国際的に有名なチェンバロ製作者、高橋辰郎さん(56)と演奏家の妻尚子さん(55)=東京都江戸川区=が、ずさんな扱いでチェンバロを壊されたとして、江戸川区の市民楽団「江戸川フィルハーモニーオーケストラ」と団員を相手取り、880万円の賠償を求め東京地裁に提訴した。原告代理人によると、高額な楽器の賠償を巡る裁判は珍しいという。【銭場裕司】
破損したのは、辰郎さんが86年に製作したチェンバロ。米国のジャズピアニスト、キース・ジャレットさんが買いたいと申し出たが、高橋さんは「自己の最高傑作で売る気持ちになれない」と断った。その代わりに同じ型のチェンバロを製作し、89年に400万円で売った。同型は世界に2台しかなく、そのうち1台が壊れた。
訴えによると、尚子さんは06年7月、江戸川フィルから協演依頼を受けた。演奏会前日のリハーサルで、団員3人が会場にチェンバロを搬入する際に、高さ約70センチの台車から落とした。亀裂が入り弦を張れず、修復も不能となったという。
このチェンバロには、現在では入手が困難な良質のインド産の紫檀(したん)を使っており、同じ物を製作するのは難しいという。高橋さん夫妻は楽器の価値を600万円とし、慰謝料などを加えた賠償を求めている。
高橋さん側は「タイル目地に台車がひっかかったのに無理に押して台車を壊した」と主張。江戸川フィル側は「無理な力はかけていない。ボルトの脱落で台車が崩落した」と争っており、30日に最終弁論が開かれる。辰郎さんは、製作が途絶えたチェンバロを独自の設計で製作することで知られ、ジャレットさんら著名演奏家から高い評価を受けている。
高橋さん夫妻は、提訴した理由の一つにずさんな楽器管理の問題を挙げる。「楽器を動かすには、繊細な扱いが求められるのに、素人判断で漫然と動かそうとした」と憤り、「団員が通路に置いたコントラバスをまたいで歩くのも見た。アマチュアといえども見識を疑う。なあなあで済ませたらまた次の事故が起こる」と訴える。
裁判所が楽器の価値をどう認定するかも注目される。尚子さんは新しいチェンバロで演奏活動を続けるが、「20年間育てて体の一部のようだった。自分の意思に反応するのが楽器であり、育てるには時間が必要」と失った存在の大きさを語る。代理人の山下幸夫弁護士によると、希少なチェンバロに対応する保険商品はないという。
江戸川フィルの福井豊信団長は、毎日新聞の取材に「手で運ぼうとしたら台車に乗せてくれと言われた。同情はするが、責任はないと考える。楽器をまたぐような扱いはないと思う」と反論している。
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■ことば
グランドピアノを小さくしたような鍵盤楽器の一つ。16~18世紀にヨーロッパ音楽で広く使われたが、ピアノの隆盛とともに一時製作が途絶えた。
毎日新聞 2008年7月18日 東京夕刊