ニュース: 政治 RSS feed
【正論】テロ指定解除 日本国際フォーラム理事長・伊藤憲一
■米国への「依存心」を払拭せよ
6月26日、北朝鮮が「核計画の申告」を六者協議・議長国の中国に提出したのを受けて、ブッシュ米大統領は北朝鮮をテロ支援国家指定から解除する旨を発表した。拉致問題を置き去りにしての解除決定であり、日本国内には対米不信感が盛り上がった。
しかし、米国がその意思決定でつねに対日配慮を最優先するとの保証はもともとない話であり、ここで対米不信感を募らせるのは、日本人の甘えであり、リアリズムの欠如である。
ここで、本当に気づくべきことは、自分自身の立姿であろう。相手がだれであれ、アメとムチ、防御と攻撃の両方がそろっていなくては、外交交渉も、ましてや軍事力の行使も成立しない。それなのに日本人は、憲法第9条の名において、ムチや攻撃手段を放棄し、その役割を米国に押し付けて、「日本は、平和立国だ」と、はしゃいできたのではなかったのか。
尖閣諸島に台湾の漁船が侵入し、日本の巡視船が衝突したとき、日本はひたすら陳謝し、賠償を約束するしかなかったが、このとき台湾の政府高官は「対日開戦を辞せず」という言葉さえ口にした。
同じような状況で立場を逆転させたのが、北方領土水域でのロシア国境警備隊による日本漁船船員射殺事件だ。ロシアからは賠償はおろか、陳謝の言葉すらなく、押収された船体はその後ロシア企業に払い下げられたという。
≪日本の平和主義は本物か≫
アメだけの外交、防御だけの自衛では、交渉も防衛も成り立たない。そこで日本人は、ムチと攻撃の役割を当然のように米国に期待(ほとんど要求)してきた。米国にしてみれば、日本の一方的な思い込み以外のなにものでもあるまい。同盟国であるからといって、すべてが自動的に動くものではない。尖閣諸島や北方領土の問題で米国が動いてくれることは、まずあり得まい。
ここで私が「日本も、もう少し『普通の国』になったらどうか」と言えば、いわゆる「平和主義者」や「護憲主義者」から山のような反論が押し寄せてくることは、目に見えている。だから、ここではこれ以上は言わない。
しかし、少なくとも米国への無意識の依存心を前提にした日本の「平和主義」は、本物の平和主義かと、問い直したいのである。そのような「平和国家」日本には、米国だけでなく、世界全体が辟易(へきえき)としている。そのことに日本人はそろそろ気づくべきである。
21世紀に入って、世界の戦略環境が激変した。私はこのことを拙著『新・戦争論』のなかで「不戦時代の到来」と述べたのだが、それは「平和な時代の到来」という意味ではない。「『戦争』ではなく、『紛争』が、脅威の主流になる時代が到来した」という意味であり、だからそれは「紛争時代の到来」であった。
≪21世紀の「不戦共同体」≫
「不戦時代」あるいは「紛争時代」においては、「戦争時代」とは異なる各種の新しい脅威が登場し、人類は「戦争時代」とは異なる方法でこれらの脅威に対処しなければならない。
世界的規模で西側先進民主主義諸国を中核として形成されつつある「不戦共同体」は、「戦争時代」の同盟や勢力均衡とは異なった基盤の上に成立し、「ならず者国家」や「破綻(はたん)国家」や「国際テロリスト」という「不戦時代」の新しい脅威と共同で対処しようとしている。
主要国サミットG8はその中核にある。米国が中国に「ステーク・ホルダー(責任ある大国)になってくれ」というのは、「不戦共同体に参加してくれ」という意味である。それが世界中に根を広げて、地域ごとの「安全保障枠組み」を作ろうとしている。
ライス米国務長官が『フォーリン・アフェアーズ』誌7−8月号に寄稿した論文のなかで「六者協議」を発展させて将来「北東アジア平和安全保障枠組み」を作りたいと言っている。それを全世界的な「不戦共同体」につなげようとの構想であることは、容易に想像できる。
金正日という特異な指導者をいただく独裁国家・北朝鮮は「ならず者国家」であり、その暴発は「戦争」ではなく、「犯罪」として位置づけられるべきものである。今後ともアメとムチを駆使して、国際社会はこの「ならず者国家」を善導していかなければならない。そのとき日本は国際社会の一員として積極的な役割を果たすことができるのか。日本がアメだけでなく、ムチを持ち、発動する用意のある国となることは、21世紀の「不戦共同体」にとってどうでもよいことではない。(いとう けんいち)