ついにその日が来てしまった。日米をまたにかけ、独特のトルネード(竜巻)投法で野球ファンを魅了し続けた野茂英雄投手が現役引退を表明した。
アマチュア時代、1988年ソウル五輪(公開競技)で日本を銀メダルに導いた右腕は、日本のプロ野球で78勝、大リーグでは123勝を積み重ねてきた。その栄光の足跡は記録以上に人々の心に強烈に焼き付いている。
とりわけ大リーグ挑戦の道を切り開いた功績は大きい。日本人大リーガーは村上雅則さん以来2人目だが、日本国内での退路を断っての挑戦は、パイオニアの名にふさわしい。
当時、大リーグは労使交渉が難航、前年秋からの長期ストで深刻な「野球離れ」に見舞われていた。そこに出現した日本人投手がこれまで見たこともないダイナミックな投球フォームから速球と落差の大きいフォークボールを武器に真っ向勝負を挑み、快刀乱麻の大活躍。野球ファンを再び球場に呼び戻した。
野茂投手の1年目の年俸は当時の大リーグ最低保障額で、日本円にして1000万円ほど。近鉄時代の推定年俸1億4000万円の10分の1にも満たない金額だった。「100万ドルの高給を投げ捨てての挑戦」が本場米国の野球ファンの心も打った。
野茂投手以降、日本人選手の大リーグ挑戦が相次いだ。イチロー選手や松坂大輔投手ら日本球界を代表する選手が海を渡った。日米間の選手移籍を巡る制度が整備されたためだ。これらは直接的な「野茂効果」と呼んでいい。だが、日本のプロ野球に与えた影響は、実は選手の移籍だけにとどまらない。
近鉄時代、テレビで野茂投手を見る機会はほとんどなかった人たちが、大リーグ中継で野茂投手の投球に接し、その魅力にとりつかれた。多くの人が巨人戦偏重のテレビの弊害に気づいたことだろう。巨人偏重では見えなかった「スター発掘」が野球ファンの新たな楽しみとなった。これは間接的な「野茂効果」だ。
「野茂効果」はプロ球界だけにとどまらない。「社会人野球で育てられた」と自任する野茂投手は、米国の独立リーグの球団を保有した経験を踏まえ、社会人野球のクラブチーム「NOMOベースボールクラブ」を設立、アマチュア野球選手の支援に道を開いた。
企業チームの減少が続き、高校、大学を卒業後、野球の経験を生かす場が狭まっている若者に「夢をあきらめるな」と活躍の舞台を用意した。すでにNOMOクラブからプロの夢を実現した選手も誕生した。
引退声明で野茂投手は、まだ野球人生に「悔いが残っている」と正直に語った。野茂投手に続く若者たちのため、「選手の目線」で今後も日米の球界発展に力を発揮してもらいたい。
毎日新聞 2008年7月20日 東京朝刊