三四三航空隊
軍令部の航空主務参謀・源田
実大佐が、自らが司令となり制空権の奪回を目的として精強な航空部隊の編成を計画。比島で戦力を消耗していた戦闘301・407・701を召集して編成し、昭和19年12月25
日に松山基地で開隊。昭和20年 2月 1日には偵察第四航空隊を編入し、基幹搭乗員に歴戦のベテラン
を配置して近代的な編隊空戦の実現をめざした。
戦闘301の紫電改
343航空隊「剣部隊」編成(松山)
紫電改戦闘機隊
司令 源田 実 大佐(兵52)
副長 中島 正 中佐(兵58)
飛行長 志賀 淑雄 少佐(兵62)
戦闘701「維新隊」 隊長 鴛渕 孝 大尉(兵68)
戦闘407「天誅隊」 隊長 林 喜重 大尉(兵69)
戦闘301「新撰組」 隊長 菅野 直 大尉(兵70)
彩雲偵察隊
偵察4 「騎兵隊」 隊長 橋本 敏男大尉(兵66)
通信隊
通信長 松永 市郎大尉(兵68)
松山上空の空中戦
昭和20
3月19日、松山基地を飛び立った偵察機「彩雲」より、「敵機動部隊見ユ、室戸岬ノ南30浬」「敵戦爆連合大編隊、豊後水道ヲ北上中、高度三千」との情報が相次いで入電。直ちに、松山基地より
54機(維新隊16機、天誅隊17機、新撰組21機)の「紫電改」が発進、松山上空において呉方面に飛
行中の敵編隊と激しい空中戦を展開した。確認された戦果は撃墜57機(内、対空砲火による撃墜5機)、
343空の挙げた最大の戦果であった。当方の損害は自爆16機、大破5機であった。
3月末、米軍の沖縄上陸に伴い343空も鹿屋基地に移動、本土防空と神風特別攻撃隊(神雷部隊)の
直掩を主任務とした。しかし、物量を誇る敵の攻勢の前に応じて第一国分、松山、大村など各基地を移
動、紫電改戦闘機隊の精鋭たちにも最期の時が訪れていた。
仰いだ夕焼け南の空に 未だ帰らぬ一番機
昭和20年
4月21日
戦闘407「天誅隊」 隊長 林 喜重(兵69)戦死
鹿児島県折口浜上空の空戦にてB−29を迎撃
自らも被弾し阿久根海岸に墜落
昭和20年
7月25日
戦闘701「維新隊」 隊長 鴛渕 孝(兵68)戦死
米艦上機群との交戦でエンジンに被弾し戦線を離脱、
途中まで僚機が寄り添っていたが行方不明
昭和20年
8月1日
戦闘301「新撰組」 隊長 菅野 直(兵70)戦死
屋久島上空でB−24を迎撃中に機銃が爆発、
その後も戦闘指揮を継続したが行方不明
称念寺
宮城県角田市
「新撰組」 隊長 菅野 直大尉 墓碑
故林 喜重少佐戦死の地
鹿児島県阿久根市
故林少佐戦死の地/「天誅隊」 隊長 林 喜重大尉慰霊碑
碑文
松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか あの雲の彼方に散っていった戦友のことを
心あるにら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような 美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか と
故石塚光夫中尉戦死の地
熊本県玉名郡三加和町
殉空の碑
碑文
桜葉よ しんしんと日暮がむしばむ桜葉よ
お前は覚えているか 夕焼の南の空に消えて再び還らぬ戦友を
青葉若葉が そして桜の花が 野山にかげろうとき
あの声がきこえたに違いない
石塚中尉は、戦闘407の搭乗員として特攻機掩護のため大村基地を発進、三加和町上空で米機の大編隊
と空戦のすえ壮烈な戦死を遂ぐ。時に昭和20年 8月 8日。
南レク御荘公園 紫電改保存館
愛媛県南宇和郡御荘町
紫電改(紫電21型)
来歴
昭和53年11月、南宇和郡城辺町久良湾の通称「長崎鼻」沖約40mの海底で、潜水中のダイバーが
原型のまま沈んでいる紫電改一機を発見した。昭和54年7月14日、愛媛県により34年ぶりに引き揚
げられ、永久保存を目的として南レク山頂公園に紫電改保存館が建設された。
久良湾から引き揚げられる紫電改(紫電改保存館 頒布写真より)
同機は三四三航空隊に所属、昭和20年7月24日に大村基地を飛び立ち豊後水道上空で米軍機と交
戦し未帰還となった六機のうちの一機と見られる。 この日、土佐沖に進攻してきた米機動部隊から戦
爆連合約500機が呉・広島方面に来襲、これを迎撃するため鴛淵大尉率いる紫電改21機が大村基
地から発進した。宇和島上空で三倍の敵と交戦し、わずか10分足らずで16機を撃墜したが、しかし紫
電改も六機が未帰還となった。
未帰還の搭乗員
海軍少佐
鴛淵 孝(25歳)海軍中尉
武藤金義(29歳)海軍飛曹長 初島二郎(22歳)
海軍飛曹長 米田伸也(21歳)
海軍上飛曹 溝口憲心(21歳)
海軍上飛曹 今井進二(20歳)
紫電改の碑 三四三空搭乗員 献木「陽光桜」
2004/01/25