米大リーグ五年目の開幕直前に解雇され、マイナーリーグへの降格も味わった野茂英雄投手(三〇)が九日(日本時間十日)、新天地のミルウォーキー・ブルワーズで今季初めて登板し、通算50勝目で自らのメジャー復帰を飾った。くしくも一九九五年の大リーグデビューと同じサンフランシスコでのジャイアンツ戦で、「不死鳥」を印象づけた。
「メジャーのマウンドは心地よかった」
カリフォルニアの陽光が、野茂の影を、マウンドの土と内野の芝生に描き出した。敵地スリーコム・パーク。近鉄時代と同じ「11」を背負い、独特のトルネードが躍った。
観客席からは意地の悪いブーイングが浴びせられた。が、三振を奪えば盛んな拍手もわき上がる。「メジャーでまた投げられる幸せを感じました」
立ち上がりは高めのボールが多かった。二回、1点を奪われた。時折、大きく息をつき、下唇をかむ。かつて「ドクターK」の異名を取った迫力はない。
それでも、次第に好調時の制球を取り戻した。得意のフォークが低めに決まり出し、結局、6個の三振を奪った。「50勝目? 知ってはいたけど、考えていなかった。チームも勝ったし、きょうはいい日だった。それで十分です」。日本人投手の二位は伊良部秀輝(ニューヨーク・ヤンキース)の19勝だ。
長い一カ月半だった。三月下旬にニューヨーク・メッツを解雇される。メジャー復帰がかなうかどうかわからない状態が続いた。
「でも、自分の調子が悪かったわけではない。実力とは違う別の(契約)問題。仕方ないと考えれば、つらくはなかった」
マイナー契約したシカゴ・カブスでは、三度テスト登板した。悪天候の中で投げることもあった。「大リーグにいけば、よくあること」と自分を納得させた。
四月二十九日、大リーグ昇格を前提にブルワーズと契約した。「メジャーで通じる自信は、いつもありました」。年俸は大幅ダウンして二十五万ドル(約三千万円)。大リーガー最低年俸を五万ドル上回るに過ぎない。
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九五年五月二日。野茂は、当時キャンドルスティックパークと呼ばれていたスリーコム・パークで、大リーグにデビューしている。
ロサンゼルス・ドジャースのユニホームで、五回までを1安打、無失点。初白星こそお預けだったが、毎回の7三振を奪った。トルネードは、前年八月から約八カ月続いたストライキで人気が落ちた大リーグの救世主に駆け上がっていった。
だが、大リーグは昨年、マーク・マグワイア(カージナルス)、サミー・ソーサ(カブス)の本塁打争いで一気にファンの関心を取り戻した。海外出身選手も増え、野茂はもう、特別の存在ではなくなった。
「(デビューの)あの日も、きょうのような天候だったし、マウンドで思い出しました」。野茂はそう言ってから、続けた。「でも、あのころの何も知らない自分ではない。落ち着いて投げられました」
「経験」という強みは、ある。一方で、八月には三十一歳。「限界説」がささやかれているのも事実だ。原点ともいえる地で、新たな道のりが始まった。(サンフランシスコ〈米カリフォルニア州〉=樋口太)
●野茂の大リーグ成績
年 所属 試合 勝 敗 奪三振
1995 ドジャース 28 13 6 236
96 ドジャース 33 16 11 234
97 ドジャース 33 14 12 233
98 ドジャース 12 2 7 73
〃 メッツ 17 4 5 94
99 ブルワーズ 1 1 0 6
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通算 124 50 41 876