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第三四三海軍航空隊・戦闘七〇一飛行隊長

鴛淵 孝大尉


鴛淵 孝大尉

鴛淵 孝大尉



経 歴
鴛淵 孝
1919(大正8)年10月22日生
長崎県長崎市東上町出身
海軍少佐
従六位勲五等功四級
戦闘機搭乗員
旧制長崎中學出身
1940(昭和15)年8月7日海軍兵学校(68期)卒
1942(昭和17)年8月台南空に配属
 11月 内地帰還
1943(昭和18)年5月ラバウルに進出
第343航空隊戦闘701飛行隊「維新隊」隊長
1945(昭和20)年7月24日 
豊後水道上空の空戦で未帰還
1945(昭和20)年7月24日没 


燃える闘魂愛機に乗せて

  吾は征かなん 決戦の大空へ

       熱き血潮の 赴くままに

          若い身空を 吾は捧げん


         献詩・管理人           


嗚呼 吾 何処の空に散り果てしか

  はたまた海に 散華しか

    祖国よさらば 吾は征く 生還は期さず          



         献詩・管理人           


















紫電改21型

紫電『二一型』改






第三四三航空隊・戦闘七〇一飛行隊長 鴛淵 孝大尉は性格温厚で、紅顔可憐な好青年であったという。しかし、いざ戦いとなれば闘志むき出しで、常に先頭に立って戦った人であったという。昭和二十年七月二十四日、 未曾有の敵を迎え撃ち未帰還となる。








鴛淵 孝の故郷


 第三四三航空隊の戦闘七〇一飛行隊長鴛淵 孝大尉の生まれ育った故郷は、 九州長崎県の北松浦郡小値賀町という町で、五島列島の北よりの西に面した東シナ海の 小ぢんまりした、海にかこまれた閑静なたずまいの町である。 今から千四百年ほど前の、遣唐使船時代に便船が寄航したので古くから知られた町であったようである。 そのため唐岬(からみさき)という名が残っている。

 九州では歴史的に古くから知られた町で、鴛淵 孝は 大正八年十月二二日、第一次世界大戦中とはいえ、遠いヨーロッパでの出来事であり、日本も参戦はしたがヨーロッパまで 遠征したわけでもなく、国民生活にはそれ程の影響はなかった。せいぜい中国の青島(チンタオ)でドイツと交戦した程度で戦勝国になった、 世もおだやかな大正ロマンの時代に生誕した。だが大東亜戦争で犠牲になった人々は この時代の人がもっとも多いのも現実なのである。

 さて孝の家、鴛淵家は代々平戸藩の藩士の家柄で、孝の父は医師を志、開校したばかりの第五高等学校付属長崎医学専門学校(現長崎医大) に入学した。そして卒業するかしないかのうちに日清戦争が勃発し、軍医として従軍した。 そして更に日露戦争にも出征したのであった。戦争が終わると長崎県庁に身を置き、その後、孝が生まれた大正八年には県警察部衛生課長の 要職にあった。そのため、鴛淵 孝の本籍は小値賀町ではなく、長崎市東上町で出生している。

 鴛淵は六人兄弟の四番目の子であるが、長女のけい子(大正二年六月生まれ)が嫁ぎ先で結核に倒れ亡くなり、  その翌年には次男政雄が慶応大学法科二年在学中に同じく結核で亡くなり、鴛淵が海軍兵学校三号生徒の時には (海軍兵学校では数が多いほど下級生である。一号から四号生徒までの学年があり、三号生徒とは二年生ということである。) 四人兄弟になっていた。今でこそ結核は治る病であるが、この当時は不治の病といわれていた。

  父は藩校の出だけに厳しい人だったようである。孝は中学校時代は恐れ多くて父と直接言葉を交わしたことがなかったという。 ほとんど交わすのは『行ってらっしゃい』『お帰りなさい』程度の言葉しか交わさなかったという。 後は一切敬遠したという。偉い親父ではあったが親しみのある親父ではなかったと孝は回想する。

 孝の母とよは明るい性格の人で、女性としての思い切りの良さを持っていたようで、長男には父親のあとを継がせ たいので医師をすすめたが、次男以下は何をしようが好きにさせたという心の広い人であったようである。 だが、その代わり自分で生活を切り開いて行きなさいといった。後に孝が海兵に行くのも、茂るが満州医学大学に に行くのも止めはしなかったという。このころから孝の自立心が付いたのではないかと思われる。





戦闘七〇一飛行隊


三四三空・戦闘七〇一飛行隊「維新組」






鴛淵 孝の優しさ思いやり






 下宿していた頃、兄弟の小遣いはそれぞれ一円から二円であったが、ある日、兄の孝からもらったのだが、 茂がそのもらった五十銭銀貨をどこかに置き忘れてなくしたことがあったのだが、茂るが恐る恐る言うと、兄孝はしかりもせず、 もう無くすなよと、いってもう一度くれた。そのぶん孝は、自分の小遣いをけずった。それほど兄弟思い出あり、家族思いであったという。

 そして孝の寛大さは兄弟や家族だけではなかったのであう。そうした寛大さは三四三空時代、鴛淵隊の分隊長であった山田良市大尉が 、鴛淵隊長のお気に入りの愛機を『紫電改(二一型)C一四号を壊したことがあったが、飛んでいるうちに 燃料が機ないに漏れて意識もうろうとなったため、脚ロック不良のランプが点灯しているのに気が付かず着陸したため、 C一四号は、調子の良い鴛淵がたいそう気に入っていた飛行機だったから、流石に鴛淵も機嫌が悪かった。 しかし、格別叱責もしなかったし、腹を立てて殴ることも無かったという。

 鴛淵 孝は優しい性格で又「寛容で、人を責めるより、それをホローしてやろうとする性格が強かったようで」誰にも人気があったようである。 海軍兵学校には、赤いレンガにゃ鬼が住むよ♪〜という巡航節という歌があるが、下級生それほどに「鉄拳制裁」を恐れていたが、 などは鴛物 孝は一切行わなかったという。逆に我が身をもって、模範を示したという。そうすると自然に後輩も自然に従うように なって来たという。これが鴛淵 孝のやりかたであったようである。これも幼いときに母から身付いたものであろいう。

 茂るがある時、同級生と喧嘩してきたことがあったようだが、茂るはきずかなかったが、孝はそれを見ていたらしく、 帰ってから「今日の喧嘩は気にくわん。やるならもっと思い切りやってしまえ」と孝がいった。 たがいに口で言い合いながら小突き程度でやっていたのを、もっとパッとやってさっぱりしろと諭したのであった。 優しさの影にはこのように芯の強いところも持ち合わせた孝であった。

 孝はきても勉強ができたようで、だがガリ勉タイプではなかったようである。 心身ともに持ち合わせた才能で、スポーツも旨く、野球、バスケットボールはもとより、小学校時代は 乗馬クラブにも所属して馬に親しみ、中学時代にはボート部も極めていたスポーツマンであったようである。 だがこのくらいのスポーツ神経が無かったらパイロットになるのは厳しいのだそうである。心技体全て揃ってこそ 立派な搭乗員となれたのであろう。

 小学校から三年間で分かれるまで孝とずっと一緒だった桜井泰男氏(現・新神戸電機株式会社社長) は、親友鴛淵 孝の思い出を次のようにかたっている。「小学校時代はずっと同期であったが、彼が級長になったことは無いという。 中学は一年が四組あって学年ごとに編成があったが成績順に各組に割り振るので、彼と同じ組にはならなかったが、 しかし、彼が副級長であったことは今でも忘れず憶えているという。  彼はコツコツやるというより一時的に激しくという努力家でなかったかと桜井泰男氏は回想する。

 孝は長崎中学時代後半の四年、五年生のときにはトップの成績で卒業まで主席を通したというほどの頑張り屋である。  海軍兵学校入試のときにも孝のラストスパートの追い込みは凄かったようで、中学時代は成績は良かったが、海軍兵学校といえば 全国から優秀な生徒が集まってくる所である、当時は帝大(現 東京大学)か海軍兵学校かといわれたところである、 半端な成績ではそう簡単に合格できるところではなかった。その為、合格もぎりぎりの線で合格したようである。 性格は優しく誰にでも好かれ、おっとりとした性格であったようであるが、いざという時は実力をフルに引き出したといわれる。







海軍兵学校時代




 昭和十二年三月、鴛淵に一通の手紙が届く。それは待ちに待った海軍兵学校からの入学通知であった。 同年三月三十日午前六時までに呉の江田島、川添倶楽部に到着する旨の指示が同封されていたのである。 いよいいよ念願の海軍兵学校入学であると共に、四号生徒となるのであるが、これからが士官としての 始まりであり、あの鼻廻れば生徒館が見えるよ〜♪赤いレンガにゃよ〜♪鬼が棲むよ〜♪と、歌われたという地獄の特訓と、帝国海軍軍人としての基礎を 叩きこまれる門出を、昭和十二年四月、桜の花咲く頃、海軍兵学校への入学を(六十八期)迎えるたのである。

 入学を迎えてまず行われるのが入学式であるが、これが終わらなければ制式に兵学校生徒ではあっても 娑婆(シャバ)気を抜くためにも、身に着ける物の一〜十まで叩きこまれるのである。 まずは大浴場へ放りこまれて体の隅々まで洗へと、担当の伍長に発破を掛けられ全員指示に従い入浴をすませて出るのだが、 それからが大変で、下着の越中ふんどしの付け方から、それが終わったら純白のワイシャツをつけさせられ、次に紺の ズボンをはき、上着はジャケットと呼ばれる短い腰までの短い上着をつけて、最後に剣帯という短剣を吊るバンドをつけて短剣をぶら下げれば、 海軍兵学校の生徒らしく身もしきしまるのである。これが生徒の第一種軍装となる。そして今までつけていた身の回りのものは 荷札をつけて全て故郷へ送られて、いよいよ娑婆っ気もここまでで、卒業まで全て兵学校の用意した物ですごすのである。

 そして最下級生である四号生徒は、上級生である一号、二号、三号生徒に親切に手ほどきをうけるのである。が、それもつかの間 である。それからは地獄の訓練が始まるのである。箸の上げ下げ階段の上り方から、声の出し方に発音までも教え込まれるのである。 地方出身者はこの発音には泣かされたそうである。後に鴛淵 孝と第三四三航空隊「剣部隊」で一緒に戦うこととなる菅野 直大尉(七十期) も、この自己紹介の時には暴れん坊でエースとして名をはせた彼ですら、東北訛(なま)りに何度もやり直しをさせられてしごかれたようである。

 兵学校における分隊内の各学年をたとえて「鬼の一号、むっつり二号、おふくろ三号、がき四号」といっていたように、一号と四号の関係は旧 制高校の寮の先輩後輩とは比較にならなほどのいきびしいものであったようで、一号は絶対的な権威をもって「がき」である四号をしごき、鍛えたようである。 それに耐えて三号、二号、一号、と上級してゆくのであるが、一号生徒になるまでは忍の一時で耐え忍んだいう。このしごきが江田島健児の心意気を 支えたのであろう。この兵学校へ入る能力があれば一般の大学ならほとんどの所に合格できるほどであったというのだから、生徒一人一人入学するだけでも 凄い連中であったのである。

 鴛淵 が入学した時、三号生徒で(六十七期)にラバウルの台南航空隊で、坂井三郎や西澤広義らとともに戦い、台南航空隊の名を世に知らしめた 笹井醇一がいた。鴛淵 孝も後に笹井中尉が戦死する直前にラバウルに進出している。台南空、後に二五一空と名を改めた名門航空隊へ配属になり、ラバウルで 戦う事となるのだが、しかしそれも数年の後の話で、可のラバウルのリヒトホーフェンもまだ十九歳の少年であった。







ラバウルで笹井中尉との再会




 鴛淵 孝は海軍兵学校での厳しい教育と鉄拳制裁の荒波にもまれて、たくましく成長して行き、三号、二号、最上級生の一号となり、 鴛淵の在籍した(六十八期)(一九四〇)昭和十五年八月七日、三年四ヵ月の江田島海軍兵学校をロングサイン(蛍の光)に送られて卒業する。 そして江田島の沖に停泊する練習艦(香取)(鹿島)は六十八期生を乗せ練習艦隊遠洋航海に一ヵ月余りの航海の後、連合艦隊配乗の各艦に配備され て訓練を受けた後、各自が選考する部署へと転勤となるのだが、鴛淵 孝は戦闘機選攻学生として、大分航空隊へと教育のため転勤となるのであった。  十七年六月、大分空の教程を終了した鴛淵はその後、海軍横須賀航空隊で零戦のテストパイロットをした後、同年八月十五日、ニューブリテン島ラバウル基地へ と進出することになる。

鴛淵は、火山の噴煙を噴き上げる、ラバウルのラクナイ(東飛行場)と呼ばれる、各隊の寄り合い所帯であった通称ラバウル航空隊 「実際にラバウル航空隊というものは存在しなかった」へ着任した。ラバウルにはこの他に、ブナカナウ(西飛行場)陸攻隊の基地、、ココポ(南飛行場)、 ケラバット(北飛行場)、トベラ飛行場などが点在していた。これらを総じてラバウル航空隊と呼ばれていたようである。

 このラバウル東飛行場へ着いた時に迎えてくれたのが、海軍兵学校でお世話になった一期上級生の(六十七期)に在籍していた笹井醇一中尉であった。 鴛淵もまさかここで笹井中尉と共になるとは思っても見なかった事であろう。笹井中尉は懐かしそうに迎えてくれたそうである。そして鴛淵ここラバウルで 笹井中尉の最期を看取るとは夢にもこの時は思っても見なかっただろう。もうこの時点で笹井中尉は多数撃墜を記録していてエースパイロットとなっていたのである。

 そして笹井醇一中尉は、台南航空隊の分隊長となっていたのである。鴛淵中尉はその下で分隊士を務めることとなるのであった。 この時の台南空の司令は斉藤正久大佐、副長は、斜め銃と、終戦後厚木基地で徹底抗戦を唱えて抗命罪で投獄された猛将、小園安名中佐、飛行隊長は中島 正少佐であった。 その他、搭乗員では著作、大空のサムライで有名な坂井三郎、西澤広義、大田敏夫、高塚寅一などのベテランパイロットが勢ぞろいしていた。この頃の台南空が一番脂の乗り切っていた頃であろう。 鴛淵 孝少尉は先任搭乗員である坂井三郎上飛曹に敵との交戦時の手ほどきなどを伝授されている。

 光人社・戦話 大空のサムライ"P-291〜292" 坂井三郎 著に、以下のような回想を坂井三郎氏は記している。「笹井中尉の海兵後輩で、後に紫電改の名隊長となられた鴛淵孝中尉か、 延長教育も終わって、在ラバウルの台南空へ、新参パイロットとして着任して来たのは昭和十七年六月のこと でした。冷静にして沈着、豪勇、軍鶏(シャモ)と異名をとった笹井中尉とは対照的に、鴛淵中尉は、烈々たる闘志を内に秘めながらも、 地上においては、いつもにこにことしていて、見るから に愛情あふれる瞳の輝きをもち、そのやさしい目は、歴戦の下士官パイロットたちを、ごく 自然に包み込み、引きつけてはなさない魅力を横溢させていました。

 私も笹井中尉のすすめがあって、この若い分隊士に、いくどか空中戦の手ほどきをしたこ とがあります。鴛淵中尉は、笹井中尉とはひと味ちがった空中戦に対する天性を備えていま した。そして、出撃するごとに技量をそなえ、生来の素質の上に、目の前で活躍している笹 井中尉からうける刺激もあって、かれは、後年の紫電改隊長(三四三空)となってからの大活躍の原動力 を、ラバウルのこの地から見つけ出し、わが身にそなえていったのではないでしょうか。

 私 は先にも述べましたように、ガダルの初日に傷っいて、ラバウルをはなれてしまいましたの で、一期上の笹井中尉が未帰還になった八月二十六日夜の鴛淵中尉の悲嘆については何も知 りませんが、海兵一期先輩として、はたまた青春のすべてを投じたラバウル決戦の師とも、 兄とも仰いだ笹井中尉の死に直面して、彼がいかに悲嘆にくれたか、わが身に照らし合わせても分 かるような気がする。

 しかし、鴛淵中尉は、その大きな悲しみを乗り越えて、その後、ラバウルの苛酷な戦場か ら帰還し、本土上空の決戦に幾多の武勲を残しました。やはり非凡の人というべきであり ましよう。」以上のように鴛淵 孝の素質を坂井三郎氏は見抜いていたようである。このアドバイスが その後の鴛淵 孝中尉には大いに役に立ったものと思われる。

 十七年八月七日、鴛淵 孝少尉はガダルカナル攻撃の初日に初陣の日を迎えた。台南空制空隊の編成は、零戦十八機を二隊に分け、第一中隊長は笹井中尉、 第二中隊長は鴛淵 孝と 同期の大野中尉、鴛淵 孝中尉は笹井中尉の直率する小隊の二番機についた。三番機は後にトップエースとなる天才、西澤上飛曹、第一中隊の第二小隊長は 零戦の名手坂井三郎上飛曹であった。だがこの日の出撃で、坂井三郎上飛曹はこの日の戦闘で瀕死の重傷を負い生死の境をさ迷いつつラバウルへ帰還するのである。その後 地上勤務となっていたが、治療のために本土へ送還となった。 そして十七年八月二十六日、鴛淵 孝は笹井醇一中尉の最期をみとることとなるのでした。

   鴛淵 孝は、その後も同期(六十八期)同期生を何人もソロモン戦で失うこととなったが、台南空のベテラン搭乗員に恵まれ、鍛えられて鴛淵 孝は 順調に経験を積んでいったという。その後、消耗の激しくなった台南空は戦力回復のため、一七年十一月、本土へ引き上げるのであった。 本土期間後、機材と若い搭乗員の補充を行い、ふたたび昭和十八年五月、ラバウルへ、二五一空と名を変えて進出することとなった。 この頃には鴛淵 孝も二五一空の分隊長となっている。そしてベテラン搭乗員がほとんど居なくなった二五一空をささえる立場の士官となり、 その後、二五三空に移動し、さらに二〇三空の戦闘三〇四飛行隊長に昇格し、鴛淵は大尉となってフィリピン・クラーク基地に鴛淵 孝大尉は転戦していた。







菅野 直との出会いと負傷




 フィリピン・クラーク基地に進出した頃、ある士官に訪問を受けることとなった。それは当時フィリピン・マバラカット基地を根拠地にしていた 一九年四月、第三四三海軍航空隊(初代、通称「隼」部隊)分隊長をしていたが、解隊後二〇一空戦闘三〇六飛行隊長となっていた菅野 直大尉であった。 菅野は、鴛淵より二期後輩の海兵七〇期の元気な暴れん坊であった。菅野大尉ももうこの頃には 歴戦の猛者となっており、彼の武勇は知れ渡っていた。菅野の隊がヤップ島でB-24・リベレータ合計六十五機にもおよぶ数を墜て、もうこの方面には現れ なくなっていたというほどの活躍をしていた。この二〇一空とは第一神風特別攻撃隊、敷島隊の関 行男大尉の出撃したとして知られた隊である。

 菅野大尉はこの特攻が行われた時には本土へ帰還中で、帰還後この作戦を知るところととなるのだが、関の所は俺がやるんだったんだがと言い、それ以降 自分の隊は全員落下傘バンドを付けなくなったという。菅野はこの特攻というものには否定的であったようである。その後も自分の隊からはだれも特攻へは 出していない。しかし、自らへの覚悟の証なのか、落下傘をその後はつけることはなかったという。

 一方、鴛淵大尉はこの頃、獅子奮迅(ししふんじん)の活躍をフィリピン・ルソン島でしていた。だがその鴛淵大尉も不死身ではなかったのである。 十九年十一月初頭のレイテ島タクロバン飛行場攻撃のさい地上からの対空砲火で被弾し、周辺の基地に急遽、不時着するにおよんだ。 そして鴛淵大尉は負傷したため戦列を離れることとなる。鴛淵にも部下も残念な負傷であったろう。 病院に収容された鴛淵大尉は戦地の病院では治療も思うにまかせぬ状況のため、内地に送還されるのであった。

 内地での治療の傍ら、この年の暮れには故郷、長崎県五島列島の小値賀に帰郷している。その帰途、五島列島へ渡る船の中で、満州医科大学へ 行っていた弟の茂ると偶然にも会うことになるのだが、これもなにかの巡り合わせであったのか!茂るも満州からの帰郷であった。 この思いがけない兄弟揃っての帰郷に母は驚いたようすだったが、また喜びもでもあった。 こうして久々の家族水入らずの正月を過ごした。鴛淵家にとってこれが最良の、そして最後の家族のだんらんであった。 数日間の平和な日々も過ぎ去り、兄孝は別府へ、弟の茂るは満州へと旅立った。二度と再びこの兄弟は会うことはなかった。







精鋭集う三四三空




 「昭和十九年七月六日のサイパン島玉砕につぎ、八月三日、テニアン島の守備隊も玉砕する におよんで、戦局はついに本土に及ぶ態勢に陥った。その間、私が頽勢挽回のため企画し実 施した施策のすべてが、志と違いズルズルと後退を余儀なくされていった。私はつくづく考 えた。主役の海軍が、海上航空戦で圧倒されているがゆえに今日の敗退があると。 軍令部(第一課)の航空作戦主務参謀としての、またもう一つは海軍戦闘機隊の一員とし ての私に課せられた責任を果たすためにできること、そしてぜひともやらねばならぬことは ただ一つ、何とかして精強無比な戦闘機隊を作り上げて、往時のごとく片端しから敵機を射 ち落とし、敵に脅威となる部隊を持つということ。それができればその部隊の戦闘を突破口 として、怒濤のような敵の進撃を食い止め、頽勢挽回の緒をつかむこともできる。否!や らねばならない(後略)」(碇義朗著 紫電改の六機P-364より)

 戦後、空将・航空幕僚長、参議院議員を勤めた、当時三四三空司令であった源田実大佐は、『三四三空隊誌』の序文の中で、部隊創設の意図を以上のように述べて いるが、それは戦闘機乗りでありながら実施部隊の経験が少なく、ほとんどを幕僚畑ですご してきた当時の源田にとって悲願のようなものだったといえるのではないでしょうか。 実戦部隊の司令ともなれば作戦の範囲内であれば、全て自分の裁量で一個の飛行隊に指示命令を 下し、思う存分条件が許す限り動けるのである。いかに参謀といえども、参謀では作戦の構想しかできないのである。 絶対命令権は持ち合わせないのが参謀なのである。

 この三四三空に鴛淵 孝大尉が赴任したのは、フィリピンでの負傷が癒えた昭和二十年一月八日のことであった。 既に菅野 直大尉らは十九年十二月には後半に赴任していた。そして坂井三郎少尉の指導で「紫電」ついての座学や着陸訓練が行われていた。 坂井少尉の豊富な体験を生かした訓練は定評があったという。 その後、志賀飛行長が二十年一月十四日に着任。そして源田実司令が十九日に着任し、そして二十六日はフィリピンで鴛淵大尉と二二一空で一緒に 戦った、一つ後輩の(海兵六九期)林 喜重大尉率いる戦闘第四〇七飛行隊が出水基地より移動してきた。

 鴛淵、林、菅野の各大尉が着任して三四三空は本土防空の任に就くこととなる。鴛淵大尉が戦闘第七〇一飛行隊長を兼ねた三飛行隊の 指揮官となった。これも鴛淵 孝が海兵六十八期で最年長ということもあったのだろうが、冷静沈着さと責任感が認められたものだった思われる。 そして部下からも心の大きさと人間性が信頼されていた。三四三空に着任してからは、パイロットよりも数時間早い起床して整備を始めるのだが、鴛淵大尉は その整備隊と同じく起床して見守っていたという。菅野大尉などは毎夜の夜遊びが忙しく、それどころではなかったようであるが、また林大尉は 鴛淵大尉に近い性格であったようであるが、林大尉はまたそれなりに彼らしい優しさで部下から信任をされていたようである。 といって菅野大尉が部下から信任を受けていなかった訳ではなかった。菅野は菅野なりのやり方で部下に信任されていたようである。

 三隊長が三者三様の個性で成立していたが、お互いに好き勝手にしていたわけではなかった。お互いが認め合ったチームワークと、 源田司令の人望の厚さから成り立っていた。源田司令は何かと良い面も悪い面も指摘されるが、人のあつかいには長(た)けていたようである。 菅野大尉の派手な遊びにも大きな心で、決して見咎(みとが)める事は無かったという。そんな中で、鴛淵大尉には林大尉も菅野大尉もいちもく おいていたようである。この三隊長率いる(剣部隊)戦闘七○一(維新組)戦闘四○七(天誅組)戦闘三○一(新選組)の三個戦闘飛行隊長は良い意味でうまく潤滑していたようで、まるで三兄弟のようだったと源田実司令は述べている。





激戦の日々




 三四三空での鴛淵、林、菅野の三隊長はそれぞれ個性的であった。そしてその三飛行戦隊を統括して取りまとめていたのが沈着冷静な鴛淵 孝大尉である。 それぞれが切磋琢磨して敵邀撃の任に就いていたのであった。そして寄せ来る米艦載機やB-29を相手に大いに活躍していた。 三四三空に対し、米軍側もまだ日本にこんな飛行部隊があったのかと驚かせるほどの戦績を挙げていた。戦後も米側のパイロット達は、この紫電改・剣部隊の勇敢さを讃えている。   この活躍も、源田実司令と三隊長と、またそれぞれの国内最強ではないかと言われる搭乗員達の、三位一体のチームワークが大いに貢献していたのであった。 もうこの時期は単機での巴戦の時代は過ぎ去り、編隊チームワークで戦う時代になっていた。

 三四三空が四国の松山基地から鹿児島県の鹿屋基地へ、さらに長崎県・大村基地へ移動したころからだが、落としても落としても寄せ来る敵に、櫛(くし)の歯が欠け落ちるように出撃して いった紫電改の未帰還機が増えはじめ、三四三空にも蔭りが見え始めていたのであった。その矢先の二十年四月十五日、戦闘三〇一飛行隊の第二区隊長、杉田庄一上飛曹 ら八機が緊急発進に備えていた。直ぐに発進が下令され、Z旗がスルスルと揚がったので、離陸体制に入ろうと各自愛機に向かったのであるが、時既に遅く、敵は基地上空寸前 の所まで進入してきていたのである。結局この出撃に飛び上がれたのは杉田庄一上飛曹と、宮沢豊美二飛曹が飛び立っていた。しかし、あえなく杉田庄一上飛曹は後方から来た グラマンにあっけなく撃墜されてしまった。同じく飛び立った宮沢豊美二飛曹はその後、直ぐにグラマンの攻撃に遭い撃墜されてしまった。

 四月二十一日、林喜重大尉はこの日、鴛淵大尉直率の第一中隊、第三小隊長として出動した。 そしてB-29十一機の編隊と午前七時に福山上空で遭遇する。 もう既に生死をいとわない林大尉は執拗に暗いついて幾度と無く落ちないB-29に攻撃をかけた。 そして一機のB-29に煙を吹かせて一機を撃墜したが、自機も損傷を負い、鹿児島県・阿具根海岸近くに不時着したが、頭蓋底骨折で戦死し、三隊長の中で最初の犠牲となったのである。







鴛淵大尉の最期




 鴛淵大尉の運命の日、昭和二十年七月二十四日その日はやって来たのである。しばらく出撃をせずに来る決戦に燃料を温存していた 大村基地の剣部隊に出動命令が下ったのであった。敵はハルゼー提督率いる第三十八機動部隊からの大編隊で、それらを迎え撃つため出動であった。 飛行機隊は鴛淵大尉率いる戦闘七〇一を先頭に、四〇七、三〇一の順に大村基地を出撃していった。その数わずか二十一機という寂しさであったという。 鴛淵大尉は初島二郎上飛曹を従えて高度六〇〇〇メートルで、佐多岬上空に達していた。三四三空の「紫電改」の編隊は高度一五〇〇〜 二〇〇〇メートルで豊後水道を南下し、呉れ方向から帰途につく敵戦爆連合約二〇〇機を発見し、ただちに戦闘態勢にはいったのであった。

 三四三空の紫電改部隊の十倍にもおよぶ敵編隊を迎え撃つこととなった。だが、敵のこの二〇〇機も、延べ一七〇〇機にのぼるほんの一部の 艦載機であった。この大編隊へわずか三飛行隊を合わせても二十一機という貧弱な編隊で迎え撃ったのである。 このように数の上では全く劣る状況であった。

   鴛淵隊は十時二十分豊後水道を南下する敵飛行編隊の一つに目標を付け、戦闘七〇一、四〇七の両隊が鴛淵大尉の『直チニ攻撃セヨ』の命令で突入し、 かく編隊は攻撃に移り激戦となったのである。 この時、菅野隊の戦闘三〇一は上空の掩護についていたが、敵の後続編隊が近づいたのを察知し、これらの攻撃にかかったのであった。 この戦闘での鴛淵大尉の戦闘行動は激戦の最中であり、確認される事はほとんど無かったのであるが、アメリカ側のパイロットの証言と『三四三空隊誌』 照らし合わせてみると、推測ではあるがこの時戦った米パイロットは二機の紫電改の編隊と遭遇し、これを追撃して撃墜したが、二機の内の 一機の方が大量に白煙を吐いていたと証言していることからみて、おそらく出撃のさい鴛淵大尉についた初島二郎上飛曹の二機と思われる。

 『三四三空隊誌』の記録によると戦闘七〇一の中村大次郎少尉の文章の中に(鴛淵はエンジンを射たれて白煙を吐いたとある) その結果から見て、鴛淵大尉を撃墜したのはジョージ・M・ウイリアムズ大尉で、初島二郎上飛曹を落としたのはジャック・A・ギブソン大尉 であったと思われる。あくまでも推測の域は出ないのではあるが。白煙を吐いて高度低下して行くのは味方にも目撃されているが、敵の数が多く 乱戦になったと状況下では、誰もその最後を確認できなくてもなんの不思議もないであろう。

 かくしてこの日の戦闘で鴛淵 孝大尉、武藤金義少尉、初島二郎上飛曹、米田伸也上飛曹、溝口憲心一飛曹、今井真一一飛曹の六名が未帰還となったのであった。 鴛淵大尉、武藤金義少尉の逸材を失ったものの、戦果は大きかった。わずか十分足らずの戦闘で、敵機十六機を撃墜している。 この日の戦闘は六月二日の鹿児島湾上空における航空戦に匹敵するものだったと、三四三空司令・源田實大佐は述べている。

還らぬ鴛淵大尉ほか五名の隊員達のこの戦いでの奮戦ぶりを窺わせる戦果をあげたのであった。





(更新/2007/08/30)  涼しい秋を思わせる風の日に記す。   Homepage Owner kanno






参考文献 
光人社・刊・碇 義朗・著・紫電改の六機・若き撃墜王と列機の生涯
文芸文庫・刊・源田實・著・海軍航空隊始末記
光人社・刊・豊田 穣/著・蒼空の器(若き撃墜王の生涯)
光人杜・刊 碇 芳郎・著 ・ 最後の撃墜王・ 紫電改戰闘機隊長・菅野 直の生涯

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