不安は収拾できない状況となり,また戦争遂行能力は事実上喪失するとの前提の下,「天皇陛下ノ御親書ヲ奉シテ仲介国ト交渉ス」るということであった(外務省編纂『日本外交年表並主要文書』下巻616〜617頁および『木戸幸一日記』下巻1208〜1209頁−−なお御前会議の出席者は内閣総理大臣・鈴木貫太郎,枢密院議長・平沼騏一郎,海軍大臣・米内光政,陸軍大臣・阿南惟幾,軍需大臣・豊田貞次郎,農商大臣・石黒忠篤,外務大臣兼大東亜大臣・東郷茂徳,軍令部総長・豊田副武,参謀総長代表参謀次長・川邉虎四郎であった−−『敗戦の記録』265〜266頁)。
しかし政府・軍部当局は,すぐには反応しなかった。それを決定的にしたのが,いうまでもなく広島への原爆投下とソ連の参戦という衝撃的な打撃である。それ故,上のような聖戦完遂を叫んだ鈴木ではあったが,8月9日の最高戦争指導会議においては,最早戦争の継続は不可能であり,ポツダム宣言を受諾するほかないと判断するしかないところまで追いつめらるところとなる。
だが,ポツダム宣言受諾の決定は余りにも遅すぎた。すなわち8月9日午後から開かれた閣議においても,最高戦争指導会議の議論がむしかえされ,鈴木は外相東郷とともに天皇に御前会議の開催を願い出た。御前会議は,同日の深夜11時50分から皇居内の防空濠で開かれ,皇室の安泰を条件にポツダム宣言の受諾を決定,10日「(ポツダム)共同宣言に挙げられたる条件中には天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に帝国政府は右受諾する」との日本側申入れが,中立国政府を通じて連合国側に伝えられた。これに対してアメリカ政府は,英・中・ソの承認を得て11日,「降伏の時より天皇及日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合国最高司令官に従属するものとす−−日本の究極の政治形態はポツダム宣言に遵い日本国国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」との回答(いわゆる「バーンズ回答」)を行うことになる(『敗戦の記録』284〜286頁)。
御前会議終了後天皇は木戸に,「本土決戦本土決戦と云ふけれど,一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず又決戦師団の武装すら不充分にて,之が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論,忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等,其等の者は忠誠を尽した人々で,それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。……」(『木戸幸一日記』下巻1223〜1224頁)と語っていた。
日本の全土が焦土化しつつあり,また戦争の犠牲者が膨大な数になっており,しかも戦争の行方は誰がみても明確になって久しい時期に,この回答を巡って外務省と陸軍が対立,またしても閣議で不毛の果てしない議論が12日,13日と続行され,その間にも犠牲者は増え続けてゆくのである。
8月14日,ついに天皇が招集する異例にして史上最後の御前会議が午前11時から宮中の防空室で開かれる運びとなる。ここで天皇は,梅津,豊田,阿南らの反対論を聴取したのち,「自分ノ非常ノ決意ニハ変リナイ 内外ノ情勢,国内ノ情態彼我国力戦力ヨリ判断シテ軽々ニ考ヘタモノデハナイ 国体ニ就テハ敵モ認メテ居ルト思フ毛頭不安ナシ……戦争ヲ継続スレバ国体モ国家ノ将来モナクナル即チモトモ子モナクナル 今停戦セハ将来発展ノ根基ハ残ル−−自分自ラ『ラヂオ』放送シテモヨロシイ 速ニ詔書ヲ出シテ此ノ心持ヲ傳ヘヨ」(『敗戦の記録』290頁)と再度の聖断を下し,遂にポツダム宣言受諾を決定することになるが,それにしても余りに遅すぎる敗北宣言となった。
そして8月15日正午天皇「ヒロヒト」が戦争終結の詔書を放送,ここに太平洋戦争と第2次世界大戦は,ファシズムの完全敗北で終わることとなる。8月10日のポツダム宣言受諾の天皇の聖断から8月15日正午に玉音放送まで,つまり,マッカーサーが,日本本土攻撃中のアメリカ艦挺・航空機に攻撃中止の命令を発し,攻撃が中止されるまでのアメリカ軍の空爆は,次のとおりであった。いうまでもなく,当局にほんの少しの決断力があったら避けえた被害である。
「8月11日−−少数のアメリカ軍艦載機津軽を攻撃。アメリカ軍機約150機久留米を爆撃。8月12日−−アメリカ軍爆撃機約400機,九州・四国(松山)を爆撃。8月13日−−アメリカ機動部隊艦載機約600機関東地方を攻撃。8月14日−−P−51約100機,三重・愛知・岐阜県を攻撃。B−29約100機・戦闘機約70機大阪と近畿一帯を爆撃。B−29約250機高崎・小田原を夜間爆撃。8月15日−−アメリカ軍機動部隊艦載機約250機朝方関東地方攻撃(『戦史叢書陸海軍年表』316〜317頁および『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』85〜89頁)。
実に第2次世界大戦の戦禍は,世界の人口の5分の4をまきこみ,1億1千万の兵士を戦場に送り,軍人・市民あわせて2,200万人が死亡し,3,440万人が負傷した。
破壊された財産は,ヨーロッパだけでも3,949億ドル,中国は500億ドルにのぼった。日本では,陸海軍人の死者156万人,一般国民の死者30万人と政府は1947(昭和22)年発表したが,事実上あわせた死者は300万人に達すると推定されている(『新聞集成・昭和史の証言』第19巻4頁。なお松山市民の戦没者は,約8,000人である−−『松山の歴史』282頁)。
また,敗戦時1945(昭和18)年の日本人の平均寿命は男子23,9才,女子37,5才であった(テレビ朝日『ニュース映画でつづる生きてる昭和史』第3巻)が,これが約15年間にわたる侵略戦争の結末であったといえよう。
すなわち前述したように,天皇制絶対政権下の軍部ファシズム体制によって開始された太平洋戦争は,典型的な侵略戦争であり,当然のことながら,日本の壊滅的敗北で終結することとなった。それは,歴史発展法則の必然的な帰結であると同時に,アメリカ合衆国をはじめとする連合国の政治的,経済的,軍事的力量に無知であった軍部をはじめとする日本為政者達の政治的,軍事的無能力の証明であった。日本国民は,軍部と政府・自治体,そして権力に無批判的に追従・迎合した新聞に代表されるマスコミが作り上げた虚構の報道に欺かれ,ただひたすら侵略戦争に狂奔し,善良なる他国民に対して,非人道的な虐殺行為を大量に行ったのである。
この事実は,政府や軍部,それにマスコミに対する批判精神,根幹的には,問題の本質を見抜く知識と洞察力,さらには正しいことを主張し,その実現のために行動する勇気が国民に欠如していたことのなりよりの証左であった。同時にかかる意識の欠落が,その後の歴史の中で国民大衆が,悲惨な状況に遭遇する原因になるのである。それはまた,真実の報道と情報公開,権力やマスコミ報道に対する的確なる批判力がいかに大切であったかということの歴史的教訓であるといわなければならない。こうした歴史から,我々は学ぶべきものが多いのである。そして過ちは,二度と繰り返してはならないのである。