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ヒコザ嘗て以下のような文章を、関係各師、各氏に送ったことがあります。
長文ですが、極めて重要な問題に触れており、またそれはこれまで全く閑却されていたことでもありますので、ご笑覧いただければ幸甚。
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憲法9条護持の『和の会』なるものがあり、日本司教団の殆どの司教さん方が加盟
されています。憲法9条は軍備を放棄し、国際問題の解決には、軍事力
行使を全面的に禁じているものです。
つまり、所謂絶対平和主義の立場です。この立場は正当防衛を認めている、
カトリックの伝統的正戦論にも、近年の国際問題にかんする教皇庁の立場とも、
明らかに反しています。司教達はこのことを知らないか、知っていても無視して
いることになります。
どちらにせよ、それでいいのでしょうか。信徒は、どちらを頼りにしていのか惑う
ばかりです。司教たち、実に無責任極まる方々じゃないでしょうか。
以下彦左衛門の意見、説明をお読み下さい。
(長文ご注意)。
昨年でしたか、カトリック新聞1月30日号(N0.3797)の『声』欄に、朝岡
昌史氏なる方が「私は憲法改正に賛成する立場」である旨の投稿をされたところ、
早速次号に反論投稿が二つ掲載されました。
一つは金沢恂さん、もう一つは東京教区千葉寺教会の澤田和夫師から
のものです。
双方ともにイエス・キリストが無抵抗、非暴力・絶対平和主義であられた
事を根拠として、憲法9条を死守することは、イエスに倣うキリスト者の
義務であると論じています。(両者の論述の詳細と細部での違いは省く)。
以下、このお二人の所説を念頭において、問題を考えて見たいと思いま
す。ご笑覧下されば幸甚。
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まず、キリストは所謂絶対非暴力、絶対平和主義ではありません。
これは、福音書を読めば、すぐ分るはずです。
キリストご自身、神殿では、両替屋や鳩を売る者の台をひっくり返し、彼
らを追い出しています。
これ暴力行使以外の何ものでもありません。(マルコ11,15-17).
どこの国の法律でも、こういう暴行は刑法で罰されます。
また次の事実も看過出来ません。それはイエスの弟子が、剣を携行して
いたと言うことです。(マルコ14,47他)
当時ローマ統治下のパレスティナの治安状況は決して良好ではありませ
んでした。
(イエスの「よきサマリア人の喩」の中にも旅人を襲う強盗が登場します。
ですから、イエスは、宣教の旅を続けるご自分に従う弟子達には、強盗や、
山賊に対抗するための武器携行を認めておられたのです。
まさに暴力には、「暴力」をもって対抗する正当防衛を承認されていたこと
になります。
それでは、ご受難の際、ゲッセマニの園での出来事はどうでしょうか。
イエスを捕らえようとした大司祭の僕の耳をイエスの弟子が切り落とした時、イエスは『剣をもとのところに収めよ』、『剣を抜く者は、皆剣によって滅
びる』とおっしゃっています(マタイ26,51-57)
前記二人の反論投稿者もこのあたりのイエスのお言葉を根拠に、イエスは
非暴力の平和主義者であり、憲法9条の軍備放棄とその平和主義を擁護
する事は、このイエスの非暴力主義に倣う信徒の義務であると言っている
ようです。
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ところで、こういう単純な頭から生まれた単純な意見には案外同じように単
純な人たちには、説得力があると見えて、かなりの信徒の賛成、いや聖職
の支持さえ得ているようです。
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ところが、これはとんでもない聖書の誤読、誤解釈からで出ているものです。
イエスは何故、弟子に剣を元のところ、すなわち鞘に収めよ、とおっしゃった
のか。それは、そういう暴力、実力行使がたいていは無力で守ろうとしたも
のを結局守れないどころか、より強い実力、暴力の持ち主が現れれば負
けてしまうと言うのでしょうか。
だからいっそのこと、初めから、暴力、実力行使を一切やめて、相手の善意
と反省を引き出す方が、賢明だと薦められていると言うことなのでしょうか。
そしてそれがわれわれの世界の経験則だと言うのでしょうか。
剣に訴えるものは剣にて亡ぶというイエスの言葉は一見そういう解釈を正当
化しているかに見えます。
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しかしおよそイエスの言葉を正しく解釈するためには、その前後関係・コンテ
キスト、つまり、どういう状況の中でのお言葉なのかを無視してはならないのです。
それは、そのイエスのお言葉が本来どういう適用の場を持っているかを正
しく捉えるという事でもあります。これは聖書解釈のイロハです。
逆に言えば、どういう状況にも、どういう場にも、イエスの言葉が無条件でそ
のまま当てはまるのでないということを、注意深く識別しなくては、とんだ誤
解釈に陥ってしまうという事です。
イエス様が、「悪人に手向かうな」、「右の頬を打たれたら左の頬を向けなさい」
とおっしゃっているからと言って(マタイ5,39)、まさか強盗が押し入って来たと
き、どうぞと金庫に案内し、さらに番号を教えて、カードまで渡す人はいないで
しょう。それともイエスに従う信者は、そうしなくてはならないのでしょうか。)
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それではゲッセマニの園でイエスのみ心を支配していた事柄は何であったの
でしょうか。それを此処では問うべきです。
それは、地上の人間の現実に対してあるべき指針や教訓を与えることではあ
りませんでした。(山上の説教はそういうものであったのですが)。
イエスはただこれからのこと、つまり、今や、神の思し召しに従って受難の死
を遂げようとしていること、それによって成就する罪の贖いと、そして、その結
果現実化するであろう神の国について考えておられたのです。
そのことが、此処でのイエスの言葉のコンテキストです。
そしてこの神の国と言う救いの恩寵秩序は、人間世界のただ中に置かれてい
ても、まさに地上のものではないのです。(ヨハネ18,36)
ですから、それは、剣や暴力や、地上の権力や、軍備・軍事力や、正当、不正
当な実力行使によって、実現が促進されるものでも、守られるものでも、また
反対にそれらによって侵害され、機能不全に陥るものでないのです。
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ところが、剣を振るったイエスの弟子は神の国を、地上の権力者の国と混同し、
それと同じように剣を持って守って行かなくてはならないと考えて居たのです。
それをたしなめられたのが、剣を元に収めなさい、というイエスのお言葉でした。
ですから、これは、憲法9条の非武装平和主義とは、何の関係もありません。
従って、ゲッセマニの園でのイエスの言葉は憲法9条を信徒が守らなければな
らないと言う主張の根拠にはならないのです。
イエスはそう言うことについては、ここでは是とも非とも言っていません。
では、剣を用いるものは剣によって滅びるというお言葉はどうでしょうか。
この言葉を弟子が聞いたとき、彼等はきっと、ローマ帝国のことを考えたに違
いありません。
ローマこそは、強大で、しかも当時としてはもっとも進んだ軍事力によって、
次々と周辺諸国をを征服して、大帝国を建設し、イエスの時代には、権力と
繁栄の絶頂にあり、あまつさえ Pax Romana と称えられる平和をかつてない
広大な地域に実現していました。
それはまさに地上の神の国でした。誰がこの国もやがて滅びることになろうと
信じたでしょうか。
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しかしイエスはおっしゃったのです。弟子たちは、剣によって、イエスの神の国
を守ろうと見当違いのことをしようとしているが、「もし、イエスの国が、地上の
国ならば、そして剣によって守られなければならないようなものであれば、それは
ローマや、他の地上の帝國と同じようにやがては、一層強力な軍事勢力によっ
て滅ぼされてしまうだろう。
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しかし真の神の国は、剣によって立つものではないから、剣によって滅びるこ
ともないのだ」と。
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このお言葉も、憲法9条のような、世界の政治的現実、の中での非武装、絶
対平和主義とは、何の関係もありません。
小生彦左衛門は、聖職の方々が聖書解釈のイロハともいうべきことに無知、無識で
あることに驚いています。それでいてこの人たちが教会の権威をバックに信徒を誤導していることに深甚な憂慮を禁じ得ません。
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