昭和18年
この頃、小さな地方都市の旧制中学4年生でしたが、勉強の傍ら毎日が陸軍配属将校による厳しい軍事教練
と、農作業や過酷な一本木原の開墾作業に従事しておりました。
(写真は盛岡市、岩山中腹の開墾作業、大根畑にした)
成績優秀で健康な学友は陸軍士官学校、甲種予科練、通信、戦車等々軍隊の学校に行きました。
昭和17〜18年頃 憧れの少年飛行兵−−青春の全てを懸けた少年時代
この頃、初級グライダー訓練や戦車隊に経験入隊等々等々に明け暮れした。
壮行式の一部
同友を軍隊の学校に送る
当時の盛岡駅(昭和18年) 親友を甲種予科練に送る
昭和18年10月21日(1943年) 学徒出陣式(神宮外苑陸上競技場)
(読売新聞より)
昭和19年
毎日が勤労奉仕に明け暮れした。
3月〜4月 農村の暗渠排水工事作業
5月 岩手県、後藤野飛行場 滑走路建設作業
6月 農村食料増産作業・馬事訓練(馬の扱いや乗馬)
太平洋戦争末期、昭和19年(1944年)夏、日本国内の地方都市は、表向き平穏で静かな佇まいであったが町並みは人通りも少なく若者の姿は見あたらなかった。「撃ちてし止まん」「勝つまでは」戦争のため全てが失われ果て、多くの若者は軍隊や工場へと徴用
そして動員され、故郷を後にした。
当時の世相(1944年7月〜8月)
昭和19/07/01 福島県飯坂温泉で大火があり、181戸が焼失する。死者はなし。
昭和19/07/04 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
昭和19/07/07 サイパン島の日本軍守備隊3万人が玉砕する。一般住民の死者も1万人。
昭和19/07/21 米軍がグアム島に上陸する。
昭和19/08/05 藤原工業大学が解散し、慶應義塾大学に工学部を設置して移る。
昭和19/08/10 アメリカ軍がサイパン、テニアンをB29、B24の基地として使用を開始する。
昭和19/08/14 京成電車に初の女性運転士が登場する。
昭和19/08/15 連合国軍が、フランスのカンヌとトゥーロン間に上陸する。
昭和19/08/15 神奈川県日吉地区に大型規模の設営隊が誕生し、連合艦隊司令部の緊急地下施設(日吉地下壕)の建設が始まる。
昭和19/08/19 御前会議で、欧州情勢に拘らず戦争完遂を決定すると同時に政治決着も考慮する。
昭和19/08/22 沖縄から九州へ向かった疎開船「対馬丸」が、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、学童700人を含む1500人が死亡する。
昭和19/08/23 朝鮮で、女子挺身隊勤務令が公布される。
昭和19/08/24 パリの市民が反ドイツの武装蜂起する。
昭和19/08/25 連合軍がパリに入城する。
昭和19/08/31 ルーマニア軍とソ連軍がブカレストに入城し、ドイツ軍を一掃する。
ああ 紅の血は燃える 「 花も蕾の若桜 五尺の命ひっさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ ああ 紅<くれないの血は燃える 」 (学徒勤労動員の歌)
学校工場で働く女学生
(読売新聞より)
校舎は軍需生産工場となり落下傘や軍服、更に航空機部品生産工場に発展した。防空スタイルの女子学生。
当時の世相をご覧下さい。クリック
出動校(男子中学校) 県立盛岡中学 県立盛岡商業 県立盛岡工業 県立福岡中学(現二戸市) 岩手中学 岩手商業
歓呼の声で送った同友や兄弟、親、今度は送られる立場になりました。
駅頭で下級生や学校に残る者、親や親戚、そして女子生徒の盛大な見送りを受け、餞別まで貰い特別臨時列車は憧れも希望もなく粛々と上野に向かいました。どうしてこれ程に出征兵士を送るような大騒ぎをして出発したか、理由は後ほど解明しますが、兎に角決死の覚悟で二度と故郷に戻らない気持ちを持っておりました。京浜地区は国内の最前線です。時に12時3分勇躍盛岡駅を出発女子生徒も乗ってた記憶があります。
相模陸軍造兵廠に動員された学徒は下記の通り
岩手県関係
盛岡商業・盛岡工業・岩手高女・釜石高女挺身隊・
他府県の学校
甲府中学・平塚工業・新発田工業等々
東北の片田舎から出てきて、国内最大の軍需工場で一万人規模の広大な工場に驚くだけでした。
完備された最も近代的な造兵廠付属病院(現一部が相模更正病院)もあり新しい施設であったと思います。
私たちは徴用学徒と云われ最初はハンマーとタガネによる徹底した精神教育で、手を真っ赤な血に染まりました。工場の機械を修理する工場に配属されましたが、工場内を勝手に歩く事も出来なく詳しい事は不明です。
この工作工場は6工場ありその4区の工場で働く事になりました。機械の大半はアメリカ・ドイツ製の自動工作機械、旋盤・フライス盤で国産は大阪機工等々を使いましたが、5区工場はベルト式の古い機械を使っていました。1区工場は労働の激しい鍛造部門で体の大きい丈夫な人が配属されました。作業時間は午前7時から午後7時まで12時間拘束で、1週間毎に夜勤です。今考えると大変な労働でしたが、民間軍需工場より陸軍の直轄工場だけに食料事情はかなり良かったと云われておりました。
又、工場周囲には個人用の表札のついた蛸壺防空壕が完備され、更に近くには地下何十メートルの待避壕があり空襲警報が発令されますと未完成の6トン牽引車(軽戦車)が何十台と轟音を立てながら入って行きます。工場近接駅は「はしもと駅」「ふちのべ駅」「さがみはら駅」等三つの駅に跨る敷地でしたが宿舎の関係で「ふちのべ駅」を利用しました。宿舎は若輩田舎者から見ると我慢出来る環境でしたが、最後まで空腹との戦いでした。
1・日課 6時起床・6時15分点呼・6時30分掃除・6時45分朝食・7時10分寮出発・7時30分作業開始〜19時30分作業終了
2・作業 特攻兵器マルに「自爆艇」「風船爆弾」昼夜勤1週間交代
3・食事 空腹との戦い
4・学習 布団の中で英語を勉強してた人もいた
5・休日 外出解除は2ヶ月後・記憶は科学館や博物館、天文館等々
6・危険 伝染病予防対策の完璧
艦載機グラマンの機銃掃射1回のみ(蛸壺防空壕)
アッツ島玉砕からサイパン島の玉砕、アメリカ軍の慶良間列島上陸と敗戦が濃厚になり、東京空襲も間もなく始まります。
空の要塞B29の首都圏空襲の進入コースは富士山を目標に必ず相模原上空を通過するようでした。又、この上空はテスト飛行のコースのようでもあり、物凄いスピードの飛行機も飛んでおりジェット機の噂もありました。
日本最初ロケット機 「秋水」 B29邀撃用 世界最高の海軍戦闘機「紫電改」
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初秋の空に約1万メートルの高々度のB29の偵察飛行から始まり、何百機の大空襲で東京が壊滅状態になるまで約6ヶ月間、毎日のように秋空から冬にかけてB29の飛行機雲を見ておりました。
昭和19年11月東京初空襲と記憶してますが、不思議にも相模原は大空襲に会いません。然し神奈川県下、川崎方面に配属された勤労学徒のなかに多数の犠牲者が出ました。防空壕に直接被弾したそうです。平穏な故郷を後に動員された勤労学徒の悲惨さはあまり語られてないのが残念です。資料も少なく期間も短かった事もあると思います。
警戒警報、空襲警報が発令されても作業は継続し飛行機が上空に来て初めて「待避」そして自分の蛸壺防空壕に入ります。物資も極端に不足し材料も無くなり作業も中断するようになりましたが、機械から離れる事は出来ません。工員の80%は少年少女養成工と女子挺身隊そして動員学徒、6トン牽引車(軽戦車)のテスト運転も学徒がやりました。その他、風船爆弾を造っている女子挺身隊の人達や陸軍兵器学校の生徒もおりました。
(この何百台かの軽戦車ネーム「相造」、牽引車は戦後日本初のブルトーザとして大活躍した)
過酷な労働に体調を崩す者も沢山出て来ました。主に下痢症状です。腹痛と下痢はあたりまえの症状で熱が出なければ病院に行く事も出来ません。ある日、突然「熱」が出て病院に行く許可を得ました。併設してる付属病院です。病名は忘れましたがこの病院の近代的な設備内容と美人揃いの親切な若い看護婦さんのブルーの服装が目に焼き付いております。このような立派な病院は初めて見て驚きました。
一方では空腹に耐え忍びながら、昼食時間になると吾先に食堂に走り丼りご飯の一番盛りつけの多い場所を選びます。このご飯は五目飯と云い米が30%位で雑穀が大半でした。伝染病予防のためか外部からの食料持ち込みは絶対禁止です。守衛所の監視管理が厳しく身体は勿論のこと持ち込み荷物も全て検査され食料品があれば没収されます。
ささやかな青春
暮れの頃、休暇を貰い一時帰郷しますと様子を聞きに色々な人が来ます。同じ工場に行ってる女学校の同級生が来て、問題の食糧と手紙数通を工場の女子寮に届けて貰いたいと依頼がありました。この時代に男子が女子寮に行く事は絶対禁止で食料持ち込みも不可能なのですが、知恵をつけてくれる人がおりました。先ず問題の守衛の軍属(下士官待遇)にお土産(食料)を持って行き、女学校の女の先生(士官待遇)を呼び出して貰い先生と同行する方法でした。これが大成功し女子寮舎監室で先生や女子生徒に大変喜ばれました。最初で最後の女子寮の訪問でした。
昭和20年1月、空襲が激しくなる前、初めての東京見物に一人で出掛けました。行き先は有楽町のプラレタリュームと上野の博物館と美術館で、2度程空襲警報が発令されましたが無事見学出来ました。日曜日は休日ですが夜勤の休み明けになりますので午前中は寝てる人が多いのです。この東京見物は中心地の焼の原になる前の東京最後の姿と貴重な印象と思っております。銀座通りから神田方面も歩きましたが、人通りも少なく建物疎開、特に学童疎開も完了した時期と思います。いよいよ空襲も激しくなり3月10日の大空襲は相模原から真っ赤に燃えてる東京の空を見ておりました。
昭和20年
昭和20年3月9日深夜 無差別絨毯爆撃された東京の下町と空の要塞「B29」
日曜日のある日、相模原近郊の農家の奥さん方と思いますが、煎餅布団の修理に来ました。布団の綿らしき物が一方に片寄り布団にならないので、煎餅のように修復する作業でしたが、この方々から乾燥芋(ほしいも)を貰い手作りの食事をご馳走なった事も思い出の一つです。
昭和20年3月 本来ならば卒業式で勤労動員も終了なのですが、青空の下で野外卒業式です。卒業証書は貰いましたが勤労動員は継続となり、そのまま就職と云う事です。進学する者も沢山おりましたが、文科系大学・専門校合格者は入学延期でこのまま工場に残る事になりました。
元々昭和18年文科系学生の徴兵延期も廃止となり大学生・専門校生も出陣、所謂 「学徒出陣」です。
一般の徴兵年齢も1年繰り下がりになりました。徴兵まではこの工場に残らなければなりません。空襲で倒れることを覚悟で諦めておりました。
この厳しい牢獄のような工場から抜け出すには病気になるか、軍隊の学校に入るか、医学部・工学部・農学部の学校に入る方法もありましたが、この時代どう変わるか誰も期待や希望を持つ人はおりません。外地就職も優先されましたが、誰も8月の終戦は想像出来ない時代です。
昭和20年3月 幸いにも農学部に合格し、入学式の通知を先生から聞いたとき、更に証明書を持って「淵野辺駅」から盛岡迄の切符を購入した事は朧気に覚えてる程度です。
現地で青空合同卒業式に出席し記憶は定かではありませんが、相模陸軍造兵廠長、原 乙松陸軍中将からの表彰状と、報奨金が郵便貯金で壱百数十円を貰った記憶があります。
さて、朝お握り2個を貰いリュックを背負い相模陸軍造兵廠の寮を後にしました。
省線(JR)から見た首都東京は一面焼ヶ野原で、上野から漸く列車に乗る事が出来ました。列車の混雑は想像を絶する超満員です。
*********昭和20年3月卒業の実態(当時の資料から)**********
当時は卒業後の勝手な就職は出来なく動員計画に縛られ、割り当ての内容は次の通り。
総員110名 故郷県内に就職出来る者 15名 代用教員割り当て
16名
上級校進学 10%以内 16名
差し引き63名は@外地就職 A軍隊志願 B動員工場に残る 何れかの選択
因みに進学者は小樽高商・弘前高校・盛岡高農・岩手医専・岩手師範・岩手青年師範・仙台工高・福島高商・茨城滑空専・早大・慶大・美校・東洋大・大倉高商・その他官立講習所を含め進学。途中軍隊学校24名 総計140名
就職先は国内を除き 満州国官吏・朝鮮銀行・満州国際運輸・満州製鉄・満州瓦斯・その他
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| 45年3月閣議は決戦教育措置要綱を決定する。ここではさすがに教育の「一環としての」語ではなく、米軍の沖縄上陸が切迫しているという緊迫した事態に即応するため、学徒をして防衛の「一翼」、生産の「中核」を担わせることが決定されている。 |
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