ディーノとザンザスは出会わないという前提に面白さのあるVSだったけど、ディーノと白蘭は出会うことが面白いVSだなぁと思いつつ書いてます。VSっつか・・・なんつか・・・・・・。
N氏、という名を持ち出したら、その先の「文学論」ではなく、「N氏」の方に飛びついてしまわれるかたが多い、かもしれないなぁというのも最近気付きました(笑)。
文学論よりN氏の方が、イメージが鮮明なのか、わたしは「彼」の話をしたいというよりは、彼が使った「ある表現」は、文学をちゃかしているように見えるんだが、それは一般的に出版界ではどう解釈されているのか、ということが言いたかったんですが・・・もっかいかきなおすかも(笑)。なんか書きながらどういうことか分かってきた気もするけど。
つまり「N氏」じゃなく、小説における「ある表現方法」の話をしたいのよ、わたしは。N氏じゃなくてもいいんですよ。他の作家でもそれをやってればそのひとでいいんだけど、わたしの友人が大好きなN氏が、私の大好きな漱石先生の文学と絡んだから、今回みたいになってるわけなのさ。
ぶっちゃけNさんが好きか嫌いかなんて個人的な話で、人に決めつけられる話でもなし、私からすると、文学論上においてはどうでもいい話っちゃあそうなんですが(会ったことないし)。
だって、好きな作家さんとかその世界とかって、それぞれの人が自分で持ってるものだもの。わたしは文学論するときはもう少し感情捨てて何でも論じたいですね。それこそ大好きな司馬遼太郎でも。
ただ固有名詞が出てきたら、すぐにそっちを想像し、何となくの目星をつけ、その先を読まずに、文章の目的を何となく予測つけ、そこにあてはまると思われる一般論をもちいて私に何か言ってくるひとだけは、もう勘弁、と思います。読みが浅いというか、何というか・・・既にその次元の話はしてないんですが、という感じです。思考が浅い、ともいうのか、さすがにそこまで分かり切った話だったら私にも分かってるんですが、というか。
でも、どんなメッセージであれ面白いな、とは思います。
誰でも分かる文章を書きたいですね。笑いたい人はわたしがここに「かば」と書いたって笑うと思います。でも、ちゃんと読んでくれるひとに勘違いされないためにも・・・そうですね・・・・・・ただ、分かってくれるひとがいる時点で、うん、そんなに間違ってないのかな、とか思っちゃうところが苦しいところなんですが(笑)。でも、分からないひとがなるべくいなくなるように書きたいなと、思います。
夜続き書くと思います。
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