愛媛県南宇和郡愛南町(旧御荘町《みしょうちょう》)
2004(平成16)年10月1日より南宇和郡一本松町・内海町・城辺町・西海町・御荘町の合併により南宇和郡愛南町(あいなんちょう)となる。
紫電改展示館の入館は無料
日本海軍の最後の実用戦闘機。 川西航空機(現新明和工業)が製作した紫電の改良型で、正式名称は、紫電21型。紫電改は通称。 もとの紫電は、水上戦闘機「強風」の機体をそのまま使い陸上用に仕上げた局地戦闘機で、陸上基地用の迎撃機として1942(昭和17)年12月に初飛行し、1007機が生産された。 紫電11型をもとに、その性能と実働率の向上を図るために、胴体・尾翼の設計を新たに見直し、主翼の配置も低翼式とし、「誉21型エンジン」を搭載して、実戦時に空戦能力に絶大な影響を与えた自動空戦フラップを装備する等、全面的に改良し、「紫電」とは全く異なる局地戦闘機として誕生したのが紫電改で、最初飛行は44(昭和19)年の1月。 最大速度時速620キロメートルという驚異的な性能は、アメリカ戦闘機に十分対抗できる戦闘機として優れた空戦性能を発揮して本土防空にあたり、「紫電改21型(N1K2−J)」として重点生産機に選ばれて量産に入るが、わずかに約400機が完成しただけで敗戦を迎えた。いわゆる「初期型」と称されるこの「紫電改21型」は、通算101号機(第5101号機)までの機体を指し、その後の量産型(紫電21型甲)と比較すると、尾翼部分が大きくのが特色である。 紫電改展示館の紫電改は、1979(昭和54)年7月愛媛県南宇和郡城辺町(じょうへんちょう)久良湾(ひさよしわん)の長崎鼻(ながさきばな)から引き揚げられ(たまたま沈んでいるのをダイバーが発見)、機体を復元したものであり、日本で現存する唯一機である(もう1機がアメリカ・スミソニアン航空宇宙博物館別館には紫電改・桜花・晴嵐・屠龍の胴体・熱田・ネ20などが展示されている)。 1945(昭和20)年7月24日、九州・長崎の大村基地を発進した第343航空隊(最新鋭の紫電改によって制空権を回復しようと、戦闘機出身の軍令部作戦課航空主任の源田實《実。1904〜1989。昭和時代の軍人・政治家。1941年第1航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の作戦計画を立案、指導。1945年第343航空隊司令として紫電改部隊をひきいてたたかい、源田サーカスとよばれた。海軍大佐。戦後は航空自衛隊にはいり、59年航空幕僚長。62年参議院議員《当選4回・自民党》。著作に『海軍航空隊始末記』がある》大佐の構想により44年12月25日に松山基地で編成され、同時に25航戦《3航艦》に編入された。「松山の紫電部隊」としても有名で、第301、第407、第701の3個飛行隊と練成部隊の戦闘401飛行隊が「紫電」「紫電改」を装備した海軍戦闘機部隊で、高速偵察機「彩雲」装備の偵察第4飛行隊が付与されていた)所属の紫電改21機が、豊後水道上空で米機動部隊艦載機のグラマン戦闘機F6F(アメリカの航空機会社Grumman社《1994年にノースロップ社と合併してノースロップ・グラマン社となる》が製造した米海軍の艦上戦闘機。第2次世界大戦中の海軍主力戦闘機で、末期には日本本土にも進攻。F4Fと後継のF6Fがあった)やP51ムスタング(Mustang=アメリカのノースアメリカン《1996年にボーイング社に売却》により製造されたレシプロ単発単座戦闘機《往復行動機関とか、ピストンエンジン・ピストン機関ともいう熱機関であるレシプロエンジン【Reciprocating
engine】を搭載》ムスタング《米国で、野生の状態で暮らしているやや小形の馬》は愛称《マスタングともいう》)約500機と交戦、そのうち、長崎県北松浦郡小値賀町(おじかちょう)出身の鴛渕孝(おしぶちたかし)大尉(たいい)乗機他6機が未帰還となった。引き上げられた紫電改は、そのうちの1機ではないかといわれている。 なお、機体の周りには機体内の部品や計器類がほぼ丸ごと展示されている。 なお、機体は遺族の思いを生かしてあえて完全復元を行うことなく、プロペラが曲がっていたり(豊後水道で米軍機と交戦して不時着した時のダメージと思われる)、欠損部分が残され、所々に穴があいているのがリアルである。 |
全長 |
9.344m |
重量 |
4.86トン |
主翼 |
11.99m |
時速 |
620Km |
高さ |
3.9m |
エンジン |
2000馬力 |