これは若き命を散らした人々に捧げる渾身の鎮魂書である
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戦艦「大和」、戦闘機ゼロ戦(正式名称「零式艦上戦闘機 A6M」以下 零戦(レイセン)と略
す)の誕生背景、その他。
第一次大戦の終了時において、各国は、戦艦の増産に務めた。大艦巨砲主義の時代の始
まりである。主砲の口径も次第に大きく成って行く。30cm の主砲を搭載するとその敵側
はそれを上回る33cm の主砲を搭載する。その競争に寄って、各国は軍備予算も膨大とな
って国家予算の逼迫を招いた。その為に、各国は、軍事兵器削減協定を結ぼうとしてい
た。ワシントン条約である。
日本は、88 艦隊の構想を持ち、暫時実行中であった。8 隻の戦艦と、8 隻の巡洋戦艦か
ら成る艦艇である。
この当時の日本の戦艦は、金剛、榛名、霧島、比叡、扶桑、山城、伊勢、日向である。
いずれも、36cm の主砲を搭載している。ワシントン条約により、ネービーホリディー
と呼ばれる時期において、日本はそれぞれの戦艦の近代化改造を行っていた。
主砲の迎角を45度に引き上げたり、艦尾を延長して海水の抵抗を押さえたり、ボイラー
の出力を上げて速度を向上させたり等の改修を行っていた。
ワシントン条約に基づき、その条約によって日本の戦艦の保有数は、アメリカ10:イギリ
ス10:日本6 に規制された。その規制により、戦艦の劣勢を挽回する為、規制のない空母、
航空機、潜水艦に日本は力を注いだ。
ワシントン条約により日本の戦艦、長門、陸奥 の建造が認められたが、その代償として
アメリカの戦艦、コロラド、メリーランド、ウエストバージニア の建造が認められた。
いずれも41cmの主砲を持つ。
戦艦、赤城、加賀 は、航空母艦として誕生した。加賀 は戦艦であるが、天城 が関東大
地震によってスクラップになり、急きょ航空母艦として改造された為、速度は27.5ノット と
遅い。赤城、天城 は巡洋戦艦として作られた為、31ノット と速い。
同様にアメリカの戦艦、レキシントン、サラトガ も航空母艦に改造された。

巨大戦艦"大和

空母 赤城、加賀
開戦当時の正規空母の緒言は以下の通りである。重量は基準排水量を示す。
基準排水量とは艦艇自体の排水量であり、総排水量は搭乗員、攻撃兵器、燃料満タンの
状態での排水量である。33ノットは約60km/h です。ノットに1.8倍して下さい。
日本 アメリカ
赤城 261m 36,500ton 31.0ノット レキシントン 271m 36,000ton 33.25ノット
加賀 249m 38,200ton 27.5ノット サラトガ 277m 36,000ton 33.25ノット
蒼竜 228m 15,900ton 34.5ノット ラングレー 234m 20,500ton 29.25ノット
飛竜 227m 20,200ton 34.7ノット ワスプ 226m 14,700ton 29.5ノット
翔鶴 258m 25.700ton 34.2ノット ヨークタウン 247m 19.800ton 33.0ノット
瑞鶴 258m 25,700ton 34.2ノット エンタープライズ 247m 19,800ton 33.0ノット
ホーネット 252m 19,800ton 33.0ノット
開戦以降に竣工した正規空母の緒言は次の通りである。
日本 アメリカ
信濃 266m 68,500ton 27.0ノット オリスカー 301m 30,600ton ?? ノット
大鳳 253m 34,200ton 33.3ノット エセックス級 267m 27,100ton 33.0ノット
雲龍 227m 17,480ton 34.0ノット 17隻有ります
葛城 227m 17,150ton 32.0ノット
天城 227m 17,480ton 34.0ノット
(上記「天城」とは異なり、名前だけを襲名した)
空母の充実を急務として雲龍、葛城、天城 は丸急指令により、飛竜の図面を元に製造
された。但し飛竜の左煙突は航空機の離着艦に不都合があるので、右側に設置された。
飛鷹と準鷹は始めから空母に改造する事を念頭に置いて設計された客船で、容易に空母
に改造が可能だった。両者とも同じ設計なので仕様も同一である。
219m 24,100ton 25.5ノット 速度を除けば、蒼竜や飛竜とほぼ同じ扱いと成った。
大鳳と信濃の試験の為に、煙突は艦橋後部にやや斜めに直立して設置されている。

三菱 艦上戦闘機零戦21型

愛知 99式急降下爆撃機11型

中島 97式雷撃機3号型
戦場地は西太平洋と仮定された。西太平洋には無数の島がある。ここに滑走路を設けて
航空機を展開し、島を母港とする潜水艦を多数作った。ここで戦艦を中心に艦隊決戦が
行なわれるだろうと日本もアメリカも考えていた。

中島 二式水上戦闘機11型

中島 陸上攻撃機 深山11型
滑走路の完成までの護衛戦闘機を必要と考えた海軍は、零戦をベースとする中島 二式
水上戦闘機を開発した。水上戦闘機の本命は、川西 強風だったが、完成時には、水上
戦闘機の存在価値が失われていた。二式水上戦闘機はピンチヒッターとしての役割を充
分に果たしたと言える。
海軍は、大型爆撃機を欲していた。アメリカの戦艦を攻撃する為に必要だった。この要
求に基ずいて開発されたのが、深山 である。しかし、97式飛行艇11型よりも性能が下
回る為に爆撃機としてはキャンセルされ、深山は、輸送機として使用された。本機の失
敗は、日本の技術力からして当然であり、4 発大型機設計の習作と見るべきだろう。
潜水艦は、輸送船を攻撃して後方支援をするのと、偵察に使うのが一般的だが、日本は
軍艦攻撃用に使用した。この使用目的は、戦艦中心主義を信条とする日本側の作戦の誤
りだった。但し、空母、サラトガ を大破させたイ-26 は偉業として歴史に残った。
航空廠 零式小型水上機 は潜水艦に搭載する偵察機である。日本独自の偵察法である。
航空機の主力は陸上攻撃機。これで魚雷攻撃によって劣勢の戦艦を少しでも撃破等の補
佐する任務を与えられた。その為、陸上攻撃機には太平洋を飛ぶ為の多大な航続距離が
求められた。
長大な航続距離を求める海軍は、中島 13試陸上攻撃機 深山 を開発したが、性能が不十
分で、輸送機として採用された。川西 97式飛行艇は成功作で、長距離哨戒機として採用
されたが、艦隊決戦などは行われず、後方輸送機として使用されていた。

三菱 96式艦上戦闘機1号1型
三菱 96式陸上攻撃機
川西 97式飛行艇
開戦前当時の陸上攻撃機は、96式陸上攻撃機。護衛機は96式艦上戦闘機。96戦で、96陸
攻を守るのは96戦の航続距離が不足であった為に困難であった。
当時戦闘中の満州−中国では、96式陸上攻撃機と96式艦上戦闘機が使われていた。96戦
はあまり航続距離が無く、96陸攻は現地では護衛の無い戦場で多大な被害を受けた。

三菱 一式陸上攻撃機11型
航技廠 零式小型水上機
その後に一式陸上攻撃機が計画された。本来の任務を果たす為には、エンジンが4 発の
航空機が常識だったが、軍部の指令により双発として完成された。英国戦艦、レパルス
と新型戦艦、プリンスオブウェ−ルズ を撃沈したのは陸上攻撃機の手柄だった。
陸上攻撃機はその為に大きな燃料タンクを持ち、爆弾搭載量と防御設備が犠牲となった。
これが後に問題と成った。当時の連合艦隊指令長官、山本五十六 が搭乗した一式陸攻
は、無線傍受・解読によって迎撃されて戦死した。後に一式陸上攻撃機は、「ワンショ
ットライター」と呼ばれる位に意図も簡単に撃墜された。
ゴムを張って防弾・オイル漏れ対策を施したが、所詮付け焼き歯で、重量の増加も馬鹿
にならない。防弾設備皆無と言う事の重大さを認識した海軍は、34型で防弾設備を施し
た機体を開発したが、昭和19年末に完成し、艦隊決戦など起こり得ず、陸攻の存在価値
が無くなっており、後の祭りだった。
一式陸上攻撃機の護衛の為に開発されたのが、零式艦上戦闘機。96戦の跡継ぎである。
零戦に求められた要求は長大な航続距離。その為、防弾設備が犠牲になり、軽量に作ら
れた副産物が小回りのきく旋回能力。旋回能力が有名になってしまったが、あくまで後
続距離の副産物である。零式艦上戦闘機21型(出力 940hp 重量 2.41ton 最大速度 533km/h
航続距離:往復 1110km)〃52型(出力 1130hp 重量 2.74ton 最大速度 565km/h 航続距離
:往復 775km 増槽タンク使用で1525km)

中島 二式偵察機 月光
零戦の航続距離に一抹の不安を持った海軍は、零戦と同じエンジンの双発機、月光 を
開発し正式に生産ラインに乗せた。日本以外でも、長大な航続距離を必要とする双発機
を生産する流行が有った。
月光は、一式陸上攻撃機を護衛可能な長大な航続距離を誇ったが、空中での機動性が不
足気味で使い道が今ひとつ思い付かない。取り合えず偵察機として活動したが、終戦間
際に、小園中佐考案の斜め 20mm 機関砲を上下左右に 4 挺装備し、アメリカの重爆撃
機 B-29 の迎撃に使用された。しかし、月光は排気ガスターボチャージャーを装備して
おらず、高高度を飛行する B-29 の迎撃は困難だった。(出力 980hpx2 重量 6.90ton
最大速度 504km/h 航続距離:往復 1274km)

航技廠 陸上爆撃機 銀河
一式陸上攻撃機の後継ぎは、銀河 である。この銀河は優れた高速の機体であった。3
名の搭乗員で作戦をこなした。しかし、この優秀な攻撃機も、ベテランパイロット無し
では宝の持ち腐れである。(出力 1825hpX2 重量 10.5ton 最大速度 546km/h 航続距離
:往復 2685km)エンジンは、中島の誉12型である。

中島 陸上攻撃機 連山11型
中島の手による4 発エンジンを搭載する重爆撃機、連山 も完成していたが、銀河と同
様に、ベテランパイロット無しでは宝の持ち腐れである。(出力 2000hpX2 重量 26.8ton
最大速度 592km/h 航続距離:往復 1850km エンジン:中島 誉24型)
陸軍の重爆撃機、飛竜 の改造型 キー109 は、機首に75cm 高射砲を搭載していたが、
B-29 の迎撃を目的としていた。しかしながらこのキー109 は、排気ガスターボチャー
ジャーを搭載しておらず、高高度の飛行は困難だった。この機体の戦闘目的は、小型
船舶の攻撃撃破が相応しいのだが、頭の固い陸軍は船舶攻撃には使用しなかった。
飛竜は、火星エンジンを18 気筒化した物を登載し、トラブルはあまり起きなかった。
零戦の登場によって日本の勢力は増大した。空中戦では中国の戦闘機(ソビエト製)は
零戦によって全滅させられた。これで日本政府は零戦を過大視した。
当時のライバルのアメリカの戦闘機は、F4F ワイルドキャット。零戦の1 年前に作られ
た。当然新らしい零戦(2.4ton 、航続距離:往復350 マイル) の方が性能が良い。アメ
リカの F4Fは防弾設備を持ち、重かった(3.3ton 、航続距離:往復250 マイル) 日本軍
部は零戦の成果から更に過大視した。
開戦当時は航空機の威力は軽視されていた。いわゆる戦艦重視主義である。それを覆し
たのが日本によるハワイ空襲。ハワイの真珠湾にいた艦船はほぼ全滅した。アメリカは
その事実を重視し、以後空母を主力とした。
空母を主力にせざるを得なかったとも言う。ハワイで戦艦が全滅した為である。第二次
攻撃を実施しなかったのは日本軍部の誤りだった。米空母はハワイ近海まで来ていた。
それに燃料タンクとドッグを撃ちもらしたのも誤りだった。航空参謀は第二次攻撃を実
施すべきと南雲長官に具申したが、南雲長官はかけがいのない空母を無事に帰還させる
のが私の役目だとして第二次攻撃を実施しなかった。
真珠湾攻撃の後に、セイロン攻略(現 スリランカ)が勃発した。日本海軍は、赤城、加賀、
飛竜、桑竜を中心とする機動部隊で出陣した。イギリスは、正規空母アークロイヤルを含
む軽空母 1 隻と、5 隻の戦艦その他からなる機動部隊で応戦した。結果は、アークロイヤ
ルを含む数隻が沈没した。日本海軍機動部隊の爆弾命中率は、46/52 で 89% を記録した。
それだけ当時の日本海軍の機動部隊の威力は、世界一であった。
ここで問題が有る。最初は陸上攻撃の装備でセイロンに突入した。残る航空機には、対艦
攻撃の装備を行っていた。一次攻撃隊からの無線で、攻撃不足の連絡が入った。慌てて陸
上攻撃の装備に転換した。ところが、偵察機からの無線でイギリス機動部隊発見の無線が
入った。又も慌てて対艦攻撃の装備に転換した。偵察に対する了見の不足である。ミッド
ウエィ海戦の芽が既に現れていたのである。
珊瑚海海戦は、空母対空母の初の決戦となった。日本は、祥鳳、翔鶴、瑞鶴、で戦った。
どちらも慣れていないので、いろんな誤解を持って戦闘が開始された。日本海軍は初日
に攻撃を開始したが、敵空母が見当たらない。燃料の心配でようやく発見した空母はア
メリカ軍の空母だった。爆弾は着艦の為に投棄されていた。翌日に海戦が再開されたが、
日本は軽空母、祥鳳が撃沈され、アメリカは正規空母レキシントンが沈没し、ヨークタ
ウンに打撃を与えた。日本は、戦術的には勝ったが、インドネシアとオーストラリアを
結ぶ制海権を失う戦略に負けた。
日本では、空母 航空機の実力を評価しつつも戦艦信望が続いていた。それで誕生した
のが世界最強の戦艦、大和 。大和はワシントン条約を完全に無視して作られていた。
大和の幅は39m 。アメリカの戦艦はパナマ運河を通過する建前から、最大幅を33m に制
限されていた。
大和の主砲は46cm、アメリカ戦艦の主砲は41cm。幅33m では口径46cmの主砲の強烈な反
動には適さなかった。ワシントン条約の最大主砲の口径は41cmであった。アメリカの新
型戦艦、アイオア の大きさは、長さ271m、幅33m 、総排水量4.5 万トン、主砲は41cm
×口径50、最大速度33ノットと速く、空母の護衛が可能であった。
46cm主砲を発射する反動を防ぐには、船体の幅が39m を必要とした。大和は運河の規制
が不要なので幅39m が可能となった。又、ワシントン条約の総排水量規制 4万トンを越
える総排水量7.1 万トン(基準排水量6.5 万トン)の超ヘビ−級であった。これでアメリ
カの戦艦軍を粉砕する計画であった。
福砲は、重巡洋艦、最上の主砲15.5cmを搭載していた。重巡洋艦最上が、主砲を20cmに
転換した為に流量したのである。主砲15.5cmを搭載した艦は、軽巡洋艦と見なされた為
である。後のロンドン条約では重巡洋艦の規制も含まれていたからである。最上は主砲
を転換する事を見込んで製造されていた。
ロンドン条約とは、重巡洋艦の保有数を、アメリカ10、イギリス10、日本6 と制限され
ていた。重巡洋艦の主砲は、20cm 以下。基準排水量 1万ton 以下と言う条約である。
アメリカは日本の新型戦艦を建造する噂はすでに知っていた。アメリカは新型戦艦の総
排水量を4.5 万トンと予想していた。
戦争の主力である航空機を軽視した産物である戦艦大和 1隻の予算でもって正規航空母
艦、瑞鶴 が 2隻作れる規模であった。ちなみに 戦艦大和の長さは、263m、瑞鶴の長
さは、258mであり、ほぼ戦艦大和と大差は無かった。
瑞鶴 (基準排数量 2万5700トン) は、アメリカ海軍のヨ−クタウン級 (総排水量 2万ト
ン) に勝る正規空母であり、太平洋のほぼすべての海戦に参加した。
エセックス級空母は正規空母として量産されつつあった。エセックスの緒言は次の通り
である。
全長 267m 幅 28.4m 基準排水量 27,100ton
エセックスに対抗するのが空母「大鳳」である。緒言は次の通りである。
全長 261m 幅 27.7m 基準排水量 29,300ton
残念なのは大鳳が、1 隻のみであった事である。数量の戦いに成ってしまった事で有る。
数量競争が始まっては、アメリカには勝てない。誰でもが認めている事である。
零戦の圧倒的優位は、ハワイ真珠湾攻撃からガダルカナル攻防までゆらがなかった。
ベテランパイロットが大勢いた為である。
陸軍は海軍の零戦一辺倒の方針とは異なり、順次戦闘機の更新を行った。
中島 一式戦闘機 隼、零戦と同じエンジンを搭載している。零戦より遅く配備された理
由は、翼面加重に拘った為である。97戦と同等と言う仕様だったからである。初期には
二枚プロペラで7.7mm 機銃二挺だったが、後期には三枚プロペラで12.7mm 機銃を二挺
搭載した。零戦より劣る装備である。
中島 二式戦闘機 鐘穐、迎撃戦闘機である。急上昇を得る為に爆撃機用のエンジンを搭
載した為に機首は太い。12.7mm 機銃を四挺搭載している。
川崎 三式戦闘機 飛燕、液冷エンジンを搭載した。12.7mm 機銃を四挺搭載している。
このエンジンが問題だった。液冷に整備員が不慣れであったからである。後にドイツか
ら20mm マウザー砲を輸入して装備し、エンジンも1400 馬力と強化されている。陸軍で
は初の20mm 砲の搭載機である。零戦は既に搭載されていた。これだけ海軍と陸軍とは
相性が悪いのである。ドイツでは日本陸軍と日本海軍の相性の無さに呆れ果てていた。
中島 四式戦闘機、疾風、誉エンジンを搭載した1800 馬力の高性能戦闘機だった。しかし
誉エンジンは問題児であった。整備が難しいのである。20mm 砲と12.7 mm 機銃をそれぞ
れ二挺ずつ搭載されていた。
川崎 五式戦闘機。飛燕の液冷エンジンの問題を解決する為に空冷エンジン(金星)
を搭載した。本来の飛燕の機体は優秀な出来栄えである。エンジンには泣かされたが
頭デッカチの機体となったが、1560 馬力のエンジンで高性能ぶりを発揮した。同様に
海軍の急降下爆撃機、彗星も液冷エンジンから空冷エンジンに転換された。

航技廠 艦上爆撃機 彗星12型
ミッドウエィ攻撃には軍令部は反対していた。ところが、アメリカ空母ホーネットから
発進した中型爆撃機 B-25 ミッチェルに拠る東京急襲によって、東部の防衛も重要と考
えた軍令部は、ミッドウエィ攻略の許可を海軍に与えた。「MI 作戦」である。ホーネッ
トの護衛の任務はエンタープライズである。ヨークタウンは、珊瑚海海戦で破損したが
特急で修理を済ませ、ミッドウエィ作戦に参加した。
アメリカ軍は、日本の空母艦隊の目的地を分からなかった。ミッドウエィは水が不足
しているという偽の無線で日本を騙し、日本艦隊の動向を捉えた。
それでも日本の優位は変わらなかった。アメリカの空母は3 隻、日本の空母は4 隻で
ある。それにベテランパイロットが揃っていた為である。
その当時に零戦の後続機を作っていたら、今の時代は変わっていたと考えられる。
ミッドウエィ開戦は、日本の作戦がことごとく裏目となった。アメリカ機動部隊の行方
が不明であったからである。潜水艦による偵察は失敗した。二式大型飛行挺による偵察
も、失敗した。機動部隊が出航した後の偵察であったからである。日本の航空機は、最
初ミッドウエィ島を攻撃したが、無線の暗号の解読で、事前に防御を行なっていた。日
本の攻撃部隊はミッドウエィ島攻撃不足と打電し、再度の攻撃の要有りと報告した。結
果、航空機は偵察機の空母発見の無線を待って艦隊攻撃用の装備をしていたが、偵察の
結果、アメリカの機動部隊が発見出来ず、陸上攻撃用の爆弾に交換した。

愛知 零式三座水上偵察機11型
重巡洋艦、利根 の偵察機は、カタパルトが故障して30分遅れた。その利根の水上機が
アメリカの機動部隊を発見した。二段回偵察を実施していたら、この無駄を救えた筈で
ある。又この当時のパイロットはベテランが揃っていた。機動部隊を発見した後、直ち
に航空機を発進させるべきであった。陸上用爆弾でも空母の甲板に穴を開ける事は出来
る。南雲長官は、魚雷攻撃を選んだ。機動部隊を発見した時点では、陸上攻撃の体制に
なっていた。魚雷では無く爆弾を搭載していたからである。
山口小将は、南雲中将長官に今すぐ発艦すべきと具申したが、南雲長官はYES と答えな
かった。急降下爆撃機でも空母の甲板を破壊できる為である。急降下爆撃機は爆弾を搭
載完了していた。
機動部隊の艦艇攻撃準備が整って、発進した航空機は1 機だけで、その直後にアメリカ
の空母攻撃が始まった。もし 6分発艦が早かったら、日本はアメリカの空母を撃沈でき
た筈である。6 分で全機発艦出来たのである。
空母、飛竜には、新型急降下爆撃機 彗星が2 機搭載されていました。その高速度を利
用して、偵察機として配備されていました。彗星もアメリカ機動部隊の存在を確認しま
した。だが、後の祭りと成ってしまいました。その結果、彗星の量産化が遅れる結果を
招きました。飛竜と共に沈んだからである。
結果は、赤城、加賀、蒼竜が沈没した。山口長官が乗る空母、飛竜 が残り、反撃して
空母、ヨ−クタウン に打撃を与えた。撃沈させたのは潜水艦である。飛竜 も健闘虚
しく沈没した。ハワイ攻撃に加わった空母、翔鶴、瑞鶴 は、珊瑚海海戦で小破して工
事中でミッドウエィ海戦には参加しなかった。パイロットの補給も必要だった。山口
長官は飛竜と共に運命を閉じた。
ミッドウエィ攻撃と同時に行われた「MO 作戦」は小型空母、竜城 を中心に行われた。
アリューシャン諸島のアメリカ軍への攻撃である。濃霧でのこの作戦は困難を極めた。
ほとんど作戦計画通りには進まなかった。ここで特記事項がある。無傷の零戦がアメリ
カ軍の手に入って、零戦の徹底した調査が成されたからである。ポートモレスビー攻略
作戦である。アメリカはポートモレスビーには目を瞑った。ミッドウエィ海戦に全てを
掛けたのである。
ミッドウエィ海戦の敗北によって事の重大さを日本海軍は初めて体験した。従来の戦艦
同士の艦隊決戦は起こりえず、航空機が勝敗を決する事を思い知らされた。航空母艦が
勝敗を決する事を改めて認識させられた。真珠湾攻撃を航空機で制圧した日本海軍は、
自ら航空機が勝敗を決する事を認識させたにも関わりながら、戦艦同士の艦隊決戦など
起こりえない事を改めて認識した。
陸上攻撃機が艦隊決戦を補佐する事を念頭においていたが、制空権を奪われたなら、戦
闘が不利になる事を改めて思い知らされた。航空母艦同士の決戦が勝敗を決する事をよ
うやく認識した。しかし、航空母艦の数量競争に付いて行けない事も改めて思い知らさ
れた。
大型飛行艇が艦隊決戦に一役加わる事など起こり得ない事を認識した。潜水艦での艦隊
決戦に一役加わる事など起こり得ない事も認識した。あまりにも遅すぎた認識である。
ミッドウエィ海戦敗北の結果として、日本機動部隊は空母 4 隻を失い、即急に空母の充
実を計らなければ成らない状況に追い込まれた。そこで、新型空母の早急な建造を計る
と共に現存する戦艦の空母化を計画した。大和級は除外された。長門級は、41cm 主砲の
威力を惜しんで除外された。金剛級は、その優れた高速を利用しての空母の護衛任務に当
てる必要から除外された。残った戦艦は伊勢、日向、山城、扶桑である。その中で、日向
の第 5 番主砲が、破壊されていたので、第 5 番主砲以降を飛行甲板として、戦闘空母が
計画、実行された。
艦載機は、急降下爆撃機、彗星をカタパルトで発進させる計画だった。帰還は困難なので、
同行する空母に着艦する計画であった。しかし、彗星の量産は生産が間に合わず、水上偵
察機、瑞雲の搭載へと変更された。しかし、実際には、瑞雲の生産も間に合わず、艦載機
無しでレイテ沖海戦に参加した。結果、被害を受けて呉に帰還し、水上砲台として係留さ
れていたが、米軍の攻撃で、大破着底して終戦を迎えた。
同様に航空機搭載可能な、最上級重巡洋艦も、後部主砲を取り外して航空巡洋艦に改造さ
れた。水上偵察機11機の搭載が可能だった。レイテ沖海戦で炎上して自沈した。
利根級重巡洋艦は、最初から航空巡洋艦として製造された。水上偵察機 6 機の搭載が可
能だった。しかし、マリアナ沖海戦で沈没した。
ガダルカナル攻防の中で南太平洋海戦が勃発した。機動部隊同士の戦いである。南太平
洋海戦では、南雲長官が、翔鶴、瑞鶴、を中心に機動部隊を指揮して宿敵空母、ホ−ネ
ット、ワスプ を撃沈し、エンタープライズ は大破した。ミッドウエィ海戦の借りを
返した。ただし、翔鶴が小破した。「南太平洋作戦」である。この時点で太平洋での正
規空母は日米で、瑞鶴 のみとなってしまった。

中島 艦上攻撃機 天山12型

中島 艦上偵察機 彩雲11型
ガダルカナル島の攻防で日本は艦載機まで投入して奪回を図ったが、ラバウルからガダ
ルカナル島まではあまりに遠く、零戦の戦闘時間は10分位しか確保出来なかった。それ
に F-6F ヘルキャット(F-4F の後続機)が零戦を打ち落とし、次第にベテランパイロット
の消耗が続いた。
当時の零戦は、最大速度を少しでも早くしようとして、翼単をカットした32型だったが、
航続距離が減少し、少しでも航続距離を伸ばそうと、21型の主翼に戻されていた。これ
が22型である。*2 はエンジンを二段加給にした能力向上型である。本来は、ここで F-
6F に対抗して零戦の後継機を出現させるべきであった。
99式艦上爆撃機は、固定脚であり、急速に時代遅れ化していった。その後続機が、彗星
である。高性能艦上爆撃機だったが、本来の彗星は、研究機であり、量産、実用化など
は全く考慮されておらなかった。しかし99式艦上爆撃機の後続機は彗星しか存在してお
らず、彗星を採用せざるを得なかった。
実用化した彗星は、エンジンの不調や、電気系統の故障が頻繁に起こり、機体そのもの
が量産化を見込んでおらず、量産には困難を極めた。エンジンの不調は、空冷エンジン
への付け替えで乗り越えたが、戦況の悪化により、神風特攻の主力機に成ってしまって
いた。
戦艦、金剛、榛名、はガダルカナルのヘンダーソン滑走路を三式弾(多数の小型爆弾が
入っている)を発射してヘンダーソン基地を焦土と化したが、機械で簡単に復旧されてし
まった。比叡、霧島、も同じ作戦を行なおうとしたが、サウスダコタ、ワシントンの新
型戦艦と出会って火災を起こし沈没してしまった。夢の戦艦同士の戦いだったのだが,,,
「ソロモン海戦」である。
マリアナ海戦(あ号作戦)では、日米の航続距離を考え、敵空母との距離を 300マイルに
保って二段回偵察を実施し、自分側の犠牲を最小限に抑え、ミッドウエィ海戦の教訓を
活かしたが、既にベテランパイロットは無く、空母保有数はアメリカの 1/3であった。
アメリカは、マリアナ諸島の制空権を死守する方針で日本軍と対決した。レーダーで日
本側の航空機の位置を把握し、戦闘機でことごとく日本側の航空機を撃墜した。日本側
旗艦「大鵬」は、それまでの空母の弱点を考慮し、飛行甲板には防弾甲板を採用したが、
潜水艦の魚雷攻撃でエレベーターが故障し、応急的にテーブル等の板で対応したが、航
空機用のガソリンが気化し、エレベーターが蓋の役割と成り、引火して大爆発して沈没
した。翔鶴も潜水艦の魚雷で沈没した。ここで事実上の機動部隊は壊滅した。
その結果、アメリカは B-29 の基地を建設出来た。B-29 の噂は日本でもほぼ正確に認
識していた。しかしマリアナ諸島を奪われては撃つ手が無い。
この時点で、軍令部は敗北を認めるべきであった。でなければB-29 による本土爆撃空
襲の悲惨な結果を免れる事が出来た筈である。

三菱 局地戦闘機 雷電21型
三菱に与えられた仕事は、迎撃戦闘機、雷電 の開発であった。迎撃機に求められる急
上昇を得る為、爆撃機用のエンジン(火星)を搭載したが、大形の為に空気抵抗を抑える
必要から強制冷却ファンを採用し、プロペラ迄の距離を延長したが、振動を抑える為に
長い開発期間を必要とした。その結果、紫電がエンジンの不調で、要求した性能を発揮
出来ない結果、雷電の増産命令が発せられた。しかし、工場の爆撃により、約 500 機
を作るのに精一杯であった。
大形飛行艇は川西が得意な分野だった。本来の飛行艇の任務は偵察と海難救助である。
日本の大形飛行艇には雷撃の任務が加わっていた。二式大形飛行艇には魚雷を2 発搭載
可能となっている。但し、飛行艇で魚雷の進路を設定出来るのかは不明である。二式大
型飛行艇は、優秀な飛行艇ではあったが、艦隊決戦など起こり得ない状況で、その高性
能を発揮出来ずにその存在価値は急速に失われていった。

川西 二式大型飛行艇12型
敵戦闘機よりも高速な、強行偵察を可能な偵察機が海軍で求められていた。十四試高速
水上偵察機として川西に開発が求められた。その要求から戦闘機の様な外形と成り、非
常時にはフロートを投棄可能な機体が完成した。しかし、完成時には戦況の悪化で、敵
戦闘機を振り切る水上偵察機の運用など不可能であり、15 機の生産で打ち切られた。
海軍の見通視の甘さが暴露された結果である。

川西 水上偵察機 紫雲11型

川西 水上戦闘機 強風11型

川西 局地戦闘機 紫電11型

<川西 局地戦闘機 紫電改
迎撃戦闘機は西川ですでに自主開発が進められていた。大型飛行挺の役割が終わった
為と将来の為に迎撃戦闘機を作らないと仕事が無くなる為に開発された、紫電 である。
急速に水上戦闘機、強風 を陸上用にした為に脚の損傷等のトラブルが発生したが、正
式な迎撃機を目指して 紫電改 を生産ラインに乗せた。
強風は、雷電と同じ爆撃機用のエンジン(火星)を搭載し、二重反転プロペラを回す野心
作だったが、二重反転プロペラにするまでもないと考えた川西は、通常のプロペラを採
用した。やはり雷電と同じ太い胴体だった。しかし、完成時においては、水上戦闘機が
敵戦闘機と戦闘を交える事など不可能で、海軍の見通視の甘さが暴露された結果である。
小型で高出力の誉エンジンが中島飛行機で完成したので、そのエンジンを搭載し、取り
合えずそのまま陸上用にしたのが、紫電である。紫電をスリム化して、紫電の欠点を修
正したのが、紫電改 である。
艦上偵察機 彩雲は、高速の優れた艦上偵察機であった。4.5ton の重量に対して小型
の機体で、誉エンジンを採用し、スリムな胴体により 635km/h の高速偵察機であった。
しかし、マリアナ沖海戦で航空母艦が壊滅して、陸上偵察機と成ってその高速を利用
して、敵側の貴重な情報を海軍艦艇部隊にもたらした。
この前までに、日本は零戦に変わる新型艦上戦闘機の開発を三菱に依頼すべきであった。
小沢長官率いる空母側のレイテ海戦(礁一号作戦)では、旗艦を瑞鶴とし、機動部隊が囮
りとなって栗田長官率いる戦艦大和に集まるアメリカ航空機を日本の空母側に吸い寄せ
て戦略は成功したが、肝心の大和は、偽の無電を信じた事等 (いわゆる謎の反転) によ
り無駄な時間を費やし、戦艦大和の活躍は空振りとなり、空母部隊はアメリカの機動部
隊の攻撃で完全に消滅した。
大和は初めて敵艦に主砲を発射した。相手は商船改造の軽空母、ガンビアベイ であっ
た。薄い甲板の為に甲板を突き破って爆発はしなかった。
小沢長官の発信する囮作戦成功と言う電文は、栗田長官には何故か伝わらなかった。無
線傍受要員には届いていたと言う噂も有るのだが。東京には囮作戦成功と言う電文は届
いていた。東京からも囮作戦は成功したと言う電文を栗田長官に発信しているが、これ
も何故か栗田長官には伝わらなかった。
レイテ海戦当時の航空機のパイロットは、やっと離艦できて、着艦の技量は無かった。
離艦後は、フィリピンの日本側滑走路に着陸する様に言い渡されていた。これでは勝つ
見込みは無い。それだけ日本の航空事情が悪化していたのである。最悪、この時点で軍
令部は、日本の敗北を認めるべきであった。パイロットは技量も無く、フィリピンを占
領されれば、石油の供給路線も絶たれ、軍艦も唯の鉄屑と同様となる。
大和の姉妹艦である戦艦、武蔵 は、フィリピンのレイテ海戦で、のべ約1000機の集中
攻撃を受けて沈没した。他の艦は多少の被害を受けた。武蔵は、敵の攻撃を一身に浴び
て海に沈んだのであった。アメリカは小沢中将率いる空母艦隊を主力艦隊と判断し、本
来の目的の囮に掛かり、アメリカの航空機を空母艦隊に向かわせ、日本側の戦艦部隊の
勝利の絶好の瞬間であった。
西村艦隊(扶桑、山城、その他からなる)は、打ち合わせ通りレイテに突入して、栗田艦
隊が航空機に寄る攻撃で時間をついやした為に、栗田艦隊よりも先にレイテに突入して、
先に待ち受けるアメリカ艦隊戦艦と衝突し、西村艦隊は全滅してしまった。「スリガオ
海戦」である。志摩艦隊はレイテに突入して、西村艦隊の全滅を見受け、残存する搭乗
員の救出を行った。

正規空母"瑞鶴"の沈没
レイテにはアメリカの戦艦がいた。艦砲射撃とスリガオ海戦で大砲砲弾の残りは少なか
った。栗田長官の艦隊がレイテに突入すれば夢に見た戦艦同士の戦いになるはずだった。
しかし栗田長官の謎の反転で戦艦同士の戦いは夢に終わってしまった。謎の反転とは、
アメリカの機動部隊が背後から押し寄せるという謎の無線電信を信じた為である。
宇垣長官は、戦艦大和でそのままレイテに向かうべきと、栗田長官に具申したが、先任
の栗田長官も乗船しており、宇垣長官の提案を受け入れず、アメリカの航空機の攻撃を
辛くも交わし、栗田長官の謎の反転がなかったならば、沈没した戦艦武蔵の搭乗員の霊
は浮かばれない....
零戦の跡継ぎが三菱、烈風 (重量 4.9ton)。仕様は、アメリカのF-4F の跡継ぎ F-6F
ヘルキャット (重量 7.0ton)とほぼ同じで、やや旋回能力と航続距離で烈風が勝る。
しかしアメリカは、終戦までには、跡継戦闘機 F-8Fベアキャット (重量 5.7ton)を完
成していた。

グラマン F-8F ベアキャット

三菱 艦上戦闘機 烈風11型
烈風は、終戦までに 8 機完成していたが、旋回能力の優位のみで F-8Fには太刀打ち出
来ない事はその後の歴史が物語る。烈風の開発が遅れた理由は、搭載する2000 馬力級の
高性能エンジンが無かった為である。誉エンジンを搭載した機体はエンジンの出力馬力
が仕様以下だった為である。誉エンジンの定額出力は、1990 馬力である。海軍は何故か
誉エンジンにこだわった。三菱のエンジン(ハ43 2150馬力)を搭載したらほぼ満足な性能
を発揮した。そこでこの機体を量産しようとした時に敗戦を迎えた。
そして艦上戦闘機の跡継ぎがないまま、日本は最後まで零戦で戦わざるを得なかった。
残された最後の手段は、爆弾を積んでの体当たり攻撃。レ−ダ−で監視された零戦は、
攻撃前にただ海に沈むばかりであった。
海軍は、紫電改を艦上戦闘機としてその場凌ぎを行おうとしたが、パイロットの技能未
熟で戦える状態ではなかった。完全に整備された紫電改は、F-6F と同等の性能を発揮
出来た。但し優秀なパイロットが居なければ、夢物語である。
大和型戦艦、武蔵 は、バイタルパ−ト( 装甲部分) が第一主砲から第三主砲までで、
装甲の無い艦首部に多量の浸水を受けて頭から潜る様にして沈没した。
昭和天皇は「もう日本には軍艦は無いのか? 」と述べ、軍指令部は思案の結果、戦艦大
和を軍艦の特攻隊として激戦の沖縄へ向かわせた。片道だけの燃料を積んで、全員死ね
という命令でもあった。海軍はその作戦には反対だったが、軍令部の「一億玉砕の先駆
けに成れ」との言葉で作戦参加に承諾した。世界最大の戦艦大和の死に場を与えたとも
言われている。「天一号作戦」である。国民あっての国家である筈なのに、国民総ての
玉砕とは、本末転倒ではないか?
燃料油が尽きた日本は、日本中から燃料油を集めて戦艦大和をもって沖縄へと向かい、
途中でアメリカ機の集中攻撃によってキノコ雲を残して水没した。片道のオイルしか積
んでいないという噂であるが、実際は帰還できるだけのオイルを搭載していた....
戦艦大和は、アメリカが学んだ武蔵の攻撃方法を採用して、片側から攻撃を集中させら
れてして沈没した。片側の被弾に対して、反対側の防水区画に海水を注入して、艦の水
平を保つ様に勤めたが、限界を超えて傾き、三式弾が傾斜で倒れて爆発し、沈没してし
まった。

巨大戦艦"大和"の沈没
大和の巨大さを示す記事は、製造員が内部で迷子に成ってトイレが分からずに、うん○
が至る所にあった事実が物語る。
戦艦、信濃 は、ミッドウェ−海戦で空母軍が壊滅した為、戦艦、大和 の姉妹艦であ
ったが、急きょ航空母艦として改造された為、速度は27ノット と遅い。
信濃の任務は、機動部隊より先に位置し、自軍の航空機の中間補給基地の役目であった。
その為に、空母 大鳳より更に飛行甲板の防御が強化されている。
空母、信濃 の排水量は、原子力空母、エンタープライズ の完成まで世界最大の排水
量でした。空母、ミッドウエィ よりも排水量が多きかったのです。あまり知られては
いませんが、事実なのです。戦艦大和の姉妹艦だから、排水量が大きいのです。それだ
け大和級戦艦の排水量が大きいのです。バイタルパートの多量の採用の結果である。
信濃は横須賀から呉に移動されました。横須賀で竣工し、呉で最終的に武装や艤装を施
す予定でした。その移動中にも各所で溶接等の工事中だったのです。その為に、ドアは
開いた状態で溶接ケーブルが張り巡らされており、気密試験は行われませんでした。
そして移動中に偶然に潜水艦に発見され、四発の魚雷攻撃を受けました。本来 信濃は
四発の魚雷攻撃にも絶えられる程の強度を持っていたのですが、艦内で溶接等の工事が
行っていたので、ドアが開いた状態だった為に浸水して、各所に海水がなだれ込み、結
局、戦闘の経験も無いまま沈没してしまいました。

人間魚雷 回天
日本海軍は、ベニア板で作り、火薬を積んだボート、振洋、魚雷に操舵室を設けた、回
天、魚雷を2 発搭載し、自らも艦首部に火薬を搭載した有翼潜水艦、海龍、等の自爆特
攻兵器を生産してまでも戦った。
陸軍の航空機は、海戦に参加しなかった。陸の上だけの飛行訓練しか受けておらず、何
も目印の無い海上を飛べなかったからである。ラバウルまでの飛行では、海軍機のガイ
ド付きで移動した。ガイドを断った陸軍の航空部隊は、行方不明となってしまった。

愛知 特殊攻撃機 晴嵐

晴嵐の格納庫
特筆すべき艦船は、1 隻当たり 3機の特殊攻撃機を搭載出来た潜水艦イ-400である。潜
水艦は当然潜る為、見つかりにくい。そしてイ-400シリ−ズはパナマ運河を攻撃する目
的を持っていた。爆弾がダムに 1個でも当たれば大惨事になっていた筈であった。
これは、戦後のアメリカの戦略核弾道ミサイル搭載原子力潜水艦の開発のヒントとなっ
た。特殊攻撃機、晴嵐 を戦略核弾道ミサイル搭載と置き換えたのであった。
潜水艦イ-400 シリーズは、アメリカ艦隊の水上泊地、ウルシー泊地に攻撃目的を変更さ
れ、その途中で終戦を迎えた。
そして日本は結局敗戦を迎えた。軍令部の長期戦略の方針も持たず、その付けは国民の
屈辱的な精神的打撲と貧困を味わされてしまった。軍令部のラジオ放送もでっち上げで
一般国民は何も知らされずにラジオ放送の日本の戦闘の勝利を信じたまま敗戦してしま
った。
宇垣長官は、敗戦の日に急降下爆撃機、彗星に乗って、多くの特攻隊員を見送った責任
を取り、沖縄へ向かって消息が途絶えた。戦後、栗田長官は、小沢長官と面会しました。
もう年で話せない栗田長官は、ただうなずくだけであった。
参考まで: ヤマトの鋼板の厚さ。
主砲塔前面 63cm 主砲塔天井 35cm 主砲塔側面 28cm 福砲周辺 15cm
主砲塔基盤円柱 45cm 煙突内部 30cm の蜂の巣状×2 枚重ね
指令塔 50cm 装甲板 20cm :対戦艦主砲の防御 バイタルパ-ト である
船体下面 2.5cm ×2 枚重ね 喫水線防御帯 41cm(底に向かってテ-パ-
装甲板の上は、乗務員の生活場所だった (防御鋼板ナシ) 状になっている)
艦橋は航空機の防弾程度である。駆逐艦は船体の鋼板厚さは 9mm程度であった。
戦後までの大型艦艇の結果
戦艦 榛名 大破着底 伊勢 大破着低
長門 航行可能
空母 鳳翔 復員輸送に使用 龍鳳 大破炎上
天城 大破着低 葛城 復員輸送に使用
隼鷹 航行可能 伊吹 製造中で終戦
戦艦と空母とでどちらが強いでしょうか? 空母には艦載機が有る。戦艦の主砲の到達
距離以外なら、圧倒的に空母が強いのは常識です。ただし、戦艦の主砲の到達距離以
内では空母は歯が立ちません。巡洋艦にも負けます。それだけ空母は特殊な軍艦です。
飛行甲板が有る為に、何も対抗手段が無いからです。せいぜい有るのは高角砲位です。
レイテ海戦で、その証明を物語っています。軽空母ガンビアベイが撃沈されています。
例外は、赤城、加賀、サラトガ、レキシントン位です。20cm の主砲を装備しています。
20cm の主砲では重巡洋艦に対抗出来ます。
2003/3/31 作成
2007/1/25 最終改定
(END)
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