6月の全日本実業団体対抗が引退試合となった。来年1月、英国へ柔道のコーチ留学に旅立つ
4月29日、全日本柔道選手権の準々決勝で敗れた井上康生(30)は、北京五輪出場の望みを絶たれた。その夜、康生は明(62)に電話をしてきた。事実上の引退を決めた息子に、明は「ありがとう」「ありがとう」を繰り返すばかりだった。
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寝床に入っても、康生との思い出が頭を巡る。とりわけ二つの場面が――。
宮崎市の平和台公園の石段を、小学4年生の康生が80キロの明を背負って上っている。156段。明が命じたのは3往復。3回目の上りに差し掛かった。
康生の膝(ひざ)が震え始めたのが、明に伝わってくる。呼吸も乱れ、10歩進んで休み、やがて5歩進んで休む。明をおぶったまま、両手を階段について息を整え、それからまた一歩を踏み出す。
たまらなくなって切り出した。
「康生、ここまで、ようがんばった。この上りで終わりにしようや」
「いや、お父ちゃん、3往復って言ったやろ。もう1回、上って下りる」
3回目の下りに入り、明は考える。ここで康生が転べば2人とも大けがをする。しかし、これをやり遂げたら……。康生のがんばりに明は腹をくくった。
「あの3往復で私は、康生の体力と精神力に改めて驚きました。生半可にこの子を育ててはいけない、と覚悟しました」
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康生が柔道に興味を持ったのは5歳のとき。明が勤めていた延岡警察署の道場に、幼稚園帰りの康生がたびたび忍び込んだ。同僚が聞いてきた。
「井上の三男坊じゃなかと?」
柔道講師でありながら、明は仕事に追われ道場に顔を出していなかった。のぞいてみると、畳の隅に隠れるように座っていたのは、やっぱり康生だった。
「なんやおまえ、柔道したいんか?」
康生の兄2人は剣道をやっていたこともあり、明が感激したのは言うまでもない。その足で柔道着を買いに走った。小学2年生以下の宮崎県大会で、5歳の康生が優勝するのは、半年後のことだ。
「康生を育てたというより、こちらが育ててもらった感じです。5歳からの25年間、ありがとうのひとことです」
そう振り返る明は、「平和台石段登り」の直後に、ひとつの決断をした。(敬称略・石川雅彦)