イエスの惑星BBS

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憲法九条と神の国  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月18日(金)00時26分19秒    編集済
   ヒコザ嘗て以下のような文章を、関係各師、各氏に送ったことがあります。
長文ですが、極めて重要な問題に触れており、またそれはこれまで全く閑却されていたことでもありますので、ご笑覧いただければ幸甚。

......................

 憲法9条護持の『和の会』なるものがあり、日本司教団の殆どの司教さん方が加盟
されています。憲法9条は軍備を放棄し、国際問題の解決には、軍事力
行使を全面的に禁じているものです。

 つまり、所謂絶対平和主義の立場です。この立場は正当防衛を認めている、
カトリックの伝統的正戦論にも、近年の国際問題にかんする教皇庁の立場とも、
明らかに反しています。司教達はこのことを知らないか、知っていても無視して
いることになります。

 どちらにせよ、それでいいのでしょうか。信徒は、どちらを頼りにしていのか惑う
ばかりです。司教たち、実に無責任極まる方々じゃないでしょうか。
以下彦左衛門の意見、説明をお読み下さい。


(長文ご注意)。

  昨年でしたか、カトリック新聞1月30日号(N0.3797)の『声』欄に、朝岡
昌史氏なる方が「私は憲法改正に賛成する立場」である旨の投稿をされたところ、
早速次号に反論投稿が二つ掲載されました。
一つは金沢恂さん、もう一つは東京教区千葉寺教会の澤田和夫師から
のものです。

双方ともにイエス・キリストが無抵抗、非暴力・絶対平和主義であられた
事を根拠として、憲法9条を死守することは、イエスに倣うキリスト者の
義務であると論じています。(両者の論述の詳細と細部での違いは省く)。

以下、このお二人の所説を念頭において、問題を考えて見たいと思いま
す。ご笑覧下されば幸甚。

まず、キリストは所謂絶対非暴力、絶対平和主義ではありません。
これは、福音書を読めば、すぐ分るはずです。
キリストご自身、神殿では、両替屋や鳩を売る者の台をひっくり返し、彼
らを追い出しています。
これ暴力行使以外の何ものでもありません。(マルコ11,15-17).
どこの国の法律でも、こういう暴行は刑法で罰されます。

また次の事実も看過出来ません。それはイエスの弟子が、剣を携行して
いたと言うことです。(マルコ14,47他)
当時ローマ統治下のパレスティナの治安状況は決して良好ではありませ
んでした。
(イエスの「よきサマリア人の喩」の中にも旅人を襲う強盗が登場します。
ですから、イエスは、宣教の旅を続けるご自分に従う弟子達には、強盗や、
山賊に対抗するための武器携行を認めておられたのです。
まさに暴力には、「暴力」をもって対抗する正当防衛を承認されていたこと
になります。

それでは、ご受難の際、ゲッセマニの園での出来事はどうでしょうか。
イエスを捕らえようとした大司祭の僕の耳をイエスの弟子が切り落とした時、イエスは『剣をもとのところに収めよ』、『剣を抜く者は、皆剣によって滅
びる』とおっしゃっています(マタイ26,51-57)

 前記二人の反論投稿者もこのあたりのイエスのお言葉を根拠に、イエスは
非暴力の平和主義者であり、憲法9条の軍備放棄とその平和主義を擁護
する事は、このイエスの非暴力主義に倣う信徒の義務であると言っている
ようです。

ところで、こういう単純な頭から生まれた単純な意見には案外同じように単
純な人たちには、説得力があると見えて、かなりの信徒の賛成、いや聖職
の支持さえ得ているようです。

ところが、これはとんでもない聖書の誤読、誤解釈からで出ているものです。

 イエスは何故、弟子に剣を元のところ、すなわち鞘に収めよ、とおっしゃった
のか。それは、そういう暴力、実力行使がたいていは無力で守ろうとしたも
のを結局守れないどころか、より強い実力、暴力の持ち主が現れれば負
けてしまうと言うのでしょうか。

 だからいっそのこと、初めから、暴力、実力行使を一切やめて、相手の善意
と反省を引き出す方が、賢明だと薦められていると言うことなのでしょうか。
そしてそれがわれわれの世界の経験則だと言うのでしょうか。

  剣に訴えるものは剣にて亡ぶというイエスの言葉は一見そういう解釈を正当
化しているかに見えます。

しかしおよそイエスの言葉を正しく解釈するためには、その前後関係・コンテ
キスト、つまり、どういう状況の中でのお言葉なのかを無視してはならないのです。
 それは、そのイエスのお言葉が本来どういう適用の場を持っているかを正
しく捉えるという事でもあります。これは聖書解釈のイロハです。

 逆に言えば、どういう状況にも、どういう場にも、イエスの言葉が無条件でそ
のまま当てはまるのでないということを、注意深く識別しなくては、とんだ誤
解釈に陥ってしまうという事です。

 イエス様が、「悪人に手向かうな」、「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」
とおっしゃっているからと言って(マタイ5,39)、まさか強盗が押し入って来たと
き、どうぞと金庫に案内し、さらに番号を教えて、カードまで渡す人はいないで
しょう。それともイエスに従う信者は、そうしなくてはならないのでしょうか。)

それではゲッセマニの園でイエスのみ心を支配していた事柄は何であったの
でしょうか。それを此処では問うべきです。

  それは、地上の人間の現実に対してあるべき指針や教訓を与えることではあ
りませんでした。(山上の説教はそういうものであったのですが)。

 イエスはただこれからのこと、つまり、今や、神の思し召しに従って受難の死
を遂げようとしていること、それによって成就する罪の贖いと、そして、その結
果現実化するであろう神の国について考えておられたのです。

 そのことが、此処でのイエスの言葉のコンテキストです。
そしてこの神の国と言う救いの恩寵秩序は、人間世界のただ中に置かれてい
ても、まさに地上のものではないのです。(ヨハネ18,36)

 ですから、それは、剣や暴力や、地上の権力や、軍備・軍事力や、正当、不正
当な実力行使によって、実現が促進されるものでも、守られるものでも、また
反対にそれらによって侵害され、機能不全に陥るものでないのです。

ところが、剣を振るったイエスの弟子は神の国を、地上の権力者の国と混同し、
それと同じように剣を持って守って行かなくてはならないと考えて居たのです。
それをたしなめられたのが、剣を元に収めなさい、というイエスのお言葉でした。

 ですから、これは、憲法9条の非武装平和主義とは、何の関係もありません。
従って、ゲッセマニの園でのイエスの言葉は憲法9条を信徒が守らなければな
らないと言う主張の根拠にはならないのです。

 イエスはそう言うことについては、ここでは是とも非とも言っていません。

では、剣を用いるものは剣によって滅びるというお言葉はどうでしょうか。
この言葉を弟子が聞いたとき、彼等はきっと、ローマ帝国のことを考えたに違
いありません。

ローマこそは、強大で、しかも当時としてはもっとも進んだ軍事力によって、
次々と周辺諸国をを征服して、大帝国を建設し、イエスの時代には、権力と
繁栄の絶頂にあり、あまつさえ Pax Romana と称えられる平和をかつてない
広大な地域に実現していました。
 それはまさに地上の神の国でした。誰がこの国もやがて滅びることになろうと
信じたでしょうか。

しかしイエスはおっしゃったのです。弟子たちは、剣によって、イエスの神の国
を守ろうと見当違いのことをしようとしているが、「もし、イエスの国が、地上の
国ならば、そして剣によって守られなければならないようなものであれば、それは
ローマや、他の地上の帝國と同じようにやがては、一層強力な軍事勢力によっ
て滅ぼされてしまうだろう。

しかし真の神の国は、剣によって立つものではないから、剣によって滅びるこ
ともないのだ」と。

このお言葉も、憲法9条のような、世界の政治的現実、の中での非武装、絶
対平和主義とは、何の関係もありません。

 小生彦左衛門は、聖職の方々が聖書解釈のイロハともいうべきことに無知、無識で
あることに驚いています。それでいてこの人たちが教会の権威をバックに信徒を誤導していることに深甚な憂慮を禁じ得ません。
 

福音のつまみ食い  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 7月17日(木)06時50分20秒
  悪魔でも聖書を引くことができる,身勝手な目的にな.
〈シェイクスピア『ヴェニスの商人』〉
 

彦左衛門さま  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月17日(木)02時00分10秒    編集済
  私も、彦左衛門さまが仰るとおりだと思います。

カトリックではありませんがミッション・スクールで中学から聖書を学び、
長崎教区の神学講座などでも、聖書の講義を受けましたが、
大阪教区に来てビックリ!
聖書の会や説教でのイエスさまは 社会の改革者なのです。
そして、それを私たちにも求めておられるというのです。

私はずっと、それぞれの心が新たにされて、その実りとして
清貧に、いたわりを持って生活し、福音を証ししていくのだと思っていたのに。
えらく、聖書解釈が変わって・・・。

誤解というよりも、彼等は、福音を
自分たちの主張に利用しているのではないかと思っています。

特に聖書学者のH司祭は「小さくされた」と言いますが
その言葉からは加害者が生まれ、そこから、また差別が生まれるのに。
 

福音の立場  投稿者:おつる  投稿日:2008年 7月17日(木)01時58分58秒
  彦左衛門さま イエス様の福音の誤解  勉強になりました。
非常にわかりやすくて イエス様の教えと 正平協のしていることなどが
いかに違うかということが よく理解できました。

よく 松浦補佐司教は 「政治的言動をするなとよく批判されるが 自分は福音に
よって行動している」といつも言われるけれど その福音ってなんなの?と いつも
思っていました。 イエス様の福音を誤解・曲解してはるんですね?
 

イエス様の福音の誤解  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月16日(水)23時13分4秒    編集済
   大羊さん:
 >元々、左翼陣営の「大義名分」とクリスチャンの基本精神ってカブる部分が多いですよね。「人権」だとか「弱者保護」だとか「平和」だとか・・・。で、そういう大義名分を掲げつつも腹に一物ある人々に「これからの宗教者は教会にこもってばかりいないで「行動」すべきですよ」なんて囁かれると、「そうかなぁ」とコロっっといってしまうのでは、と推理するのですが・・・。

  ひこざ:おっしゃる通り。しかし実は、キリストの説かれた、『人権、弱者保護、平和』は、政治的、制度的なものでなく、また政治と社会改革を通じて実現さるべきものでもないです。それは、君と僕、親子きょうだい、隣人、友人同志、つまり人格と人格、魂と魂じかに触れ合うような人間関係の中での倫理であり、あるべき姿です。

 福音書を読めば一目瞭然のはず。もしそうでなく、イエスの説かれた福音が、制度的、社会的、政治的人間関係にもそのまま適用され、そこを『場』とするものならば、イエスは、社会・政治改革者として名乗りをあげ、おそらく当時ローマの圧制に苦しむユダヤ人民の解放者として、名乗りを上げていたに違いない。

 ところが、イエスは、大羊さんのおっしゃっている通り、そういうことはなさっていない。いやイエスの内に反ローマの政治的改革、革命者的メシアを求めた民衆に対して、イエスははっきりと拒否的態度を執っておられる。

 だから、イエスの福音の内に政治的、社会的改革イデオロギーの根拠を求めることは出来ないのです。

 ところが、カトリックの司教たちを含めて、多くのキリスト者は、この点で、根本的な誤解をなさっていらっしゃる。

 そして例えば、イエスは『敵をも許せ』とおっしゃっているのだから、米英によるアフガンでの対タリバン軍事行動は、悪(暴力)に対して悪(暴力)をもって対抗することで、福音の立場から容認できないなどと言う議論が大手をふるっているが現状です。
 

みたま祭り  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月16日(水)22時25分46秒
  今夜は、靖国神社、今年の「みたま祭り」最終日で、私は栃木で仕事をして引き返し、行きました。凄い人数です。
若い人が多いですね。それに「外人」
年ごとに増えていく気がします。
盆踊りにも、若者が飛び入りして楽しそうに踊ります。
本当に稀有な場所ではないですか、戦死者の慰霊の場として。
類する場所としては、私は、韓国の「国立墓地」しか知りませんが、あそこで鐘や太鼓で踊るとは、考えられませんね。アーリントンでも、おそらくそうでしょう。

これが軍国主義施設という。
カトリックの一部聖職者も覗いたらいいですよ。“敵状”を知ることは、必須でしょう。
腰を抜かすかも知れませんが。その人の多さに。若さに。明るさに。
 

パウロ年の全免償  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月16日(水)21時18分38秒
  パウロ年は始まったものの、司教団にとって、厄介者?
列福式準備で忙しいから?でも、あまりにも要領が悪すぎなのでは?
政治関係や平和運動には、人手は費やせても、
カトリックの信仰に関することには人手を費やせないのでしょうか?
たくさん雇っていらっしゃるのに・・・
開年ミサも3つの管区のカテドラルでやっただけだし、
各教区の巡礼教会一覧くらい、カト新に載せればいいものを。
だから、購読に価しないと言われるのよ。
サミット、サミットと●●の一つ覚えのように繰り返し、
パウロ年を定めてくださった教皇様を なめてるとしか言いようがないです。
せっかく、全免償もバチカンで定めてくださっているのに、
お恵みをいただける機会を、司教団が信徒から奪っているような状態ですね。

まぁ、昨今の要理教育からは、免償なんて習わないのでしょうが、
だからこそ、この機会に知って、お恵みをいただいてほしいです。
 

Re: 困惑してます・・・  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月15日(火)23時16分16秒    編集済
  > こちらでよく話題になる「さいたま教区」ではありません。

私は先月29日に「さいたま教区」の某教会でミサにあずかりました。
フィリピン人とヴェトナム人がそれぞれ1/3強、日本人が1/3弱という教会でした。
道に迷って前方から来たご婦人に訊ねたら、「ああ、日本人でない人が多勢来られるところですね」と、教えて呉れました。“日本人でない”という表現が面白かったです。そういう教会です。

ミサは典礼聖歌集の2番を中心にしたきちんとしたもので、「主の祈り」と「共同祈願」が、それぞれの国の言葉が加わりました。それだけで、すべて日本語です。その日はフィリピン幼児の洗礼式もありました。若い神父でしたが、きちっとしておられたと思います。

私は、あそこの司教は、ご自分の教区では、さほどの権威を持っておられないのではないかと思います。まあ、多くを知らぬ者の印象ですが。

私の年下の畏友で、フィリピン人の妻(訂正:「奥さん」)を持つ人がいます。
さいたま教区に知り合いのフィリピン人神父がいて、ある時電話で、「例え上司(=司教)がどのような人物であろうとも」短気を起こしてはいけない、と忠告したら、大声で笑ったそうです。12日の土曜日に聞いたことです。(追記:私の理解です。フィリピン人神父は教区司祭でなく、日本に多いフィリピン人の為に母国から派遣された方かも知れません。因みに最近のフィリピンにおける日本の評価は、非常に良い、そうです。)

まともな聖職者はいっぱいいらっしゃいます。
私は以前にコーラスを例にしたことがあります。100人のコーラスで一人が音をハズしたら、聴衆にはその一人が聞こえるのです。
 

大羊さん、ご安心ください。  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月15日(火)23時12分49秒
  すみません。取り越し苦労でしたね。
これ以上、不安を抱かれないように、簡単に説明しますね。

大体の教会ではクリスマス頃までに入門式をして、「主の祈り」の授与を行い、
求道者として受け入れられます。
次に、洗礼を望むかどうかによって 洗礼志願式が 四旬節第1主日
来年なら3月1日に行われ、使徒信条を授与され、
求道者から洗礼志願者になります。
四旬節には第3、4、5主日ミサで 洗礼志願者のための特別な祈りがあります。
そして、復活徹夜祭来年なら4月11日に洗礼・堅信・聖体の秘蹟にあずかります。
時々、堅信をしない教会も見受けられますが・・・

だいたい、流れは上記のようなものですが、
求道者としての期間を 長く取られる方もいらっしゃいます。
神様とご本人との関係ですので、信徒はそれを温かく見守るというのが
カトリックの体質です。
すべてに時があり・・・といったところでしょうか。

でも、仰るように、積極的な働きかけがないと思われるのも ごもっともなことで、
私の知っている方も、踏ん切りが なかなかつかず、何年も経っている方もいます。
プロテスタントのように、積極的?押し付けがましく活動に勧誘ということもないので、
ご自身が関心のあることには、参加されて、
信仰仲間をつくられるようにお勧めいたします。
 

Re:困惑してます・・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 7月15日(火)23時04分26秒
   迷える大羊さん、ごめんなさいね。大変失礼いたしました。

 >去る者は追わず、来る者は拒まずって感じ・・・

 そうです。それが、カトリック教会らしさ、だったかもしれません。ただ、最近は、私の近くでも、ややおかしげなものもあるので、もしかしたら、巻き込まれておられるかな・・・、と思ったのです。

 申し訳ありませんでした。拙文、忘れてください。入門講座、がんばってください。お祈りしています。
 

困惑してます・・・  投稿者:迷える大羊  投稿日:2008年 7月15日(火)21時43分59秒
   なにやら、言葉遣いというか表現の誤りがとんだ行き違いを招いているようで、「え、そんなにマズイこといったかな?」と困惑しております。すみません、カトリック教会の用語ってよく知らなくて・・。「求道者講習会」は私が勝手にというか、正式名称が思い出せなくて、適当につけた名称です。まさか、こんな波紋を呼び起こすとは思わなかったもので・・。
 これまで通ったことのあるプロテスタント教会ですと、入門講座と「求道者」講習会
 との区別なんてなかったものですから、余計に無頓着に使用してしまいました。

 今、その講座のプログラムが手元にありますが、名称は「2008年度 入門講座」でした。入門式は、教会に出入りし始めたのが講座が始まった5月からなので、とくに行ってません。プログラムは一年にわたり、三部に分かれてまして、一部が教会の教え、二部がイエスの生涯、三部がイエスと私たち、といったタイトルの内容です

 見たところ、受講してみたところ一部、二部は教派を問わないキリスト教共通の教え、内容で、三部に典礼とか、叙階だとか、ミサだとかカトリック独自の内容が出てきます。

 そして講座の最後、時期にして4月前半に「洗礼式の準備」とあります。教会員の方によれば最後の方で洗礼を受けるか否か、決めるとのこと。もちろん、そこに強制はない、受けなくてもいい、純粋に勉強のつもりで参加ってことでもいいんだよ、とのことでした。実際、押し付けがましいところは全くない、去る者は追わず、来る者は拒まずって感じ。っていうかもうちょっと「宣教熱心」でもいいんじゃないの?、と思うくらいで(個人的な体験ではカトリック教会ってそうところ多いですね)

 今まで出入りした限りでは、ここのBBSで報告されるような「左傾」は特に見られないですね。説教も政治色はとくにないし・・。
 「講師」という表現も本当に何の気なしに使った表現で、まさか突っ込まれるとは思いませんでした。

 御心配なく。教会内の信者の皆さんは「神父様」とか「神父さん」と呼んでますし、ちゃんとした司祭、神父さんがお話されてますよ。
 出入りしているのは首都圏のベッドタウンにある某教会ですが、こちらでよく話題になる「さいたま教区」ではありません。

 ここまでで何か問題点、マズい点とか、表現とか言葉遣いがおかしいって点が何かありますかね?なんだか不安になってきました・・。
 

敬服  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月15日(火)21時18分58秒
  迷える大羊さん:
>ものすごい独断と偏見かもしれませんが、........(投稿日:2008年 7月14日(月)23時)

  ひこざ: とんでもない。独断と偏見どころか、おっしゃること一つ一つ、ずばり、ずばり、事柄の真相を喝破していますよ。ヒコザ感嘆、かつ敬服。
 

大羊さん  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月15日(火)20時45分6秒
  サボテンさんの仰った通り「求道者講習会」というのは変わっていますね。
入門式が終わるまでは、求道者とはならないので、入門講座なのですが。

最近は、司祭・修道者・カテキスタによる勉強会(個別・グループ)のほかに
受け入れ信徒グループと共に勉強したり、
分かち合いをしたりの集い形式によるものもあります。
後者は、今、試行段階です。
いずれも、一長一短があります。

要理などは頭で理解すると思われがちですが、
このことも憶えておいていただければと思います。
信仰は、心で受け止めていただきたいのです。
マリア様がイエス様懐妊のお告げを受けた時、
すべてを理解できたわけではありません。
しかし、神様の思し召しと、ずっと心にとめていました。
勉強していく上で、理解しがたいことに遭遇することと思います。
でも、それで断念するのではなく、受け止められる日が来るまで、
心に留めていただければと思います。

ただ、今のカトリックは正直に言って、指導者によって、
カトリックの教えを受けることが出来ないことも 現実にあります。

入信のための大切な時期ですので、
まず、教会に行って、祈りを大切にしている教会か
説教などで政治的発言をなさらないかを確認して、
教会を決められた方が良いと思います。
カトリック教会の左傾化が危惧されていますが、皆が皆ではありません。
大阪教区でも、そちらに組しない司祭の方が実際は多いのです。
ただ、働き盛りや若手の司祭に左傾化司祭が多く、目立つので、
すべてが そのようになっているような感じになっています。

はっきりしない時は、バチカンとのつながりなどを尋ねると、
すぐに判明すると思います。
左傾化司祭は、権威を否定しますから、
尊敬してやまないといった態度を取りませんから。
参考まで・・・
 

Pasさんへ  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月15日(火)20時09分41秒
  実り多き巡礼となりますようにお祈りしています。
熱中症にならないように、水分補給に気を付けてくださいね。
坂が多いので大変でしょうが・・・
 

> ぼちぼちいこか  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月15日(火)13時36分13秒    編集済
  私は8月下旬に鹿児島へ行く予定でした。
ANAのマイレージが随分貯まっているので、妻と行こうと話していたのですが、いざ予約の段になると、こちらの希望する日は席が残っていませんでした。鹿児島は秋以降に延期しました。
ANAの検索する指先が突然ソウルに向いて、ソウル行きを予約してしまいました。
これは私一人です。韓国では私は激しく動くので、妻は同行しなくなりました。
目的は、二つ、はっきりしています。
清渓川がどのように変わったか、です。
http://www.nomusan.com/~tabi/korea/2004.10/2004.10seoul_01.html
http://www.nomusan.com/~tabi/korea/2005.03/2005.03.seoul_river.html
http://www.nomusan.com/~essay/jubilus2005/12/051227.html

もう一つは「水原」へ行ってみようと思います。

さてそこでPasさんに教えて頂きたいですが、バーン司教に因む場所で、ここというところはあるでしょうか。ホテルはソウル市内に固定しますので、日帰りできる距離であれば、行ってきます。
日程は、8/21−8/24です。
8/21はソウル着後清渓川川辺歩きで終わり
8/24は午後2時の便で羽田へ向かいます。
22,23の一日は水原、使えるのは残った一日になります。
 

ぼちぼちいこか  投稿者:Pas  投稿日:2008年 7月15日(火)11時55分33秒
  7月に入ってからずっと体調がよくなく、いくつか急な用事もできて出発も延び延びになっていましたが、
ようやく今から旅に出ます。まず長崎方面に行き、帰りは京都近辺にも寄ります。
今のうち旅をしないと、一生後悔するような気がして......。もう7月もまんなか辺だし。
長崎は今回はダンボさんに勧められた外海方面に行くつもりですが、途中で気が変わるかもしれません。
 

Re:いやはや・・  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 7月15日(火)09時22分53秒    編集済
   細かいことですが、少し気になったので・・・

 迷える大羊さん、「求道者講習」という言葉が、カトリック教会で使われているのですか?

 意味するところは分かります。「カトリック教会の教え(信仰内容=教義)」のクラスですね?そのクラスで講話をなさっている方は、司祭か修道者(シスターなど)ではないのですか?「講師」と呼ばれておられるのですか?

 たかが言葉の使い方、されど言葉の使い方、・・・です。たとえば・・・

 最近の日本のカトリック教会では、「教会=Church、エクレジア」という言葉を使っていいときに、あえて、「教会共同体」と、人間の集まりである「共同体(コミュニティ)」を強調する言葉を使いたがる傾向が、あるのです。

 キリストがたてられたのは、Church(神の民、キリストのからだ、聖霊の神殿、聖・公・一・使徒継承の教会)であって、「教会共同体」(エクレジアル・コミュニティ)ではないです・・・。

 Churchの概念のほうが豊かで広がりのある意味をもつ・・・。わたしたちは、「人間の集まり」における個人ではなくて、「神の民(ポプルス・デイ)」における信者のはずなのです。

 小教区の教会もChurchであるのに、さいたま教区では、たとえば、教区内に配布される司教名のある正式文書で「六甲(地名)共同体」(本来は六甲小教区または六甲教会)という言葉が使われるわけです。これは、谷司教の指導によるのだそうです。(助祭の証言)

 何を細かいことを・・・といわれるでしょう。

 しかし、言葉の使われ方の変化は、その言葉を支えている思想・考え方が、確実に変化していることを、意味していると思うのです。

 話を戻します。

 従来、洗礼や改宗や堅信や初聖体の準備のクラスを、「講習」とは、呼んでこなかったのです。なぜなら、その準備は、知識を伝授するだけでは足りないからです。毎日祈っておられる方から、お話を聞いて、その方にも祈っていただき、一緒に祈り、カトリック教会が何を教えているのか「勉強」をし、自分自身をふり返り、心を整えて、「準備」をしたわけです。

 さしつかえなければ、教区を教えていただけませんか?まさか、高松では、ないですよね?
 

真面目だから・・・  投稿者:迷える大羊  投稿日:2008年 7月14日(月)23時15分33秒
   ものすごい独断と偏見かもしれませんが、

>人格的、信仰的には立派な人だということです

だからマズいんじゃないかなぁ、と思わないでもないですね。つまり、裏を返すと、世間の雑菌に弱い、清濁併せ呑む機微がわからないという面が多分にあるのでは?
 あるいは、一度、これが「正義だ」と思い込み出すと止まらない、暴走を始める、みたいな面があるのかも。
 実は私は以前プロテスタント教会に通っていて、そこは政治ではなく教義的にちょっと変だな、と思い離れたのですが、そこの牧師さんも人格的には「立派な」人でした。

 元々、左翼陣営の「大義名分」とクリスチャンの基本精神ってカブる部分が多いですよね。「人権」だとか「弱者保護」だとか「平和」だとか・・・。で、そういう大義名分を掲げつつも腹に一物ある人々に「これからの宗教者は教会にこもってばかりいないで「行動」すべきですよ」なんて囁かれると、「そうかなぁ」とコロっっといってしまうのでは、と推理するのですが・・・。

 そういうことでは、イエスはやはりすごいですね。どんなに誘惑、挑発されても決して、政治・軍事的な野望だとか活動に関わろうとしませんでしたし。
 マザー・テレサなどもその点、毅然としてます。彼女も政治に関しては「祈るだけです」というのみで決して要らんことをやったりいったりしないですし。

 こんな優れた師がいながら、どうして??って感じがします。
 

狂った人ばかりではないです  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月14日(月)22時27分50秒
  迷える大羊 さん、

 おっしゃる通りですね。無神論の共産主義、それも世界最悪の独裁者崇拝、人権無視否定、宗教迫害体制の支持賛美者、同調者がかくもキリスト教徒のなかに多いと言うことは、全く世界七不思議の一つといってもいいですね。

 これはやっぱり悪魔の巧妙な作戦が奏功しているということでしょう。

 ところで不思議といえば不思議なのは、彦にとってとんでもないことしでかしているとしか見えない司教さんたちも、その軽率極まる政治介入と非常識な教会運営というような点を除けば、概して、人格的、信仰的には立派な人だということです。(彦の知るかぎり)。

  そして教会全部が狂っているのでなく、しっかりした聖職も沢山いらっしゃるのです。
どうかそういう人を見つけて、その指導の下に信仰の道を胸を張ってお進み下さい。
 

Re: いやはや・・  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月14日(月)22時13分31秒
  > 聞くところによれば日本共産党にはクリスチャンの党員が何人かいるようで。

何年か前のカトリック新聞投書欄(「声」欄)に、自分は共産党員だ、という信徒の投書が載りましたよ。ひっくり返せば出てくるはずですが、整理が悪くて。

私は、日本共産党員はいるでしょうが問題にするほどのことはなく、
「朝鮮労働党員」が相当数いると思います。
武者小路公秀氏は大阪経済法科大学に籍を持ちますが、同大学は実質北朝鮮立大学ですから、報酬という名の工作費が、ふんだんに出ているでしょう。

ただカトリックは、こうしたことを大声で話すことのできる教団ですし、若い聖職者は多くがしっかりしています。必ず、良い方向へ動いていきます。
 

Re: ダンボさん  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月14日(月)21時46分58秒
  了解しました。
まあ「好み」に近い領域でしょうね。
私の神経が図太いのかな?
 

いやはや・・  投稿者:迷える大羊  投稿日:2008年 7月14日(月)21時41分30秒
   北朝鮮をめぐる、キリスト教会、カトリック教会の現状にはただただ驚きました。それにしても、拉致問題以前に、思想の右左の問題以前に、キリスト者、一神教の信者にとって人間を神の座に祭り上げる北朝鮮のような体制自体がおよそ相容れないものだと思うのですが、どうしてこんなに支持者が多いのか理解に苦しみますね。

 実は私、カトリック教会の求道者講習受けているんですが、人間が神の座に成りあがろうなどとんでもないこととの趣旨のお話を講師の方から伺いましたが、あの教えは一体??って感じです。

(彦左衛門さん)>正式の前歴開示要請をも突っぱねッて、拒絶しているのだ。

 って平信徒ならともかく、教会内の団体の要職にある人物の前歴がわからない、教えてもくれないなんて、本当ですか??それではまるっきり怪しい宗教団体ではないですか。にわかには信じられない話ですね・・。

 北朝鮮のみならず、日本のキリスト教関係者と左翼陣営の関係って私にとってよく理解できないところが多いです。東京郊外の某市の市長はプロテスタントのクリスチャンなんですが、支持母体が社民・共産党なんですよね。社民はともかく、共産党の支持、というのが「え?そんな馬鹿な」という感じで・・・。

 共産党って宗教否定じゃないの?唯物論じゃないの?別に法律違反ではないけど、なんかすっきりしないものがありますね。聞くところによれば日本共産党にはクリスチャンの党員が何人かいるようで。かつてのポーランドのように元々文化、歴史的に筋金入りのキリスト教国なともかく、日本のようにプロ・カトあわせても信者数が1%以下。ほとんどが成人になって自覚的に信者になる国において、共産主義とキリスト教信仰がどう矛盾しないで成り立つのか?これまた、よくわかりません・・・。

 まあ、言論・思想は自由ですから個人としてどういう信条を持とうが、政治的活動をしよう自由なんですが、教会の名や組織を使ってやるのは本当に悪質ですよね。
 

ノムさんへ  投稿者:ダンボ  投稿日:2008年 7月14日(月)21時18分43秒
  すみませんが、おゆるしください。
私、変な潔癖神経症があり、間違ったままにしていると、気になって気になって
精神的に消耗してくたびれてしまうので、書き換えさせていただいてます。
昔、文章屋をしていた後遺症です。
『また余計なことを・・・!』と、思われるかもしれませんが、
またもや、注釈をつけてしまいました。
 

お話の途中すいません  投稿者:ノコさん  投稿日:2008年 7月14日(月)20時00分24秒
  四国のネオ神父が自教区長に侮蔑をこめたブログを綴っております
http://blog.goo.ne.jp/john-john-john/
どうか、彼を罰してください
 

キムラ問題  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月14日(月)19時27分47秒
  ノムさんの調査によれば、キムラケンゾー氏が嘗て常務として在籍していた商社は現在でも存続しているとの事。しかし社員数人で、年商数億というのは、ちょっと普通ないことだ。
これはおかしい、何かあるな。ひょっとしたら北さんの工作機関じゃないか。

 そうであれば、キムラが此処に勤めていたこと、いやそれを隠れ蓑として利用できた事もつじつまが合います。ノムさん貴重な調査有難う。

 おつるさんもどうか正平大会では頑張ってください。キムラが新左翼系組織と連携していたことは、組織の公式情報に出ていることですから、それを突きつけて、彼がそういうことをしている真意を追求してください。

  しかしできれば、一人でなく、同志を何人か連れて行って、追及に参加してもらってください。
 

キムラ氏の前歴  投稿者:彦左衛門  投稿日:2008年 7月14日(月)18時45分45秒
   キムラケンゾ−の前歴が明らかでないということは大きな問題だ。それも、ただ不明というのではなく、彼は、『教会の政治的言動を憂慮する会』のメンバーによる、正式の前歴開示要請をも突っぱねッて、拒絶しているのだ。

  正平協事務局長といえば、日本カトリック教会を代表する公職だ、その重要な任務についているのが、どこの馬の骨ともわからい人物であることは、一体どういう意味を持っているのだろうか。

  新しい主任神父が赴任してきたとして、彼のこれまでの前歴が開示されず(どこの出身か、何年にどこで叙階されたか、これまでどこの教会で働いてきたか、etc.)それを聞いても報せる必要なしとして突っぱねられるということがあるだろうか。そして司教さんに開示を頼んでも梨のつぶてで、何の返答もないということがあるだろうか。

 ところが、このありえないことが、正平協事務局長という公職においては起こっていたのだ。 教会は、どこの馬の骨かも分らぬ男を重職に採用、任命し、20年以上にわたって彼にしたい放題の事をさせて来たのだ。歴代正平協担当司教の無責任、犯罪的怠惰は限りなく指弾に値する。彼らは信徒をなめているとしか思えない。

 キムラは在職中、自分の一存で、政治問題に介入、偏向した声明やら抗議を乱発してきたし、ご存知、ワールド何とかというカトリックの中の、反バティカン信徒の世界組織にも正平の名で加盟している。ということは、日本カトリック教会がこれに加盟して、司祭の独身制反対、婦人の司祭登用、その他もろもろの『民主的主張』を支持しているということになるのだ。(このことについても司教たちは、疑問を持った信徒の問いかけに何の返答もなく、黙殺、無視をしてきている。)

  それだけでない、彼はしょっちゅう、北朝鮮や、新左翼系の組織や会合に顔を出し、その友人、理解者、支援者として振舞っている。

 この彼の非違は、担当司教が松浦になってから、彼の支持、公認の下拍車がかかっているように思われる。

 いま彼は事務局長を辞めているが、今夏の正平協大会では基調講演をする由。言語道断。

 ところで、キムラが事務局長就任以前某商社の常務をしていたということは、当時(二十数年前)たまたまある会合で、彼に会ったヒコザが彼から貰った名刺にそう書いてあったので分っていることだ。

 この名刺、ヒコザの古い名刺ホルダーに保存されていたもので、今はノムさんの下にある。ノムさんの調査によれば、この商社今でも存在しているそうな。しかしキムラ在職時に何をしていたか、そもそもキムラが本当に常務であったかどうか、当時の資料がないので分らないそうだ。(ノムさんの身銭を切っての調査に感謝!)。

 僕の勝手な推定では、この商社は、キムラがなんかの縁で隠れ蓑に利用していたんじゃないか、そしてそれが分って、おん出されたんじゃないのか。

  それなら彼には、前歴を隠す理由があるわけだ。

  当時カトリック新聞の編集長をしていたK氏から聞いたことだが、キムラはその頃、しょっちゅう編集局に現れては、用もないのに話し込んでいたそうな。このK氏もヒコザと同じ名刺を貰っており、K氏は商社の常務といえば忙しいはずなのに、よくそんな暇があるのかと不審に思っていた由。

 しかし暫くして、今度は彼が正平協事務局長という名刺を持って、堂々と挨拶に来たので、二度驚いた由。

 再度言わせて貰うが、こういう男をなお重用している、正平関係者、司教をも含めて、一片の反省もなければ、堕ちるべきところに堕ちるのは避けられないだろう。

 ヒコザそうならないように祈ってはいるが。
 

Re: ダンボさん  投稿者:ノムさん  投稿日:2008年 7月14日(月)18時35分17秒    編集済
  > 有り難うございます。早速、訂正しました。

こういうのは、訂正しない方が、いいように思いますね。
話がつながっていかないのです、途中から初めて読む人は。
経理は誤りがあれば、原伝票を書き換えるのでなく「振替伝票」を入れるでしょう(よそは知りませんが、うちは徹底的にそうさせます)。
つまり、間違った時点と訂正した時点を、明確にする為です。
(これは今回についても私が正しいという意味ではありません。私に反論する人が出て、その意見を私が納得し、私が考えの修正を表明しても、遡って自分の言ったことを消しません。筋道を遡及できることが大切です。そのことに最も無神経なのが多くの言論人と思います。もっとも神経があれば、狂うだろうね)
 

現行ミサの、ラテン語規範版(羅和対訳)  投稿者:サボテン  投稿日:2008年 7月14日(月)17時01分24秒    編集済
   現行ミサのラテン語規範版(羅和対訳)を見つけました。通常文のみですが・・・。

★1 開祭

http://www.geocities.jp/sanctae_romanae_ecclesiae/ordinarium_missae1.html

★2 言葉の典礼

http://www.geocities.jp/sanctae_romanae_ecclesiae/ordinarium_missae2.html

★3 感謝の典礼

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2696/ordinarium_missae3.html

★★★第一奉献文(ローマ典文)

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2696/te_igitur.html

★4 交わりの儀・閉祭

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2696/ordinarium_missae4.html

 大阪教区では、第一奉献文が使われることは、少ないと聞きました。私のところは、時々使われます。第一奉献文が使われた時は「第一奉献文は、いいですね!」と、神父様に申し上げます。

 ラテン語の和訳をご覧になれば、現行のミサの日本語の訳文が「適応」されていることが、よくわかります。告白の祈り、叙唱前句(叙唱の前の会衆との応唱)、拝領前の信仰告白・・・など、明らか。

 高槻は、会衆の応答もラテン語にされたのでしょうか・・・?もし、そうであれば、小教区としては、意欲的ですね。ラテン語ミサ曲やラテン語聖歌を使用された、ということではないかしら・・?

 東京では、東久留米市の「聖グレゴリオの家宗教音楽研究所」(HPあり)で、毎週日曜日10:30から、朗読と説教と信徒の祈り(共同祈願)だけが日本語の、ラテン語ミサが、ささげられています。

 ここで使われるグレゴリオ聖歌は、『カトリック聖歌集』にはなく、『リベル・ウズアリス』(四線ネウマ譜)のものが多いので、初めて行かれると、今楽譜のどこやっているの?という感じになりますが、通常文のラテン語の応答を少し予習し、神父様の所作を見ていると、現行のミサですから、大丈夫です。

 「聖グレゴリオの家」の宣伝ではないですが、9月の三連休に「教会音楽講習会」が三泊であります。途中参加もOKでした。(途中参加の場合、費用は要相談でした。)私が参加したときは、関東はじめ、北海道、山口、福島、福岡と、全国からの参加者でした。

 希望すれば、オルガンの個人レッスンもありました。(有料2回、でも、格安)使用楽器は、ドイツ、アーレントの中規模のパイプオルガンです。非常に感度のいい(鍵盤のおさえ方によって風の量が変化しやすい)オルガンです。

 親しみやすいのは、東京カテドラルの「司教ミサ」(年1回秋の)ですね。ブックレットがとても親切です。

 私は、昨日、もし本当であれば、「とても良い知らせ」を耳にしました。でも、未確認。ご存じの方、情報をお教えください。その「うわさ」とは、東京のある修道院で「トリエント・ミサ」が、ささげられた、というのです。昨年、2007.7.7.の自発教令に基づいて。あくまでも、「うわさ」です。
 

高槻教会でラテン語ミサ   投稿者:おつる  投稿日:2008年 7月14日(月)12時03分4秒    編集済
  世俗化していると言われる大阪教区の中でも 北摂の教会は 素敵な教会が多いです。

昨日の日曜日、カトリック高槻教会では ラテン語によるミサが行われ
「あわれみの賛歌」「栄光の賛歌」などもラテン語で歌うことになっていたそうです。
ポルトガルから司教団が 来られて、豪華なミサだったそうです。

その高槻教会の信徒の方のブログ素敵なので 転載させていただきました。

「7月14日にはポルトガル司教団をお迎えして、ラテン語ミサが捧げられました。
共同司祭のドミンゴス神父と共に5名の神父さまによる共同司式で執り行われ、ラテン語の聖歌と共に荘厳なミサでした。」


「2008/07/14信教の自由に恵みを感じる

日曜はラテン語ミサで、いつもの日本語の聖歌よりも荘厳な感じがしました。

説教では、中国の地震報道を見て、神父さまが感じられた二つの憤りのお話でした。地震で子供を亡くし、泣き叫ぶ親の映像を見て、感じられたようです。まず、その親は、一人っ子政策によって未来を奪われた。そして、共産主義によって神も奪われ、希望も奪われた、と。

日本に住む私たちは、信教の自由が保障されていますが、いつもはそんなことは忘れていますよね。しかし、今日のお話を聞いて、苦しい時に神様に祈ることもできない状況を考えて、「ぞっ」としました。今更昔の苦しい時に戻ることなんてできません。そう思うと、信教の自由があるということは、それだけで恵まれていることなんですね。

そして、今日のミサの最後にミサの語源である派遣の祝福の言葉が聞けて、とても幸せでした。」

●中国・・・・その親は、一人っ子政策によって未来を奪われた。そして、共産主義によって神も奪われ、希望も奪われた●


高槻教会は一度 訪れて オルガンを弾いたことがありますが
素敵なチャーチオルガン(アーレン)があり、またユスト高山右近ゆかりの教会で
美しい教会です。
 

北朝鮮  投稿者:おつる  投稿日:2008年 7月14日(月)11時27分59秒
  Pasさん有難うございます

カトリックを利用している北朝鮮の真実・・・
このような状況の中で、武者小路公秀・田代菊雄氏が 金正日を崇拝し、北朝鮮を
理想の国家としていることは、彼らがまさに 「工作員」ということですよね。

●チュチェ思想国際研究所 規約
 第3条 チュチェ思想国際研究所は、キムイルソン主席が創始しキムジョンイル総書記が発展豊富化させているチュチェ思想を研究し、普及することを基本任務とする。
チュチェ思想国際研究所は、各地域のチュチェ思想研究所や各国でのチュチェ思想の研究普及および具現のための学術的理論的活動を掌握・援助し、極力奨励する。

●チュチェ思想国際研究所理事会執行委員会第9 回会議
−自主偉業を前進させるための決議−

「チュチェ思想国際研究所と地域研究所、そして多くの国のチュチェ思想研究組織の責任者たちは、
数十年もの間、キムイルソン主席の格別な信頼と愛情のなかでチュチェの活動家として成長してきた。
キムイルソン主席がわたしたちに残した不滅の業績は、今までと同じく将来も、わたしたちの活動
の永遠の原動力となるであろう。
本執行委員会は、全チュチェ思想研究組織と研究者、そして進歩的人民の一致した念願と志向を反
映して次のように決議する。
1. チュチェ思想を創始し、世界を自主化する新しい道をきりひらいたキムイルソン主席の偉大な業
績を常に研究、体得し、自主偉業の勝利を早めるために活動する。
2. チュチェ思想を発展、豊富化させ、21世紀の自主偉業を精力的に指導していキムジョンイル総
書記の思想と理論を深く研究して広く普及し、実践に適用する活動を強めていく。
3. 自主的で平和な、そして自由な世界を建設するために、反帝自主勢力にたいする支持と連帯を強
める。
4. 自主時代に逆行する「グローバル化」など、帝国主義者の侵略、戦争策動に断固反対し阻止する。
5. チュチェ思想の研究普及活動をいっそう発展させて、2003年春にチュチェ思想国際研究所創
立25周年を意義深く記念する。

http://www.cnet-ta.ne.jp/juche/default.htm

******************************************************************************

●親北のキリスト教関係者

「月曜評論」最新号によると、日本人を拉致した北朝鮮工作員を
組織を上げて支持するキリスト教「要職者」らの“媚朝”ぶりは呆
れるばかりという。
 平成9年には日本のキリスト教関係者による「謝罪使節団」が訪朝、
最高人民会議常任委員らにコメその他の支援を申し出ると共に現金
1000万円を手渡し、その場で実際に土下座までした。

 日本側の親北キリスト教関係者の頭目は
木邨健三きむら けんぞう「日本カトリック正義と平和協議会」事務局長で、左翼運動家としてプロテスタントとも共闘、日本キリスト教協議会(NCC)靖国神社問題委員
でもある。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H15/1509/1509007familiar.html
*******************************************************************************

テロ国家北朝鮮の工作員を講師として学ぶ 司教団
北朝鮮・韓国・中国に送金するカリタス

これは 工作員の手助けをしていると考えてよいのでしょうね
 

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天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように
御国がきますように
御心が天に行われるとおり地にも行われますように
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
私たちの罪をお許しください
私たちも人を許します
私たちを誘惑に陥らせず
悪からお救いください
 アーメン


   
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