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紫電改

紫電改は、零戦の後継機として烈風が間に合わず、昭和20年1月に紫電二一型(N1K2J)として制式採用となった。本土防衛と制空権確保の為、四国は、松山基地に搭乗員を国内、世界各地より呼び寄せ熟練パイロットの補強と整備、補給体制と世界最強の「343航空隊」が昭和19年12月25日に、誕生した。(中でも、戦闘301飛行隊の管野 直大尉の話は「最後の撃墜王」に紹介されている。)同年3月19日の呉空襲の際、紫電改54機、紫電8機、彩雲4機により合計52機を撃墜し、一矢を報いた話は有名である。終戦間近ということもあり、総生産数は、約400機で現在飛行できる紫電や紫電改は一機もこの世に、存在しない。復元機として、国内の愛媛県は南レク御荘公園にひっそりと保存されている。2000年8月、念願叶い紫電改に会いに行って来ました。

思いを馳せて、何とか飛ぶ紫電改を見てみたいと思い、ラジコン飛行機ですが自作をしています。
製作レポートをしています。興味のある方は、「ラジコン飛行機」を覗いて下さい。

紫電改 (昭和20年7月24日に大村基地を飛び立った未帰還機のうちの6機)
          
昭和54年7月24日南宇和郡の沖合いより、引き揚げ