| 初飛行 |
1944年1月1日 |
<備考>
紫電のトラブルを根本から改善するため川西は当機の低翼化、胴体再設計を海軍に申し入れ、これを了承される。そして1943年3月には一号局地戦闘機改として試作発注が行われた。
菊原技師は主脚が長くなる原因となっていた中翼形式から低翼形式への変更、視界を良くする為胴体を細く絞るなどの改良を行った。生産性も考えられ、部品点数も約3分の2まで減らされた。
こうして1944年の正月に初飛行した当機は各試験で極めて良好な成績を残し1945年1月、紫電二一型(通称「紫電改」)として正式採用、重点機種として量産命令が下される。
各地に配備された紫電改は、3月19日に呉を襲撃した米軍艦載機との戦闘で当時の日本軍としては珍しく大戦果を挙げるなど、その高い性能を発揮し、終戦まで本土防空などの任務に就いていた。
本機は当時の日本軍機ではトップレベルの戦闘機であり、米軍からも侮り難い敵であると認識されていた。しかし完成した時期が戦争末期の混乱の最中という事もあり、「誉」エンジンのトラブルや機体の粗製乱造による強度不足などが頻発し、実力を十分に出し切れなかった機体も多かった。
しかし整備の行き届いた紫電・改の実力は相当のものであったらしい。戦後、米軍の高オクタン価の燃料、高品質のプラグなどを使用したテストでは「米軍のどの戦闘機よりも紫電・改は優速であった。」「巡航する紫電・改に監視役のF6Fが全力でも追いつけなかった。」などという話が残っている。また戦争中の日本軍内でも整備の行き届いた紫電・改ならカタログでの最大速度594kmよりももっと速度が出たなどといった話が残されている。これらの話は、当機の優秀性を示すと共に、戦争末期の日本がいかに混乱していたかをも示しているといえるだろう。